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………ガチャっ…キィー………パタン……
「……ふぅー………」
やっと経理部の案件が終わって晴れて自由の身となれた今日、私はまたこの喫煙所のドアを潜った。
システム開発課のある8階はこのビルの最上階で、社長室と応接室が隣接する階になっている。そのため床は質のいい大理石で埋められ、化粧室も喫煙所も重厚感あふれるきれいで上品な作りとなっていた。他の階の社員からも羨望の眼差しで見られてはいるが、わざわざ8階の、それも社長も利用する化粧室を使いに来ようとする強者はいないため、使用人数も少なくとてもきれいに保たれている。それは喫煙所も同じで、今日も私は自身が持ち込んだソファに横になっているのだ。今日は床に缶コーヒーを置いてヒールも脱いで、スカートだろうがお構いなしに足を上げる。今度からフロア内はスリッパにしようかな、もこもこのやつ、なんて考えながら。
今回、経理部の案件が思ったより手間取ったのは、数字の整合性チェックに時間を取られてしまったからだ。もっとその辺りを鍛えないとなぁなんて反省しているうちに、とろとろと睡魔が襲ってくる。今はまだ夕方だし、流石にこのまま寝入るのはまずいだろうと思いながらも思考回路は蕩けていく…
ガチャッ……
「…僕も入っていいかな?穂ちゃん」
「ぅえ…っ、ふ、冬木部長…?!」
突然の来訪に眠気なんてすっ飛んで行った。「あ、ごめん。寝てた?」なんて聞いてくるその爽やかな笑顔と相反して、私の顔は青白くなっていく。就業時間は過ぎているが、それでも会社でうたた寝なんてあまり良いものではない。しかもソファまで持ち込んでいることが他部署の部長にバレてしまった。これはいけない。
「す、すみません…」
「ん?なんで?お疲れだったね。横山くんが言ってたよ、経理部との大きな仕事が終わったって」
「は、はぁ…」
ソファの存在には目もくれず「隣、座っていい?」と声をかける冬木部長に、一つ頷いてから腰をずらす。二人はいつの間にそんなことまで話す仲になっていたのか。先日の蒼汰くんの反応からも、冬木部長と一緒に仕事をする中で何か思うところがあったのだろうなと考えていたが、まさか私の話までしているとは思わなかった。
「僕さ、君とちゃんとゆっくり話したかったんだ。なのにバタバタして時間が取れなくて…きっと、有耶無耶にして確信を言わないずるい男と思ったよね…」
「そ、そこまで思ってないですけど……」
というかむしろ忙しかったのはお互い様でそこまで貴方のことを考えてなどいなかった、なんて言えない雰囲気がそこにはあった。けれど、私の表情から読み取れてしまったのか、冬木部長は小さくため息をこぼした。
「…君はそうかもしれないけど、僕はずっともどかしかったんだよ。やっと少し話せる距離になったかと思ったのに時間は取れないし、そもそも僕は君の連絡先すら知らないのが辛くてね」
「え?いや、連絡先くらいどうとでもなるのでは…」
「楓先輩とか、蒼汰くんに聞いてもらっても…」なんて言いながら冬木部長の顔を見たら、とても先を続けることなどできなかった。物凄いジト目で見てくるんだな、この人。
「僕は君の手から直接連絡先を貰いたかったんだよ。電話番号の一つでも分かっていたら、土日デートに誘うことだってできたのにって。何度ももどかしい休日を過ごしていたなんて君は知らないんだろう」
拗ねた口調でそう言う冬木部長に目を見開く。この人は仕事に厳しくてもっとクールな人なのだと思っていたけど、こんなにも色々な表情を見せる人だったのか。同時に、拗ねた様子が少し可愛く思えて笑ってしまった。
「…君はそうやってくすくす笑うけど、本気なんだよ。でも全部自分で撒いた種だから、拗ねる資格もないんだけどね」
そう言うと冬木部長もふふっと笑った。
ふと彼の右手が伸びてきて私の左手を掴む。驚きはしたが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。この人はいつもこうやって人と、女性と、距離を詰めるんだろうか。
「…僕のこと、いつもこうする奴なのかって思ってる?」
「ええ?…う、あ…はい…」
「僕は、君がいつもこうされてるのかなって思ってるよ」
