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8 嘆きの塔
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レイが居ない。
エスピアでは宿はいつも通りレイとジェイスとアメア、一人一部屋とった。朝食は外で食べようかと、ドアをノックして呼びかけても返事がない。レイは一人では滅多に眠らないようだし、ジェイスが声をかけても起きないほど熟睡しているとは考えにくい。
アメアと二人で呼びかけても応答がないため、宿の従業員にドアを開けてもらうと、やはり中にレイは居なかった。
部屋は綺麗なものだった。無理に連れ去られたわけではないようだ。もしもバドたちが強引にレイを連れて行ったなら、争いの形跡があるはずだ。
何か事件かと不安げな顔をする従業員に、朝のうちに出掛けたみたいだと愛想笑いで誤魔化して、二人はジェイスの部屋に戻った。
怪我が治ったばかりのジェイスを置いてレイがどこかへ行くとは思えない。
もしかして昨日ベッドでのしかかってキスまでしてしまったせいで愛想を尽かされたのだろうか。血の気がひく。浮かれている場合ではなかった。
「探しに行きましょう。ある程度遠くからでも見えますし、案外すぐ見つかるんじゃないですか」
「見えるって何が?」
ジェイスが軽く眉根を寄せると、逆にアメアの方が戸惑ったようだった。
「え……デカいので……」
「いやいくらなんでも……」
確かにレイは長身だが、ジェイスよりは小さい。山ではあるまいし、とても遠くから見えるほどではないが、不意に初対面の時に怯えていたアメアの様子を思い出した。
「アメアにはレイがどう見えてるんだ?」
「オレずっと疑問だったんですけど、ジェイスはマジであのひとのこと何も知らずに一緒に居るんですか?」
逆に訊ね返されて、ジェイスは答えに詰まった。レイが神であったことは聞いた。しかしアメアがどこまで勘付いているのかは知らない。レイの事情を、許可も無くべらべらと喋ってしまうのは気が引ける。
口ぶりからしてさすがに人間でないことには気付いているだろう。ジェイスは当り障りのない範囲で答える。
「レイが人間じゃないって話は聞いた。アメアにはどんな風に見えてるんだ」
重ねて訊ねると、アメアは口ごもり、渋い顔をしながらも答える。
「ひとの姿の方も見えてはいるんですけど……魔物でもあんなの見たことないです。身長がひとの倍くらいあって、真っ黒で……目がたくさんあって、手もたくさんあって、背中から無数の枝みたいな……やめましょう、オレのせいであなたが逃げちゃったらどうなることか」
「背中から枝?」
「やめましょう」
アメアはそれ以上答える気はないようだった。
化け物じゃん、と正直な感想が口をつきそうになって飲み込む。もしどこかでレイの耳に入るようなことがあったら、きっと彼は傷付いてしまう。
神だった。神性を剥奪された。レイからそんな話を聞いた。それがどういう意味なのかあまりピンときていなかったジェイスは、レイを今も神に近いものだと思っていた。
けれど、こういう意味だったのだろうか。神性を失ったレイの身体は、化け物へと変じてしまったのだろうか。
化け物の姿を目にしても、変わらずにレイを愛せるだろうか。
今のジェイスにはわからなかったが、逆にレイを愛していない自分というものが、最早想像できなかった。
レイはとても困っていた。
ジェイスのことが好きだ。
どんどん好きになる。
こんなはずじゃなかった。
だって、誰が考えただろう。五十年前だって、人間を滅ぼそうと考えてしまうほど、テオバルドのことを愛していたのに。
人間にそんな風に思いを寄せるなんて初めてのことだった。すべての人間を同じように愛していたから、その人間を虐げる魔王が許せず、打ち倒すために勇者を選んだのだ。
それなのに、大切だったはずの人間たちへの気持ちを見失ってしまった。
テオバルドへの想いは、それほどに大きく、頑なで、きっと自分は気が狂ってしまったのだと恐ろしくなったこともあるけれど、それでも抑えることができなかった。
それよりもっと好きになるなんて。怖い。
レイは本当にジェイスを幸せにしてやりたくて、テオバルドが得るはずだったすべてを手にして幸せになってほしくて、それだけ、それだけで満たされるはずだったのだ。
抱き寄せられると胸が高鳴って息苦しくなる。口付けなんかされたら、目の前にいるジェイスだけがこの世の全てみたいに思えてしまう。正しいことも、長く願っていたことも、何もかも忘れて、嬉しくて恋しくて少し苦しくて、体が動かなくなる。
これは本当によくないのではないか。
ジェイスを幸せにしてやるべきだ。そこにレイは必要ない。
ベッドに横になってまんじりともせずに朝を迎えた。
窓を叩くかすかな音がして目を向ければ、暗い面持ちのバドが立っていた。窓の外にバルコニーなどは無いが、どうやら壁の僅かな段差に立っているらしい。
レイは険しい顔で、窓辺に歩み寄った。
「我が主よ。お話をさせて頂けませんか」
「話すことなどない。私が天に戻ることは二度とない」
「戻らなくても構いません。あなたが地上で生きるのなら私も地上でお供します。私と来てくださいませんか」
その方がいいのかもしれない。そんな考えがふと過ぎる。
これ以上ジェイスと共に居たら、もっと好きになってしまうかもしれない。そんなのは困る。好きだという気持ちがどんどん積もっていって、心が破裂してしまう。
本当はジェイスの傍から離れたくはない。目を離した隙に彼にもしものことがあったら? 傍に居なければ守ってやれない。最近の彼は目に見えて強くなっているけれど、魔王を打ち倒すほどの強さを得た勇者だって死んでしまったのだ。人間の身体などいつどうなるかわからない。
何より、離れるなんて考えただけで胸が重く苦しくなって、喉がぎゅっと詰まる。
彼の金色の眼で見つめられることもなくなる。あの声が優しくレイを呼ぶ声も、レイの勝手に怒って責める声も、もう聴けなくなる。
彼の為ならすべてを捨てられるはずだったのに、惜しいと思ってしまう自分が居る。
「主よ、どうか」
必死な声で呼びかけてくるバドを、虚ろな目で見た。
ジェイスは強い。血を流しても怯まずに立ち向かっていく背中が瞼によみがえる。彼ならきっと、必ず、邪神を斃して英雄になる。レイが居なくても大丈夫だ。
すべてを捨てる覚悟を、もう一度しなければならない。
それが、レイがジェイスにしてあげられる全てだ。
外に出て、人を捜しているのだと聞いて回った。長い銀髪、壮麗な容姿に黒い毛皮のついたマントのレイは異常なまでに人目を引く。目撃情報がいくつも見つかり安堵したのも束の間、情報を辿って着いた先は駅で、信じられないほど気分が重くなった。
駅員に訊ねると、レイと思われる人物が、茶色の髪の長身の男と列車に乗って行ったのは間違いないらしい。ジェイスは膝から崩れ落ちそうになった。
「また痴話喧嘩したんですか?」
半ば呆れ顔のアメアに、ジェイスは苦々しい表情を浮かべる。
「……嫌とは言ってなかったけど、だめとは言われた……」
「オレ仲間のそういうのマジで聞きたくないんですけど」
言葉通り本当に嫌そうだったので謝るが、気落ちするジェイスとは対照的にアメアは平然としていた。
「荷物取ってきましょう。早く追いかけないと見失いますよ」
「逃げるほど嫌だったなら、追いかけていいのかな」
自信を失いかけるジェイスを、アメアが白い目で見てくる。
「あのひとがあなたを嫌いになるって? 本気で言ってるならレイに同情しますよ」
「いや……悪い。卑屈になった」
「はい」
そうだ、ジェイスに気持ちを疑われて涙をこぼしていたレイが、たった一度の過ちでジェイスを見限ることがあるだろうか。疑ったらまた泣かせてしまう。
ならどうして何も言わずに逃げるような真似をした?
