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7 手袋の下
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「で、誰?」
苛立ちを押し殺そうとすると、思った以上に冷たい声が出た。何を怒られているのか理解できていないレイは、眉を下げた弱り切った顔で、上目遣いにジェイスのことを窺ってくる。
街中に現れた翼竜を倒した後、ジェイスとレイは宿の部屋で向かい合っていた。
あの後、レイを巡って言い合いになった青年は、アメアにとりあえず今日のところはお引き取り願えますか、と言われて渋々引き下がった。第三者の登場で冷静になったのは彼も同じようだった。
ジェイスは宿に戻るとレイを部屋に押し込み、怒りの気配を察してじりじりと距離を取ろうとするレイを壁際まで追い詰めていた。
「彼はヴィエンヌとホザンナが造った勇者の似姿で……お前が転生するまで時間が掛かったから、その間私の慰めになるようにと」
「どういう関係?」
「天の園のものはみな、私の部下のようなものだ」
あの青年こそが、レイが会いたくなかったバドだろう。レイのことを「我が主」と呼んでいた時点で、神としてのレイの関係者だと察せられた。ヴィエンヌとホザンナに、レイの所在をバドに伝えておくと言われて動揺していたのは、彼女たちと違って冷たくあしらうことが難しい相手だからだ。
困っているレイの顔もかわいい。その顔を自分以外にも見せたと思うと、苛立ちが抑えられなかった。
「部下にあんな可愛い顔すんのかあんたは」
「し、してない」
「してた。ほっぺ赤くして」
責められたレイの目にじわりと涙が滲む。
「だって……お前に似てるから……」
「似てなくないか!?」
茶色の髪を撫でつけた青年の姿を思い出して言えば、力ない声が返ってくる。
「だからお前の前世に……」
「ああ」
めちゃくちゃ嫌だった。勇者テオバルドに似ている姿の男を強く拒めないレイ。人間を滅ぼそうとしてしまうほど盲目的にテオバルドを愛し、そのテオバルドに似ている男。それがずっと傍に居たのか。天の園で、一体どんな時間を過ごしていたのだろう。
心に黒い靄がかかる。
「あいつ好きだった?」
冷たい声で問うと、レイが目を見開いて、ジェイスに取り縋った。
「そんなことない! 私が愛しているのはお前だけだ!」
ジェイスのいつになく冷たい眼差しに見下ろされて、悲痛に歪んだレイの双眸から涙が零れる。
「信じてくれないのか」
白い頬を濡らす雫に、ジェイスは頭に昇っていた血が一瞬で引いていくのを感じた。
「レイ。レイごめん」
俯いて黙って涙をこぼすレイを抱き寄せる。
「ごめん、嫉妬した。俺が悪い」
震える肩が痛々しい。大事にしたいと思っているのに、つい感情的になってしまう。この間だって反省したばかりなのにまた傷付けた。自分に呆れて溜息が出そうになるが、今溜息なんか吐いたらきっとレイは自分のことだと思ってまた悲しむだろう。
「俺、レイと出逢うまで、自分がこんなに嫉妬深いなんて知らなかった。情けなくてごめん」
レイがジェイスの肩口に頭を押し付けたまま、黙って首を振る。顔を上げないのは多分まだ泣いているからだ。
「レイ」
どうしたらいいのか分からず、ジェイスは困り果てた。レイが落ち着くまで腰のあたりを抱き締めてただじっとしていると、やがてくぐもった声が言う。
「お前しか好きじゃない……」
「うん」
それもどうなんだとは思う。レイはもう少し人間を好きになった方がいい気がする。人類の安全のためにも。けれどその言葉を嬉しいと思ってしまう自分も居る。
「……ずっと俺のことだけ好きでいてよ」
ようやくレイが顔を上げる。涙に潤んだ赤い目が、不思議そうにジェイスを見上げた。
「ずっとお前だけだ」
「……うん」
恋その言葉が本当なら、どれだけいいだろう。レイが愛するのが、「テオバルドの魂をもつジェイス」でなく、ただの「ジェイス」だけだったなら。
濡れた目元に軽く口付けると、レイは耳まで真っ赤になってジェイスを突き飛ばした。
「何をする!」
「いやごめん、かわいくて」
「もうするなと言った!」
「しないとは言ってない」
確かに以前、大聖堂の地下ダンジョンで錯乱するレイに口付けた後にそう言われたが、ジェイスがしないと約束しなかったのも本当だ。
レイは手の甲で口元を隠すようにして狼狽えていたが、結局何も言い返せずに俯いた。
「翼竜を倒したから褒賞が出るって話だし、明日は役場に行こう。あいつはまた来んのかな……」
倒した翼竜の処理は警備隊に任せてある。翼竜の肉は食料になるし、骨は武器の素材にするか、骨格標本にしてどこかに展示されるだろう。鱗とツノも素材になる。どこをとっても金になるから、その分の金が分配されるのだ。加えて、街を守ったことで金一封が出るらしい。
バドにも褒賞の話はされていたから、役場で鉢合わせるかもしれない。我が主と呼んでいたが、どう見てもレイに気がある男の顔だった。できれば顔を合わせたくない。
「バドには、私から帰るように言う。帰らないでお前の邪魔をするようだったら消す」
「もうちょっと穏やかにいけないか?」
極端すぎる。いつ何時でもぶれないレイに、恐れを抱けばいいのか感心すればいいのか迷ってしまった。
昨日はデートの途中で翼竜を倒して、その後はレイを追い詰めて泣かせてしまい、せっかくのデートが散々だった。やり直しがしたいが、バドの問題も考えなければいけない。なかなか落ち着けなかった。
朝食を摂った後、レイと連れ立って役場に向かう。今日もアメアとは別行動だ。
役場は人でごった返していたが、レイがあまりにも周囲の視線を惹き付け過ぎて、逆に周囲にスペースが生まれていた。
昨日障壁を張っていた少女から貰った書類を窓口に提出して、引き換えに袋に入った褒賞を受け取った。あの少女は冒険者の仲間ではなく、ダンジョンの管理事務所の所員だったらしい。
上級以上のダンジョンは一気に危険度が跳ね上がるため、管理事務所が存在する。冒険者は事務所で審査され、許可された者だけが中に入ることができる。一定の日数出てこなかった場合捜索隊が派遣されるが、ダンジョンの奥深くで消息を絶った場合、遺留品すら見つからないこともままある。
用が済んだからにはさっさと帰ろうと役場を出た時、少女の声に呼び止められた。
「もういらしていたんですね。昨日はありがとうございました」
茶色の髪の少女は、昨日障壁を張っていた所員だ。こちらを見る目がいやにきらきらとしていて、女性が自分をこういう目で見るのがどういう時か嫌というほど理解しているジェイスは苦々しい心持ちになる。
「あー、いや、あんたも無事でよかったよ」
わざとぶっきらぼうに答えるが、少女は気にした様子も無い。
「私、ソニアって言います。あの、もしかして各地でダンジョン攻略巡りしてる冒険者ってあなた方のことですか?」
「え!? なんかそういう話があるのか」
「パガネムの地下ダンジョンが攻略どころか大破壊されたって話が回ってきて」
「そうなのか」
白々しく答える。魔物を倒すためだったとはいえ、バルタレティア大聖堂の地下を滅茶苦茶に破壊してしまった。何か問題になっているかもしれない。
「あっ、ごめんなさい、違いましたか? てっきり……」
言いながらレイにちらりと視線をやる。目立ちすぎるレイの姿が目撃情報として残っているのだろうか。
「別の人だと思うよ」
「そうですか? 各地のダンジョンを少人数で攻略してる凄腕の冒険者が居るって話題になっていて……昨日の戦いぶりも素晴らしかったので」
悪い話でなかったことに内心ほっとした。あの豪奢な大聖堂の修理費を賠償しろなどと言われてもとても払えない。
「あー、どーも」