「え?」
「だって、ちっとも動揺してないでしょ?」
動揺してないなんてことはないのに、こちらを見つめる眼差しに耐えるのが精一杯だった。突然「ほら、何にも知らないでしょう?」と聞かれたその言葉に、一拍遅れて反応する。
「僕のこと、君にもっと知ってもらいたい。僕は君のことがもっと知りたいんだ」
優しい顔でそう言われて、頷き返した。
「え、冬木部長一人っ子なんですか?」
「そうだよ。だから兄弟がいる感覚って知らなくてね。…穂ちゃんは兄弟いるの?」
「あー…うちは多い方かと。私の上に4人の兄がいます」
「4人も?男ばっか?それはなんとも、賑やかそうだね」
私のことを知りたいと言った先輩は言葉通り、色々質問をして自分の話もしてくれた。実は甘いものには目がないこととか、コーヒーが苦手なこと等、思いもよらない話に私も楽しくなる。取引先で苦いコーヒーを出されるのが非常に苦行だなんてことを話されると思わず笑ってしまった。確かにこの顔で「砂糖ください」とか似合わないなぁ、なんて失礼なことを思う。
「1人目の兄とは年が10離れていて…あ、そういえば部長、この前会いましたよね?4つ上で4人目の兄に」
「…この前って、エントランスであった彼のこと?"たける"って呼んでた…」
あの長身二人に囲まれた時のことが思い出される。あの時は威圧感が半端なかったなぁなんて考えていると、突然冬木部長が項垂れた。
「…なぁんだ、そうだったんだ。僕は、てっきり………」
「え?」
私の手を握るのはそのままに、空いている手で顔を覆った冬木部長は大きく息を吐いた。
「冬木、部長…?」
「…あの日、堂々と君を迎えに来られる彼が…僕は心底羨ましかった」
表情は見えなくても、寂しそうな声を出す冬木部長に私の胸の中もピリリと痛む。
「僕も、君に名前を呼んでもらいたい…」
私の手をぎゅっと握り込む彼を見て、その手を離すことができずにいた。離したいとも思わない自分に少しの戸惑いを感じる。こんな感覚は初めてだ。
そんな私の様子に、目元を寂しそうに歪めて冬木部長は手を離した。
「…ごめん、困るよねそんなこと言われても。いいんだ君と、こんな風に話ができただけで…僕はすごく嬉し…」
パシッ
離れていく手を今度は私の手が掴む。
「穂ちゃん…?」
「い、嫌だったとかじゃないんです。手も、その…冬木部長がおっしゃったことも。ただ……」
仕事の時ならすらすらと出てくる言葉が、喉の奥に詰まって苦しそうに藻掻いている。この胸に渦巻く気持ちとは、こんなにも辛く苦しいものだったかと呑まれていく私がいた。
「うん。ゆっくりでいいから、教えて?」
感情の渦に藻掻く私を救い出すような優しい声に、視界が晴れ渡るような気がした。
「…まだちゃんと分かっていないんです。冬木部長のこと。こうやって、手を繋ぐのも…誰にでもするのか、それとも私だけなのか」
「…うん」
「な、なのでまずはお名前と…連絡先、教えて下さい」
絞り出したような私の声に優しく、それも嬉しそうな笑顔で返してくれた冬木部長にまた私の胸がとくりと鳴った。
『冬木克己』と書かれたアドレス帳を閉じてふと顔を上げると、満面の笑みでスマホを眺める冬木部長が目に入って思わず苦笑する。私ごときの電話番号がそんなに喜んでもらえるなんて。
「ねぇ、穂ちゃん」
「?はい」
「さっき言ってたさ、デート、しない?」
「で、デート?」
「もっと僕のことを知って、僕のことを考えて。それから僕の名前を呼んでほしい」
「ふ、冬木部長…」
「そしたらきっと、こんな風に手を握るのは君だけだって、伝わると思う」
部長がふふふと笑ったとき、見知った電子音が喫煙所に鳴り響く。
prrrr……prrrr…
「っごめん。僕だ………はい、冬木。………うん、うん……大丈夫。君ならできるよ。……そう。分かった、すぐ戻るね」
「…お忙しいのに、時間をとってすみません」
「ううん。ほんとはもっと話したかったけどね」
「また連絡するよ」そう言って仕事へと戻っていった冬木部長に、私は手を振ることしかできなかった。結局片思いうんぬんの話は聞けなかったが、私のことを少なからず思ってくれていることは言葉尻や表情、繋いだ手の温もりからなんとなく分かる。けれど違和感が抜けないのは、どうしても過る楓先輩の言葉と、それに…さっきの電話の相手。あの声は、多分…