そんなことは、直接会って聞かないとわからない。いつまでも落ち込んでいても仕方がないのだ。ジェイスだって、彼の口から直接事情を聞くまで、諦めることなどできはしない。
「よし、行くか!」
切り替えるように威勢よく口にした。
宿で荷物を引き上げてから列車に乗り、レイが向かったという終点駅へ向かう。そこで再び手当たり次第に彼を見ていないか訊ねると、また別の列車に乗って行ったという。そうして乗り継いで乗り継いで、夜に到着した駅で、アメアが声を上げた。
「あっちです!」
悪天候で汽車が遅れていたおかげが、ついにレイに追いついたようだ。人ごみを縫ってアメアの指示する方向へ向かうと、ちょうど汽車に乗り込もうとしているレイの姿を見付けた。
遠くからでもすぐにわかる。彼の周りだけ輝いて見える。もしかしたら本当に光を振りまいているのかもしれないとさえ思う。
「レイ!」
大声で呼び止めると、レイがはっとしてこちらを向いた。
「レイ」
やっと見つけたと胸を撫で下ろし、大股で歩み寄る。レイは何かを堪えるような顔をして目を逸らし、逃げるように列車に乗ってしまった。
「レイ!」
慌てて走るが、辿り着く前に列車が発車してしまう。これが今日の最終列車だというアナウンスが耳に入って、ジェイスは今度こそ頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
なんでだよ、小さく吐き出した声は、列車の走行音に掻き消されて誰にも届かなかった。
翌朝、二人は始発でレイの向かった先を追った。幸い列車は行き先が一か所しかない直行便で、目的地は嘆きの塔の立つ地、この国エルカイラズの中枢。首都ヴァレンテだ。
しかし、そこでレイの足取りは完全に途絶えてしまった。あんなに目立つ男が誰の目にも触れずに移動できるはずがないというのに、首都で下車したところを見たという駅員の証言が最後で、どれだけ聞き込みをしても何の手掛かりも得られなかった。
数日間レイを探して回り、疲労と無力感を覚え深々と溜息を吐く。賑わう酒場の喧噪が、今のジェイスにとってはまるで別世界のように感じられた。
丸テーブルの向かいに座ったアメアが、気落ちするジェイスをよそに酒と肉を注文する。
「俺あんま食欲ないんだけど……」
「そうですか。オレが食べます」
言葉に違わず、運ばれてきた肉料理をアメアは次々と口に運んだ。アメアは小柄な外見の割によく食べる。ジェイスも疲れている時には肉を食べたくなる方だが、今はちっともそんな気分になれない。
「明日も探すんなら、食べて力つけといた方がいいですよ。やつれた顔なんか見せたらあのひとまたおかしくなりますよ」
アメアのあけすけな言葉に、うつろな顔で小さく笑った。
出逢ってからずっとおかしかったがずっと可愛かった。あの美しくいかれた可愛い男は、今度は何を考えてどこに行ってしまったのだろうか。
今までにレイを迎えに来た、ヴィエンヌにホザンナ、バド、皆が一様に言っていた言葉がよぎる――天の園に帰ってきてほしい。ぞっとした。
レイはまだ地上に居るだろうか。もしも天に帰ってしまったなら、世界中を駆けずり回ったって見つからないではないか。
どんどんと顔が険しくなっていくジェイスに、アメアがいっぱいに頬張った肉を咀嚼し飲み込んでから口を開く。
「ジェイスから逃げているというより、誘導しているんじゃないかと思うんですけど」
「誘導?」
「本当に逃げる気だったら、あのひとなら誰にも見つからずに移動くらいできるんじゃないですか? わざと姿を見せていたなら、追いかけてほしかったってことです」
たしかにそうだ。それこそ天に帰るのならば、列車を乗り継いで移動する必要などない。きっと宿の部屋から直接天の園へ移動できるはずだ。ヴィエンヌとホザンナが突然現れたり姿を消したりしていたのだから、特定の場所からでないと帰れないというような制約もないだろう。
にわかに希望を見出すジェイスをちらりと見遣って、アメアがぼそりと言う。
「……諦める気はないんですか?」
急に何を言い出すのかと、ジェイスは耳を疑った。想定外すぎて言葉を見つけられないでいると、アメアが苦々しい顔で続ける。
「オレだってあんなやばいひと野放しにするよりは、ジェイスがずっと目を離さないでいてくれた方がいいと思いますけど。でももしもあの……顔が好きで容姿に目が眩んでるとかだったら……諦めるには今がいいタイミングだと思いますよ」
「考えたことない」
反射的に答えた後、もう一度しみじみと答えた。
「考えたことないな」
顔に釣られているのなら、化け物の姿を目にしたら幻滅するとアメアは考えているのかもしれない。
それでもやはりジェイスには、どう考えても諦めるという選択肢はなかった。
「そうですか」
アメアは溜息を吐き、あっさりと頷いた。彼も別に本気で言っていたわけではなさそうだ。最初からレイの化け物じみた姿が見えていてなお着いて来てくれたのだから、面倒見がいいのだろう。
夕食の後、宿で一人になったジェイスは、暗い部屋の中でベッドに仰向けに倒れて、必死で記憶を辿っていた。
レイのこれまでの言動の中に、彼が何を考え、どこに行ってしまったのか、ヒントがあるのではないか。
レイの言動は最初から一貫している。
ジェイスを愛している。だから邪神を斃して英雄になって嫁を娶って幸せになってほしい。ジェイスを侮辱することを許さず、ジェイスが怪我をすることに怯えた。いつもジェイスのことばかりだ。ジェイスはレイのことを何も知らない。もっと知る努力をしておけばよかった。
ジェイスはただ目の前にいるレイに夢中になるばかりで、過去がどうだとか、彼の置かれた状況なんかには全く気が回らなかった。
神だった。神性を失った。そういえば教会で怒っていた。あの時なんと言っていたか。
――そもそも私はこんな場所来たくなかった、空の天など崇める愚かどもが。
空の天、レイが地上に降りたことで、主人が居なくなった天の園。天の園が何なのか具体的に聞いたことすらなかったが、おそらく天にある神が住まう庭なのだろうとジェイスは思っている。
もしかして、教会から祈ったら天の園に届くのだろうか?
レイが天の園に帰ったとは思っていないが、この首都ヴァレンテでレイの足取りが忽然と途絶えてしまったのも事実だ。
ほかに手立ても思い浮かばない。明日、教会の門が開く時刻に真っ先に試しに行くことにした。
死ぬ夢を見た。いや、死ぬのはジェイスではない。あれは勇者テオバルドだ。魔王に付けられた傷が癒えず、ベッドに横たわって浅い呼吸をして、命が潰えるのを待っている。魔王が死の際に勇者に付けた傷は深く魂にまで達し、どんなに優れた治療術師でも治癒することはできなかった。
勇者が死を選んだのは、自責の念だったことを知っている。
人間を無差別に襲う魔物を殺し尽くした。つまり勇者は魔物を無差別に殺した。やっていることはどちらも同じだった。
人間を守るためには仕方なかった。けれど許されないことをした。許されないのは自分だけでいいと思った。
それが、光の神が傷を癒そうとしてくれたのを断った理由の、半分だ。
もう半分は、光の神だ。
自分が勇者になるのだと神託を受けた。光輝く眩しいそのひとの御前に跪いた。
あの瞬間からずっと、分不相応に、強く美しい光に恋をしていた。
初めて彼の前に跪いて使命を授けられ、その命を全うし再び彼にまみえた、褒めてもらった、それだけで今世のなすべきことはすべて終わってしまったのだ。
その後生きていっても、神にお目通りが叶うことなどもう二度とない。何十年と長い間、会うこともできない相手に狂いながら生きていくなんて、身を引き裂かれるよりも苦しい。
テオバルドがうつろな目で小さく呟く。
「いっそあなたの光が雷光となって、この身を貫いてくれたらいいのに」
今のジェイスには理解できる。
もう二度と会えないなんてとても耐えられない。
会いたい。
夢見が悪かったような気がするが、目覚めたジェイスは何も憶えていなかった。
レイが姿を消してから眠りが浅い。夜明けと同時に目覚め、待ちきれず教会に向かった。
つい先日まで夏の日差しが眩しかったような記憶があるのに、今はもう早朝は少し肌寒い。夏が終わろうとしている。図書館の中庭、木陰のベンチでレイと寄り添っていたのが、夢のように遠く感じる。
首都の教会は、バルタレティア大聖堂に負けず劣らず荘厳だった。城のようだ。尖塔が天に向かって高く突き出し、高い位置にあるバラ窓は光の神のシンボルである光輪を描いている。
閉ざされた門扉の前で開門を待っていると、朝の清掃に出て来たシスターたちに驚いた顔をされた。
「こんな早朝に、どうなさったんですか」
「あーと、お祈りがしたいんですけど、神様に声が届く場所?ってありますか?」
「まあ……。告解でしたらまだあと三時間ほどお待ちいただかないと……」
「そういうんじゃないんですけど、神様と直接お話したいっていうか」
自分でも一体何を言っているんだとは思うが、シスターも愛想笑いが困ったような顔になっている。
「神はいつでも信じる者のお声を聞き届けてくださいます。どうぞ光に向かって祈られてください」
そう言って手のひらで示されたのは天に昇る太陽だった。その眩しさに目を細める。そういうものなのか、それとも適当に誤魔化されただけなのか不明だが、ジェイスはシスターに礼を告げて教会から離れ、適当な建物の傍らで太陽を見上げ、目を瞑った。
レイ。聞こえる? 会いたい。迎えに行きたい。俺が居なくてもちゃんと眠れてる?
一瞬肌に静電気のようにピリッとしたものを感じて反射的に目を開くのと、雷が間近に落ちたような轟音が響いたのはほぼ同時だった。
この音には覚えがある。
記憶に違わず、陽光の下立っているのは二人の少女、ヴィエンヌとホザンナだった。祈りは別のところに届いたと言うべきか、はたまた天の園に正しく届いたと言うべきなのか。
褐色の肌に銀髪の少女、ホザンナは俯いて目元を両手で押さえていた。泣いている。一方で白い肌に金髪の少女、ヴィエンヌはジェイスを見るなり睨み付け、激しくなじってきた。
「あなた! あのお方が消えるようなことがあったら許しませんから! あなたの魂ごと消し飛ばして二度と生まれ変われないようにして差し上げます!」
「消えるようなことって何だ!? レイがどこに居るのか知ってるのか」
不穏な言葉に急き込んで訊ねると、ヴィエンヌはますます目を吊り上げた。
「知ってるのかじゃありません、早く行って差し上げてください、あのお方はあなたを」
そこで悔しげにぐっと唇を噤む。ホザンナが顔を上げ、涙声で呟いた。
「あなたを待っています」
そう言って見る視線の先には、高い塔が聳え立っている。
邪神が居る場所、旅の最終目的地である、嘆きの塔。
――嘆いているのは誰だ?