「すごく鍛えていらっしゃるんですね。昨日は失礼な態度をとってしまってすみませんでした。冒険者の方ですよね? お話が聞きたいんですが、お時間頂けませんか?」
視線から滲み出る好意に、ジェイスは渋い顔になる。レイはどうせ、ジェイスが女性に声を掛けられたことに喜んでいるのだろうなと横を見れば、意外にも彼は少し機嫌の悪そうな顔をしていた。
まさか嫉妬しているのか。急に全身が熱くなる。
ジェイスは一気に上機嫌になって、レイの腰を抱いた。
「ごめん、これからデートだから」
「あ、え……?」
面食らっているソニアを置いて、ジェイスは歩き出す。
「ジェイス、放してくれ」
あたふたするレイの言葉を聞き流し、人ごみを進んだ。
「レイ、デートのやり直しさせてくれる?」
「ジェイス、手を」
「どっか行きたいとこある? それとも一旦休憩しようか」
「ジェイス!」
強く咎められて腕の中のレイに視線を向ければ、真っ赤になった泣きそうな顔でジェイスを見上げている。かわいい。ジェイスは咄嗟に手を離した。くっついていたら自分が何をするか分からない。
「ごめん。レイが嫉妬してくれるなんて珍しくて浮かれた」
「していない」
「そっか」
答える口元がにやける。
「それで――」
どこ行こうか、と言おうとした時、レイがはっとした顔で遠くを見た。つられてそちらを向けば、人ごみの向こうに見覚えのある長身の青年の姿が見える。バドだ。
片手に持った大判の紙を覗き込み、傍らに居る老婆と喋りながら路地の方を指差している姿からして、道案内をしているようだった。ちょうど老婆と別れたバドはレイの存在に気付き、足早にこちらに寄ってこようとして、近くで転んだらしい少女を助け起こす。
感心するほど善人だ。もっといやな奴だったらよかったのにと苦々しい気持ちになる。恋敵として、善人を蹴落とさなければならないのは気が重い。かと言って引き下がるつもりも毛頭ない。
「バド」
一瞬で表情を引き締めたレイがつかつかと歩いて行く。バドの前に立つと、一拍の間を置いて、言い放った。
「お前は天の園へ帰れ」
「いやです、あなたの居ない天になど帰っても何の意味もありません。どうか私と共に戻ってください」
「私が天へ戻ることは二度とない」
無感情に言い切るレイに、バドの表情が歪む。それから、その目が忌々しげにジェイスへ向けられた。
「あなたが、私の本物ですか」
「ええ……俺は俺であんたはあんた。本物も偽物もないだろ」
「我が主が追い求めていたのはあなたでしょう」
どう見てもレイに懸想している男の前で、そうだとすぐに頷けなかった。ジェイスは言い淀むが、バドはもう確信していて、返事など求めていないようだった。
「決闘を申し込みます」
その言葉にレイの纏う空気がピリッと張り詰めたのを感じて、ジェイスは咄嗟にレイの頭を抱き寄せ、その顔を自分の肩口に押し付けるようにした。物騒なことが起こる前に止めたかっただけだが、バドの目が怒りに燃え上がる。
「貴様、我が主によくも馴れ馴れしく」
「決闘は受けない」
「逃げるのか!」
バドが声を張り上げる一方で、レイがジェイスの名を呼んで、離れようともぞもぞしている。照れより怒りが勝っているのか抑揚のない声に、不穏な気配を感じる。
「レイはあいつの話聞かないで、あいつのこと見ないで、一旦俺のことだけ考えといて」
とにかく落ち着かせようとレイの頭を片手で押さえたまま、怒り心頭のバドへ視線を向ける。
「俺が怪我なんかしたら、レイがあんたに何するかわからない」
「覚悟の上だ!」
その言葉に、瞬間的に苛立ちを覚えて、ジェイスはレイを解放した。
「レイ。ちょっとここで待っててくれ、動かないで」
言い置いてバドに近付き、レイに届かないよう声を低める。
「あんた、叶わないならレイに殺された方がマシだって思ってるだろ」
動揺して息を呑んだのは、肯定にほかならない。ジェイスは黄金色の目で睨むようにバドを見据えた。
「レイが好きならレイを悲しませるようなことするんじゃねえよ。レイが顔見知りを殺して平気な奴だって本気で思ってんのか。それともそうまでして自分のこと刻み付けたいのか。あんたレイのことなんだと思ってんだよ」
できるだけ感情を抑えようと淡々と喋ったが、言葉はいつになく荒い。
いくらレイがジェイスにしか興味がないからと言って、長年共に過ごした相手を殺めて平気で居られるはずがない。
この先触れることはおろか会うことすらできないのなら死んだ方がましだというのは、自分も思ったことがあるが――いやない。これは一体何の記憶だ。頭の奥が軽く痛む。
悔しげに黙り込んだバドを一瞥して、ジェイスはレイの元に戻る。
「行こう」
「バドは……」
「悲しくても悔しくても諦めてもらうしかない。あんたは俺を愛してて、俺もあんたを愛してるんだから」
冷たく聞こえるような声で言うと、レイは狼狽えた末に目を伏せ、押し黙った。
急にどっと疲れてしまったジェイスは、レイと公園で休憩することにした。
昨日アメアが行っていた図書館には広い中庭があると聞いて来たのだが、想像以上の広さだ。
そもそもまず図書館が大きい。昨日街中から遠目に見て宮殿があると思った、あの建物が図書館だった。学術の都のシンボルとして外見はとてつもなく豪華だが、内部は本の保護のために陽光が入らない作りになっていて、思ったより実用的だ。
せっかく来たのだからと一応中を覗いてみたが、ジェイスもレイもあまり読書に興味がないたちで、ぎっしり本が詰まった書架が果てしなく並んでいる様子だけ目にして早々に退散した。
広い中庭は整えられた芝生で覆われ、ところどころにベンチがある。人はまばらで、各々読書したり軽食を食べたり物思いにふけっていたりと静かなものだった。
木陰のベンチにレイを座らせて、ジェイスはカフェで飲み物を買ってから中庭に戻った。
点在するベンチの中でも、レイは際立って目に飛び込んでくる。気付けばすっかり夏の盛り、ジェイスの肌にも緑の芝生にも太陽がじりじりと照り付ける。木陰で腰掛けるレイの髪が風になびくのが涼しげに見えた。
「お待たせ」
氷がたっぷりと入ったミックスベリーの甘酸っぱいジュースを手渡す。レイはそれを両手で受け取り、ジュースより赤く透き通った目で、ジェイスを見た。
「ジェイス。私は、お前のためなら何をしたって傷付いたりしない」
「……聞こえてたのか」
なんとなくばつが悪くなって、ベンチに腰を下ろし、頭を掻いた。レイは本気でそう思っているような真顔で、ジェイスは苦笑する。
「レイはそんな奴じゃないだろ」
「私はお前を喪うことだけが怖い。お前を守るためなら何だってできる」
「レイは知らないかもしれないけど、俺だってレイを守りたいよ」
伝えると、きょとんとした子供のような顔になる。全く思ってもみなかったというような表情だった。
「必要ない」
「そりゃ俺よりレイの方が強いだろうけどさ。レイが悲しまないようにしたいとか、夜ちゃんと休んでほしいとかさ、そういうこと」
今のところレイを一番悲しませているのはジェイスのような気もする。だからと言って、レイの希望通りに女性と結婚するだとか子供を作るだとか、レイ以外の誰かと幸せになる気などさらさら無いし、彼を誰かに譲る気も無いのだから仕方ない。
レイは眉根を寄せて、むすっとした顔になった。
「私のことなど気にしなくていい」
「なんでだよ。気にするだろ。好きなんだから」
不愛想な顔が少し緩んで、白い頬にだんだんと朱が差す。何も言えなくなって誤魔化すようにストローに口を付ける横顔がかわいい。
そのままじっと眺めていると、耐えかねたようにレイがストローから口を離した。視線はつま先を見ている。
「私はどうすればいいんだ」
「ん?」
