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第1話 『深夜の古本屋』act.1
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午後の講義はまるで時間が止まったかのように感じられた。無理にノートを取っているふりをしても、頭の中は昨夜のことばかりだった。本屋で見かけたあの少女と、店の空気。まるであの場所に引き寄せられるような感覚が、今も消えない。
「蒼真、聞いてる?」と友人の声がかかるが、俺は無意識に首を横に振り、その後ろに続く言葉を無視した。
講義が終わり、時間が迫っていることに気づいた俺は、すぐに席を立ち、急いでキャンパスを抜けた。どこか無理にでも、この気持ちを解消しなければいけないような衝動に駆られていた。
梅ヶ丘の駅に到着し、スマホで小田急線の時刻表を確認する。すぐに電車が出ることを確認し、何も考えずにそのまま改札を通った。車内の揺れが心地よい。目を閉じていると、昨夜の店の光景が浮かんでくる。店の中の静けさ、そしてあの奇妙な安心感。どうしてもあの空間が忘れられない。
吉祥寺の駅に着くと、無意識のうちに足がサンロードの路地裏へと向かっていた。いつもの街並みの中で、この場所だけはひっそりとした静けさが漂っている。周りの騒音が消え、少しだけ温かな風が感じられる。踏みしめる歩道の音が、どこか懐かしく、安心させてくれる。
その先に、あの本屋の小さな入口が現れる。街灯の明かりがうっすらと漏れ、ドアの前に静かな明かりが浮かび上がっている。昨夜、思わず引き寄せられるように足を運んだあの場所だ。
「また、来てしまったな…」
足を踏み出すと、自然と呼吸が浅くなるのを感じた。昨日も感じた、あの奇妙な感覚が胸に広がる。店の中からは、ほんのりとした匂いが漂っているようで、その空間に一歩足を踏み入れたくなる衝動に駆られる。
昼間の本屋は、夜の静けさとはまったく違っていた。サンロードの路地裏にあるその店は、気づかない人も多いだろう。だが、木製の棚が並び、古びた外観は逆にこの場所にぴったりと馴染んでいる。
入り口にはドアがなく、開けっ放しの空間が広がっている。そこから店内を見通すと、無造作に積まれた本の背表紙が並び、まるで何年も変わらずにここに置かれてきたかのような落ち着いた雰囲気が漂う。外から入ってくる風が心地よく、店内に漂う本の匂いと混じり合って、少し懐かしい気分にさせられる。
昼間の店内は、ゆったりとした空気が流れていた。常連風の叔父さんたちが数人、棚の前で立ち読みをしている。彼らは本を手に取るだけでなく、時折小声で会話を交わしながら、そのまま何時間も過ごすような様子だ。誰もが何気なく、気取らずに、時間の流れに身を任せている。
蒼真は、その中に自然と溶け込んでいくような気がして、ただその場に立ち尽くす。昨日のことが頭から離れず、心が落ち着かない。目の前の本棚に視線を向けても、どこかぼんやりとした気持ちのまま、手を伸ばして本を選ぶことができなかった。
蒼真は店内をじっと見回し、目を細めてレジのあたりにも視線を走らせた。しかし、昨夜見かけた美少女の姿はどこにもなかった。棚の前で本を手に取る常連たちの間をすり抜けてみても、彼女の姿は見つからない。何度も視線を巡らせてみたが、どうしてもその美少女が見当たらなかった。
もしかすると、シフト制の漏れだろうか。それとも、昼間の時間帯は学校があるから、彼女はこの時間帯には出勤していないのかもしれない。そう考えながらも、蒼真は少し焦ったように再度レジ周りを確認したが、やはり彼女らしき人物は見当たらなかった。
「昨日のことが夢だったんじゃないか…」
その思いが一瞬、彼の頭をよぎる。しかし、すぐにそれは否定される。何故なら、今自分の鞄の中に、昨日購入した経済学概論の教科書が入っているからだ。あの出来事は決して夢じゃない。確かに昨日深夜に、この店で、この教科書を、購入したんだ。美少女がレジをしてくれて。決して今レジに座ってるヨボヨボの爺さんじゃない。