過ぎった疑問は、気付かないふりをして頭の隅に追いやった。
宿に戻り嘆きの塔へ行くと告げると、アメアは驚きに目を剥いた。
「はあ!? レイも居ないのに!? 二人でなんてさすがに無理ですよ!」
「でもレイがそこで待ってるって。迎えに行かないと。アメアが無理なら俺だけで行ってくる」
ジェイスはレイが関わると冷静な判断ができなくなる。ヴィエンヌとホザンナの様子を見るに、レイが嘆きの塔の外でのんびり待っているわけでもあるまいが、本当に一人でも塔に乗り込むつもりだった。
アメアが思い切り顔をしかめる。
「行きますよ。でも危なくなったらオレは一人でも逃げますからね」
「そうしてくれ。ありがとう」
そんな危機に直面したらジェイスもアメアを守っている余裕はなくなるかもしれないし、本当に逃げてくれるならその方がいい。けれど、なんだかんだここまで着いて来てくれたアメアが、ジェイスを見捨てて逃げられるような気がしなかった。
ジェイスは今すぐにでも嘆きの塔に向かう勢いだったが、アメアに宥められ、朝食を摂ってから向かうことになった。今度こそレイに会えるかもしれないと思うと急に腹の底から元気が湧いてきて、これから戦うためにも力を付けようと肉をパンに挟んで食べた。本当はもっとがっつり食べたかったが、満腹過ぎても動きにくくなる。
天高く聳える嘆きの塔は、遠くからでもよく見える。首都の中心に突如として現れた塔は、今では周辺一帯への一般人の立ち入りが禁止されていた。上級ダンジョンと同じく申請して許可を得る必要がある。
首都はどこも人が多い。灰色の石畳の道を、朝から大勢の人たちが行き交う。役所で塔への立ち入りを申請すると二人では許可できないと却下されてしまったので、ジェイスは無許可で塔へ向かうことにした。
立ち入り禁止区域には身長よりも高さのある黒い鉄柵がぐるりと囲み行く手を阻む上、観光名所と化して周囲は混雑している。これだけの人の目を掻い潜って中に侵入するにはどうすべきか。
悩むジェイスを横目で見上げ、アメアが無表情で言う。
「上から行きましょう」
「上?」
「この前、もったいないしせっかくだから配下を増やしたんです」
「配下?」
ジェイスは何も理解できていなかったが、アメアに言われるまま一旦その場を離れた。人目につかない場所が良いと言うので街はずれまで随分歩き、広い公園の一角が森のようになっている場所を見つけた。
「〈出でよ〉〈我が僕、双頭の翼〉」
手をすっと前に伸ばしたアメアの声に呼応して、黒い魔法陣が現れ、風が渦巻く。一瞬後には目の前に巨大な影が現れた。見上げるほど大きなそれは黒い鱗の双頭の竜で、伸びた首の片方がなく、隣に首が浮いている。
「あ!? あの時倒した竜!?」
上級ダンジョンで倒した双頭の竜だ。ジェイスが気絶した後、アンデッドとして配下にしたのだろう。バドに落とされた首が別の個体として浮かんでいるのが不気味とも滑稽ともとれて言葉に困った。
「行きましょう」
竜が首を下げてアメアが背に乗るのを助ける。ジェイスも背に飛び乗ると、すぐに竜が翼をはためかせ、宙へと舞い上がった。
「なんで首……」
「本体だけアンデッドにして離ればなれにするのも可哀想じゃないですか」
アメアなりに気を使った結果らしい。彼の倫理観はよくわからなかったが、今助けてもらっているのは事実なので、ジェイスはそれ以上何も言わなかった。
竜の飛翔速度だと塔まで一瞬だった。地上の人々がこちらを見上げて目を丸くして逃げ惑う。そのざわめきの上を通り過ぎて、黒い柵の内側へと着陸した。二人が地面に降り立つと、アメアが何か唱えて竜の姿が掻き消える。
急がないと恐らく警備隊がやってくる。ジェイスたちはすぐに塔の入口へと向かった。
突如として現れた塔のせいで打ち捨てられ、廃墟となった街並みを通り過ぎ、黒い石造りの嘆きの塔へと辿り着く。入り口の重厚な扉には精緻な彫刻が施されているが、壮麗と言うよりはどことなく不安を煽られるような禍々しい意匠で、嘆きの塔という名前を体現しているようだった。
「行こう」
扉を押すと、軋む音を立てて案外あっさりと開く。まるで招き入れられているようだと感じながら足を踏み入れると、後ろで勢いよく扉が閉まった。その音に驚いて、闇に閉ざされた中後ろを振り向くのと同時に、中に明かりが灯る。
壁面に等間隔に埋められた照明石が青白く光り、照らされた内部は凄惨な有様だった。
魔物が死んでいる。死んだ魔物が壁際に山と積まれ、開けられた中央部には黒い血の跡が残っていた。魔物を殺してからわざわざ道を開けたようにも見えた。魔物の独特の、泥のような血の匂いが鼻をつく。
アメアが怯えていないか心配になって見下ろすが、平然としていた。死霊術師として鍛えられた彼は、ジェイスよりよほど魔物の遺骸に慣れているのかもしれない。
黒い血を踏んで部屋を横切り、奥の階段へと進む。壁に沿って螺旋を描く階段を昇って行った先も、またその次の階も、似たような光景が広がっていた。
「……もしかして全部の階の魔物がすでに倒されてるのか……?」
「そうかもしれませんね……」
疑念に同意するアメアの声が暗い。
「大丈夫か? もし見たくなければ目つむっといてもらえれば担いで運ぶけど」
さすがに気分が悪くなってきたかと提案してみると、どこか呆れたような風情で首を振られた。
「大丈夫です。そんなことに体力使わないでとっといてください」
それからまた螺旋階段を上っては、魔物の山の間を通り抜け、また上へと向かう。十階分ほど上ったフロアで、魔物の死体の山の間に青年が座っているのが見えた。膝を立てうなだれる青年の隣には、黒い血まみれの大剣が床に突き立っている。
「……バド……?」
訝しみながら声を掛けると、バドがのろのろと頭を上げた。今にも死んでしまいそうな陰鬱な表情をしているが、怪我はないようだ。
「……どうしてあのお方はお前なんかのために」
開口するなり文句が飛び出し、苦々しい表情を浮かべる。
「あんたがレイを連れて行ったんじゃないのかよ」
ほんの数日の間に、驚くほど憔悴しきっているように見える。何があったのか、レイは無事なのか、焦る気持ちが浮かぶジェイスに、バドは皮肉気に笑って見せた。
「結局私はお前の代わりにはなれなかった。あの方が死んだらお前を殺して私も死ぬ」
誰も彼も似たようなことを言う。レイの身に一体何が起こっているのか。ここで喋っていても埒が明かない。道を急ぐことにして階段を進むと、アメアが気遣わしげに後ろを振り向いた。
「あのひと、大丈夫なんですか……?」
息が上がっている。アメアにはここまで上って来るだけでも重労働だっただろう。
「さあ。無事に邪神を斃せたら帰りに拾っていくか」
レイを連れ去ったと思われる相手に今は優しくできない。すべてはレイを取り戻してからだ。
そうして階段を上り切ると、目の前に黒い石の扉が現れた。これまでとは明らかに違う雰囲気に、気が引き締まる。
「ちょっと、ちょっといったん、休憩……」
息切れしているアメアに訴えられて、足を止める。階段に腰掛けたアメアが息を整えるのを待ちながら、ジェイスは大きな扉を見上げた。
この向こうにレイが居るだろうか。危ない目に遭ってはいないだろうか。また泣いていないだろうか。早く会いたい。その前に邪神と戦うことになるのかもしれない。上級ダンジョンのボスを倒すのにも満身創痍だった自分が、レイの助けも無く邪神を斃すことができるのか?
不安は無かった。妙な高揚感のようなものがある。レイを取り戻すためならば、邪神でもなんでも殺せると思った。
「お待たせしました。行けます」
「ああ」
扉を押す。塔の入り口の扉と違い、ずっしりとした重さを感じた。
開いた扉の向こうは暗く、静寂に満ちている。ちらちらと小さく光っているのは照明石なのかもしれないが、星が瞬いているようでもあった。
扉の先へ足を踏み出そうとして、踏み止まる。隣でアメアも小さく悲鳴を上げた。足元には床が無く、はるか下で波が揺らいでいるのが見える。
「なんだ!?」
まるで海の上だった。ここまで上って来たのだから、下が海であるはずもないのに。上級ダンジョンが森の中だったのと同様、ここも常識が通用しない異空間なのだろう。
「あ、いちおう床はあるんですね」
恐る恐る足を伸ばしたアメアが、透明度の極端に高いガラスのような足場があることに気付いた。
「ほんとだ」
眼下で波打つ海面のせいでわかりにくいが、よく見れば、透明な床が明かりを反射している。二人が中へ入ると扉が閉まり、圧迫感が消えたように感じて振り向くと扉が消えていた。
「進むしかないってことか」
元より退く気もないのだから同じことだ。
まるで夜空に浮くような空間に、道を示すものは何もない。壁も天井も見えない。足元が波打っているのに波の音も聞こえず、生命の気配が感じられない。月明かりもない夜の海の真っ只中に放り出されたような、不安な心地になった。
不意に遠くがかすかに明るくなり、二人の視線が同時にそちらを向く。
「あっちか」
気が急いて早足になる。後ろからアメアが小走りで着いてくるのが足音でわかる。
月明かりのようなほのかな光の下、朽ちた神殿のような白い柱が何本も突き出していた。その間、椅子に座る青年が闇に浮かび上がる。
「レイ!」
探し求めていた姿に、ジェイスが明るい声を上げた。
白い肌に淡く輝く白銀の髪、しなやかな体を覆うぴったりとした衣服、黒い毛皮のついたマント。見慣れた姿のレイが、黒い豪奢な椅子にけだるく腰掛けたまま、うっすら笑う。
「ジェイス。よく来てくれた」
「大丈夫だったか? どうして俺を置いて――」
何かおかしいな、と気付いた。
レイが座っている場所は数段高い場所で、まるで玉座にでも腰掛けているようだ。何でそんな、まるで塔の主のような態度で待ち構えている?