「私はお前に幸せになって欲しくて、お前を幸せにしてやるために会いに来たのに。お前は私ばかり見て、ほかの人間に目を向けようともしない」
「じゃあレイは俺以外を好きになれって言ったらそうできるのか」
「できるわけがない!」
レイは猛然と顔を上げ、ジェイスを見た。
「お前はこの世界で一番素晴らしい男だ! お前以外なんて居ない!」
「レイのこと泣かせてばっかだけど、それでも一番素晴らしいって?」
「当然だ!」
むず痒くてにやけてしまいそうな顔を引き締める。
「俺もレイが一番かわいい。世界一かわいい」
率直に言えば、レイは照れるでもなく、不可解な様子で眉根を寄せた。
「かわいくはない。私は小さくないしやわらかくもないし」
「人間は愛しく思うものをかわいいと感じる」
赤い目が見開かれる。かつて全知全能だった存在でも知らないことはあるらしい。
「なら私ではなくて犬や猫でもいいんじゃないか?」
「何の話してるんだ?」
はぐらかしているのか、本気で理解できていないのか。一概には判断がつかなかった。
それから他愛のない話をしているうちに、レイが段々とうつらうつらし始める。やはり夜一人ではあまり眠れていないのかもしれない。
「ちょっと寝る? 寄りかかっていいよ」
「いや……」
レイは睡魔に抗っていたが、抱き寄せて肩に頭を凭せ掛けさせてやると、かくんと眠りに落ちた。
こんな風に寄り添って、ずっと穏やかに過ごしていたい。嘆きの塔の邪神を斃した後にも彼に一緒に居てもらうには、どうしたらいいのだろう。
さしあたり、バドを何とかしなければならない。あれで引き下がってくれるならいいが、そう簡単に済むとは思えなかった。
翌日、ダンジョンの管理事務所で申請して、三人はエスピアのダンジョンへ足を踏み入れた。
初めての上級ダンジョンだ。これまでとは危険度が桁違いになる。
入口から入ってすぐは洞窟のようなごつごつとした岩肌のトンネルを歩き、そこを抜けると森の中だった。見上げても天井は無く、木々の隙間から晴れた空が見える。
「え!?」
これでは魔物が外へ逃げ放題ではないか。驚くジェイスに、レイはこともなげに言った。
「これはダンジョンの魔力で疑似的に生み出された空間だ。たとえ空を飛んだとしても、外へ出ることはできない」
へえ、と感心の声を上げる。上級ダンジョンにもなると、常識は通用しないらしい。
のんびりしていられたのはそこまでだった。進んで行くと、獣型の魔物が次々と襲い掛かってきて、息をつく暇もない。
これまで戦いはジェイスに任せて後ろに下がっていたレイとアメアも、四方から襲い来る魔物を前に逃げ場が無い。
レイは自分とアメアに向かってくる魔物だけを弾き飛ばしていたが、さすがに見かねたアメアが声を上げた。
「手伝っても!?」
「もちろん構わない。お前たちは最終的に力を合わせて邪神を斃せばそれでいい」
焦るアメアとは対称的に、レイだけが落ち着いていた。
「ファング!」
声にこたえて、黒い狼の影が姿を現す。
「〈起きろ〉〈我が声がお前の主人〉〈黒き尾に従え〉!」
アメアの声に操られるようにして、ジェイスの斬り伏せた魔物たちがゆらりと起き上がる。甦った魔物たちは先陣を切って走るファングを追って、次々と魔物たちへ飛び掛かっていった。
「うぉ」
魔物の群れに埋もれそうになって、ジェイスは慌てて飛び退る。魔物同士が共食いしているような凄惨な光景には思わず声が出た。
「まあ……こんな力でも役には立つので」
どこか投げやりな声で言う。その力を忌む気持ちと、それが役に立つこと――今この状況だけでなく、兄のことも思い出しているのだろう。
「助かった。ありがとな」
「はあ」
倒した魔物が増えるほどアメアの操る軍勢は増える。おかげで、次々現れる魔物相手にジェイスががむしゃらに戦う必要はなくなった。
その上、レイが勝手知ったる様子でボスへの道を先導するものだから、道のりはかなり順調だった。迷路状のダンジョンならば奥へ進めばボスが居るものだが、広大な森とあってはどこを目指すべきか判断に迷うものだ。しかしレイはまるで道しるべでも見えているかのように、獣道すらない森の中へ踏み入っていく。
そうしてしばらく進んで行くと、空気が変わったことに気付いた。
「なんかいきなり静かになったな」
「ボスが近いんでしょうか」
ここはボスの縄張りで、小物の魔物は寄り付かないということなのだろうか。急に魔物の気配が途絶える。戦うべき有象無象が消えたと見るや、アメアは引き連れていた魔物たちに合図した。甦らせた魔物たちはぱたぱたと地面に倒れて屍に戻る。
このダンジョンは、未だボスの元まで到達した人間が居ない、あるいはボスと遭って生きて帰った人間は居ない。何の情報もないのだ。少なくとも先日戦った小型の翼竜よりは大物の魔物が出てくるはずだ。
上級ダンジョンのボスと戦うのは初めてになるから、さすがにジェイスも少し緊張した。
鬱蒼と茂る木々の間を進んで行くと、何やら音が聞こえてくる。威嚇するような咆哮、木々をなぎ倒すような凄まじい音。そちらに向かって進んで行くと、急に視界が開けた。
双頭の竜だ。黒いうろこがぬめるような光を放ち、咆哮が鼓膜を震わせる。そして、大剣を持つ青年がその竜に一人で対峙していた。
「バド」
レイが小さく名を呼ぶのと同時に、振り下ろされた大剣が片方の竜の首の片方を断ち切った。黒い血をまき散らして、草むらに音を立てて首が落ち、残った方の頭が怒り狂って吠える。吐き出された黒炎をバドは大剣を盾にして避け、アメアは慌てて自分たちの前に障壁を張った。
「我が主よ、私はその男より役に立って見せます。どうか私を認めて、私を選んでください!」
首だけ振り向いてバドが叫ぶ。一瞬視線を逸らしたその隙に、転げ落ちた竜の首が飛び上がり、顎を開いて死角からバドへと飛び掛かった。
考えるより先に身体が動いていた。
ジェイスは黒い剣を構え、竜の首とバドの間に飛び込んだ。首は飛んできた勢いのまま、剣に真っ二つに切り裂かれていったが、鋭い歯が引っかかってジェイスの腕を切り裂いていった。ぱっと赤い血が舞う。
「いっ……」
痛みを訴える言葉を慌てて飲み込んだ。まずいと思ってレイへ視線を向けると、目を見開いて血の気の失せた顔をしている。
まずいと思ったのはアメアも同じようで、即座にジェイスへ両手を翳して治癒魔法をかける。腕が熱を持って、たちどころに傷が治っていき、ジェイスはわざとらしく大声を出した。
「いやーびっくりした、怪我したかと思った! 危なかったなー!」
「どうして」
庇われたバドが動揺しながら声を上げるのを、ジェイスはつまらなさそうに一瞥した。
「後にしようぜ。先にボスを片付ける。あんたは引っ込んでてくれていい」
「……そうはいきません」
バドが悔しげに呻く。
ジェイスが斬り込んでいくと、バドも後に続いてきた。脚部を狙って剣を振るうと、横から尻尾で薙ぎ払われそうになり飛び退って避ける。飛び上がったバドが振り下ろした大剣は、鈍い音を立てて鱗に弾かれた。
巨体の割に動きが速い。集中しようとするが、バドの存在が邪魔だった。
最近のジェイスは、戦いに集中しようとすると極端に視野が狭くなる。自分と敵の存在しかわからなくなって、自分はただ剣を運び、振るうだけの器となるような感覚だった。
けれど、そのやり方ではバドまで巻き込んでしまいかねない。周囲に注意を払う意識を保ったままで、強さは維持しなければならない。
冷静なまま剣を振るうと、自分の体がひどく重く、遅く感じる。剣に乗せる力はこんなに弱かっただろうか。刃が鱗を通らない。今までこれでどうやって戦っていたのだろうとさえ思う。
剣ごと前脚に弾き飛ばされ、草むらに転がる。腕がびりびりと痺れた。
「ジェイス」
「ぜんぜん大丈夫」
心配そうなレイの声に振り向きもせず即座に返して、再び竜へと向かっていく。
