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………ダンッ!…

楓先輩が出されたばかり一気に飲みきったビールジョッキが机の上にも叩きつけられた。

「いい?今日はぜーんぶ!話してもらうからね!!」

「すみませーん!生おかわりー」と叫ぶ先輩と、ひたすらジントニックをキメる後輩に挟まれながら、私は冷たいシャンディガフを前にいたたまれず小さくなるしかなかった。
あの後すぐに冬木部長は呼び出しがかかって部に戻っていったので一旦お開きとなり、思考回路がショートしたままなんとか仕事を終わらせ3人で飲みに来たのだ。ちなみに課長は「面白そうだけど、妻のご飯が待ってるから~」と言って帰ってしまった。なんなら私もそっちがよかった。

「ぜ、ぜんぶとは…」
「なーんであいつは穂を名前で呼んでるの、いつから呼ばれてるの、なーんで片思いなんてされてるの、いつから面識があったの、なーんであいつは…っ!童貞なの!!」

そんなの全部私が知りたい。童貞な理由は置いといて。でも先輩がまた前に出されたビールジョッキを傾けるので、運動後の飲料水みたいに吸い込まれていくビールへの心配が勝り、何も言葉が出てこず飲み込まざるをえなかった。

「てゆか、平日の夜に酒って…やばいでしょ俺たち」

ここは楓先輩の行きつけのバーで、何度か先輩と飲みに来たことがあった。基本お酒好きの私たちはここでマスターの作るつまみと美味しいお酒を味わっているのだ。それでもこんな週の真ん中に来たのは初めてだが。

「うるさい!蒼汰だって気になってんでしょうが!」

蒼汰くんにまで飛び火してしまって申し訳なさを感じつつ、目の前のお酒を一口飲んだ。あぁ、おいしい。これだけ緊張してても美味しいと感じるお酒は素晴らしい。そんなお酒を作るマスターが素晴らしい。もうマスターのお酒になりたい。

「で?どうなの!あんたたちはあたしの知らない間にどんなことになってたの!」
「ど、どうもこうも!何もなってないですよ。正直冬木部長のことは姿を見たことはありますけど、本人については楓先輩から聞いた話しか知らないですもん」
「ならなんで名前で呼ばれてんの?先週の会議室では名字だったでしょ?」
「そ、それは……金曜日の就業後にちょっと、いろいろあって」
「いろいろって……ま、まさか…珍しく金曜日に定時帰りしたのって…ふ、冬木に会うためだったの?!」

顔面蒼白になった先輩が体をのけぞらせて叫んだ。いくら冬木部長のことが嫌いだからって私のことまで信じられないものを見る目で見つめないでほしい。

「はぁー…ちがいますよ。あの日は用事があって…現にあの日は迎えが来て、」
「だれですか」
「え?」

静かにお酒を飲んでいた蒼汰くんが突然話題に入ってきたので、思わずグラスを取りそこねてしまう。

「金曜日の夜に先輩のことを迎えに来る奴って、だれですか?」
「そ、蒼汰くんまで…どうしたの?」
「…別に」
「なーんだ、クールぶってたくせにめちゃめちゃ気になってたんじゃないの、ウケる」
「ウケないでください」

何の話かついていけないまま、私の頭は困惑に満ちていた。何の話をしているんだ、この二人は。

「で、男、なんですよね?」
「お、男だと言われればそうだけど…」
「だれですか」

なぜ私は2つ下の後輩にここまで凄まれねばならないのか。巷のヤンキーもビビって逃げ出しそうな鋭い目つきに怯える。蒼汰くんみたいなきれいな顔で睨まれると迫力が3割増だ。

「…その眼力やめてよ蒼汰くん……だれでもない、兄よ。4つ上の」
「「あにぃ?」」

正直に焼き肉のことを打ち明ければ、先輩は「なぁ~んだ」とつまらなさそうにマスターに声をかけて新しいお酒を頼んでいた。蒼汰くんも一つため息をついてから手元のお酒を飲みだしている。なぁ~んだとはなんだ。あんなに凄んで聞いてきた癖に急になんだ。焼き肉は命の源だぞ。むしろこっちがため息つきたいぞ。

「…で?3年前って何、そんな頃に面識あったの?」
「それが振り返ってみたんですけど…やっぱり話した覚えもないんですよね。あの時はシステム導入に向けてバタバタしてましたし、他部署との関わりなんてまだ皆無でしたから」