ただ目当ての彼女がいないのでは、来た意味もないと、蒼真はため息を吐きながら店を後にした。あの美少女、エリカに会いたかっただけなのに、結局彼女は店にいなかった。そのまま帰るのもなんだか気が抜けたような感じがして、ふと時計を見ると、もう講義の時間も過ぎている。
「講義も抜けてきちまったし…今から戻るのも面倒だな~」
蒼真は思わず口に出してつぶやいた。実際、午後の残りの講義を受けるくらいなら、家に帰った方がずっと楽だと思った。何もかもが今、どうでもよくなってきた。
結局、蒼真は古本屋を離れ、家に帰る決意を固めた。昨日の夜の出来事が頭から離れず、でも今はどうしてもそれを追いかける気力が湧かない。だんだんと、空は暗くなり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。
蒼真は特に急ぐわけでもなく、ゆっくりと歩きながら、目の前の景色に目をやった。どこか心が浮ついていて、落ち着かない気分だ。それでも歩きながら、彼は不意にそのまま家に帰る決意をした。講義を抜けたことで感じる罪悪感や焦りが、少しずつ消えていく。
やっぱり、家でゆっくりした方がいい。そう心の中でつぶやきながら、蒼真はサンロードの通りを歩き続けた。
次の日も、また次の日も、その古本屋で彼女に会うことはできなかった。そんな日が一週間ほど続き、蒼真は次第にそのことが気にならなくなっていった。彼女との再会を夢見て足を運んでいたあの日々も、徐々に日常の一部になり、気づけばその店のことを少しずつ忘れていた。
だが、春期期末試験の期間に突入すると、蒼真の頭の中は一転して学業に集中せざるを得なかった。用意していた教科書を必死にめくり、経済学概論のテストやその他10教科の期末試験に備える。試験は一日中続き、終わった時には心身ともにぐったりとしていた。
試験が終わると、同期の友達たちと約束していた打ち上げ飲みの時間がやってきた。場所はいつも通り吉祥寺の居酒屋だ。みんな、試験の疲れを吹き飛ばすかのように、レモンサワーの大ジョッキを片手に笑い合っていた。
「終わった~!やっと自由だ!」
友人の一人が大声で叫び、みんなが笑顔で乾杯を交わす。その瞬間、蒼真は少しだけ、心からの解放感を感じた。試験のことを忘れて、ただ楽しい時間を過ごすことに没頭していた。
「でも、なんか蒼真、あんまり楽しそうじゃないな。どうした?」
友人の一人が心配そうに声をかけてきた。蒼真は少し驚き、そして困ったように笑った。
「いや、ちょっとね。なんでもないよ。」
そう言うと、友達は「まあまあ、今日は飲んで騒ごうぜ!」と、また別の話題に戻してくれた。蒼真はそのまま、久しぶりにリラックスした気分で仲間たちと過ごすことにした。
だが、ふとした瞬間、蒼真の心はまたあの古本屋のことを思い出す。彼女は元気にしているだろうか?あの店でまた会える日が来るだろうか?
だが今は、目の前の仲間たちと、目の前の幸せな時間を大切にしよう。そう自分に言い聞かせて、蒼真は再びレモンサワーの大ジョッキを持ち上げた。
「ぶはぁ~~」
------------------------------------------
時間は深夜一時を回り、それぞれが次の日のバイトや遊びなどの用事で解散していき、残された蒼真は、またしても古本屋に足を運ぶことにした。飲み会での疲れもあったが、それを気にせずに足を向けるのは、どこか無意識に、あの古本屋で再び彼女に会いたいという気持ちがあったからだ。
前回と同じく、深夜帯の古本屋…。普段は人の気配も少ないその時間帯に、また何かが起こるのではないかという期待が、胸の中に少しだけ湧き上がっていた。
吉祥寺の夜の街を歩きながら、蒼真は無意識に足取りが軽くなるのを感じていた。昼間の喧騒とは違って、夜の街は静まり返っており、少し肌寒い風が街灯の光を揺らしている。蒼真はサンロードの路地裏に差し掛かり、視線を上げると、あの古本屋の小さな入口が目に入る。やはり、変わらずにそこにあった。
「また、来てしまったな…」
自分でそう呟きながらも、蒼真は足を止めることなく、その店に向かって歩みを進めた。先ほどの打ち上げでの浮かれた気分が少しずつ落ち着いて、代わりにまたどこか懐かしく感じる空気が、店の中から漂ってきたような気がした。