片方の頭を失って猛り狂う竜には、バドも手を焼いているようだった。防戦一方だ。顎の奥にチカッと光が見えて、黒い炎が広範囲に吐き散らかされる。ジェイスの前に一人分の障壁が現れたのは、アメアの手助けだ。
魔法で補助をするアメアの存在に気付いたのか、竜がどすどすと荒々しく青草を踏みつけて、アメアとレイに迫る。
「レイ!」
思わず叫んで二人を背後に庇う。力任せに剣を振り、振り下ろされた前脚を斬り付けると、ぶつかった鋭い爪の先端が割れ、ジェイスの顔の横をかすめていった。
「っぶねぇ……」
目の横が深く切れて血が流れる。
「レイ、大丈夫か?」
怪我した顔を見せるわけにはいかず、前を向いたまま背中のレイに訊ねた。
「ジェイス、血が」
「大丈夫だから見てて」
アメアは防御の障壁を張らなければならないから、戦闘中に逐一ジェイスの怪我を治してもいられないだろう。ジェイスはできるだけレイが落ち着いてくれるよう、なんでもないような声で言った。
もしレイが取り乱したら、きっとボスを一撃で仕留めて終わりだ。それでは鍛錬にもならないし、彼を守りたいのだと言った手前、少しくらい良いところを見せたい。戦いにくいなどと弱音を吐いている場合ではないのだ。
迫る爪や牙を避け、バドの動きも読みながら、何とか崩せる部分はないかと探る。竜の黒い鱗は石の巨人より硬く、集中しきれないジェイスでは断ち切るには至らない。表面に傷をつけるのが精々だ。
不意に、竜の顎の裏に何かが光ったように見えた。一瞬そちらに気を取られた時、猛然と振るわれた前肢の鋭い爪が、ジェイスの腹を切り裂く。
一瞬目の前が真っ白になる。強烈な痛みに脂汗が噴き出した。竜の前脚が、自分の服が、血で濡れている。
昔にもこんなことがあった気がする。
違う。そんなのは知らない。また知らない記憶がよみがえる。
あの時は、竜の顎の裏に一枚だけ柔らかい半透明の鱗が生えていて、そこを貫くことで辛くも勝利した。あの時っていつだ。
溢れ出る記憶と痛みで混乱する中、ジェイスはバドに向かって叫んだ。
「竜の、」
叫ぼうとして腹に力がこもると、力んだ分だけ血が溢れるような気がする。めまいでよろめきそうになるのをなんとか踏みこたえた。眼前の敵を倒すまで立ち続けなければ。
「竜の気を引けるか、上向かせてくれ!」
バドは軽く眉を顰めたが、ジェイスの指示通り、攻撃の手を緩めて逃げ回るように木々の間を跳躍し、竜の視線を翻弄した。
ぐっと剣の柄を握り直し、竜の巨体を駆け上る。血が流れているのに、不思議と体が軽い。光って見えた鱗を黒い剣で貫いた。深々と突き立った黒い刃に、竜は咆哮しながら激しく身をよじり、やがて巨体が崩れ落ち絶命した。
振り落とされたジェイスは着地しようとして失敗し、地面に転がる。さすがに呻き声を上げた。
「ジェイス!」
駆け寄ってくるレイは顔面蒼白だ。よくここまで耐えて、我慢してくれたなあと思った。ジェイスなら倒せると、少しは信頼してくれたのだろうか。視界の下の方に赤い影が見えて腹が暖かくなったから、きっとアメアが治してくれているのだろう。
「大丈夫か? そんなに心配しなくても……」
レイを安心させてやりたかったが、失血のせいか猛烈に眠たくなって、その続きは紡ぐことができなかった。
まぶしくて目を覚ました。
カーテンから差し込む光と、小鳥の鳴く声で恐らく今が朝なのだろうと察する。怪我はすっかり癒えたようだが、体がだるい。
ベッドの端にレイが腰かけて、ジェイスを見下ろしていた。赤い目に涙を湛えて、力なく微笑む。
「ジェイス。よく頑張ったな」
黒手袋に包まれた手がジェイスの頭を優しく撫でる。
ああ、たしかに、彼に褒めてもらえるとそれだけで、全てが報われたような気になる。
あの時もそうだった。
魔王を斃した時だ。
満身創痍で魔王を斃して、光の神から天の園に招かれた。人の体は天の園に入れないから、精神体を呼び出されたのだ。
神はとても美しく、眩しく、全ての痛みも苦しみも、努力も功績も、彼に捧げるためにこの日まで歩んできたのだと思えた。
まみえるのは勇者として神託を受けたあの日以来で、あの日からずっと神に焦がれ続けてここまで来た。その微笑みのためなら命さえ捨てられる。
決して触れられないはずのひとだった。
それが今、手が届く距離にある。
「神よ」
呼びかけると、レイが驚いたように目を見開く。
「どうしてそんな顔をなさるのですか。あなたに焦がれてここまで来ました」
ひどく動揺して、咄嗟に立ち上がろうとするレイの腕を引いた。そのままレイをベッドに転がして、逃げられないように上から覆いかぶさる。
「……テオバルド」
震え声が呼ぶ。ジェイスはうっすらと笑って、レイの頬に触れた。
「はい。神よ。……何が恐ろしいのですか」
レイはずっと、化け物でも見たような顔をしている。悲しい。どうしてそんな目で見るのだろう。
血の気の失せた顔が哀れで、けれど愛らしくて、乱れてなお滑らかな銀髪をひと房手に取り、口付ける。
「神よ、やっと、俺の手の届く場所に降りてきてくださった。ずっとこうして触れたかったのです、あなたに焦がれ続けた愚かな人間をどうか笑ってください」
けれどレイはぴくりとも笑ってはくれない。
震える唇がやっと開いて、今にも泣いてしまいそうだった。
「……ジェイスがいい……」
囁くようなその声が、直接心臓に飛び込んできたように、鼓動が跳ね上がる。急に頭に血が集まり、朧がかっていた意識がはっきりとして、ジェイスは自分の言動の異常さに気が付いた。
「なんで!?」
慌てて起き上がり、強引に触れたりしないと示すように両手を上げる。動揺を抑えられず、片手で口元を覆った。
「いやなに!? 待ってごめん、なんか寝ぼけてたっていうか、怖がらせてごめん」
「いや……」
転がったままのレイが茫然と答える。
まだ心臓が早鐘を打っていた。
あまりにも当然のように、テオバルドの記憶を、意識をなぞっていた。自分の奥底に眠っていたもの。全く自分でないようなのに、操られているような感覚とも違う。明確に、ジェイスの意思で、ジェイスの一部だった。
改めて思い返してもわかる、と思ってしまう。レイに褒めてもらえたらそれだけで満ち足りてしまうような気持ち。
違うのはレイのためならば命を捨てられるというところだけだ。ジェイスはレイのために死ぬのではなく、レイと共に生きていきたい。その違いが、ジェイスとテオバルドは同じ魂であれど別の人間であることを示していた。
「……俺がいいのか」
ぽつりと訊ねると、茫然自失状態で天井を見詰めていたレイの顔に、じわっと血色が戻った。
「なん……」
「俺がいいって言ったよな?」
繰り返し問いかければ、レイが拗ねたような目でジェイスを非難がましく見た。
「だって……、私にもわからない。テオバルド、だと思ったら、こわくなった。百年間ずっと、テオバルドのことだけを愛していたのに……」
「キスしていい?」
「だめだ」
「いや?」
返事が無かったので、ジェイスは身を屈めて唇を重ねた。レイは弱ったような顔で、大人しくしている。
顔の横に投げ出されたレイの手に、手を伸ばした。レイの表情を窺いながら、手袋の口に指を差し込み、そのまま指を這わせるようにして手袋を脱がす。あんなに手袋を外すのを嫌がっていたレイが、今は抵抗しなかった。
綺麗な手だ。なめらかな白い肌。傷も何もない。確かめるように指を絡め、親指でさする。
「手の甲に」
レイがぽつりと小さく呟いた。
「ん?」
「……手の甲に、お前が――テオバルドが、一度だけ、口付けをしてくれて」
それを、ずっと大切に守っていた。けれど今はもういいのだと、言葉にされなくてもわかって、ぐっと胸に何かがこみあげる。
