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【本編】アングラーズ王国編

記憶(カリーナ視点)

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「ここは……」

 目の前には、森に囲まれた美しい湖があった。
    その湖はエメラルドグリーンで、透明度が非常に高く、水面がまるで鏡のように周囲の木々と空を映し出していた。

 ここはアングラーズ王国にある、水と空気が綺麗な事で有名な静養地で、かつて、母の病気療養のために訪れた事がある場所だった。

 静かな湖畔のそばに、ひっそりと佇むその宿は、当時のままの姿で残っていた。

「カリーナはここに宿泊していたよね。覚えてる?私たちは子どもの頃、ここで出会っていたのを」

 レアン殿下はそう言って、私の瞳の中を探るようにじっと見つめた。

「え……?」

 ここで、出会っていた?
 当時の記憶をたどろうとしても、白い霞がかかっているようで、思い出せない。

「あそこにある大きな木、覚えてない?あの木から、2人で一緒に落ちた事があったよね」

 レアン殿下がそう言って、指差した先には、幹が太く枝葉が大きく広がった、1本の大木があった。

「あっ──」

 その木を見た瞬間、記憶の扉が開いたかのように、私の頭の中に過去の記憶が一気に、まるで走馬灯のように流れ込んできたのだった。



 ***



「なんで僕の事を構うの?僕は1人になりたいんだけど」

 レアンはイライラした様子でそう言った。

 1週間ほど前に知り合った、レアンと言う名の綺麗な顔をした少年は、この湖畔の近くに泊まり、母と同じく病気療養しているらしい。
 肩ほどまで伸ばした髪は、光輝く銀髪で、瞳は深海のように深く美しい青色だった。

 そして今、私とレアンは湖畔近くの大きな木に、一緒に登っていた。
 一緒にと言っても、先に木に登って湖を眺めていたレアンを見つけ、私が一方的に追いかけただけなのだけど。

「あなたと友達になりたいの」

 私はニコッと笑って言った。

「昨日も言ったけど、僕は君と友達になるつもりはないから」

 レアンは冷たく、無慈悲にそう言い放った。
 彼は10歳にして、人を全く寄せつけないオーラをまとっていた。

 でも、なぜだろう。
 レアンは人を拒絶するのに相反して、誰かに助けを求めているように見えた。
 彼の細くて、頼りない身体に見合わない、とても大きくて重い何かを、1人で抱え込み、悲鳴をあげているようだった。

 だから、私は彼をほっておけなかった。

「分かった。友達にならなくてもいいから──」

 一緒にいて。
 そう言おうとした時、なんと、私が座っていた枝がポキッと折れてしまった。

「きゃあっ!」

 私は近くの枝を掴もうと、必死で手を伸ばしたけれど、それは虚しく空をかき、まっ逆さまに落下していった。

「えっ……」

 その時、私が伸ばしていた手を、レアンが掴んだ。

「お、重過ぎ……」

 レアンはひどく顔を歪めて堪えていた。
 でも、こんなの無理だ。
 12歳の私は彼よりも身体が大きく、体重も重いはずだ。

「離して!レアンも落ちちゃうよ。私は大丈夫だから!」

 下までは3メートルほど。
 地面には落ち葉も積もって柔らかいから、大事にはならないだろう。私は身体が丈夫だし。
 でも、レアンは違う。
 なにせ、病気療養中の身だ。
 落ちたら大変な事になる。

「離して!レアン!」
「う…るさ…」

 レアンがそう言いかけた時、木を掴んでいた方の手が滑って、私とレアンは一緒に地面に落下した。

 私は空中で、上から落ちて来るレアンを、必死で抱き寄せた。
 ただでさえ、いつも顔色が悪く、身体も折れそうなほど細い彼を、私が守らなければ。

 その一心だった。

 ──ズドンッ

 背中を中心に物凄い衝撃が走り、私は一瞬息が止まった。

「うぅっ…」

 あまりの痛みに、動けなかった。
 すると、上にいたレアンが素早く身を起こし、私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫!?」