店の入り口には相変わらずドアはなく、薄暗い店内からほんのりと漏れる光が、周囲の闇をやわらかく照らしている。蒼真はその光に導かれるように、静かに店の中へ足を踏み入れた。
店内には、いつも通り本棚が所狭しと並び、その背表紙が不規則に並べられている。だが、やはり昨夜と同じように、店内には誰もいないようだった。静寂の中で本の香りが漂い、時折風が店内に吹き込むたびに、ほんのりとその香りが運ばれてきた。
「今日は誰もいないのか…」
少しだけ残念に思いながらも、蒼真は棚に並ぶ本を無意識に手に取っていった。彼女がどこかにいるかもしれないという淡い期待を抱えながら、店の中を歩く。その時、蒼真の目の前に、ふと一冊の本が目に留まる。
それは、普段はあまり見かけないような、古い装丁の本だった。表紙には、蒼真が今まで見たこともないタイトルと、未知の作者名が記されている。気になった蒼真は、その本を手に取って、ページをめくり始めた。
ページをめくる音が店内に響き、蒼真はその一瞬、まるで時間が止まったかのような感覚にとらわれる。そして、突然、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「その本、気に入ったんですか?」
蒼真は驚いて振り返ると、そこに立っていたのは…。
「わぁぁああ!!」
蒼真は思わず声を上げて後ろに飛び退く。自分でも驚くほど大きな声を出してしまい、店内が一瞬静まり返った。
振り返ると、そこにいたのは—昨夜の彼女だった。
「え、あ、えっ?」と、動揺しながら言葉が出てこない蒼真。彼女は少し驚いた顔をしていたが、すぐにその表情を和らげ、微笑みながら近づいてきた。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃいましたね。」
その声は昨夜と変わらず、どこか落ち着いた響きがあった。蒼真は一瞬、心臓が飛び出しそうになるのを感じた。
「い、いえ、こちらこそ…」
蒼真は恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。その瞬間、彼女は軽く笑って、少し照れたように目を伏せた。
「この時間、滅多に人来ないので…」
彼女はそう言って、少し肩をすくめた。笑顔を見せながらも、その目はどこか優しさを帯びていた。
蒼真は、そんな彼女の姿にまた心がドキリとするのを感じた。彼女の存在そのものが、どこか不思議な力を持っているような気がして、思わず言葉が詰まった。
「こ、ここ落ち着くんで。幸せです」
「でもお酒飲んでる時の方が幸せじゃないですか?」
「そ、そんなことないっ…あっ」
蒼真は自分の口に手を置き、アルコール臭いのがバレてしまってると気づき、彼女から一歩引いてしまう。もしかして、前回も…そう思うとまるで自分が飲んだくれが何かと勘違いされているような気分になり不安にある。ただの大学生だというのに。
しかし、そんな蒼真の慌てぶりを見て、彼女はクスりと微笑みを浮かべ、レジの方へと戻っていく。そして、レジの方からほんの少しばかり声を張り、案内する。
「もし気に入ったのなら、私がお会計を担当しますよ」
「是非!」
問答無用。これがどんな内容の本なのかどうでもいい。どうせ50円かそこらだろうし、このために通い詰めてたまであるのだから。
「お願いします。」
そういって本をレジに渡すと、『レッサーパンダの生態』という本を見て、彼女はクスッと笑いながら、本の値札シールに整えられた綺麗な爪を引っ掛け、優しくゆっくりと剥がしていく。
「では250円になりますね」
「はい」
酔っていたからか、それとも彼女に出会えたことでどうでもよくなったか、値段が想像より高かろうが、そんなことは頭の端から飛んでいっていた。
「250円丁度ですね…ありがとございました。」
「あの…」
前回と同じ。本を一冊購入して終わり。また一週間ほど会えない時間が、もしかしたらそれ以上かもしれない。そう思うと口が勝手に先走っていた。
「次…いつ入ってますか、シフト」
今思えば気持ち悪い質問だったが、彼女は少し考えてから、にこりと微笑んで答えてくれた。
