故国の仇が可哀想すぎて殺せない~愛は世界を救う。たぶん、~

百花

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第五十一話 痕跡

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 カシュパルは長い足を素早く動かし、寸暇を惜しんでセレナの元へと戻ろうとしていた。
 その体格の良さでありながら、人々にぶつかる事もなく縫うように避けて歩けるのは流石である。
 そしてセレナが一人で取り直した筈の宿に辿り着き、再会への期待に胸を膨らませながら扉を開く。
 漸く甘える事を覚えた彼女が可愛らしくて堪らなかった。きっとカシュパルの怪我の有無を心配し、それから全てが滞りなく終わったのを知れば喜ぶに違いない。
 目に入ったのはごく普通の目立つ特徴のない宿の入り口のカウンターだ。暇つぶしに本を読む年配の主人がカシュパルの体格を見て一瞬怯えた表情を見せる。
 しかし商売の事を考えたようで直ぐに消し、笑みを作った。

「宿泊ですか?」
「いや、こちらに既に宿泊している人に会いに来た」
「ああ、そうですか。……お名前は?」
「セレスティア」

 登録してある筈の偽名を告げた瞬間、主人が微かに瞬きをした。それまで穏やかだった胸の中に、その微かな違和感が不安を生む。
 カシュパルは表情を全く変える事なく、目の前の主人を観察する事に神経を集中させた。

「その方は数日前に部屋を引き払っています」

 増えた瞬き。先程と違う口角の上がった笑み。あえて真っすぐに向けられた視線。台帳を弄る手に込められた不自然な力。

 明らかな、嘘。

 カシュパルはカウンターの向こうにいる主人の胸倉を掴むと、力づくで自分の目の前に引きずり倒した。

「ひぃっ」

 情けない声を上げて顔を引きつらせ、カシュパルを見上げる主人に最後通牒をする。

「もう一度聞く。彼女は何処にいる?」
「し、知らない……!」

 凍てつくような視線で主人を睨みつけるカシュパルの中で、不安が際限なく肥大していく。
 虫に背中を這われているかのような、堪えがたい不快感。怒りのままにカシュパルは主人の足の骨を容赦なく踏み砕いた。

「あああああっ!!!」

 手加減は必要ない。異常事態であるのは明白だった。セレナの身に確実に何かが起こり、それにこの男は関係している。
 けれど宿屋の主人である事に違いはないだろう。ならば恐怖で口を割らせるのが一番手っ取り早い。
 そこまで一瞬の内に判断し、生まれ持っての威圧感を惜しみなく主人に向けて発しながら絶対者として言った。

「言え。知っている事を全て。俺がお前を生かしてやる理由を見失わない内に」

 あまりの恐怖に声も出ない主人に対し、カシュパルは更に主人の右手に足を置く。躊躇なく踏み砕こうとした瞬間、悲鳴のような声が上がった。

「本当に知らない! 三日前、金だけ渡されて暫く宿を離れていろと言われただけなんだ!」

 カシュパルは砕こうとした足を止めて、脅す様に軽く足で叩く。

「それで? どんな相手だった」
「黒髪をした強面の男だった。深く事情を聞けば、こっちが殺されそうだった!」

 ああ。この男は。自ら可愛さに彼女を売ったのだ。

 もう、足を止める必要はなかった。主人の右手を砕き、芋虫のように転がる主人に興味を失う。
 鍵をカウンターから奪うと、セレナに教えられていた部屋へと向かった。
 扉の鍵穴に微かなひっかき傷。誰かがこじ開けようとした跡である。奪った鍵を開けて部屋に入れば、既に別の宿泊者がいるようだった。
 幸いな事に荷物が置かれているだけで、宿泊者は外出しているらしい。部屋の中に目を向けた。
 セレナが普段武器を隠している場所を探索する。唯一入り口付近の短剣が発見され、部屋であった状況が見えてきた。
 寝ていたセレナは扉を開けようとする音で目が覚め、直ぐに手近にある武器を取った。しかし室内で戦う事はせずに逃げようとしたに違いない。
 窓に視線を向ける。女の身であればここから外に出られるだろう。カシュパルの体格では窓枠を抜けられないので、外から回った。
 跳躍して屋根の上に登れば、窓が見える場所に足跡を発見する。

「ここから窓を狙った。それから……逃げた彼女を追って、走った」

 屋根は数日の間に多数の人に踏み荒らされた地面よりも、克明に過去をカシュパルに教えてくれた。
 カシュパルはその方向の先の森へと移動し、木の幹に刺さったままの矢を発見する。それを抜いて、鏃に鼻先を近づけた。嗅ぎ慣れたアストロンという魔物の猛毒の匂い。
 紅盾の頃、魔物を痛めつけず討伐する時に使用した物の一種だった。微量であっても命を奪う為、扱いには慎重を期した。簡単に手に入るような物でもない。
 体が冷えていく。もしもこの毒が塗られた武器で、僅かでも傷をつけられていれば。
 先を考える事さえ不吉に思え、今はただ焦る気持ちのままに追跡を再開する。心臓が暴れて早鐘のような鼓動が耳に届く。
 森の中をどんな痕跡さえ見逃さないように精神を集中しながら、地面から木の上まで隈なく捜索した。
 やがて川に辿り着いて、セレナがよく使用する雷撃の魔術の痕跡を川石に発見する。
 方向は間違えていない。
 川を渡った先で、少しもしない内に爆発で焦げた木を発見した。これはセレナの物か、それとも襲撃者の物か。
 カシュパルは首を絞められているかの様に早く浅くなっていく自分の呼吸に気がつかない。ただ必死に過去にこの場所を通ったセレナに追いつこうと草を掻き分け、先を進む。
 そうすればセレナと再会出来る筈だった。二人の旅はまだ始まったばかりで、セレナはカシュパルの帰る場所になると確かに言ったのだから。
 それで。それで。襲撃の恐怖に怯えたセレナを慰め、傷があれば癒えるまで介抱するのだ。幼い時の様に。
 それからセレナからどんな相手が襲撃者なのかを詳らかに聞き出して、彼女の感じた苦痛と恐怖を億倍にして返してやろう。それが例え何処の貴族だろうが、王だろうが、関係なく。
 カシュパルはその為に生きていた。セレナの為に生きて、息をして、存在する。ただそれだけの男である。
 だから自分を置いてセレナが先に消えてしまうなど、あり得る筈がなかった。
 愚かな確信。未来に対する無条件の信頼。世界には希望が満ちていた。セレナがそれを信じていたから。