 良かった。
 レアンは大丈夫そうだ。
 そう思っても、私は痛みでうめき声しか出せなかった。

「ちょっと待ってて。今、君の父親を……」

 慌てて立ち上がろうとしたレアンの腕を、私は咄嗟につかんだ。

「だ……め」

 私は必死で声を絞り出し、目で訴えた。
 お父様に心配かけたらダメだ。
 ただでさえ、お母様の容態が悪いのに。

「だ、大丈夫。待ってたら、良くなる……から」

 私がそう言うと、レアンは「分かったよ」と諦めたように言って、そばに腰を下ろした。

「なんで、庇ったの」

 しばらくすると、レアンはぽつりと言った。

「君にひどい事言ったのに。僕なんか、助ける必要なかったのに」

 レアンはとても辛そうな顔をしていた。
 彼は今にも、何かに押し潰されてしまいそうだった。

「あなたを、守りたかったから…レアンはどうして、いつも苦しそうなの?何があなたをそんなに苦しめているの?」

 私は倒れたまま、レアンの青白い頬に手を伸ばした。
 ひんやりした彼の頬が、私の手に触れた。
 彼は何かを思案するように、私の瞳をじっと見つめていた。

「──苦しいし、辛いんだ。地位や役割が、僕には重すぎるから──だから、本当は逃げてしまいたい。でも、逃げたらダメだって。努力すれば、立派な…人間になれるからって」

 レアンは貴族だと言っていた。
 規律に厳しい、格式高い家柄なのだろうか。

「僕はもう、疲れたよ。頑張って、頑張って、身体を壊しても頑張って…僕の身も、心もボロボロなのに、誰も気がついてくれない。──もういっその事、消えてしまいたい」
「そんな事言わないで。レアン。私はあなたの味方だから。たとえ離れていようと、それはずっと、変わらないから」
「──本当に?カリーナが大人になっても、変わらない?」