「どうして俺を置いて行ったんだ」
探るような声になった。レイが立ち上がる。軽く両手を広げる仕草が、演技がかって見えた。
「私こそがこの塔の主、邪神である。お前は邪神を斃して英雄になるのだ!」
「……何を言ってるんだあんたは」
頭からすーっと血の気が引いて冷静になっていく。レイは両手を広げたままきょとんとした、無垢な顔で首を傾げた。
「本当に気付いていなかったのか? この世に神と名の付くものは、正であれ邪であれ私しか居ない」
「いや知らないし、もしかして最初からそのつもりで一緒に居たのか」
「そうだ」
レイは悪びれもせず頷く。
最初からジェイスに殺されるつもりで?
ジェイスのことを愛していると言い、英雄になって女と結婚して幸せになれと勝手な願望を押し付け、ジェイスが怪我をしただけで取り乱し、抱き寄せられて頬を赤く染めていた、全部、最後には、殺されるつもりで。
どこまでも勝手なことを言う男に、猛烈に腹が立ってきた。
ジェイスはレイのことを好きだと言っているのに、彼はジェイスの幸せに絶対に自分を数えようとしない。
ジェイスはずっとレイがいいのだと、英雄だとか女だとかそんな絵に描いたような幸せなど望んでいないから、レイに傍に居てほしいのだと言っているのに。
「俺はレイを殺すつもりはない。レイが邪神だっていうなら旅はこれで終わりだ。帰るぞ。あんたも一緒にだ」
語気が荒くなる。レイはジェイスを睥睨し、ゆっくりと階段を下りて来た。
「お前は邪神たる私を斃さなければならない。さもなくばこの世界を滅ぼしてしまうぞ」
「何を――」
「私にはできないと思っているのか?」
レイがゆるやかに片手を上げると、ちかっと何かが瞬き、凄まじい轟音が鳴り響いた。アメアが悲鳴を上げて二人の上に障壁を張るのと同時に、黒い空のように見えていた天井に亀裂が走り、崩落した。落下した瓦礫が、障壁に弾かれては床に激突する。
塔の上部がすっかり崩れ、本当の空が頭上に広がる。昼間のはずの外は暗く、雲も無いのに太陽が見えない。そこもまだ異空間なのかと疑うが、外には竜の背から見たのと同じ街並みが広がっていた。
レイが上げていた手を軽く振り下ろすと閃光が走り、街並みの向こう、遠くに見える山に雷が落ちて、半分ほどが消し飛んだ。その光景を見ているアメアは顔色を失っている。
「お前が私を殺さないのなら次は街だ。私は構わないぞ。人間などどうなったって」
「なんでだよ、なんでこんなこと」
「言っただろう。私はお前を英雄にして幸せにしてやりたいんだ」
「俺だって言ってんだろ。そういうのいらないからレイさえ居てくれたらいいって」
「だって」
それまで淡々と喋っていたレイの顔が悲しげに歪む。この期に及んで嫌だと思う。そんな顔をさせたくはないのだ。
「だって、私が奪ってしまったんだ。本当ならお前が得られるはずだった幸せを」
ジェイスの眉がぴくりと跳ね上がる。レイは苦しげに吐露を続ける。
「本当ならお前は幸せに生きられるはずだった、女と結婚して、子供を作って、やがては孫に囲まれて、老いて死ぬ。私が奪った。私が選んだんだ。私がお前を勇者に選んだ」
レイの目元が悔しげに歪み、呼吸がひきつる。
「……私が選ばなければ……」
赤い瞳から涙が零れる。
ずっとそんな自責の念にかられていたのか。瓦礫の向こうに立つ姿が、たった今山を破壊したとは思えないほど頼りなく見える。
「でも、あんたはもう知ってるだろ。俺と勇者は別人だ」
悲しみに震える体を抱き締めてやりたい。ジェイスが一歩踏み出すと、レイは怯えたように一歩下がった。
「ジェイス。この姿だとやりにくいか? これならいいだろう」
レイが瞳に涙を湛えたまま、暗い顔で笑う。その体が一瞬で膨張し、作り替わる。目の前で何かが起こっているのに、うまく知覚できない。まさに神の領域を覗き込んでいるようだった。
ぐらりと眩暈がして、次に視界が戻った時には、目の前には巨大な化け物が立っていた。
アメアが言っていた通りだ。光を吸い込んで反射しない真っ黒な体で、体高はジェイスの倍ほどもある。頭部には赤い眼球がいくつも浮かび、胸元から肋骨のような湾曲し尖った骨が突き出している。胴体の左右からは骨のような細い腕が何対も生えていた。背中からは枯れ枝のようなものが生えているが、羽根の抜け落ちた翼のようにも見えた。
さすがに目にすると衝撃が強い。赤い目が揃ってこちらを見ると、冷や汗が出る。
けれど嫌悪感はなかった。
「レイ。俺がそれでびびると思ってるのか」
返事はない。ぱっと空中で何かが光り、体は殺気に勝手に反応してその場から飛び退った。一瞬前までジェイスの立っていた場所に、光の矢が突き刺さる。
「レイ!」
応戦するため、仕方なく黒い剣を抜いた。
「アメアは下がって見ててくれ!」
返事がないので肩越しにちらりと見遣ると、すっかり気圧されたアメアが顔面蒼白でこくこくと頷いていた。
レイの方から、あるいは天から、雷光がジェイスを狙って降り注ぐ。瓦礫に足を取られそうになりながらも走って避け、剣で弾いた。
「レイ、やめてくれ、俺はあんたと戦う気はない!」
近付こうとすると、腕で振り払われる。風圧だけで吹き飛ばされそうだった。
悲しみと苛立ちが入り混じる。
レイはいつもそうだ。ジェイスのことを愛していると言いながら、ジェイスの話なんか少しも聞きやしない。
こんなに好きなのに。愛しているのに。
生まれる前からずっと。
「また俺に、死ぬまであんたに焦がれて生きろって言うのか!」
ほとんど怒鳴るように吐き出すと、絶え間なく降っていた雷が収まった。急に訪れた静寂、雷鳴の余韻がまだ耳の中にじんじんと残っている。
「お前は」
どこから響いているのかわからないが、レイの声だった。それこそ天啓のように、頭の中に響いてくる。
「魔物がどうやって生まれるのか知っているか?」
「……何の話だ」
急に何の話を始めるのかと訝るジェイスに構わず、レイが続ける。
「原始、私が生き物を創った時、うつくしいものを創りたくて、醜い部分は切って捨てた。その捨てた筈の醜い部分、憎しみや争いを好むものが、魔物になって増えていってしまった。そうやって生まれた魔物たちは勇者に一掃されたが、では、現存する魔物は何がもとだと思う?」
ジェイスは眉をひそめた。
百年前、勇者が魔王を斃し、世界中の魔物は消滅した。
五十年前、嘆きの塔が現れ、再び世に魔物が生まれた。
邪神が現れるとともに世界に現れた魔物たち。
邪神はレイだ。
表情が険しくなるジェイスに、レイが抑揚のない声で告げる。
「私の醜い部分だ。勇者を忘れて平和を享受して生きる人々への憎しみ、恨み、棄てても棄てても胸の奥から湧き出でてくる醜い感情が、魔物となった。……わかるか、ジェイス。姿形が醜いだけじゃない。私は本当に邪神になってしまった。この世界に必要ない、斃されるべき存在に」
たくさんの赤い目がジェイスを見下ろしてくる。そこに宿る感情を読み取ることはできない。
「だったら何だよ」
荒々しく吐き捨てる。
「どうせ俺のために邪神になったくせに」
大聖堂の地下ダンジョンの幻覚で、あるいはいつかの夢の中で。かつて神であったレイの姿を見た。金髪に碧い目、やさしい風貌の光輝くうつくしい神。心を壊して、その姿を失って、邪神に身を堕としたと言うのなら、それは全部ジェイスのせいで、ジェイスのためだ。
そう、ジェイスのためだ。
いつかヴィエンヌとホザンナの二人が言っていた。レイの姿は、彼の状態がそのまま表れているのだと。
ではこの化け物の姿は。
「レイがその姿になったのも、俺のためか」
唐突に気付いて問いかければ、レイがたじろいだのが分かった。
大きな体にたくさんの目がある。どこからでもジェイスを見つけられるように。
背には翼がある。どこからでもすぐに駆け付けられるように。
たくさんの腕が生えている。今度こそジェイスを守ってやれるように。
「そこには何があるんだ」
肋骨の突き出た胸を指差す。全てジェイスのためならば、湾曲した骨が大きく突き出すその部分にも何かあるのではないか。
しばらく躊躇っていたレイの声が、囁くように、かすかに聞こえた。
「私の姿が変わってしまっても、この気持ちだけは、お前に信じてもらえるように」
ジェイスがレイに向かって歩み寄っても、今度は振り払われることはなかった。
「屈んでくれるか?」
邪神の眼前まで迫って言えば、レイは素直に膝を突いた。頽れたようでもあった。