「いつもいますよ」
へ?!…いつも…。嘘つけ…そう思いながら俺は店を後にした。
サンロードの商店街を吹き抜ける冷たい風に当てられながら、古本屋を振り返り、先ほどの言葉を思い返す。「いつもいますよ」…まさか幽…そんなわけないよな。そう自分に言い聞かせ、寒い夜の街を駆け抜けた。
「蒼真、聞いてる?」と友人の声がかかるが、俺は無意識に首を横に振り、その後ろに続く言葉を無視した。
講義が終わり、時間が迫っていることに気づいた俺は、すぐに席を立ち、急いでキャンパスを抜けた。どこか無理にでも、この気持ちを解消しなければいけないような衝動に駆られていた。
梅ヶ丘の駅に到着し、スマホで小田急線の時刻表を確認する。すぐに電車が出ることを確認し、何も考えずにそのまま改札を通った。車内の揺れが心地よい。目を閉じていると、昨夜の店の光景が浮かんでくる。店の中の静けさ、そしてあの奇妙な安心感。どうしてもあの空間が忘れられない。
吉祥寺の駅に着くと、無意識のうちに足がサンロードの路地裏へと向かっていた。いつもの街並みの中で、この場所だけはひっそりとした静けさが漂っている。周りの騒音が消え、少しだけ温かな風が感じられる。踏みしめる歩道の音が、どこか懐かしく、安心させてくれる。
その先に、あの本屋の小さな入口が現れる。街灯の明かりがうっすらと漏れ、ドアの前に静かな明かりが浮かび上がっている。昨夜、思わず引き寄せられるように足を運んだあの場所だ。
「また、来てしまったな…」
足を踏み出すと、自然と呼吸が浅くなるのを感じた。昨日も感じた、あの奇妙な感覚が胸に広がる。店の中からは、ほんのりとした匂いが漂っているようで、その空間に一歩足を踏み入れたくなる衝動に駆られる。
昼間の本屋は、夜の静けさとはまったく違っていた。サンロードの路地裏にあるその店は、気づかない人も多いだろう。だが、木製の棚が並び、古びた外観は逆にこの場所にぴったりと馴染んでいる。
入り口にはドアがなく、開けっ放しの空間が広がっている。そこから店内を見通すと、無造作に積まれた本の背表紙が並び、まるで何年も変わらずにここに置かれてきたかのような落ち着いた雰囲気が漂う。外から入ってくる風が心地よく、店内に漂う本の匂いと混じり合って、少し懐かしい気分にさせられる。
昼間の店内は、ゆったりとした空気が流れていた。常連風の叔父さんたちが数人、棚の前で立ち読みをしている。彼らは本を手に取るだけでなく、時折小声で会話を交わしながら、そのまま何時間も過ごすような様子だ。誰もが何気なく、気取らずに、時間の流れに身を任せている。
蒼真は、その中に自然と溶け込んでいくような気がして、ただその場に立ち尽くす。昨日のことが頭から離れず、心が落ち着かない。目の前の本棚に視線を向けても、どこかぼんやりとした気持ちのまま、手を伸ばして本を選ぶことができなかった。
蒼真は店内をじっと見回し、目を細めてレジのあたりにも視線を走らせた。しかし、昨夜見かけた美少女の姿はどこにもなかった。棚の前で本を手に取る常連たちの間をすり抜けてみても、彼女の姿は見つからない。何度も視線を巡らせてみたが、どうしてもその美少女が見当たらなかった。
もしかすると、シフト制の漏れだろうか。それとも、昼間の時間帯は学校があるから、彼女はこの時間帯には出勤していないのかもしれない。そう考えながらも、蒼真は少し焦ったように再度レジ周りを確認したが、やはり彼女らしき人物は見当たらなかった。
「昨日のことが夢だったんじゃないか…」
その思いが一瞬、彼の頭をよぎる。しかし、すぐにそれは否定される。何故なら、今自分の鞄の中に、昨日購入した経済学概論の教科書が入っているからだ。あの出来事は決して夢じゃない。確かに昨日深夜に、この店で、この教科書を、購入したんだ。美少女がレジをしてくれて。決して今レジに座ってるヨボヨボの爺さんじゃない。
ただ目当ての彼女がいないのでは、来た意味もないと、蒼真はため息を吐きながら店を後にした。あの美少女、エリカに会いたかっただけなのに、結局彼女は店にいなかった。そのまま帰るのもなんだか気が抜けたような感じがして、ふと時計を見ると、もう講義の時間も過ぎている。