ジェイスは上書きするように手の甲にやさしく唇を落とす。どこか陶然としたような目で見てくるレイに、もう一度口付けた。
苛立ちを押し殺そうとすると、思った以上に冷たい声が出た。何を怒られているのか理解できていないレイは、眉を下げた弱り切った顔で、上目遣いにジェイスのことを窺ってくる。
街中に現れた翼竜を倒した後、ジェイスとレイは宿の部屋で向かい合っていた。
あの後、レイを巡って言い合いになった青年は、アメアにとりあえず今日のところはお引き取り願えますか、と言われて渋々引き下がった。第三者の登場で冷静になったのは彼も同じようだった。
ジェイスは宿に戻るとレイを部屋に押し込み、怒りの気配を察してじりじりと距離を取ろうとするレイを壁際まで追い詰めていた。
「彼はヴィエンヌとホザンナが造った勇者の似姿で……お前が転生するまで時間が掛かったから、その間私の慰めになるようにと」
「どういう関係?」
「天の園のものはみな、私の部下のようなものだ」
あの青年こそが、レイが会いたくなかったバドだろう。レイのことを「我が主」と呼んでいた時点で、神としてのレイの関係者だと察せられた。ヴィエンヌとホザンナに、レイの所在をバドに伝えておくと言われて動揺していたのは、彼女たちと違って冷たくあしらうことが難しい相手だからだ。
困っているレイの顔もかわいい。その顔を自分以外にも見せたと思うと、苛立ちが抑えられなかった。
「部下にあんな可愛い顔すんのかあんたは」
「し、してない」
「してた。ほっぺ赤くして」
責められたレイの目にじわりと涙が滲む。
「だって……お前に似てるから……」
「似てなくないか!?」
茶色の髪を撫でつけた青年の姿を思い出して言えば、力ない声が返ってくる。
「だからお前の前世に……」
「ああ」
めちゃくちゃ嫌だった。勇者テオバルドに似ている姿の男を強く拒めないレイ。人間を滅ぼそうとしてしまうほど盲目的にテオバルドを愛し、そのテオバルドに似ている男。それがずっと傍に居たのか。天の園で、一体どんな時間を過ごしていたのだろう。
心に黒い靄がかかる。
「あいつ好きだった?」
冷たい声で問うと、レイが目を見開いて、ジェイスに取り縋った。
「そんなことない! 私が愛しているのはお前だけだ!」
ジェイスのいつになく冷たい眼差しに見下ろされて、悲痛に歪んだレイの双眸から涙が零れる。
「信じてくれないのか」
白い頬を濡らす雫に、ジェイスは頭に昇っていた血が一瞬で引いていくのを感じた。
「レイ。レイごめん」
俯いて黙って涙をこぼすレイを抱き寄せる。
「ごめん、嫉妬した。俺が悪い」
震える肩が痛々しい。大事にしたいと思っているのに、つい感情的になってしまう。この間だって反省したばかりなのにまた傷付けた。自分に呆れて溜息が出そうになるが、今溜息なんか吐いたらきっとレイは自分のことだと思ってまた悲しむだろう。
「俺、レイと出逢うまで、自分がこんなに嫉妬深いなんて知らなかった。情けなくてごめん」
レイがジェイスの肩口に頭を押し付けたまま、黙って首を振る。顔を上げないのは多分まだ泣いているからだ。
「レイ」
どうしたらいいのか分からず、ジェイスは困り果てた。レイが落ち着くまで腰のあたりを抱き締めてただじっとしていると、やがてくぐもった声が言う。
「お前しか好きじゃない……」
「うん」
それもどうなんだとは思う。レイはもう少し人間を好きになった方がいい気がする。人類の安全のためにも。けれどその言葉を嬉しいと思ってしまう自分も居る。
「……ずっと俺のことだけ好きでいてよ」
ようやくレイが顔を上げる。涙に潤んだ赤い目が、不思議そうにジェイスを見上げた。
「ずっとお前だけだ」
「……うん」
恋その言葉が本当なら、どれだけいいだろう。レイが愛するのが、「テオバルドの魂をもつジェイス」でなく、ただの「ジェイス」だけだったなら。
濡れた目元に軽く口付けると、レイは耳まで真っ赤になってジェイスを突き飛ばした。
「何をする!」
「いやごめん、かわいくて」
「もうするなと言った!」
「しないとは言ってない」
確かに以前、大聖堂の地下ダンジョンで錯乱するレイに口付けた後にそう言われたが、ジェイスがしないと約束しなかったのも本当だ。
レイは手の甲で口元を隠すようにして狼狽えていたが、結局何も言い返せずに俯いた。
「翼竜を倒したから褒賞が出るって話だし、明日は役場に行こう。あいつはまた来んのかな……」
倒した翼竜の処理は警備隊に任せてある。翼竜の肉は食料になるし、骨は武器の素材にするか、骨格標本にしてどこかに展示されるだろう。鱗とツノも素材になる。どこをとっても金になるから、その分の金が分配されるのだ。加えて、街を守ったことで金一封が出るらしい。
バドにも褒賞の話はされていたから、役場で鉢合わせるかもしれない。我が主と呼んでいたが、どう見てもレイに気がある男の顔だった。できれば顔を合わせたくない。
「バドには、私から帰るように言う。帰らないでお前の邪魔をするようだったら消す」
「もうちょっと穏やかにいけないか?」
極端すぎる。いつ何時でもぶれないレイに、恐れを抱けばいいのか感心すればいいのか迷ってしまった。
昨日はデートの途中で翼竜を倒して、その後はレイを追い詰めて泣かせてしまい、せっかくのデートが散々だった。やり直しがしたいが、バドの問題も考えなければいけない。なかなか落ち着けなかった。
朝食を摂った後、レイと連れ立って役場に向かう。今日もアメアとは別行動だ。
役場は人でごった返していたが、レイがあまりにも周囲の視線を惹き付け過ぎて、逆に周囲にスペースが生まれていた。
昨日障壁を張っていた少女から貰った書類を窓口に提出して、引き換えに袋に入った褒賞を受け取った。あの少女は冒険者の仲間ではなく、ダンジョンの管理事務所の所員だったらしい。
上級以上のダンジョンは一気に危険度が跳ね上がるため、管理事務所が存在する。冒険者は事務所で審査され、許可された者だけが中に入ることができる。一定の日数出てこなかった場合捜索隊が派遣されるが、ダンジョンの奥深くで消息を絶った場合、遺留品すら見つからないこともままある。
用が済んだからにはさっさと帰ろうと役場を出た時、少女の声に呼び止められた。
「もういらしていたんですね。昨日はありがとうございました」
茶色の髪の少女は、昨日障壁を張っていた所員だ。こちらを見る目がいやにきらきらとしていて、女性が自分をこういう目で見るのがどういう時か嫌というほど理解しているジェイスは苦々しい心持ちになる。
「あー、いや、あんたも無事でよかったよ」
わざとぶっきらぼうに答えるが、少女は気にした様子も無い。
「私、ソニアって言います。あの、もしかして各地でダンジョン攻略巡りしてる冒険者ってあなた方のことですか?」
「え!? なんかそういう話があるのか」
「パガネムの地下ダンジョンが攻略どころか大破壊されたって話が回ってきて」
「そうなのか」
白々しく答える。魔物を倒すためだったとはいえ、バルタレティア大聖堂の地下を滅茶苦茶に破壊してしまった。何か問題になっているかもしれない。
「あっ、ごめんなさい、違いましたか? てっきり……」
言いながらレイにちらりと視線をやる。目立ちすぎるレイの姿が目撃情報として残っているのだろうか。
「別の人だと思うよ」
「そうですか? 各地のダンジョンを少人数で攻略してる凄腕の冒険者が居るって話題になっていて……昨日の戦いぶりも素晴らしかったので」
悪い話でなかったことに内心ほっとした。あの豪奢な大聖堂の修理費を賠償しろなどと言われてもとても払えない。
「あー、どーも」
「すごく鍛えていらっしゃるんですね。昨日は失礼な態度をとってしまってすみませんでした。冒険者の方ですよね? お話が聞きたいんですが、お時間頂けませんか?」