骨が突き出ている胸の部分は、近くで見るとどろどろと絶え間なく黒い泥のようなものが流れていて、奥に何があるのかは見えない。生ぬるい泥に手を入れて掻き分けると、ほのかな光が漏れた。
光だ。醜く変わり果てた邪神の体の奥に、やさしくほのかに灯る小さな光があった。
姿が変わってしまっても、本質は変わらない。彼は光の神だった。
「ジェイス、見えるか、私の心臓はまだそこにあるか」
声が震えるのと同じように、頼りない光が小さく震える。それがジェイスの前で恥じらって震えるいつものレイの姿と重なって、ジェイスは微笑んだ。
「見えるよ。かわいいな」
思わず触れたくなって手を伸ばす。
指先がかすかに触れた瞬間、目の前が真っ白になった。
エスピアでは宿はいつも通りレイとジェイスとアメア、一人一部屋とった。朝食は外で食べようかと、ドアをノックして呼びかけても返事がない。レイは一人では滅多に眠らないようだし、ジェイスが声をかけても起きないほど熟睡しているとは考えにくい。
アメアと二人で呼びかけても応答がないため、宿の従業員にドアを開けてもらうと、やはり中にレイは居なかった。
部屋は綺麗なものだった。無理に連れ去られたわけではないようだ。もしもバドたちが強引にレイを連れて行ったなら、争いの形跡があるはずだ。
何か事件かと不安げな顔をする従業員に、朝のうちに出掛けたみたいだと愛想笑いで誤魔化して、二人はジェイスの部屋に戻った。
怪我が治ったばかりのジェイスを置いてレイがどこかへ行くとは思えない。
もしかして昨日ベッドでのしかかってキスまでしてしまったせいで愛想を尽かされたのだろうか。血の気がひく。浮かれている場合ではなかった。
「探しに行きましょう。ある程度遠くからでも見えますし、案外すぐ見つかるんじゃないですか」
「見えるって何が?」
ジェイスが軽く眉根を寄せると、逆にアメアの方が戸惑ったようだった。
「え……デカいので……」
「いやいくらなんでも……」
確かにレイは長身だが、ジェイスよりは小さい。山ではあるまいし、とても遠くから見えるほどではないが、不意に初対面の時に怯えていたアメアの様子を思い出した。
「アメアにはレイがどう見えてるんだ?」
「オレずっと疑問だったんですけど、ジェイスはマジであのひとのこと何も知らずに一緒に居るんですか?」
逆に訊ね返されて、ジェイスは答えに詰まった。レイが神であったことは聞いた。しかしアメアがどこまで勘付いているのかは知らない。レイの事情を、許可も無くべらべらと喋ってしまうのは気が引ける。
口ぶりからしてさすがに人間でないことには気付いているだろう。ジェイスは当り障りのない範囲で答える。
「レイが人間じゃないって話は聞いた。アメアにはどんな風に見えてるんだ」
重ねて訊ねると、アメアは口ごもり、渋い顔をしながらも答える。
「ひとの姿の方も見えてはいるんですけど……魔物でもあんなの見たことないです。身長がひとの倍くらいあって、真っ黒で……目がたくさんあって、手もたくさんあって、背中から無数の枝みたいな……やめましょう、オレのせいであなたが逃げちゃったらどうなることか」
「背中から枝?」
「やめましょう」
アメアはそれ以上答える気はないようだった。
化け物じゃん、と正直な感想が口をつきそうになって飲み込む。もしどこかでレイの耳に入るようなことがあったら、きっと彼は傷付いてしまう。
神だった。神性を剥奪された。レイからそんな話を聞いた。それがどういう意味なのかあまりピンときていなかったジェイスは、レイを今も神に近いものだと思っていた。
けれど、こういう意味だったのだろうか。神性を失ったレイの身体は、化け物へと変じてしまったのだろうか。
化け物の姿を目にしても、変わらずにレイを愛せるだろうか。
今のジェイスにはわからなかったが、逆にレイを愛していない自分というものが、最早想像できなかった。
レイはとても困っていた。
ジェイスのことが好きだ。
どんどん好きになる。
こんなはずじゃなかった。
だって、誰が考えただろう。五十年前だって、人間を滅ぼそうと考えてしまうほど、テオバルドのことを愛していたのに。
人間にそんな風に思いを寄せるなんて初めてのことだった。すべての人間を同じように愛していたから、その人間を虐げる魔王が許せず、打ち倒すために勇者を選んだのだ。
それなのに、大切だったはずの人間たちへの気持ちを見失ってしまった。
テオバルドへの想いは、それほどに大きく、頑なで、きっと自分は気が狂ってしまったのだと恐ろしくなったこともあるけれど、それでも抑えることができなかった。
それよりもっと好きになるなんて。怖い。
レイは本当にジェイスを幸せにしてやりたくて、テオバルドが得るはずだったすべてを手にして幸せになってほしくて、それだけ、それだけで満たされるはずだったのだ。
抱き寄せられると胸が高鳴って息苦しくなる。口付けなんかされたら、目の前にいるジェイスだけがこの世の全てみたいに思えてしまう。正しいことも、長く願っていたことも、何もかも忘れて、嬉しくて恋しくて少し苦しくて、体が動かなくなる。
これは本当によくないのではないか。
ジェイスを幸せにしてやるべきだ。そこにレイは必要ない。
ベッドに横になってまんじりともせずに朝を迎えた。
窓を叩くかすかな音がして目を向ければ、暗い面持ちのバドが立っていた。窓の外にバルコニーなどは無いが、どうやら壁の僅かな段差に立っているらしい。
レイは険しい顔で、窓辺に歩み寄った。
「我が主よ。お話をさせて頂けませんか」
「話すことなどない。私が天に戻ることは二度とない」
「戻らなくても構いません。あなたが地上で生きるのなら私も地上でお供します。私と来てくださいませんか」
その方がいいのかもしれない。そんな考えがふと過ぎる。
これ以上ジェイスと共に居たら、もっと好きになってしまうかもしれない。そんなのは困る。好きだという気持ちがどんどん積もっていって、心が破裂してしまう。
本当はジェイスの傍から離れたくはない。目を離した隙に彼にもしものことがあったら? 傍に居なければ守ってやれない。最近の彼は目に見えて強くなっているけれど、魔王を打ち倒すほどの強さを得た勇者だって死んでしまったのだ。人間の身体などいつどうなるかわからない。
何より、離れるなんて考えただけで胸が重く苦しくなって、喉がぎゅっと詰まる。
彼の金色の眼で見つめられることもなくなる。あの声が優しくレイを呼ぶ声も、レイの勝手に怒って責める声も、もう聴けなくなる。
彼の為ならすべてを捨てられるはずだったのに、惜しいと思ってしまう自分が居る。
「主よ、どうか」
必死な声で呼びかけてくるバドを、虚ろな目で見た。
ジェイスは強い。血を流しても怯まずに立ち向かっていく背中が瞼によみがえる。彼ならきっと、必ず、邪神を斃して英雄になる。レイが居なくても大丈夫だ。
すべてを捨てる覚悟を、もう一度しなければならない。
それが、レイがジェイスにしてあげられる全てだ。
外に出て、人を捜しているのだと聞いて回った。長い銀髪、壮麗な容姿に黒い毛皮のついたマントのレイは異常なまでに人目を引く。目撃情報がいくつも見つかり安堵したのも束の間、情報を辿って着いた先は駅で、信じられないほど気分が重くなった。
駅員に訊ねると、レイと思われる人物が、茶色の髪の長身の男と列車に乗って行ったのは間違いないらしい。ジェイスは膝から崩れ落ちそうになった。
「また痴話喧嘩したんですか?」
半ば呆れ顔のアメアに、ジェイスは苦々しい表情を浮かべる。
「……嫌とは言ってなかったけど、だめとは言われた……」
「オレ仲間のそういうのマジで聞きたくないんですけど」
言葉通り本当に嫌そうだったので謝るが、気落ちするジェイスとは対照的にアメアは平然としていた。
「荷物取ってきましょう。早く追いかけないと見失いますよ」
「逃げるほど嫌だったなら、追いかけていいのかな」
自信を失いかけるジェイスを、アメアが白い目で見てくる。
「あのひとがあなたを嫌いになるって? 本気で言ってるならレイに同情しますよ」
「いや……悪い。卑屈になった」
「はい」
そうだ、ジェイスに気持ちを疑われて涙をこぼしていたレイが、たった一度の過ちでジェイスを見限ることがあるだろうか。疑ったらまた泣かせてしまう。
ならどうして何も言わずに逃げるような真似をした?