「金本さん、だよなぁ…」
同じ部署で上司と部下なんだから、連絡が来て当たり前だろうと思う自分がいる。ここは会社だ。仕事が優先に決まっているし、私が彼の立場でもそうする。
―…大丈夫。君ならできるよ。……分かった、すぐ戻るね…―
部下を信じて部下に頼られるなんて上司の鏡じゃないか。仕事のできる人は純粋に尊敬する。そんな風に思うくせに、その一つ一つが言い訳めいているような気がして自分に嫌気がさす。
―女たらしのどクズだから―
人の噂話を信じる質でもないが、楓先輩は嫌いだからって嘘をついて貶めるようなことはしない人だ。そう思わせる所以が彼にあるのも違いないのだろう。だからこそ、さっきまで隣にいた彼の言葉が揺るぎない真実だと思いきれない。ああいう言葉を今までにもかけてきたのだろうか。そんな優しい言葉を私以外に…っ
「…ははっ…なにを、馬鹿なことを」
今そんなことを考えても無駄だと思い直す。私も後片付けをしたら帰ろうとソファから体を起こした。
『今週の日曜日、君に会いたいな』
「いや、だから文言よ。言葉のチョイスよ。だからたらしなのよ。分かんないかなぁあいつは」
次の日、朝早くに来た冬木部長からのメッセージになんて返信しようかと思っていたとき、たまたま後ろを通った楓先輩にそれを見られてしまい、案の定顔を歪めた先輩の毒づきが始まった。
「仮に、『映画でも行かない?』って内容でもどん引きますけどね」
「あー引く引く引きまくる。どこまでも引ける。映画って中学生かよ」
「何見ます?特撮?」
「だーっはっはっ!蒼汰やめて!胃がよじれる」
「二人とも特撮映画と中学生に謝りなさい」
蒼汰くんまで途中参戦してきて「いや別に映画に罪はないのよ?」「特撮って普通に俺好きですし、今でも見に行きますし」「中学生恋愛もどんと来いよ」なんて言う二人に呆れてため息が出る。それただ冬木部長だから悪口言ってるんじゃないの。でもそこまで言うなら…
「蒼汰くんならなんて誘うの?」
「俺ですか?俺はいつも場所と時間を端的に…」
「「は?」」
「だから、『12時、駅前東口』みたいな」
「うわぁ…ないわ~。小学生かよ」
「ないない。それはなさすぎる」
「聞いといてなんなんすか、それ、二人して」
「どんな傲慢ジャイアンだよ。敗北って2文字知ってる?」
「なんでそんな上からなの。蒼汰くんの中には断られるっていう心配はないの?」
「はぁ?断られたことなんてないっすけど」
「こいつとんだ坊っちゃんじゃねぇか」
「マンガでしか聞かないセリフですね」
「パンがなければブリオッシュでも食ってろってか」
「ルイ16世も驚きの生まれ変わりかな?」
「…俺そこまで言われなきゃいけませんか」
「仕事しようか、穂」
「そうですね、先輩」
「なんなんすか、ねぇ!」
「男ってのはどうしてこうもこじらせるかね~」と楓先輩は言いながら、デスクに座り仕事を始めた。私もイヤホンを耳にかけようとした。なに聞こうかな。あーでもまずは返事しなきゃなぁ…
「…で、穂先輩は断るんすか?」
「え?」
「断るつもりで悩んでるんですか?」
蒼汰くんに言われてドキリとする。そうだ、私は何に悩んでいるんだろう。会うか会わないかの二択で、特に悩む程言葉があるわけでもないのに。仮に、自分の気持ちの整理がつかないことに困って返事を悩んでるなんて相談をしても、受ける方の答えなんてもはや決まってる。私が受け手でも決まって答える。だってそんなことを悩むってことは……
「…なーにちゃっかり気にしてんのよ。穂の答えなんてもう出てんじゃないの。鈍いわねぇ」
「え?なんすか答えって」
「そもそも蒼汰は人にかまけてないで今までの自分を反省なさい」
「はぁ?待ってくださいよ楓先輩。俺別に何も悪いことしてないっすから。女を泣かせたこともないし」
「かぁーっ!山田くん!座布団全部もってって!!」
「なんでいきなり笑点なんすかもう」
「わけわかんねぇ」と言いながら蒼汰くんもヘッドホンを着けて仕事モードに入ったので私も笑って返したけれど、それが思ったよりも乾いた笑いだったので今度は楓先輩が声を出して笑って言った。
「"会わない"ってすぐに返事しないってことは、"会いたい"ってことでしょ?答え、顔に書いてあるわよ」
