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期末試験が終わり、大学は夏休みの長期休暇に入った。賑わう学生たち、小中高大問わず、ロータリー前からコンビニの前、商店街は埋め尽くされ、吉祥寺の街はとてつもないほどに賑わっていた。
「カラオケ90分待ちだってよ!」
「ボーリングも似たようなもん」
「楽しかったね~」
「夏休み最高~」
街ゆく学生たちは笑顔で、夏休みというものを大いに満喫していた。
そんな中、蒼真が向かったのはもちろんサンロードの路地裏にある古本屋だった。年中無休で昼夜問わず営業しているこの店は、今夜もまた数人の常連と爺さんがレジに座って新聞を広げているだけだった。
店内に入ると、静けさが広がっていた。以前と変わらない光景に少しだけ安心感を覚え、蒼真はカウンターの方に目をやる。
「やっぱいないよな~」
店内を見回しても彼女の姿は見当たらず。仕方なく適当に一冊の本を手に取り、常連同様に立ち読みをして時間潰すことにした。
夏休みということもあり、何かするわけでもない蒼真は、ただ彼女を待つように時間を潰す。パラパラとページをめくる音。こそこそと常連が世間話をする小さな声。レジ奥の方で微かに聞こえるラジカセのラジオ番組。どこをとってもレトロチックというか、落ち着くの一言に尽きる。
ただ、何故だろうか。背中にぞっとするような悪寒が走る。こんな猛暑の中、首筋を撫でるような冷たい感覚が…。ふと右側に目をやると、店主の爺さんが新聞越しにこちらをじっと睨んでいた。
ドキッと肩を震わせ、何事もなかったかのように本に目を落とす。しかし、改めて横目で確認してみても、やはりずっとこちらを睨んでいる。何かまずいことをしてしまっただろうか、と行動を振り返る。
もしかして、立ち読みのことだろうか。いや、他の常連も同じように立ち読みしているのに…。我に返り、蒼真は本の値札を確認し、50円の本を二冊手に取る。そしてレジに向かって歩き出す。
「これ、お願いします。」
すると、店主は少し驚いたような表情を浮かべながらも、すぐにご機嫌な様子でレジに通し、紙袋に入れて渡してくれた。
「ありがとね~」
なるほど、物も買わずに立ち読みだけする新規の客だと思われたわけだ。もちろん、店主がいるときに、商品をレジに通したことはなかったから、そのまま購入して、何かのきっかけになるかと思いながら、蒼真は店を後にした。
店を出るや否や、吉祥寺中を埋め尽くす熱風は止まることを知らず、首元や服の中は、流れる汗でぐちょぐちょになり、張り付いて気持ち悪かった。
「あちーーー。」
早く帰ってシャワーに浴びたい、そう思いながら家を目指すのであった。
------------------------------------------
家に帰った蒼真は、手に取った本をぼんやりと眺めていた。今までのように彼女と話すための口実として本を買っていたが、ふと気になってその本の中身を読んでみることにした。
一冊目を開いてみると、「レッサーパンダの生態」と題された本が、予想以上に詳しく書かれていた。ページをめくると、レッサーパンダがどのように生活しているかが克明に記されており、思わず引き込まれる。
レッサーパンダは、もともとヒマラヤ山脈や中国の高地に生息しているが、その生息地は標高の高い場所に限られている。通常は竹林や針葉樹林を好み、夜行性であるため、昼間は木の上でじっとしていることが多い。しかし、夜になるとその鋭い嗅覚と夜行性の視覚を活かして、主に竹の葉や果物、時には小さな昆虫や小動物を食べて生活している。
本の中で特に印象的だったのは、レッサーパンダが非常に社会性の高い動物であることが記されていた点だ。彼らは一度は木の上で寝そべると、まるで木の一部になったかのように動かないことが多いが、同じ場所で見かけることが多いのは、どうやら群れで過ごすことが本能的に大切だとされているからだという。さらに、オスとメスは繁殖期になると一緒に過ごすが、それ以外の季節には別々に行動するという、非常に独特な社会構造を持っているのだ。
そんなことを読みながら、蒼真はふと、あの古本屋の彼女がレッサーパンダを好きだったらどうしようと考えてみたりした。