そんなことは、直接会って聞かないとわからない。いつまでも落ち込んでいても仕方がないのだ。ジェイスだって、彼の口から直接事情を聞くまで、諦めることなどできはしない。
「よし、行くか!」
切り替えるように威勢よく口にした。
宿で荷物を引き上げてから列車に乗り、レイが向かったという終点駅へ向かう。そこで再び手当たり次第に彼を見ていないか訊ねると、また別の列車に乗って行ったという。そうして乗り継いで乗り継いで、夜に到着した駅で、アメアが声を上げた。
「あっちです!」
悪天候で汽車が遅れていたおかげが、ついにレイに追いついたようだ。人ごみを縫ってアメアの指示する方向へ向かうと、ちょうど汽車に乗り込もうとしているレイの姿を見付けた。
遠くからでもすぐにわかる。彼の周りだけ輝いて見える。もしかしたら本当に光を振りまいているのかもしれないとさえ思う。
「レイ!」
大声で呼び止めると、レイがはっとしてこちらを向いた。
「レイ」
やっと見つけたと胸を撫で下ろし、大股で歩み寄る。レイは何かを堪えるような顔をして目を逸らし、逃げるように列車に乗ってしまった。
「レイ!」
慌てて走るが、辿り着く前に列車が発車してしまう。これが今日の最終列車だというアナウンスが耳に入って、ジェイスは今度こそ頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
なんでだよ、小さく吐き出した声は、列車の走行音に掻き消されて誰にも届かなかった。
翌朝、二人は始発でレイの向かった先を追った。幸い列車は行き先が一か所しかない直行便で、目的地は嘆きの塔の立つ地、この国エルカイラズの中枢。首都ヴァレンテだ。
しかし、そこでレイの足取りは完全に途絶えてしまった。あんなに目立つ男が誰の目にも触れずに移動できるはずがないというのに、首都で下車したところを見たという駅員の証言が最後で、どれだけ聞き込みをしても何の手掛かりも得られなかった。
数日間レイを探して回り、疲労と無力感を覚え深々と溜息を吐く。賑わう酒場の喧噪が、今のジェイスにとってはまるで別世界のように感じられた。
丸テーブルの向かいに座ったアメアが、気落ちするジェイスをよそに酒と肉を注文する。
「俺あんま食欲ないんだけど……」
「そうですか。オレが食べます」
言葉に違わず、運ばれてきた肉料理をアメアは次々と口に運んだ。アメアは小柄な外見の割によく食べる。ジェイスも疲れている時には肉を食べたくなる方だが、今はちっともそんな気分になれない。
「明日も探すんなら、食べて力つけといた方がいいですよ。やつれた顔なんか見せたらあのひとまたおかしくなりますよ」
アメアのあけすけな言葉に、うつろな顔で小さく笑った。
出逢ってからずっとおかしかったがずっと可愛かった。あの美しくいかれた可愛い男は、今度は何を考えてどこに行ってしまったのだろうか。
今までにレイを迎えに来た、ヴィエンヌにホザンナ、バド、皆が一様に言っていた言葉がよぎる――天の園に帰ってきてほしい。ぞっとした。
レイはまだ地上に居るだろうか。もしも天に帰ってしまったなら、世界中を駆けずり回ったって見つからないではないか。
どんどんと顔が険しくなっていくジェイスに、アメアがいっぱいに頬張った肉を咀嚼し飲み込んでから口を開く。
「ジェイスから逃げているというより、誘導しているんじゃないかと思うんですけど」
「誘導?」
「本当に逃げる気だったら、あのひとなら誰にも見つからずに移動くらいできるんじゃないですか? わざと姿を見せていたなら、追いかけてほしかったってことです」
たしかにそうだ。それこそ天に帰るのならば、列車を乗り継いで移動する必要などない。きっと宿の部屋から直接天の園へ移動できるはずだ。ヴィエンヌとホザンナが突然現れたり姿を消したりしていたのだから、特定の場所からでないと帰れないというような制約もないだろう。
にわかに希望を見出すジェイスをちらりと見遣って、アメアがぼそりと言う。
「……諦める気はないんですか?」
急に何を言い出すのかと、ジェイスは耳を疑った。想定外すぎて言葉を見つけられないでいると、アメアが苦々しい顔で続ける。
「オレだってあんなやばいひと野放しにするよりは、ジェイスがずっと目を離さないでいてくれた方がいいと思いますけど。でももしもあの……顔が好きで容姿に目が眩んでるとかだったら……諦めるには今がいいタイミングだと思いますよ」
「考えたことない」
反射的に答えた後、もう一度しみじみと答えた。
「考えたことないな」
顔に釣られているのなら、化け物の姿を目にしたら幻滅するとアメアは考えているのかもしれない。
それでもやはりジェイスには、どう考えても諦めるという選択肢はなかった。
「そうですか」
アメアは溜息を吐き、あっさりと頷いた。彼も別に本気で言っていたわけではなさそうだ。最初からレイの化け物じみた姿が見えていてなお着いて来てくれたのだから、面倒見がいいのだろう。
夕食の後、宿で一人になったジェイスは、暗い部屋の中でベッドに仰向けに倒れて、必死で記憶を辿っていた。
レイのこれまでの言動の中に、彼が何を考え、どこに行ってしまったのか、ヒントがあるのではないか。
レイの言動は最初から一貫している。
ジェイスを愛している。だから邪神を斃して英雄になって嫁を娶って幸せになってほしい。ジェイスを侮辱することを許さず、ジェイスが怪我をすることに怯えた。いつもジェイスのことばかりだ。ジェイスはレイのことを何も知らない。もっと知る努力をしておけばよかった。
ジェイスはただ目の前にいるレイに夢中になるばかりで、過去がどうだとか、彼の置かれた状況なんかには全く気が回らなかった。
神だった。神性を失った。そういえば教会で怒っていた。あの時なんと言っていたか。
――そもそも私はこんな場所来たくなかった、空の天など崇める愚かどもが。
空の天、レイが地上に降りたことで、主人が居なくなった天の園。天の園が何なのか具体的に聞いたことすらなかったが、おそらく天にある神が住まう庭なのだろうとジェイスは思っている。
もしかして、教会から祈ったら天の園に届くのだろうか?
レイが天の園に帰ったとは思っていないが、この首都ヴァレンテでレイの足取りが忽然と途絶えてしまったのも事実だ。
ほかに手立ても思い浮かばない。明日、教会の門が開く時刻に真っ先に試しに行くことにした。
死ぬ夢を見た。いや、死ぬのはジェイスではない。あれは勇者テオバルドだ。魔王に付けられた傷が癒えず、ベッドに横たわって浅い呼吸をして、命が潰えるのを待っている。魔王が死の際に勇者に付けた傷は深く魂にまで達し、どんなに優れた治療術師でも治癒することはできなかった。
勇者が死を選んだのは、自責の念だったことを知っている。
人間を無差別に襲う魔物を殺し尽くした。つまり勇者は魔物を無差別に殺した。やっていることはどちらも同じだった。
人間を守るためには仕方なかった。けれど許されないことをした。許されないのは自分だけでいいと思った。
それが、光の神が傷を癒そうとしてくれたのを断った理由の、半分だ。
もう半分は、光の神だ。
自分が勇者になるのだと神託を受けた。光輝く眩しいそのひとの御前に跪いた。
あの瞬間からずっと、分不相応に、強く美しい光に恋をしていた。
初めて彼の前に跪いて使命を授けられ、その命を全うし再び彼にまみえた、褒めてもらった、それだけで今世のなすべきことはすべて終わってしまったのだ。
その後生きていっても、神にお目通りが叶うことなどもう二度とない。何十年と長い間、会うこともできない相手に狂いながら生きていくなんて、身を引き裂かれるよりも苦しい。
テオバルドがうつろな目で小さく呟く。
「いっそあなたの光が雷光となって、この身を貫いてくれたらいいのに」
今のジェイスには理解できる。
もう二度と会えないなんてとても耐えられない。
会いたい。
夢見が悪かったような気がするが、目覚めたジェイスは何も憶えていなかった。
レイが姿を消してから眠りが浅い。夜明けと同時に目覚め、待ちきれず教会に向かった。
つい先日まで夏の日差しが眩しかったような記憶があるのに、今はもう早朝は少し肌寒い。夏が終わろうとしている。図書館の中庭、木陰のベンチでレイと寄り添っていたのが、夢のように遠く感じる。
首都の教会は、バルタレティア大聖堂に負けず劣らず荘厳だった。城のようだ。尖塔が天に向かって高く突き出し、高い位置にあるバラ窓は光の神のシンボルである光輪を描いている。
閉ざされた門扉の前で開門を待っていると、朝の清掃に出て来たシスターたちに驚いた顔をされた。
「こんな早朝に、どうなさったんですか」
「あーと、お祈りがしたいんですけど、神様に声が届く場所?ってありますか?」
「まあ……。告解でしたらまだあと三時間ほどお待ちいただかないと……」
「そういうんじゃないんですけど、神様と直接お話したいっていうか」
自分でも一体何を言っているんだとは思うが、シスターも愛想笑いが困ったような顔になっている。
「神はいつでも信じる者のお声を聞き届けてくださいます。どうぞ光に向かって祈られてください」
そう言って手のひらで示されたのは天に昇る太陽だった。その眩しさに目を細める。そういうものなのか、それとも適当に誤魔化されただけなのか不明だが、ジェイスはシスターに礼を告げて教会から離れ、適当な建物の傍らで太陽を見上げ、目を瞑った。
レイ。聞こえる? 会いたい。迎えに行きたい。俺が居なくてもちゃんと眠れてる?
一瞬肌に静電気のようにピリッとしたものを感じて反射的に目を開くのと、雷が間近に落ちたような轟音が響いたのはほぼ同時だった。
この音には覚えがある。
記憶に違わず、陽光の下立っているのは二人の少女、ヴィエンヌとホザンナだった。祈りは別のところに届いたと言うべきか、はたまた天の園に正しく届いたと言うべきなのか。
褐色の肌に銀髪の少女、ホザンナは俯いて目元を両手で押さえていた。泣いている。一方で白い肌に金髪の少女、ヴィエンヌはジェイスを見るなり睨み付け、激しくなじってきた。
「あなた! あのお方が消えるようなことがあったら許しませんから! あなたの魂ごと消し飛ばして二度と生まれ変われないようにして差し上げます!」
「消えるようなことって何だ!? レイがどこに居るのか知ってるのか」
不穏な言葉に急き込んで訊ねると、ヴィエンヌはますます目を吊り上げた。
「知ってるのかじゃありません、早く行って差し上げてください、あのお方はあなたを」
そこで悔しげにぐっと唇を噤む。ホザンナが顔を上げ、涙声で呟いた。
「あなたを待っています」
そう言って見る視線の先には、高い塔が聳え立っている。
邪神が居る場所、旅の最終目的地である、嘆きの塔。
――嘆いているのは誰だ?