そう言った先輩はピシリと固まる私を余所に、くくくっと笑った。その後鳴った電話を取った数秒後に、また雄叫びを上げていたけど。この無言電話もそろそろなんとかしないと、楓先輩がぶっ飛んでしまうなぁと思いながら、仕事の前に返信をすべくメッセージ画面を見つめた。
「……ふぅー………」
やっと経理部の案件が終わって晴れて自由の身となれた今日、私はまたこの喫煙所のドアを潜った。
システム開発課のある8階はこのビルの最上階で、社長室と応接室が隣接する階になっている。そのため床は質のいい大理石で埋められ、化粧室も喫煙所も重厚感あふれるきれいで上品な作りとなっていた。他の階の社員からも羨望の眼差しで見られてはいるが、わざわざ8階の、それも社長も利用する化粧室を使いに来ようとする強者はいないため、使用人数も少なくとてもきれいに保たれている。それは喫煙所も同じで、今日も私は自身が持ち込んだソファに横になっているのだ。今日は床に缶コーヒーを置いてヒールも脱いで、スカートだろうがお構いなしに足を上げる。今度からフロア内はスリッパにしようかな、もこもこのやつ、なんて考えながら。
今回、経理部の案件が思ったより手間取ったのは、数字の整合性チェックに時間を取られてしまったからだ。もっとその辺りを鍛えないとなぁなんて反省しているうちに、とろとろと睡魔が襲ってくる。今はまだ夕方だし、流石にこのまま寝入るのはまずいだろうと思いながらも思考回路は蕩けていく…
ガチャッ……
「…僕も入っていいかな?穂ちゃん」
「ぅえ…っ、ふ、冬木部長…?!」
突然の来訪に眠気なんてすっ飛んで行った。「あ、ごめん。寝てた?」なんて聞いてくるその爽やかな笑顔と相反して、私の顔は青白くなっていく。就業時間は過ぎているが、それでも会社でうたた寝なんてあまり良いものではない。しかもソファまで持ち込んでいることが他部署の部長にバレてしまった。これはいけない。
「す、すみません…」
「ん?なんで?お疲れだったね。横山くんが言ってたよ、経理部との大きな仕事が終わったって」
「は、はぁ…」
ソファの存在には目もくれず「隣、座っていい?」と声をかける冬木部長に、一つ頷いてから腰をずらす。二人はいつの間にそんなことまで話す仲になっていたのか。先日の蒼汰くんの反応からも、冬木部長と一緒に仕事をする中で何か思うところがあったのだろうなと考えていたが、まさか私の話までしているとは思わなかった。
「僕さ、君とちゃんとゆっくり話したかったんだ。なのにバタバタして時間が取れなくて…きっと、有耶無耶にして確信を言わないずるい男と思ったよね…」
「そ、そこまで思ってないですけど……」
というかむしろ忙しかったのはお互い様でそこまで貴方のことを考えてなどいなかった、なんて言えない雰囲気がそこにはあった。けれど、私の表情から読み取れてしまったのか、冬木部長は小さくため息をこぼした。
「…君はそうかもしれないけど、僕はずっともどかしかったんだよ。やっと少し話せる距離になったかと思ったのに時間は取れないし、そもそも僕は君の連絡先すら知らないのが辛くてね」
「え?いや、連絡先くらいどうとでもなるのでは…」
「楓先輩とか、蒼汰くんに聞いてもらっても…」なんて言いながら冬木部長の顔を見たら、とても先を続けることなどできなかった。物凄いジト目で見てくるんだな、この人。
「僕は君の手から直接連絡先を貰いたかったんだよ。電話番号の一つでも分かっていたら、土日デートに誘うことだってできたのにって。何度ももどかしい休日を過ごしていたなんて君は知らないんだろう」
拗ねた口調でそう言う冬木部長に目を見開く。この人は仕事に厳しくてもっとクールな人なのだと思っていたけど、こんなにも色々な表情を見せる人だったのか。同時に、拗ねた様子が少し可愛く思えて笑ってしまった。
「…君はそうやってくすくす笑うけど、本気なんだよ。でも全部自分で撒いた種だから、拗ねる資格もないんだけどね」
そう言うと冬木部長もふふっと笑った。
ふと彼の右手が伸びてきて私の左手を掴む。驚きはしたが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。この人はいつもこうやって人と、女性と、距離を詰めるんだろうか。
「…僕のこと、いつもこうする奴なのかって思ってる?」