視線から滲み出る好意に、ジェイスは渋い顔になる。レイはどうせ、ジェイスが女性に声を掛けられたことに喜んでいるのだろうなと横を見れば、意外にも彼は少し機嫌の悪そうな顔をしていた。
まさか嫉妬しているのか。急に全身が熱くなる。
ジェイスは一気に上機嫌になって、レイの腰を抱いた。
「ごめん、これからデートだから」
「あ、え……?」
面食らっているソニアを置いて、ジェイスは歩き出す。
「ジェイス、放してくれ」
あたふたするレイの言葉を聞き流し、人ごみを進んだ。
「レイ、デートのやり直しさせてくれる?」
「ジェイス、手を」
「どっか行きたいとこある? それとも一旦休憩しようか」
「ジェイス!」
強く咎められて腕の中のレイに視線を向ければ、真っ赤になった泣きそうな顔でジェイスを見上げている。かわいい。ジェイスは咄嗟に手を離した。くっついていたら自分が何をするか分からない。
「ごめん。レイが嫉妬してくれるなんて珍しくて浮かれた」
「していない」
「そっか」
答える口元がにやける。
「それで――」
どこ行こうか、と言おうとした時、レイがはっとした顔で遠くを見た。つられてそちらを向けば、人ごみの向こうに見覚えのある長身の青年の姿が見える。バドだ。
片手に持った大判の紙を覗き込み、傍らに居る老婆と喋りながら路地の方を指差している姿からして、道案内をしているようだった。ちょうど老婆と別れたバドはレイの存在に気付き、足早にこちらに寄ってこようとして、近くで転んだらしい少女を助け起こす。
感心するほど善人だ。もっといやな奴だったらよかったのにと苦々しい気持ちになる。恋敵として、善人を蹴落とさなければならないのは気が重い。かと言って引き下がるつもりも毛頭ない。
「バド」
一瞬で表情を引き締めたレイがつかつかと歩いて行く。バドの前に立つと、一拍の間を置いて、言い放った。
「お前は天の園へ帰れ」
「いやです、あなたの居ない天になど帰っても何の意味もありません。どうか私と共に戻ってください」
「私が天へ戻ることは二度とない」
無感情に言い切るレイに、バドの表情が歪む。それから、その目が忌々しげにジェイスへ向けられた。
「あなたが、私の本物ですか」
「ええ……俺は俺であんたはあんた。本物も偽物もないだろ」
「我が主が追い求めていたのはあなたでしょう」
どう見てもレイに懸想している男の前で、そうだとすぐに頷けなかった。ジェイスは言い淀むが、バドはもう確信していて、返事など求めていないようだった。
「決闘を申し込みます」
その言葉にレイの纏う空気がピリッと張り詰めたのを感じて、ジェイスは咄嗟にレイの頭を抱き寄せ、その顔を自分の肩口に押し付けるようにした。物騒なことが起こる前に止めたかっただけだが、バドの目が怒りに燃え上がる。
「貴様、我が主によくも馴れ馴れしく」
「決闘は受けない」
「逃げるのか!」
バドが声を張り上げる一方で、レイがジェイスの名を呼んで、離れようともぞもぞしている。照れより怒りが勝っているのか抑揚のない声に、不穏な気配を感じる。
「レイはあいつの話聞かないで、あいつのこと見ないで、一旦俺のことだけ考えといて」
とにかく落ち着かせようとレイの頭を片手で押さえたまま、怒り心頭のバドへ視線を向ける。
「俺が怪我なんかしたら、レイがあんたに何するかわからない」
「覚悟の上だ!」
その言葉に、瞬間的に苛立ちを覚えて、ジェイスはレイを解放した。
「レイ。ちょっとここで待っててくれ、動かないで」
言い置いてバドに近付き、レイに届かないよう声を低める。
「あんた、叶わないならレイに殺された方がマシだって思ってるだろ」
動揺して息を呑んだのは、肯定にほかならない。ジェイスは黄金色の目で睨むようにバドを見据えた。
「レイが好きならレイを悲しませるようなことするんじゃねえよ。レイが顔見知りを殺して平気な奴だって本気で思ってんのか。それともそうまでして自分のこと刻み付けたいのか。あんたレイのことなんだと思ってんだよ」
できるだけ感情を抑えようと淡々と喋ったが、言葉はいつになく荒い。
いくらレイがジェイスにしか興味がないからと言って、長年共に過ごした相手を殺めて平気で居られるはずがない。
この先触れることはおろか会うことすらできないのなら死んだ方がましだというのは、自分も思ったことがあるが――いやない。これは一体何の記憶だ。頭の奥が軽く痛む。
悔しげに黙り込んだバドを一瞥して、ジェイスはレイの元に戻る。
「行こう」
「バドは……」
「悲しくても悔しくても諦めてもらうしかない。あんたは俺を愛してて、俺もあんたを愛してるんだから」
冷たく聞こえるような声で言うと、レイは狼狽えた末に目を伏せ、押し黙った。
急にどっと疲れてしまったジェイスは、レイと公園で休憩することにした。
昨日アメアが行っていた図書館には広い中庭があると聞いて来たのだが、想像以上の広さだ。
そもそもまず図書館が大きい。昨日街中から遠目に見て宮殿があると思った、あの建物が図書館だった。学術の都のシンボルとして外見はとてつもなく豪華だが、内部は本の保護のために陽光が入らない作りになっていて、思ったより実用的だ。
せっかく来たのだからと一応中を覗いてみたが、ジェイスもレイもあまり読書に興味がないたちで、ぎっしり本が詰まった書架が果てしなく並んでいる様子だけ目にして早々に退散した。
広い中庭は整えられた芝生で覆われ、ところどころにベンチがある。人はまばらで、各々読書したり軽食を食べたり物思いにふけっていたりと静かなものだった。
木陰のベンチにレイを座らせて、ジェイスはカフェで飲み物を買ってから中庭に戻った。
点在するベンチの中でも、レイは際立って目に飛び込んでくる。気付けばすっかり夏の盛り、ジェイスの肌にも緑の芝生にも太陽がじりじりと照り付ける。木陰で腰掛けるレイの髪が風になびくのが涼しげに見えた。
「お待たせ」
氷がたっぷりと入ったミックスベリーの甘酸っぱいジュースを手渡す。レイはそれを両手で受け取り、ジュースより赤く透き通った目で、ジェイスを見た。
「ジェイス。私は、お前のためなら何をしたって傷付いたりしない」
「……聞こえてたのか」
なんとなくばつが悪くなって、ベンチに腰を下ろし、頭を掻いた。レイは本気でそう思っているような真顔で、ジェイスは苦笑する。
「レイはそんな奴じゃないだろ」
「私はお前を喪うことだけが怖い。お前を守るためなら何だってできる」
「レイは知らないかもしれないけど、俺だってレイを守りたいよ」
伝えると、きょとんとした子供のような顔になる。全く思ってもみなかったというような表情だった。
「必要ない」
「そりゃ俺よりレイの方が強いだろうけどさ。レイが悲しまないようにしたいとか、夜ちゃんと休んでほしいとかさ、そういうこと」
今のところレイを一番悲しませているのはジェイスのような気もする。だからと言って、レイの希望通りに女性と結婚するだとか子供を作るだとか、レイ以外の誰かと幸せになる気などさらさら無いし、彼を誰かに譲る気も無いのだから仕方ない。
レイは眉根を寄せて、むすっとした顔になった。
「私のことなど気にしなくていい」
「なんでだよ。気にするだろ。好きなんだから」
不愛想な顔が少し緩んで、白い頬にだんだんと朱が差す。何も言えなくなって誤魔化すようにストローに口を付ける横顔がかわいい。
そのままじっと眺めていると、耐えかねたようにレイがストローから口を離した。視線はつま先を見ている。
「私はどうすればいいんだ」
「ん?」
「私はお前に幸せになって欲しくて、お前を幸せにしてやるために会いに来たのに。お前は私ばかり見て、ほかの人間に目を向けようともしない」
「じゃあレイは俺以外を好きになれって言ったらそうできるのか」
「できるわけがない!」