過ぎった疑問は、気付かないふりをして頭の隅に追いやった。
宿に戻り嘆きの塔へ行くと告げると、アメアは驚きに目を剥いた。
「はあ!? レイも居ないのに!? 二人でなんてさすがに無理ですよ!」
「でもレイがそこで待ってるって。迎えに行かないと。アメアが無理なら俺だけで行ってくる」
ジェイスはレイが関わると冷静な判断ができなくなる。ヴィエンヌとホザンナの様子を見るに、レイが嘆きの塔の外でのんびり待っているわけでもあるまいが、本当に一人でも塔に乗り込むつもりだった。
アメアが思い切り顔をしかめる。
「行きますよ。でも危なくなったらオレは一人でも逃げますからね」
「そうしてくれ。ありがとう」
そんな危機に直面したらジェイスもアメアを守っている余裕はなくなるかもしれないし、本当に逃げてくれるならその方がいい。けれど、なんだかんだここまで着いて来てくれたアメアが、ジェイスを見捨てて逃げられるような気がしなかった。
ジェイスは今すぐにでも嘆きの塔に向かう勢いだったが、アメアに宥められ、朝食を摂ってから向かうことになった。今度こそレイに会えるかもしれないと思うと急に腹の底から元気が湧いてきて、これから戦うためにも力を付けようと肉をパンに挟んで食べた。本当はもっとがっつり食べたかったが、満腹過ぎても動きにくくなる。
天高く聳える嘆きの塔は、遠くからでもよく見える。首都の中心に突如として現れた塔は、今では周辺一帯への一般人の立ち入りが禁止されていた。上級ダンジョンと同じく申請して許可を得る必要がある。
首都はどこも人が多い。灰色の石畳の道を、朝から大勢の人たちが行き交う。役所で塔への立ち入りを申請すると二人では許可できないと却下されてしまったので、ジェイスは無許可で塔へ向かうことにした。
立ち入り禁止区域には身長よりも高さのある黒い鉄柵がぐるりと囲み行く手を阻む上、観光名所と化して周囲は混雑している。これだけの人の目を掻い潜って中に侵入するにはどうすべきか。
悩むジェイスを横目で見上げ、アメアが無表情で言う。
「上から行きましょう」
「上?」
「この前、もったいないしせっかくだから配下を増やしたんです」
「配下?」
ジェイスは何も理解できていなかったが、アメアに言われるまま一旦その場を離れた。人目につかない場所が良いと言うので街はずれまで随分歩き、広い公園の一角が森のようになっている場所を見つけた。
「〈出でよ〉〈我が僕、双頭の翼〉」
手をすっと前に伸ばしたアメアの声に呼応して、黒い魔法陣が現れ、風が渦巻く。一瞬後には目の前に巨大な影が現れた。見上げるほど大きなそれは黒い鱗の双頭の竜で、伸びた首の片方がなく、隣に首が浮いている。
「あ!? あの時倒した竜!?」
上級ダンジョンで倒した双頭の竜だ。ジェイスが気絶した後、アンデッドとして配下にしたのだろう。バドに落とされた首が別の個体として浮かんでいるのが不気味とも滑稽ともとれて言葉に困った。
「行きましょう」
竜が首を下げてアメアが背に乗るのを助ける。ジェイスも背に飛び乗ると、すぐに竜が翼をはためかせ、宙へと舞い上がった。
「なんで首……」
「本体だけアンデッドにして離ればなれにするのも可哀想じゃないですか」
アメアなりに気を使った結果らしい。彼の倫理観はよくわからなかったが、今助けてもらっているのは事実なので、ジェイスはそれ以上何も言わなかった。
竜の飛翔速度だと塔まで一瞬だった。地上の人々がこちらを見上げて目を丸くして逃げ惑う。そのざわめきの上を通り過ぎて、黒い柵の内側へと着陸した。二人が地面に降り立つと、アメアが何か唱えて竜の姿が掻き消える。
急がないと恐らく警備隊がやってくる。ジェイスたちはすぐに塔の入口へと向かった。
突如として現れた塔のせいで打ち捨てられ、廃墟となった街並みを通り過ぎ、黒い石造りの嘆きの塔へと辿り着く。入り口の重厚な扉には精緻な彫刻が施されているが、壮麗と言うよりはどことなく不安を煽られるような禍々しい意匠で、嘆きの塔という名前を体現しているようだった。
「行こう」
扉を押すと、軋む音を立てて案外あっさりと開く。まるで招き入れられているようだと感じながら足を踏み入れると、後ろで勢いよく扉が閉まった。その音に驚いて、闇に閉ざされた中後ろを振り向くのと同時に、中に明かりが灯る。
壁面に等間隔に埋められた照明石が青白く光り、照らされた内部は凄惨な有様だった。
魔物が死んでいる。死んだ魔物が壁際に山と積まれ、開けられた中央部には黒い血の跡が残っていた。魔物を殺してからわざわざ道を開けたようにも見えた。魔物の独特の、泥のような血の匂いが鼻をつく。
アメアが怯えていないか心配になって見下ろすが、平然としていた。死霊術師として鍛えられた彼は、ジェイスよりよほど魔物の遺骸に慣れているのかもしれない。
黒い血を踏んで部屋を横切り、奥の階段へと進む。壁に沿って螺旋を描く階段を昇って行った先も、またその次の階も、似たような光景が広がっていた。
「……もしかして全部の階の魔物がすでに倒されてるのか……?」
「そうかもしれませんね……」
疑念に同意するアメアの声が暗い。
「大丈夫か? もし見たくなければ目つむっといてもらえれば担いで運ぶけど」
さすがに気分が悪くなってきたかと提案してみると、どこか呆れたような風情で首を振られた。
「大丈夫です。そんなことに体力使わないでとっといてください」
それからまた螺旋階段を上っては、魔物の山の間を通り抜け、また上へと向かう。十階分ほど上ったフロアで、魔物の死体の山の間に青年が座っているのが見えた。膝を立てうなだれる青年の隣には、黒い血まみれの大剣が床に突き立っている。
「……バド……?」
訝しみながら声を掛けると、バドがのろのろと頭を上げた。今にも死んでしまいそうな陰鬱な表情をしているが、怪我はないようだ。
「……どうしてあのお方はお前なんかのために」
開口するなり文句が飛び出し、苦々しい表情を浮かべる。
「あんたがレイを連れて行ったんじゃないのかよ」
ほんの数日の間に、驚くほど憔悴しきっているように見える。何があったのか、レイは無事なのか、焦る気持ちが浮かぶジェイスに、バドは皮肉気に笑って見せた。
「結局私はお前の代わりにはなれなかった。あの方が死んだらお前を殺して私も死ぬ」
誰も彼も似たようなことを言う。レイの身に一体何が起こっているのか。ここで喋っていても埒が明かない。道を急ぐことにして階段を進むと、アメアが気遣わしげに後ろを振り向いた。
「あのひと、大丈夫なんですか……?」
息が上がっている。アメアにはここまで上って来るだけでも重労働だっただろう。
「さあ。無事に邪神を斃せたら帰りに拾っていくか」
レイを連れ去ったと思われる相手に今は優しくできない。すべてはレイを取り戻してからだ。
そうして階段を上り切ると、目の前に黒い石の扉が現れた。これまでとは明らかに違う雰囲気に、気が引き締まる。
「ちょっと、ちょっといったん、休憩……」
息切れしているアメアに訴えられて、足を止める。階段に腰掛けたアメアが息を整えるのを待ちながら、ジェイスは大きな扉を見上げた。
この向こうにレイが居るだろうか。危ない目に遭ってはいないだろうか。また泣いていないだろうか。早く会いたい。その前に邪神と戦うことになるのかもしれない。上級ダンジョンのボスを倒すのにも満身創痍だった自分が、レイの助けも無く邪神を斃すことができるのか?
不安は無かった。妙な高揚感のようなものがある。レイを取り戻すためならば、邪神でもなんでも殺せると思った。
「お待たせしました。行けます」
「ああ」
扉を押す。塔の入り口の扉と違い、ずっしりとした重さを感じた。
開いた扉の向こうは暗く、静寂に満ちている。ちらちらと小さく光っているのは照明石なのかもしれないが、星が瞬いているようでもあった。
扉の先へ足を踏み出そうとして、踏み止まる。隣でアメアも小さく悲鳴を上げた。足元には床が無く、はるか下で波が揺らいでいるのが見える。
「なんだ!?」
まるで海の上だった。ここまで上って来たのだから、下が海であるはずもないのに。上級ダンジョンが森の中だったのと同様、ここも常識が通用しない異空間なのだろう。
「あ、いちおう床はあるんですね」
恐る恐る足を伸ばしたアメアが、透明度の極端に高いガラスのような足場があることに気付いた。
「ほんとだ」
眼下で波打つ海面のせいでわかりにくいが、よく見れば、透明な床が明かりを反射している。二人が中へ入ると扉が閉まり、圧迫感が消えたように感じて振り向くと扉が消えていた。
「進むしかないってことか」
元より退く気もないのだから同じことだ。
まるで夜空に浮くような空間に、道を示すものは何もない。壁も天井も見えない。足元が波打っているのに波の音も聞こえず、生命の気配が感じられない。月明かりもない夜の海の真っ只中に放り出されたような、不安な心地になった。
不意に遠くがかすかに明るくなり、二人の視線が同時にそちらを向く。
「あっちか」
気が急いて早足になる。後ろからアメアが小走りで着いてくるのが足音でわかる。
月明かりのようなほのかな光の下、朽ちた神殿のような白い柱が何本も突き出していた。その間、椅子に座る青年が闇に浮かび上がる。
「レイ!」
探し求めていた姿に、ジェイスが明るい声を上げた。
白い肌に淡く輝く白銀の髪、しなやかな体を覆うぴったりとした衣服、黒い毛皮のついたマント。見慣れた姿のレイが、黒い豪奢な椅子にけだるく腰掛けたまま、うっすら笑う。
「ジェイス。よく来てくれた」
「大丈夫だったか? どうして俺を置いて――」
何かおかしいな、と気付いた。
レイが座っている場所は数段高い場所で、まるで玉座にでも腰掛けているようだ。何でそんな、まるで塔の主のような態度で待ち構えている?