「ええ?…う、あ…はい…」
「僕は、君がいつもこうされてるのかなって思ってるよ」
「え?」
「だって、ちっとも動揺してないでしょ?」
動揺してないなんてことはないのに、こちらを見つめる眼差しに耐えるのが精一杯だった。突然「ほら、何にも知らないでしょう?」と聞かれたその言葉に、一拍遅れて反応する。
「僕のこと、君にもっと知ってもらいたい。僕は君のことがもっと知りたいんだ」
優しい顔でそう言われて、頷き返した。
「え、冬木部長一人っ子なんですか?」
「そうだよ。だから兄弟がいる感覚って知らなくてね。…穂ちゃんは兄弟いるの?」
「あー…うちは多い方かと。私の上に4人の兄がいます」
「4人も?男ばっか?それはなんとも、賑やかそうだね」
私のことを知りたいと言った先輩は言葉通り、色々質問をして自分の話もしてくれた。実は甘いものには目がないこととか、コーヒーが苦手なこと等、思いもよらない話に私も楽しくなる。取引先で苦いコーヒーを出されるのが非常に苦行だなんてことを話されると思わず笑ってしまった。確かにこの顔で「砂糖ください」とか似合わないなぁ、なんて失礼なことを思う。
「1人目の兄とは年が10離れていて…あ、そういえば部長、この前会いましたよね?4つ上で4人目の兄に」
「…この前って、エントランスであった彼のこと?"たける"って呼んでた…」
あの長身二人に囲まれた時のことが思い出される。あの時は威圧感が半端なかったなぁなんて考えていると、突然冬木部長が項垂れた。
「…なぁんだ、そうだったんだ。僕は、てっきり………」
「え?」
私の手を握るのはそのままに、空いている手で顔を覆った冬木部長は大きく息を吐いた。
「冬木、部長…?」
「…あの日、堂々と君を迎えに来られる彼が…僕は心底羨ましかった」
表情は見えなくても、寂しそうな声を出す冬木部長に私の胸の中もピリリと痛む。
「僕も、君に名前を呼んでもらいたい…」
私の手をぎゅっと握り込む彼を見て、その手を離すことができずにいた。離したいとも思わない自分に少しの戸惑いを感じる。こんな感覚は初めてだ。
そんな私の様子に、目元を寂しそうに歪めて冬木部長は手を離した。
「…ごめん、困るよねそんなこと言われても。いいんだ君と、こんな風に話ができただけで…僕はすごく嬉し…」
パシッ
離れていく手を今度は私の手が掴む。
「穂ちゃん…?」
「い、嫌だったとかじゃないんです。手も、その…冬木部長がおっしゃったことも。ただ……」
仕事の時ならすらすらと出てくる言葉が、喉の奥に詰まって苦しそうに藻掻いている。この胸に渦巻く気持ちとは、こんなにも辛く苦しいものだったかと呑まれていく私がいた。
「うん。ゆっくりでいいから、教えて?」
感情の渦に藻掻く私を救い出すような優しい声に、視界が晴れ渡るような気がした。
「…まだちゃんと分かっていないんです。冬木部長のこと。こうやって、手を繋ぐのも…誰にでもするのか、それとも私だけなのか」
「…うん」
「な、なのでまずはお名前と…連絡先、教えて下さい」
絞り出したような私の声に優しく、それも嬉しそうな笑顔で返してくれた冬木部長にまた私の胸がとくりと鳴った。
『冬木克己』と書かれたアドレス帳を閉じてふと顔を上げると、満面の笑みでスマホを眺める冬木部長が目に入って思わず苦笑する。私ごときの電話番号がそんなに喜んでもらえるなんて。
「ねぇ、穂ちゃん」
「?はい」
「さっき言ってたさ、デート、しない?」
「で、デート?」
「もっと僕のことを知って、僕のことを考えて。それから僕の名前を呼んでほしい」
「ふ、冬木部長…」
「そしたらきっと、こんな風に手を握るのは君だけだって、伝わると思う」
部長がふふふと笑ったとき、見知った電子音が喫煙所に鳴り響く。
prrrr……prrrr…
「っごめん。僕だ………はい、冬木。………うん、うん……大丈夫。君ならできるよ。……そう。分かった、すぐ戻るね」
「…お忙しいのに、時間をとってすみません」
「ううん。ほんとはもっと話したかったけどね」
「また連絡するよ」そう言って仕事へと戻っていった冬木部長に、私は手を振ることしかできなかった。結局片思いうんぬんの話は聞けなかったが、私のことを少なからず思ってくれていることは言葉尻や表情、繋いだ手の温もりからなんとなく分かる。けれど違和感が抜けないのは、どうしても過る楓先輩の言葉と、それに…さっきの電話の相手。あの声は、多分…
