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第十九話 知らなかった一面
しおりを挟む自室で外出する為に支度をしている時だった。こんな時もつい先日私がしでかした事が頭を過る。
あれからカシュパルは何事もなかったかのように過ごしてくれているが、私は平常心ではいられなかった。
警告のような夢は私に現実を認識させて選択を迫っている。彼を信じ立ち去るのか、それとも殺すのかと。
大丈夫。カシュパルは王にならない。
だから問題は、私がいつこの時間から去るかというだけなのだ。
姿鏡の中の自分はどう見でも二十代前半にしかならない。二十三歳から年齢を重ねていないのだから当たり前だった。
いつまで誤魔化せるか分からない外見に溜息を吐き、買い物の為に玄関の扉を開く。
すると数歩も歩かない内に茶髪の猫獣人の女性が大股で私に近づいて来た。
「そこのアンタ」
私には見覚えがなかったが、堂々とした歩きで目指して来るものだから思わず立ち止まってしまう。
「……今、自分が誰の家から出てきたのか知ってるの?」
「カシュパルの事か?」
質問の意味が分からず、とりあえず聞かれた事に答えたら何故だか彼女の目が吊り上がった。
「アンタねぇ! カシュパルさんはそう言うのが大っ嫌いなんだから!」
パンッ
あまりにも早い動きだったので避ける事も出来なかった。彼女に平手打ちされた頬が時間を置いて痛み出してくる。
そこで漸く、私はこの女性が酷い勘違いをしている事に気がついた。
「待て、誤解だ」
「何が誤解なのよ! 確かに見たんだから。家の鍵を何処で手に入れたの!? 私だってそんな事してないのに!」
こんな剣幕の女性を相手にした事が無くて動揺してしまう。
確かにカシュパルはよく異性から好意を寄せられていたが、家族という括りを前面に出していた為に面倒に巻き込まれる事はなかった。
きっとこの女性はまだカシュパルと関わって日が浅かったのだろう。そうでなければこんな事をする筈がない。
「だから……!」
「五月蠅い! 出しなさい! 今、鞄に入れた鍵!」
弁明する隙もなく、矢継ぎ早に彼女は私に罵声を浴びせる。そして鍵を出そうとしない私に更に苛立ったのか、一つに括った私の長い髪を無遠慮に手で掴んだ。
「痛ッ」
変な方向に引っ張られて首が痛んだ。目が回る。
どうにか言葉で理解して貰おうと思ったが、こんな事をされて我慢している程お人よしではない。赤くなり腫れてきた頬の痛みも相まって、珍しく私は憤慨した。
私も殴ろう。
そう決意して拳を握りしめた瞬間、急に頭が開放された。
片手で楽になった頭を労わりながら何が起きたのかと目を向けると、その女性の手首を掴むカシュパルの姿が見えた。
私の怒りなど瞬時に吹き飛んでしまった程、恐ろしく険しい表情だった。
目の前の女性が憎くて堪らないと言うように、その威圧感だけで完全に敵視したのを悟らせる。
殺意が滲む眼光に睨まれて、女性は張り付けられたように硬直した。獣の尾がピンと立ち、毛は逆立ってしまっている。
カシュパルは鳥肌が立つような冷え冷えとした低い声で女性の名前を呼んだ。
「ティーナ」
ティーナと呼ばれた彼女は目を大きく開いてカシュパルの顔を見上げた。巨大な獣から逃げられない小動物が震えながらそうするように。
「セレナに何をした?」
カシュパルに言われて漸くティーナは家に不法侵入した不埒な輩ではなく、彼の最も大事にしている家族に手を出してしまった事を知った。
十八歳のカシュパルの養母がこんなにも若い外見だと思わなかったのだ。
「あ、あたし……知らなくて……」
ゴシャッ
砕ける様な音がした。カシュパルが手を放したティーナの腕がありえない方向に曲がったのを見て、握りつぶしたのだと分かる。
ティーナは目で見て初めて何が起きたのか理解したようだった。
「あ、あ……」
愕然として悲鳴を上げようとしたティーナを、カシュパルは容赦なく掌で顔を叩き倒す。
竜人の遠慮ない平手打ちは、私が受けた可愛らしい物とは比較にならない。地面に吹き飛ばされ、受け身も取れない程である。女性や知人である事への配慮は何もなかった。
一体私が見ているのは誰なのだろう。
顔や形は間違いなくカシュパルなのに、その冷たさは今まで私が知っているカシュパルではなかった。
一連の出来事があまりにも衝撃的過ぎて、私はただ呆然とその姿を見る。
何が起きたのかと遠巻きに人が集まって来ていた。けれどもカシュパルの怒りが恐ろしいのか誰も手出しをしない。
人垣に向かってカシュパルは声をかけた。