「講義も抜けてきちまったし…今から戻るのも面倒だな~」
蒼真は思わず口に出してつぶやいた。実際、午後の残りの講義を受けるくらいなら、家に帰った方がずっと楽だと思った。何もかもが今、どうでもよくなってきた。
結局、蒼真は古本屋を離れ、家に帰る決意を固めた。昨日の夜の出来事が頭から離れず、でも今はどうしてもそれを追いかける気力が湧かない。だんだんと、空は暗くなり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。
蒼真は特に急ぐわけでもなく、ゆっくりと歩きながら、目の前の景色に目をやった。どこか心が浮ついていて、落ち着かない気分だ。それでも歩きながら、彼は不意にそのまま家に帰る決意をした。講義を抜けたことで感じる罪悪感や焦りが、少しずつ消えていく。
やっぱり、家でゆっくりした方がいい。そう心の中でつぶやきながら、蒼真はサンロードの通りを歩き続けた。
次の日も、また次の日も、その古本屋で彼女に会うことはできなかった。そんな日が一週間ほど続き、蒼真は次第にそのことが気にならなくなっていった。彼女との再会を夢見て足を運んでいたあの日々も、徐々に日常の一部になり、気づけばその店のことを少しずつ忘れていた。
だが、春期期末試験の期間に突入すると、蒼真の頭の中は一転して学業に集中せざるを得なかった。用意していた教科書を必死にめくり、経済学概論のテストやその他10教科の期末試験に備える。試験は一日中続き、終わった時には心身ともにぐったりとしていた。
試験が終わると、同期の友達たちと約束していた打ち上げ飲みの時間がやってきた。場所はいつも通り吉祥寺の居酒屋だ。みんな、試験の疲れを吹き飛ばすかのように、レモンサワーの大ジョッキを片手に笑い合っていた。
「終わった~!やっと自由だ!」
友人の一人が大声で叫び、みんなが笑顔で乾杯を交わす。その瞬間、蒼真は少しだけ、心からの解放感を感じた。試験のことを忘れて、ただ楽しい時間を過ごすことに没頭していた。
「でも、なんか蒼真、あんまり楽しそうじゃないな。どうした?」
友人の一人が心配そうに声をかけてきた。蒼真は少し驚き、そして困ったように笑った。
「いや、ちょっとね。なんでもないよ。」
そう言うと、友達は「まあまあ、今日は飲んで騒ごうぜ!」と、また別の話題に戻してくれた。蒼真はそのまま、久しぶりにリラックスした気分で仲間たちと過ごすことにした。
だが、ふとした瞬間、蒼真の心はまたあの古本屋のことを思い出す。彼女は元気にしているだろうか?あの店でまた会える日が来るだろうか?
だが今は、目の前の仲間たちと、目の前の幸せな時間を大切にしよう。そう自分に言い聞かせて、蒼真は再びレモンサワーの大ジョッキを持ち上げた。
「ぶはぁ~~」
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時間は深夜一時を回り、それぞれが次の日のバイトや遊びなどの用事で解散していき、残された蒼真は、またしても古本屋に足を運ぶことにした。飲み会での疲れもあったが、それを気にせずに足を向けるのは、どこか無意識に、あの古本屋で再び彼女に会いたいという気持ちがあったからだ。
前回と同じく、深夜帯の古本屋…。普段は人の気配も少ないその時間帯に、また何かが起こるのではないかという期待が、胸の中に少しだけ湧き上がっていた。
吉祥寺の夜の街を歩きながら、蒼真は無意識に足取りが軽くなるのを感じていた。昼間の喧騒とは違って、夜の街は静まり返っており、少し肌寒い風が街灯の光を揺らしている。蒼真はサンロードの路地裏に差し掛かり、視線を上げると、あの古本屋の小さな入口が目に入る。やはり、変わらずにそこにあった。
「また、来てしまったな…」
自分でそう呟きながらも、蒼真は足を止めることなく、その店に向かって歩みを進めた。先ほどの打ち上げでの浮かれた気分が少しずつ落ち着いて、代わりにまたどこか懐かしく感じる空気が、店の中から漂ってきたような気がした。
店の入り口には相変わらずドアはなく、薄暗い店内からほんのりと漏れる光が、周囲の闇をやわらかく照らしている。蒼真はその光に導かれるように、静かに店の中へ足を踏み入れた。