「金本さん、だよなぁ…」
同じ部署で上司と部下なんだから、連絡が来て当たり前だろうと思う自分がいる。ここは会社だ。仕事が優先に決まっているし、私が彼の立場でもそうする。
―…大丈夫。君ならできるよ。……分かった、すぐ戻るね…―
部下を信じて部下に頼られるなんて上司の鏡じゃないか。仕事のできる人は純粋に尊敬する。そんな風に思うくせに、その一つ一つが言い訳めいているような気がして自分に嫌気がさす。
―女たらしのどクズだから―
人の噂話を信じる質でもないが、楓先輩は嫌いだからって嘘をついて貶めるようなことはしない人だ。そう思わせる所以が彼にあるのも違いないのだろう。だからこそ、さっきまで隣にいた彼の言葉が揺るぎない真実だと思いきれない。ああいう言葉を今までにもかけてきたのだろうか。そんな優しい言葉を私以外に…っ
「…ははっ…なにを、馬鹿なことを」
今そんなことを考えても無駄だと思い直す。私も後片付けをしたら帰ろうとソファから体を起こした。
『今週の日曜日、君に会いたいな』
「いや、だから文言よ。言葉のチョイスよ。だからたらしなのよ。分かんないかなぁあいつは」
次の日、朝早くに来た冬木部長からのメッセージになんて返信しようかと思っていたとき、たまたま後ろを通った楓先輩にそれを見られてしまい、案の定顔を歪めた先輩の毒づきが始まった。
「仮に、『映画でも行かない?』って内容でもどん引きますけどね」
「あー引く引く引きまくる。どこまでも引ける。映画って中学生かよ」
「何見ます?特撮?」
「だーっはっはっ!蒼汰やめて!胃がよじれる」
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蒼汰くんまで途中参戦してきて「いや別に映画に罪はないのよ?」「特撮って普通に俺好きですし、今でも見に行きますし」「中学生恋愛もどんと来いよ」なんて言う二人に呆れてため息が出る。それただ冬木部長だから悪口言ってるんじゃないの。でもそこまで言うなら…
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「「は?」」
「だから、『12時、駅前東口』みたいな」
「うわぁ…ないわ~。小学生かよ」
「ないない。それはなさすぎる」
「聞いといてなんなんすか、それ、二人して」
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「なんでそんな上からなの。蒼汰くんの中には断られるっていう心配はないの?」
「はぁ?断られたことなんてないっすけど」
「こいつとんだ坊っちゃんじゃねぇか」
「マンガでしか聞かないセリフですね」
「パンがなければブリオッシュでも食ってろってか」
「ルイ16世も驚きの生まれ変わりかな?」
「…俺そこまで言われなきゃいけませんか」
「仕事しようか、穂」
「そうですね、先輩」
「なんなんすか、ねぇ!」
「男ってのはどうしてこうもこじらせるかね~」と楓先輩は言いながら、デスクに座り仕事を始めた。私もイヤホンを耳にかけようとした。なに聞こうかな。あーでもまずは返事しなきゃなぁ…
「…で、穂先輩は断るんすか?」
「え?」
「断るつもりで悩んでるんですか?」
蒼汰くんに言われてドキリとする。そうだ、私は何に悩んでいるんだろう。会うか会わないかの二択で、特に悩む程言葉があるわけでもないのに。仮に、自分の気持ちの整理がつかないことに困って返事を悩んでるなんて相談をしても、受ける方の答えなんてもはや決まってる。私が受け手でも決まって答える。だってそんなことを悩むってことは……
「…なーにちゃっかり気にしてんのよ。穂の答えなんてもう出てんじゃないの。鈍いわねぇ」
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※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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