「だよねぇ~」と頷く先輩に思わず下を向く。身に覚えのないことを言われて困惑しているのは私だ。いきなりほとんど見ず知らずの人に、前から片思いしてたなんて言われてもなんと答えたらいいかわからない。

「…でも会議室でもそうでしたけど、ほぼ見ず知らずな相手にしては結構距離詰められてましたよね」

蒼汰くんに言われてどきりとする。そうだ、掲示板のことをすっかり忘れていた。

「………さてはまだなにかあるな?今のうちに吐いとけよ?」
「うっ……じ、実は…」

これは大人しく全て吐かざるをえないと、今日何度目になるか分からないため息をついた。




「……は、きっしょ」
「先輩に同意」
「い、いや…きっしょって……」

仮にも他部署の部長に対しての物言いなのだから、急に恐れ多くなる。楓先輩はともかく蒼汰くんまでなかなかの言い方だ。

「いや、きっしょいでしょ。相手が確実に見る掲示板使って暗号めいたもの残してそれが、ぽ、ポケベルって、………っ、だーはっはっは!きしょい以外ないでしょ!あーーうける!」
「めちゃくちゃこじらせてんすね。中学生かよ」

「そういえば童貞だったな」と追い打ちをかける蒼汰くんと笑いが止まらない先輩を尻目に私は何杯目か分からないギムレットを飲み干す。私だってなんでこの時代にポケベル?とか思ったけど、あの時は悩みに悩んでいた数字の意味が分かって、やっと正解が見つけられた感動とその衝撃の方が大きかったんだもの。…というか童貞は関係なくない?

「あー…おかしい、腹捩れるわ」
「…笑いすぎですよ、先輩」
「やだ。そんなネタを提供したのは穂じゃない」

目の端に涙を滲ませながらジンバックを飲み干す彼女を思わずじとりと見つめる。正直に話しただけで笑わせたかったわけじゃない。むしろ相談にのってくれるわけでもない方が酷くないか、なんて考えながら目の前のおつまみに手を伸ばす。マスターの自家製チョリソーは病みつきになって、もはや3人でどれだけ頼んでるか分からない。まぁお酒はその何倍も頼んでるけど。

「にしても、なにやってんだか」
「?何がです」
「あいつよ。商談の時みたいにもっとぐいぐい口説けばいいのに」

楓先輩は心底不思議だって顔をして呟く。冬木部長と同期として何年も関わってきた楓先輩は、噂だけでない彼の姿というのを見てきたのだろう。だからこそ性格面はこき下ろすけれど、仕事面に関してはいつも一目を置いているように話す。

「それにあんなたらしが、好きな女に近づけなくて3年も燻ってるなんて、今だに信じらんないのよ」
「本命童貞ってやつじゃないですか」
「体も童貞、気持ちも童貞ってか」
「きっと前戯も童貞ですよ」
「本番も童貞ねきっと」

「童貞の概念を崩壊させてますよこの酔っ払い共」

我社が誇る天下の冬木部長を盛大にこき下ろす二人にもう一度大きなため息をついた。なんだ前戯も本番もって。童貞に謝れ。その言葉にまず謝れ。

「それで?あんたはどう思ってるの」
「…どうもこうも、冬木部長のことは何も知らないですし」
「?随分知ったじゃないの」
「え」
「あんたのことがずっと好きで、その間特別な女はいなくて。実はその前にもいなくて、今なお一人純潔を守り抜いてる男、冬木克己。……これ以上知りたいことがあるの?」

「あいつクズだけど、嘘はつかないわよ」そう言った楓先輩に私は何も言い返すことができなかった。面と向かって言われた言葉ではあるが、私だけに向けられたものではなかったので、彼の言葉にどう反応したらいいかわからないのも事実だ。かと言ってあの言葉たちを二人きりの場で言われたとしても、今のままではきっと困惑が勝ってしまう。
これだから機械を相手にしている方がよっぽどマシなんだよ、と小さくため息を一つこぼしてから、グラスホッパーを頼んだ。こんな時は飲むしかない。