レイは猛然と顔を上げ、ジェイスを見た。
「お前はこの世界で一番素晴らしい男だ! お前以外なんて居ない!」
「レイのこと泣かせてばっかだけど、それでも一番素晴らしいって?」
「当然だ!」
むず痒くてにやけてしまいそうな顔を引き締める。
「俺もレイが一番かわいい。世界一かわいい」
率直に言えば、レイは照れるでもなく、不可解な様子で眉根を寄せた。
「かわいくはない。私は小さくないしやわらかくもないし」
「人間は愛しく思うものをかわいいと感じる」
赤い目が見開かれる。かつて全知全能だった存在でも知らないことはあるらしい。
「なら私ではなくて犬や猫でもいいんじゃないか?」
「何の話してるんだ?」
はぐらかしているのか、本気で理解できていないのか。一概には判断がつかなかった。
それから他愛のない話をしているうちに、レイが段々とうつらうつらし始める。やはり夜一人ではあまり眠れていないのかもしれない。
「ちょっと寝る? 寄りかかっていいよ」
「いや……」
レイは睡魔に抗っていたが、抱き寄せて肩に頭を凭せ掛けさせてやると、かくんと眠りに落ちた。
こんな風に寄り添って、ずっと穏やかに過ごしていたい。嘆きの塔の邪神を斃した後にも彼に一緒に居てもらうには、どうしたらいいのだろう。
さしあたり、バドを何とかしなければならない。あれで引き下がってくれるならいいが、そう簡単に済むとは思えなかった。
翌日、ダンジョンの管理事務所で申請して、三人はエスピアのダンジョンへ足を踏み入れた。
初めての上級ダンジョンだ。これまでとは危険度が桁違いになる。
入口から入ってすぐは洞窟のようなごつごつとした岩肌のトンネルを歩き、そこを抜けると森の中だった。見上げても天井は無く、木々の隙間から晴れた空が見える。
「え!?」
これでは魔物が外へ逃げ放題ではないか。驚くジェイスに、レイはこともなげに言った。
「これはダンジョンの魔力で疑似的に生み出された空間だ。たとえ空を飛んだとしても、外へ出ることはできない」
へえ、と感心の声を上げる。上級ダンジョンにもなると、常識は通用しないらしい。
のんびりしていられたのはそこまでだった。進んで行くと、獣型の魔物が次々と襲い掛かってきて、息をつく暇もない。
これまで戦いはジェイスに任せて後ろに下がっていたレイとアメアも、四方から襲い来る魔物を前に逃げ場が無い。
レイは自分とアメアに向かってくる魔物だけを弾き飛ばしていたが、さすがに見かねたアメアが声を上げた。
「手伝っても!?」
「もちろん構わない。お前たちは最終的に力を合わせて邪神を斃せばそれでいい」
焦るアメアとは対称的に、レイだけが落ち着いていた。
「ファング!」
声にこたえて、黒い狼の影が姿を現す。
「〈起きろ〉〈我が声がお前の主人〉〈黒き尾に従え〉!」
アメアの声に操られるようにして、ジェイスの斬り伏せた魔物たちがゆらりと起き上がる。甦った魔物たちは先陣を切って走るファングを追って、次々と魔物たちへ飛び掛かっていった。
「うぉ」
魔物の群れに埋もれそうになって、ジェイスは慌てて飛び退る。魔物同士が共食いしているような凄惨な光景には思わず声が出た。
「まあ……こんな力でも役には立つので」
どこか投げやりな声で言う。その力を忌む気持ちと、それが役に立つこと――今この状況だけでなく、兄のことも思い出しているのだろう。
「助かった。ありがとな」
「はあ」
倒した魔物が増えるほどアメアの操る軍勢は増える。おかげで、次々現れる魔物相手にジェイスががむしゃらに戦う必要はなくなった。
その上、レイが勝手知ったる様子でボスへの道を先導するものだから、道のりはかなり順調だった。迷路状のダンジョンならば奥へ進めばボスが居るものだが、広大な森とあってはどこを目指すべきか判断に迷うものだ。しかしレイはまるで道しるべでも見えているかのように、獣道すらない森の中へ踏み入っていく。
そうしてしばらく進んで行くと、空気が変わったことに気付いた。
「なんかいきなり静かになったな」
「ボスが近いんでしょうか」
ここはボスの縄張りで、小物の魔物は寄り付かないということなのだろうか。急に魔物の気配が途絶える。戦うべき有象無象が消えたと見るや、アメアは引き連れていた魔物たちに合図した。甦らせた魔物たちはぱたぱたと地面に倒れて屍に戻る。
このダンジョンは、未だボスの元まで到達した人間が居ない、あるいはボスと遭って生きて帰った人間は居ない。何の情報もないのだ。少なくとも先日戦った小型の翼竜よりは大物の魔物が出てくるはずだ。
上級ダンジョンのボスと戦うのは初めてになるから、さすがにジェイスも少し緊張した。
鬱蒼と茂る木々の間を進んで行くと、何やら音が聞こえてくる。威嚇するような咆哮、木々をなぎ倒すような凄まじい音。そちらに向かって進んで行くと、急に視界が開けた。
双頭の竜だ。黒いうろこがぬめるような光を放ち、咆哮が鼓膜を震わせる。そして、大剣を持つ青年がその竜に一人で対峙していた。
「バド」
レイが小さく名を呼ぶのと同時に、振り下ろされた大剣が片方の竜の首の片方を断ち切った。黒い血をまき散らして、草むらに音を立てて首が落ち、残った方の頭が怒り狂って吠える。吐き出された黒炎をバドは大剣を盾にして避け、アメアは慌てて自分たちの前に障壁を張った。
「我が主よ、私はその男より役に立って見せます。どうか私を認めて、私を選んでください!」
首だけ振り向いてバドが叫ぶ。一瞬視線を逸らしたその隙に、転げ落ちた竜の首が飛び上がり、顎を開いて死角からバドへと飛び掛かった。
考えるより先に身体が動いていた。
ジェイスは黒い剣を構え、竜の首とバドの間に飛び込んだ。首は飛んできた勢いのまま、剣に真っ二つに切り裂かれていったが、鋭い歯が引っかかってジェイスの腕を切り裂いていった。ぱっと赤い血が舞う。
「いっ……」
痛みを訴える言葉を慌てて飲み込んだ。まずいと思ってレイへ視線を向けると、目を見開いて血の気の失せた顔をしている。
まずいと思ったのはアメアも同じようで、即座にジェイスへ両手を翳して治癒魔法をかける。腕が熱を持って、たちどころに傷が治っていき、ジェイスはわざとらしく大声を出した。
「いやーびっくりした、怪我したかと思った! 危なかったなー!」
「どうして」
庇われたバドが動揺しながら声を上げるのを、ジェイスはつまらなさそうに一瞥した。
「後にしようぜ。先にボスを片付ける。あんたは引っ込んでてくれていい」
「……そうはいきません」
バドが悔しげに呻く。
ジェイスが斬り込んでいくと、バドも後に続いてきた。脚部を狙って剣を振るうと、横から尻尾で薙ぎ払われそうになり飛び退って避ける。飛び上がったバドが振り下ろした大剣は、鈍い音を立てて鱗に弾かれた。
巨体の割に動きが速い。集中しようとするが、バドの存在が邪魔だった。
最近のジェイスは、戦いに集中しようとすると極端に視野が狭くなる。自分と敵の存在しかわからなくなって、自分はただ剣を運び、振るうだけの器となるような感覚だった。
けれど、そのやり方ではバドまで巻き込んでしまいかねない。周囲に注意を払う意識を保ったままで、強さは維持しなければならない。
冷静なまま剣を振るうと、自分の体がひどく重く、遅く感じる。剣に乗せる力はこんなに弱かっただろうか。刃が鱗を通らない。今までこれでどうやって戦っていたのだろうとさえ思う。
剣ごと前脚に弾き飛ばされ、草むらに転がる。腕がびりびりと痺れた。
「ジェイス」
「ぜんぜん大丈夫」
心配そうなレイの声に振り向きもせず即座に返して、再び竜へと向かっていく。
片方の頭を失って猛り狂う竜には、バドも手を焼いているようだった。防戦一方だ。顎の奥にチカッと光が見えて、黒い炎が広範囲に吐き散らかされる。ジェイスの前に一人分の障壁が現れたのは、アメアの手助けだ。
