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18.ロマンス小説の一節のようです

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「……違う」
「ん? 違う人だった?」
「そうじゃなくて。今日、わたし、化粧してなかった」

 するりと自分の頬を撫でる。ゴドルフィンお墨付きの落ちないヨレない色黒ファンデーションの質感はそこにはなく、さらさらとした素肌に触れる。
 髪ももちろん、指通りなめらか。鳥の巣様のもじゃ毛ではない。
 ラインハートはきっと、クロエをクロエだと認識しなかっただろう。

「別にそれは関係なくないか?」
 ユーゴの声に顔を上げると、兄は不思議そうに首を傾げていた。
「だって、素顔でぶつかった時に求婚されたわけじゃないんだろう? ラインハートは求婚する程度にはクロエに興味があるわけだし、クロエは憧れの恋愛小説王道シチュエーションで彼と恋に落ちて、万々歳ってことじゃないのか」

 そうなの、だろうか。本当にそうかな。
「……わたし、ラインハート様と結婚するの?」
「しないのか? クロエが彼のプロポーズに『はい』って答えたら結婚だろう」
「そ、そうなの?」
 何か重大な見落としがあるような気がしてならない。

 けれど、ぶつかった瞬間に支えてくれた力強い腕と、甘く優しい瞳、に、結婚という響きが加わってふわふわと身体の奥から何かが沸き上がってきて、思考を押し流していく。

「ねえさま、大丈夫なの?」
「わからない。もう何も見えていないかもしれない」
 ひらひらとクロエの目の前で手を振ってみても、視点が定まる気配すらない。
 指をもじもじと組みながら、彼女はうっとりと頬を薔薇色に染めていた。
「おじいちゃまの財産どうのこうの! みたいなのはもうどうでもいいのかな」
「まぁ、それもクロエが勝手に言っていることだしな。おじいちゃまも母さんも、そんなわけわからないこと早くやめろって方針だし。――初めて好きな人が出来たんだ、しばらくそっとしておいてやろう」

 兄弟が何かぶつぶつ言っている。耳には入ってくるけれど、脳まで浸透しない会話を聞き流しながら、クロエは恍惚のため息を吐いた。

 夢見心地のまま夕食を食べ、今まで読んだ数々の恋愛小説の素晴らしいシーンがすべて自分とラインハートで脳内再生され、空想と現実の境目が曖昧になり融合していく。
 見つめあい、語り合い、笑いあう二人、取り巻くすべてが光り輝いて、――。
 

(ほんとうに、それでいいの?)


 冷たいほどに落ち着いた自分の声にそう言われ、はっと身体を起こした。
 いつの間に床に就いたのだろう、朝の光が窓から差し込んでいる。

 すっと、頭が冴えていく。
 
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