「どうして俺を置いて行ったんだ」
探るような声になった。レイが立ち上がる。軽く両手を広げる仕草が、演技がかって見えた。
「私こそがこの塔の主、邪神である。お前は邪神を斃して英雄になるのだ!」
「……何を言ってるんだあんたは」
頭からすーっと血の気が引いて冷静になっていく。レイは両手を広げたままきょとんとした、無垢な顔で首を傾げた。
「本当に気付いていなかったのか? この世に神と名の付くものは、正であれ邪であれ私しか居ない」
「いや知らないし、もしかして最初からそのつもりで一緒に居たのか」
「そうだ」
レイは悪びれもせず頷く。
最初からジェイスに殺されるつもりで?
ジェイスのことを愛していると言い、英雄になって女と結婚して幸せになれと勝手な願望を押し付け、ジェイスが怪我をしただけで取り乱し、抱き寄せられて頬を赤く染めていた、全部、最後には、殺されるつもりで。
どこまでも勝手なことを言う男に、猛烈に腹が立ってきた。
ジェイスはレイのことを好きだと言っているのに、彼はジェイスの幸せに絶対に自分を数えようとしない。
ジェイスはずっとレイがいいのだと、英雄だとか女だとかそんな絵に描いたような幸せなど望んでいないから、レイに傍に居てほしいのだと言っているのに。
「俺はレイを殺すつもりはない。レイが邪神だっていうなら旅はこれで終わりだ。帰るぞ。あんたも一緒にだ」
語気が荒くなる。レイはジェイスを睥睨し、ゆっくりと階段を下りて来た。
「お前は邪神たる私を斃さなければならない。さもなくばこの世界を滅ぼしてしまうぞ」
「何を――」
「私にはできないと思っているのか?」
レイがゆるやかに片手を上げると、ちかっと何かが瞬き、凄まじい轟音が鳴り響いた。アメアが悲鳴を上げて二人の上に障壁を張るのと同時に、黒い空のように見えていた天井に亀裂が走り、崩落した。落下した瓦礫が、障壁に弾かれては床に激突する。
塔の上部がすっかり崩れ、本当の空が頭上に広がる。昼間のはずの外は暗く、雲も無いのに太陽が見えない。そこもまだ異空間なのかと疑うが、外には竜の背から見たのと同じ街並みが広がっていた。
レイが上げていた手を軽く振り下ろすと閃光が走り、街並みの向こう、遠くに見える山に雷が落ちて、半分ほどが消し飛んだ。その光景を見ているアメアは顔色を失っている。
「お前が私を殺さないのなら次は街だ。私は構わないぞ。人間などどうなったって」
「なんでだよ、なんでこんなこと」
「言っただろう。私はお前を英雄にして幸せにしてやりたいんだ」
「俺だって言ってんだろ。そういうのいらないからレイさえ居てくれたらいいって」
「だって」
それまで淡々と喋っていたレイの顔が悲しげに歪む。この期に及んで嫌だと思う。そんな顔をさせたくはないのだ。
「だって、私が奪ってしまったんだ。本当ならお前が得られるはずだった幸せを」
ジェイスの眉がぴくりと跳ね上がる。レイは苦しげに吐露を続ける。
「本当ならお前は幸せに生きられるはずだった、女と結婚して、子供を作って、やがては孫に囲まれて、老いて死ぬ。私が奪った。私が選んだんだ。私がお前を勇者に選んだ」
レイの目元が悔しげに歪み、呼吸がひきつる。
「……私が選ばなければ……」
赤い瞳から涙が零れる。
ずっとそんな自責の念にかられていたのか。瓦礫の向こうに立つ姿が、たった今山を破壊したとは思えないほど頼りなく見える。
「でも、あんたはもう知ってるだろ。俺と勇者は別人だ」
悲しみに震える体を抱き締めてやりたい。ジェイスが一歩踏み出すと、レイは怯えたように一歩下がった。
「ジェイス。この姿だとやりにくいか? これならいいだろう」
レイが瞳に涙を湛えたまま、暗い顔で笑う。その体が一瞬で膨張し、作り替わる。目の前で何かが起こっているのに、うまく知覚できない。まさに神の領域を覗き込んでいるようだった。
ぐらりと眩暈がして、次に視界が戻った時には、目の前には巨大な化け物が立っていた。
アメアが言っていた通りだ。光を吸い込んで反射しない真っ黒な体で、体高はジェイスの倍ほどもある。頭部には赤い眼球がいくつも浮かび、胸元から肋骨のような湾曲し尖った骨が突き出している。胴体の左右からは骨のような細い腕が何対も生えていた。背中からは枯れ枝のようなものが生えているが、羽根の抜け落ちた翼のようにも見えた。
さすがに目にすると衝撃が強い。赤い目が揃ってこちらを見ると、冷や汗が出る。
けれど嫌悪感はなかった。
「レイ。俺がそれでびびると思ってるのか」
返事はない。ぱっと空中で何かが光り、体は殺気に勝手に反応してその場から飛び退った。一瞬前までジェイスの立っていた場所に、光の矢が突き刺さる。
「レイ!」
応戦するため、仕方なく黒い剣を抜いた。
「アメアは下がって見ててくれ!」
返事がないので肩越しにちらりと見遣ると、すっかり気圧されたアメアが顔面蒼白でこくこくと頷いていた。
レイの方から、あるいは天から、雷光がジェイスを狙って降り注ぐ。瓦礫に足を取られそうになりながらも走って避け、剣で弾いた。
「レイ、やめてくれ、俺はあんたと戦う気はない!」
近付こうとすると、腕で振り払われる。風圧だけで吹き飛ばされそうだった。
悲しみと苛立ちが入り混じる。
レイはいつもそうだ。ジェイスのことを愛していると言いながら、ジェイスの話なんか少しも聞きやしない。
こんなに好きなのに。愛しているのに。
生まれる前からずっと。
「また俺に、死ぬまであんたに焦がれて生きろって言うのか!」
ほとんど怒鳴るように吐き出すと、絶え間なく降っていた雷が収まった。急に訪れた静寂、雷鳴の余韻がまだ耳の中にじんじんと残っている。
「お前は」
どこから響いているのかわからないが、レイの声だった。それこそ天啓のように、頭の中に響いてくる。
「魔物がどうやって生まれるのか知っているか?」
「……何の話だ」
急に何の話を始めるのかと訝るジェイスに構わず、レイが続ける。
「原始、私が生き物を創った時、うつくしいものを創りたくて、醜い部分は切って捨てた。その捨てた筈の醜い部分、憎しみや争いを好むものが、魔物になって増えていってしまった。そうやって生まれた魔物たちは勇者に一掃されたが、では、現存する魔物は何がもとだと思う?」
ジェイスは眉をひそめた。
百年前、勇者が魔王を斃し、世界中の魔物は消滅した。
五十年前、嘆きの塔が現れ、再び世に魔物が生まれた。
邪神が現れるとともに世界に現れた魔物たち。
邪神はレイだ。
表情が険しくなるジェイスに、レイが抑揚のない声で告げる。
「私の醜い部分だ。勇者を忘れて平和を享受して生きる人々への憎しみ、恨み、棄てても棄てても胸の奥から湧き出でてくる醜い感情が、魔物となった。……わかるか、ジェイス。姿形が醜いだけじゃない。私は本当に邪神になってしまった。この世界に必要ない、斃されるべき存在に」
たくさんの赤い目がジェイスを見下ろしてくる。そこに宿る感情を読み取ることはできない。
「だったら何だよ」
荒々しく吐き捨てる。
「どうせ俺のために邪神になったくせに」
大聖堂の地下ダンジョンの幻覚で、あるいはいつかの夢の中で。かつて神であったレイの姿を見た。金髪に碧い目、やさしい風貌の光輝くうつくしい神。心を壊して、その姿を失って、邪神に身を堕としたと言うのなら、それは全部ジェイスのせいで、ジェイスのためだ。
そう、ジェイスのためだ。
いつかヴィエンヌとホザンナの二人が言っていた。レイの姿は、彼の状態がそのまま表れているのだと。
ではこの化け物の姿は。
「レイがその姿になったのも、俺のためか」
唐突に気付いて問いかければ、レイがたじろいだのが分かった。
大きな体にたくさんの目がある。どこからでもジェイスを見つけられるように。
背には翼がある。どこからでもすぐに駆け付けられるように。
たくさんの腕が生えている。今度こそジェイスを守ってやれるように。
「そこには何があるんだ」
肋骨の突き出た胸を指差す。全てジェイスのためならば、湾曲した骨が大きく突き出すその部分にも何かあるのではないか。
しばらく躊躇っていたレイの声が、囁くように、かすかに聞こえた。
「私の姿が変わってしまっても、この気持ちだけは、お前に信じてもらえるように」
ジェイスがレイに向かって歩み寄っても、今度は振り払われることはなかった。
「屈んでくれるか?」
邪神の眼前まで迫って言えば、レイは素直に膝を突いた。頽れたようでもあった。
骨が突き出ている胸の部分は、近くで見るとどろどろと絶え間なく黒い泥のようなものが流れていて、奥に何があるのかは見えない。生ぬるい泥に手を入れて掻き分けると、ほのかな光が漏れた。
光だ。醜く変わり果てた邪神の体の奥に、やさしくほのかに灯る小さな光があった。
姿が変わってしまっても、本質は変わらない。彼は光の神だった。
「ジェイス、見えるか、私の心臓はまだそこにあるか」
声が震えるのと同じように、頼りない光が小さく震える。それがジェイスの前で恥じらって震えるいつものレイの姿と重なって、ジェイスは微笑んだ。
「見えるよ。かわいいな」
思わず触れたくなって手を伸ばす。
指先がかすかに触れた瞬間、目の前が真っ白になった。
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