「連れて行け」
命じられて出てきたのは隣人の狐獣人と、見覚えのある紅盾のメンバーの一人だった。
彼等は怯えるティーナを引きずるようにしてカシュパルの目の前から連れ去って行く。
今の姿がまるで王のようで、カシュパルではない別人を見ているような気がした。
異様に静かな空気で、事態が収拾したと見做したのか人々が散って行く。
ティーナの連れ去られた方向を見ていたカシュパルもその姿が完全に見えなくなったのを確認し、深く息を吐いてひりつくような怒りを消した。
「セレナ、家に戻ろう」
そう言ってカシュパルは私に向かって手を差し出したが、潰されたティーナの手首がどうしても思い出されていつものように手を重ねる事は出来ない。
「……セレナ?」
カシュパルは微動だにしない私に不思議そうな顔をして、腕を取ろうと手を伸ばす。けれどその手が私に触れた瞬間、体が震えてしまったのを見て驚いて目を見開いた。
怖かった。カシュパルが私を害するのが怖いのではない。私が彼を殺さなければならない可能性が現実的に思えて震える程恐ろしかった。
悪夢が脳裏に蘇る。嬉々として人間を殺し、良心の呵責もなく血を浴びていた男の姿を。
私が怯えているのを見て、カシュパルは酷く傷ついた表情をした。伸ばした手を力なく降ろし、代わりに家の扉を開けて中へと誘う。
私は無言のまま家の中に戻った。扉が閉まると二人の間に痛い程の沈黙が降りる。こんなに気まずい他人のような雰囲気になった事は今までなかった。
「怖がらせてごめん」
カシュパルは身を縮こませ、肩を落として後悔していた。私の様子を窺いつつ媚びるような視線を向けてくる。
それで漸く普段のカシュパルに会えたような気がして、少し緊張を緩ませる事が出来た。
「……あの女性は誰だ」
「紅盾のメンバーだった。でももう会わないし、セレナにも会わせない」
まるでそうカシュパルが決めたら必ず実現するかのような断定だった。一体私の養い子は気付かない間にどれだけの権力者になったのだろう。
「連れて行った狐獣人の隣人。何でお前の言う事に従うんだ」
「友達だ。俺がいない時にセレナに何かがあったら心配だから、頼んで住んでもらった」
ただの友達があんな手下のように命令に従う筈がない。カシュパルがどう呼称しようと部下に違いなかった。
「セレナ」
私はカシュパルに自分の知らない一面があった事を認めざるを得なかった。
「……カシュパル」
名前を呼ぶと彼の瞳に光が宿る。自分を拒絶しないでくれと懇願する表情だった。
だったら試すしかない。
「髪紐を解いてくれ。引っ張られてから痛いんだ」
私が無愛想に言えばカシュパルは大人しく私の髪紐を解いて私に差し出した。開放された髪が首筋に当たった。
「叩かれた頬が痛い。濡れた布を持って来い。冷やすから。その後は材料を買ってきて夕飯を作ってくれ。今日はアンガシーの肉とヘリプスのサラダは絶対に食べたいから」
食材は町の端にある店でしか売っていない物だ。面倒な事を分かっていながらあえて彼にさせようとする。
珍しくあれこれと頼む私に、カシュパルは目を白黒させた。普段ならば私は自分の事は自分でやる主義だ。
私はカシュパルの様子を注意深く観察する。私は長年かけて作り上げた関係性が、何処まで強固なのか確認しなければならなかった。
「明日は早朝からビードル狩りに行くから同行しろ」
極めつけに、一番迷惑な注文を付けた。
ビードル狩りなんて魔物狩人見習いが相手にするような小物である。明日からカシュパルが大物の狩りに出る予定なのを知っていて、敢えてそう言った。
普通ならば当然のように断るだろう。しかし断るにしても反応を確かめたかった。
不機嫌になる? 宥めようとする? 冷静に諭しにくる?
私は何処までカシュパルに影響力があるのだろう。
従順な甥の顔の裏にバルターク・カシュパル王が存在するのならば、私は彼を斬らなければならないのかもしれない。
カシュパルは驚いたようだったが、戸惑いはなかった。一言の否定もなく首を縦に振る。
「分かった」
言うや否や、私の頼みを叶えようと為に家の奥へ消えていく。
私は素直に受け入れられた事に少し驚いた。私が先程酷い目にあったから同情的なのかもしれない。
けれどもこれは始まりに過ぎず、全てはこれからだと気を引き締める。
……お前の全部。私に見せてくれ。
そうでなければ、この手に残る首筋に刃を当てた感覚が消えそうになかった。
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