魔法で補助をするアメアの存在に気付いたのか、竜がどすどすと荒々しく青草を踏みつけて、アメアとレイに迫る。
「レイ!」
思わず叫んで二人を背後に庇う。力任せに剣を振り、振り下ろされた前脚を斬り付けると、ぶつかった鋭い爪の先端が割れ、ジェイスの顔の横をかすめていった。
「っぶねぇ……」
目の横が深く切れて血が流れる。
「レイ、大丈夫か?」
怪我した顔を見せるわけにはいかず、前を向いたまま背中のレイに訊ねた。
「ジェイス、血が」
「大丈夫だから見てて」
アメアは防御の障壁を張らなければならないから、戦闘中に逐一ジェイスの怪我を治してもいられないだろう。ジェイスはできるだけレイが落ち着いてくれるよう、なんでもないような声で言った。
もしレイが取り乱したら、きっとボスを一撃で仕留めて終わりだ。それでは鍛錬にもならないし、彼を守りたいのだと言った手前、少しくらい良いところを見せたい。戦いにくいなどと弱音を吐いている場合ではないのだ。
迫る爪や牙を避け、バドの動きも読みながら、何とか崩せる部分はないかと探る。竜の黒い鱗は石の巨人より硬く、集中しきれないジェイスでは断ち切るには至らない。表面に傷をつけるのが精々だ。
不意に、竜の顎の裏に何かが光ったように見えた。一瞬そちらに気を取られた時、猛然と振るわれた前肢の鋭い爪が、ジェイスの腹を切り裂く。
一瞬目の前が真っ白になる。強烈な痛みに脂汗が噴き出した。竜の前脚が、自分の服が、血で濡れている。
昔にもこんなことがあった気がする。
違う。そんなのは知らない。また知らない記憶がよみがえる。
あの時は、竜の顎の裏に一枚だけ柔らかい半透明の鱗が生えていて、そこを貫くことで辛くも勝利した。あの時っていつだ。
溢れ出る記憶と痛みで混乱する中、ジェイスはバドに向かって叫んだ。
「竜の、」
叫ぼうとして腹に力がこもると、力んだ分だけ血が溢れるような気がする。めまいでよろめきそうになるのをなんとか踏みこたえた。眼前の敵を倒すまで立ち続けなければ。
「竜の気を引けるか、上向かせてくれ!」
バドは軽く眉を顰めたが、ジェイスの指示通り、攻撃の手を緩めて逃げ回るように木々の間を跳躍し、竜の視線を翻弄した。
ぐっと剣の柄を握り直し、竜の巨体を駆け上る。血が流れているのに、不思議と体が軽い。光って見えた鱗を黒い剣で貫いた。深々と突き立った黒い刃に、竜は咆哮しながら激しく身をよじり、やがて巨体が崩れ落ち絶命した。
振り落とされたジェイスは着地しようとして失敗し、地面に転がる。さすがに呻き声を上げた。
「ジェイス!」
駆け寄ってくるレイは顔面蒼白だ。よくここまで耐えて、我慢してくれたなあと思った。ジェイスなら倒せると、少しは信頼してくれたのだろうか。視界の下の方に赤い影が見えて腹が暖かくなったから、きっとアメアが治してくれているのだろう。
「大丈夫か? そんなに心配しなくても……」
レイを安心させてやりたかったが、失血のせいか猛烈に眠たくなって、その続きは紡ぐことができなかった。
まぶしくて目を覚ました。
カーテンから差し込む光と、小鳥の鳴く声で恐らく今が朝なのだろうと察する。怪我はすっかり癒えたようだが、体がだるい。
ベッドの端にレイが腰かけて、ジェイスを見下ろしていた。赤い目に涙を湛えて、力なく微笑む。
「ジェイス。よく頑張ったな」
黒手袋に包まれた手がジェイスの頭を優しく撫でる。
ああ、たしかに、彼に褒めてもらえるとそれだけで、全てが報われたような気になる。
あの時もそうだった。
魔王を斃した時だ。
満身創痍で魔王を斃して、光の神から天の園に招かれた。人の体は天の園に入れないから、精神体を呼び出されたのだ。
神はとても美しく、眩しく、全ての痛みも苦しみも、努力も功績も、彼に捧げるためにこの日まで歩んできたのだと思えた。
まみえるのは勇者として神託を受けたあの日以来で、あの日からずっと神に焦がれ続けてここまで来た。その微笑みのためなら命さえ捨てられる。
決して触れられないはずのひとだった。
それが今、手が届く距離にある。
「神よ」
呼びかけると、レイが驚いたように目を見開く。
「どうしてそんな顔をなさるのですか。あなたに焦がれてここまで来ました」
ひどく動揺して、咄嗟に立ち上がろうとするレイの腕を引いた。そのままレイをベッドに転がして、逃げられないように上から覆いかぶさる。
「……テオバルド」
震え声が呼ぶ。ジェイスはうっすらと笑って、レイの頬に触れた。
「はい。神よ。……何が恐ろしいのですか」
レイはずっと、化け物でも見たような顔をしている。悲しい。どうしてそんな目で見るのだろう。
血の気の失せた顔が哀れで、けれど愛らしくて、乱れてなお滑らかな銀髪をひと房手に取り、口付ける。
「神よ、やっと、俺の手の届く場所に降りてきてくださった。ずっとこうして触れたかったのです、あなたに焦がれ続けた愚かな人間をどうか笑ってください」
けれどレイはぴくりとも笑ってはくれない。
震える唇がやっと開いて、今にも泣いてしまいそうだった。
「……ジェイスがいい……」
囁くようなその声が、直接心臓に飛び込んできたように、鼓動が跳ね上がる。急に頭に血が集まり、朧がかっていた意識がはっきりとして、ジェイスは自分の言動の異常さに気が付いた。
「なんで!?」
慌てて起き上がり、強引に触れたりしないと示すように両手を上げる。動揺を抑えられず、片手で口元を覆った。
「いやなに!? 待ってごめん、なんか寝ぼけてたっていうか、怖がらせてごめん」
「いや……」
転がったままのレイが茫然と答える。
まだ心臓が早鐘を打っていた。
あまりにも当然のように、テオバルドの記憶を、意識をなぞっていた。自分の奥底に眠っていたもの。全く自分でないようなのに、操られているような感覚とも違う。明確に、ジェイスの意思で、ジェイスの一部だった。
改めて思い返してもわかる、と思ってしまう。レイに褒めてもらえたらそれだけで満ち足りてしまうような気持ち。
違うのはレイのためならば命を捨てられるというところだけだ。ジェイスはレイのために死ぬのではなく、レイと共に生きていきたい。その違いが、ジェイスとテオバルドは同じ魂であれど別の人間であることを示していた。
「……俺がいいのか」
ぽつりと訊ねると、茫然自失状態で天井を見詰めていたレイの顔に、じわっと血色が戻った。
「なん……」
「俺がいいって言ったよな?」
繰り返し問いかければ、レイが拗ねたような目でジェイスを非難がましく見た。
「だって……、私にもわからない。テオバルド、だと思ったら、こわくなった。百年間ずっと、テオバルドのことだけを愛していたのに……」
「キスしていい?」
「だめだ」
「いや?」
返事が無かったので、ジェイスは身を屈めて唇を重ねた。レイは弱ったような顔で、大人しくしている。
顔の横に投げ出されたレイの手に、手を伸ばした。レイの表情を窺いながら、手袋の口に指を差し込み、そのまま指を這わせるようにして手袋を脱がす。あんなに手袋を外すのを嫌がっていたレイが、今は抵抗しなかった。
綺麗な手だ。なめらかな白い肌。傷も何もない。確かめるように指を絡め、親指でさする。
「手の甲に」
レイがぽつりと小さく呟いた。
「ん?」
「……手の甲に、お前が――テオバルドが、一度だけ、口付けをしてくれて」
それを、ずっと大切に守っていた。けれど今はもういいのだと、言葉にされなくてもわかって、ぐっと胸に何かがこみあげる。
ジェイスは上書きするように手の甲にやさしく唇を落とす。どこか陶然としたような目で見てくるレイに、もう一度口付けた。
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