あの怒涛の日から早くも土日が2回来て、2週間がたった。ちなみに飲みに飲んだその次の日は3人揃って二日酔いで、課長に「いい大人達がなにやってんの~」と頭痛薬をいただいた。
嵐のようなあの日について、私たちの間で話題に上がることはなかった。もっともあの日のことは課の4人と冬木部長しか知らないことだし、後は冬木部長が口に出さなければ何も問題はない。なにより話題にするには時間が経ちすぎたということもある。実際あの日以降、私は経理部との合同案件も大詰めでこもりきりだったし、冬木部長は例の企画を蒼汰くんを含む特別メンバーで進めているようで、特に顔を合わせることもなかった。それが幸いして2週間が立った今、穏やかにただ忙しなく仕事に追われている。もともとPCに向かって仕事をしている間はそれに集中できる性質なのもあり、特に思い悩むことなく過ごせている日々に少し感謝しているところだ。あんなことを言われて放っておくのもいけないと分かってはいるが、言った本人からのモーションが特にないのだから、逆にこの空いた時間がどうにもできないものであったのも許してほしい。
そう、それにあの日から掲示板への書き込みがなくなったのだ。またそのことが少し引っかかっていて、なんだかまんまと、彼を気にしている自分に今度は大きなため息が出た。

「…穂先輩、ちょっといいですか」
「うん?蒼汰くん、どうしたの?」

一人もんもんとしながらも手は動かしていると、隣のデスクから蒼汰くんが話しかけてきた。

「今やってるプログラミングで、こっからうまくいかなくて…相談乗ってもらいたいんですけど」
「……んー、そうか。…なら、」

カタカタ……

「…このソースコード入れてみる?」
「……あー…………はぁー……」
「え、なに」

いきなりため息をつく蒼汰くんに思わず身を引いてしまう。そんな呆れられるようなことした?私なりの解決策だったんだけどな。

「…先輩、前から言おうと思ってたんですけど」
「…な、なによ」
「………まじ、かしこいんすよ…」
「…は?」

突然机にうなだれる後輩になんと声をかければいいのか悩む。褒められてる言葉のはずなのに、ちっとも嬉しくないのは、彼の表情があまりにも辛そうに歪められているからだろう。

「……俺、ほんと尊敬してんすよ。先輩のこと」
「う、うん?あ、ありがとう」
「昔プログラムいじってた頃に先輩のこと知ってから、こんなすげー人日本にいんだって感動して。しかも年近いし、勝手に親近感もっちゃって」
「うん」
「だって、世界で三本の指に入るエンジニアですよ?国際コンペでも優勝を飾って、この人に解けないシステムはこの世にないと、世界が認めた人ですよ?そんな人が近くにいるなんて、もはや同じ人とは思えないっすよ」
「あ、ありがとう?」
「色々あってこの会社で一緒に仕事するようになって…尊敬は少しずつ闘心に変わってたんす」
「………うん」

どんどん寂しそうな声に変わっていく彼の頭をそっと撫でる。どんな時も学ぶ姿勢を忘れない彼の頭の中には膨大な知識が入っていて、私も尊敬しているんだよなんてことは、今は言うべきじゃないなと思う。けれど彼を大事に思ってること、仲間だと思ってることが伝わればいいなと手の平に気持ちを込める。

「っ…俺、絶対超えるんで。国際コンペも。俺だって頑張るし、諦めてないんで」
「うん。期待してる」

尊敬をされることはすごく嬉しい。けれどその気持ちがいつか、自分の中で優劣を生み出してしまうことを私も知っている。何かあったのだと思う。でもそれは彼の中の葛藤だ。今の私にできることはなにもない。

「待ってるよ」
「っす…あ、あと」
「うん?」
「俺のファン歴は3年なんてもんじゃないんで」
「ん?」
「そっちも負けてないんで」
「え?」
「俺の尊敬する人を、そんじょそこらの中坊になんかくれてやれないんで」

「じゃあ、童貞野郎に会ってきます」と息巻いて出て行った蒼汰くんに苦笑する。そうか、あっちで冬木部長に何か言われたのかもしれない。
蒼汰くんが出て行ったと同時に、前のデスクにいた楓先輩が顔を上げた。

「蒼汰、冬木に相当扱かれてるらしいよ」
「部も違うのに」
「無理難題なんでもやれって感じらしいね」
「それについていけちゃうのが蒼汰くんですからね」
「…絶対好きだと思ってたのになぁ」
「なんの話です?」
「蒼汰が、あんたを」

ピシッとこちらを指さす先輩に驚きつつも、思わず声を出して笑ってしまう。

「違いますよ彼は。そんなんじゃない」
「あーらー?なによー分かりきった顔しちゃって」
「分かりきってますよ。だって同志ですから」

「それに、ライバルですからね」と続けると、楓先輩はあからさまに大きくため息をついた。

「本命童貞の次は恋愛童貞かよ」
「一端童貞から離れません?」



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