店内には、いつも通り本棚が所狭しと並び、その背表紙が不規則に並べられている。だが、やはり昨夜と同じように、店内には誰もいないようだった。静寂の中で本の香りが漂い、時折風が店内に吹き込むたびに、ほんのりとその香りが運ばれてきた。
「今日は誰もいないのか…」
少しだけ残念に思いながらも、蒼真は棚に並ぶ本を無意識に手に取っていった。彼女がどこかにいるかもしれないという淡い期待を抱えながら、店の中を歩く。その時、蒼真の目の前に、ふと一冊の本が目に留まる。
それは、普段はあまり見かけないような、古い装丁の本だった。表紙には、蒼真が今まで見たこともないタイトルと、未知の作者名が記されている。気になった蒼真は、その本を手に取って、ページをめくり始めた。
ページをめくる音が店内に響き、蒼真はその一瞬、まるで時間が止まったかのような感覚にとらわれる。そして、突然、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「その本、気に入ったんですか?」
蒼真は驚いて振り返ると、そこに立っていたのは…。
「わぁぁああ!!」
蒼真は思わず声を上げて後ろに飛び退く。自分でも驚くほど大きな声を出してしまい、店内が一瞬静まり返った。
振り返ると、そこにいたのは—昨夜の彼女だった。
「え、あ、えっ?」と、動揺しながら言葉が出てこない蒼真。彼女は少し驚いた顔をしていたが、すぐにその表情を和らげ、微笑みながら近づいてきた。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃいましたね。」
その声は昨夜と変わらず、どこか落ち着いた響きがあった。蒼真は一瞬、心臓が飛び出しそうになるのを感じた。
「い、いえ、こちらこそ…」
蒼真は恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。その瞬間、彼女は軽く笑って、少し照れたように目を伏せた。
「この時間、滅多に人来ないので…」
彼女はそう言って、少し肩をすくめた。笑顔を見せながらも、その目はどこか優しさを帯びていた。
蒼真は、そんな彼女の姿にまた心がドキリとするのを感じた。彼女の存在そのものが、どこか不思議な力を持っているような気がして、思わず言葉が詰まった。
「こ、ここ落ち着くんで。幸せです」
「でもお酒飲んでる時の方が幸せじゃないですか?」
「そ、そんなことないっ…あっ」
蒼真は自分の口に手を置き、アルコール臭いのがバレてしまってると気づき、彼女から一歩引いてしまう。もしかして、前回も…そう思うとまるで自分が飲んだくれが何かと勘違いされているような気分になり不安にある。ただの大学生だというのに。
しかし、そんな蒼真の慌てぶりを見て、彼女はクスりと微笑みを浮かべ、レジの方へと戻っていく。そして、レジの方からほんの少しばかり声を張り、案内する。
「もし気に入ったのなら、私がお会計を担当しますよ」
「是非!」
問答無用。これがどんな内容の本なのかどうでもいい。どうせ50円かそこらだろうし、このために通い詰めてたまであるのだから。
「お願いします。」
そういって本をレジに渡すと、『レッサーパンダの生態』という本を見て、彼女はクスッと笑いながら、本の値札シールに整えられた綺麗な爪を引っ掛け、優しくゆっくりと剥がしていく。
「では250円になりますね」
「はい」
酔っていたからか、それとも彼女に出会えたことでどうでもよくなったか、値段が想像より高かろうが、そんなことは頭の端から飛んでいっていた。
「250円丁度ですね…ありがとございました。」
「あの…」
前回と同じ。本を一冊購入して終わり。また一週間ほど会えない時間が、もしかしたらそれ以上かもしれない。そう思うと口が勝手に先走っていた。
「次…いつ入ってますか、シフト」
今思えば気持ち悪い質問だったが、彼女は少し考えてから、にこりと微笑んで答えてくれた。
「いつもいますよ」
へ?!…いつも…。嘘つけ…そう思いながら俺は店を後にした。
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