「……ぁ」

 開けた視界。複数の足跡に木の幹に残る明らかな戦闘の跡。どす黒く変色した大量の血痕。
 そして墓標のように無力に転がる、カシュパルがセレナに贈った一振りの剣。

「ああ……」

 痕跡は全てがこの場所で途切れていた。彼女の小さな足跡は、いくら見渡してもここを最後に見つからない。逃げれば続いている筈の血痕も。
 右を見ても、左を見ても、空を見ても、地面に這いつくばっても。何も、何も、見つからない。
 彼女は此処で複数の襲撃者と切り結び、血を大量に流し、場合によっては猛毒を受けて。
 過去が鮮明に形作られていく。明晰な頭脳が、悲劇的な事実からカシュパルを逃がしてくれない。

 
 セレナは此処で、死んだ。


「ああぁぁああああああぁぁああぁぁああああぁぁッ!!!!!!!!!」

 絶叫が森の中に響き渡った。悲痛な叫びを耳にしたあらゆる生物は、その者の底知れぬ絶望から必死で逃げていく。
 カシュパルの目からは溢れた涙が正気を押し流した。セレナにより作られた彼自身の本質から離れた善良な理性が、彼女の喪失と共に砂の城のように崩れ落ちる。拭う事さえ意味をなさない滂沱が、絶え間なく地面を濡らした。
 叫びながら頭を抱えた。全てを拒絶する幼子の様に。
 こんな事ある筈がない。万物が創造された意味があるとしたら、それはあの人を生み出す為だった。それ程に尊い人だった。呆れるほどに優しい人だった。恐ろしいまでに、愛おしい人だった。

 それを誰かが、誰かが、こんな何もない場所で殺してしまった。虫けらみたいに‼

「ああ……ああああああああああああ……」

 涙と涎と絶望を顔から垂らしながら、カシュパルは残された剣に手を伸ばす。彼女の温もりの欠片も残らない冷たい金属を、傷つく事も構わず両腕で抱きしめた。

 セレナ。セレナ。俺のセレナ。
 殺されてしまったのか。俺が離れたばかりに。

 戦闘の中に身を置き続けたカシュパルだからこそ、生存の可能性があり得ない事が分かってしまう。
そしてその亡骸さえ、持ち去られたのだ。全てを闇に葬る為に。
 彼女が死んだならば、世界は滅びなければならなかった。意味を失い、自らの無価値さを恥じ、全てを供するべきだった。
 それなのに世界は知らぬ顔をして、いつも通りに日常を続けようとしている。
 セレナの血を浴びた葉は枯れる様子もなく青々として、空舞う鳥達は地表で起きた恐るべき事態を伝えもせずにのうのうと歌っている。許せる筈がない。
 崇高なる善良さを持ち、自らを削って他者を救おうとしてきた彼女への手酷い裏切りである。
 しかしそれよりも何よりも許せないのは、彼女が死んだ事にもこの場所に来るまで気づきもしない自分自身だった。
 自らの魂の半分。見えぬ絆で固く結ばれた人。
 ならばセレナの危機にはどれ程遠く離れていたとしても、カシュパルだけは気がつかなければならなかった。
 そんな子供でさえ鼻で笑うような事を、カシュパルは本気で信じていた。
 けれど自分は宿で主人と会うまで愚かにも再会を夢見続けていて。冷酷な現実がカシュパルを叩き潰していく。

「……セレナ……セレナ……」

 抱えた剣を彼女に触れる時のように優しく指で撫でた。こびり付いた血が指の腹で剥がれ落ちて行く。必死で生きようと敵を貫いたのだろう。
 そんな時、何故自分は傍に居られなかった。どれだけの敵がいようとも、自分ならば倒せたのに。
 血で黒くなった地面を指で引っ搔いた。残されたセレナの血痕一つさえ貴重な物に思えて。けれど青臭い土と敵の血痕に混じってしまって、分けられないのが酷く屈辱的だった。
 仕方なく握りしめた土を、力なく投げ捨てた。脱力して呆然としながら、壊れたように彼女の名前を呼ぶ。

「セレナ……」

 少し前まで返って来た温かな声は、今や二度とカシュパルの耳に届かない。
 何もかも手遅れだった。
 薄暗い森の中で座り込むカシュパルの顔から感情が抜けていった。ただの腑抜けた人形であり、やがて朽ちていく運命である。
 カシュパルの魂は粉々に砕け散ってセレナの血と同じく土に混じり、最早戻る事はないだろう。


 カシュパルを救う者は、もういないのだから。

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