 私は身を起こした。
 背中の痛みもだいぶ引いていた。

「変わらないよ。ずっと、味方だから。わたしが大人になっても、おばあちゃんになっても、ずっとレアンの味方だから。だから、お願い。消えたいなんて言わないで」

 そう言って、私はレアンの華奢な身体を抱き締めた。
 ポキッと折れてしまいそうなほど、頼りないその身体に、どれほどの事を背負い込んでいるのだろう。

 レアンは震えていた。

 彼を助けたい。
 その時、私は強くそう思った。




 そして、それから間もなくして、寝込んでいた母の容態が急変し、亡くなった。

「お母様がね、昨日、死んじゃったの」

 木に寄りかかって本を読んでいたレアンに、私は唐突にそう言った。

「えっ──」

 レアンは驚いて、本を落とした。

「だから……明日、ベルレアン王国に帰らなきゃいけなくて……あの、今まで本当に、ありがとう」

 私はそう言うと、ぎこちなく笑った。

「こんな時まで無理して笑って、優等生のふりしなくて良いよ」

 レアンはそう言うと、私をぎゅっと抱き締めた。
 彼の身体は華奢過ぎて、安心感を得るにはほど遠いはずなのに、私の張りつめていた心が一気に解され、涙が溢れた。

「うぅっ──」

 嗚咽をもらし、私はレアンの胸の中で泣きじゃくった。
 そんな私を、彼は黙ってずっと背中をさすってくれていた。

「どうして……どうして……お母様は何も悪い事してないのに、苦しんで、死ななくちゃいけないの?」
「この世界は理不尽で、救いなんて最初からないから……」

 レアンは子どもとは思えない、冷めた瞳をしてそう言った。

「──だから、僕がカリーナを護る。これからもっと強くなって、必ず、君を護れる男になって迎えに行くから。だからそれまで待っててくれる?」

 とても真剣な瞳をして、レアンは言った。
 私を慰めたいが為の、今だけの言葉だろうが、それでも私はとても嬉かった。

「レアン、ありがとう。ずっと待ってるから」

 私はそう言って、小さく笑った。

「今度会ったら、一緒に花火を見よう」

「はなび?」

 私が花火を知らなかったので、レアンは説明してくれた。
 夜空に火薬が爆発して出来る、大輪の光の花だと。

「アングラーズ王国の建国記念日の前日に、宮殿から花火が打ち上がるんだ。とても綺麗なんだよ」
「そうなんだ……見てみたいな」

 想像するだけで、私は心が踊った。
 レアンと一緒に見る事が出来たら、どんなに幸せだろう。

「必ず、迎えに行くから」

 レアンは自分自身に言い聞かせるように、そう言った。




 ***




「──あの時の男の子はレアン殿下だったのですね」

 私は目の前に立っているレアン殿下を見つめた。
 あんなに華奢だった当時の面影は全くなくなり、今や私よりもずっと背が高い。

「そうだよ。さすがにあの時は王子だとは言えなくて、貴族の子息だと誤魔化したんだ。ごめんね」

 全て、忘れてしまっていた13年前の記憶。

 母が亡くなった辛い記憶とごちゃ混ぜになり、過去の私が記憶の扉に鍵をかけた。

 私は、約束していたのに──

 当時のレアン殿下に、ずっと味方だって。
 ずっと待っているからって、約束したのに……
 私だけ全部、すっかり、忘れてしまっていた。

 レアン殿下は、全て覚えていたのに。

 そうだったのか……
 だから、今まで……

「そんな顔をしないで、カリーナ。忘れるのも無理はないよ。君は母親を亡くして混乱していたし、思い出したくない記憶だったんだろう。だから私も、最初はここに連れて来るつもりはなかったし、過去の話もしないつもりだった。君に辛い記憶を思い出させてしまうから。でも、ここに来て、私たちが出会った過去の話をしなければ、君は納得しないと思ったから、連れて来る事にしたんだ」

 そう言うと、レアン殿下は湖面に目を向けた。
 湖は日の光を浴びて、キラキラと美しく輝いていた。

「宮殿からいなくなったエアリスが、君の所にいると分かった時は、すごく驚いたよ。そして侯爵家で君に会えて、本当に感動したんだ。あの時は、長い間想い焦がれていた君にやっと会えたから、距離の詰め方を間違ってしまってごめんね」

 レアン殿下は私の方に向き直り、正面から私を見つめた。

「ずっと、君を迎えに行くタイミングを思案していた。でも、エアリスのおかげで決心がついたんだ。私と結婚すれば、君が大切にしている侯爵家や領地から離れる事になってしまう。それでも私は、君と一緒になりたいんだ。アングラーズ王国に来れば文化も違うし、色々と大変な思いをさせてしまうかも知れない。けれど、私はいつもカリーナの見方だし、全力で君を護る。あれから、13年経ってしまったけど、私の気持ちは子どもの頃からずっと変わらない。カリーナ、君を愛してる。結婚して欲しい」

 彼の真剣な瞳に、吸い込まれそうだった。

 最初は、からかわれているのだと思った。
 一時の気の迷いで、すぐに飽きて、捨てられるのだと警戒していた。

 でも、レアン殿下は子どもの頃から、ずっと一途に私の事を想い続けてくれた。
 私は忘れてしまっていたのに、変わらずに、ずっと想い続けてくれていた。

 私は、今まで、身分や容姿のせいにして、彼と真剣に向き合っていなかった。

 レアン殿下の気持ちが分からなくて、信じるのが怖くて、逃げてしまっていた。

 でも、もう、逃げない。
 彼の真剣な気持ちを、私は信じる。

「私も、レアン殿下が好きです。ずっと、一緒にいたいです」
「ありがとう、カリーナ。ずっと、一緒にいよう」

 そう言われ、私は彼の力強く温かな身体に包まれた。
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