その時、蒼真は自分が少しだけ恥ずかしい気持ちになったことに気づいた。まさか、あの本が彼女と会話をするためのただの口実だったとは思えない。少しでも彼女に近づこうとする自分の気持ちが、いきなり浮き彫りになったようで、なんだか照れくさく感じた。
「レッサーパンダか…」
本を開いたまま、蒼真はしばらくそのページを眺めていた。レッサーパンダの生活は、少し孤独でありながらも、決して無駄なものではない。自然の中で自己完結的に生き、時に仲間と過ごす。その静かな暮らしが、どこか彼女の雰囲気にも似ているような気がして、思わず目を細めた。
彼女がもしレッサーパンダのことを知っていたら、どういう反応をするだろう。きっと、あの穏やかな微笑みを浮かべながら、静かに語ってくれるだろう。それがとても楽しみであり、同時に少しだけ怖いとも感じた。自分が彼女にどれだけ近づけるのか、今はまだわからない。
その時、蒼真はふと気づく。レッサーパンダが絶滅危惧種であること、そしてその数が減少していること。彼女がもしこの本を見たら、どんな風に思うのだろうか。蒼真は本を閉じて、窓の外を眺めた。吉祥寺の街の灯りが、夜空に溶け込むように輝いていた。
「明日、また行こうかな…」
蒼真は思わずそう呟いた。あの古本屋で、彼女ともう一度会いたくて。彼女がどう思っているのか、少しでも知りたくて。また本を買って、ただそれだけの理由で会いたくて。それだけの理由が、蒼真にはとても大きく感じられた。
彼はもう一度、本のページを開き、レッサーパンダのページをめくった。明日、あの店に行けば、何かが変わるかもしれない—そんな気がした。
その後も、二冊目や三冊目を読み比べ、一日を過ごした…。
次の日、ふと気づくと深夜の時間帯に再びあの古本屋に足を運んでいた。
「また来てしまったな…」
自分でも驚くほど、自然に足が向いていた。いつも通り、静かな夜の街並みを歩きながら、心のどこかで彼女の姿を期待していた。あの微笑みと、穏やかな声が頭の中でちらつく。彼女に会うためだけに、こんな時間に古本屋に足を運んでいる自分に気づいて、少し恥ずかしくなるが、それでもまた自然にドアを押し開けて店内へ足を踏み入れる。
レジの前には、やっぱりあの爺さんが新聞を広げて座っている。常連たちもちらほらと本を手に取り、相変わらず静かな時間が流れていた。しかし、肝心の彼女の姿は見当たらない。
「今日もいないか…」
蒼真は少しだけ肩を落とし、適当に本を手に取る。レジを一度見つめ、その後はふと足元に目を落とすと、何となくいつものように過ぎていく時間が物足りなく感じた。
「うーん…今日は何をして過ごすかな」
そして、手に取った一冊を読み始めながらも、やはり気になるのはあの店にいる彼女のことだった。
そんな中、深夜の吉祥寺の、人っ子一人現れないしがない古本屋に一人の少女が駆け込んでくる。
その足音が静寂を破るように店内に響き、蒼真は驚きのあまり本の手を止めて振り向いた。彼女だった…。
「すみません…遅くなりました~」
彼女は一息つくようにして、息を荒げながらもその小さな声で謝った。額に少しばかりの汗をかきながら、焦った様子が見て取れる。
白基調のワンピースにしたから少しはみ出たショートパンツ。そして青色の手提げエコバッグを持って、出勤してきたのだろう。
「大丈夫ですか?」
咄嗟の彼女の出現に驚きつつも、焦った彼女を放っておけず、思わず声をかけてしまった。そんな自分に愛想笑いで丁寧に対応してくれる彼女に、またしても魅了されてしまう。
「あ、はい。遅刻しちゃいました」
そういってレジの方へ向かうと、爺さんと何やら話しながらバックヤードに姿を消していく彼女。数分して緑のエプロンをつけ、再びお店に顔を出す。その後は爺さんと入れ替わるようにレジに入り、爺さんは店奥の自宅であろう空間に消えて行った。
蒼真はその様子を何気なく見守りながら、手に取った本のページをめくる。しかし、気にならないはずがない。彼女がこの店で働いていることは知っていたが、こうして目の前で「出勤」する姿を見ると、妙に現実味が増してくる。
(そりゃ、バイトなんだから当然だけど……)
改めて考えると、深夜に営業している古本屋も珍しいが、そこで働いている彼女もまた、どこか浮世離れしている気がした。昼間の吉祥寺の喧騒とはまるで別の世界にいるような、そんな静けさの中で、彼女は黙々とレジを整理したり、奥から何冊かの本を運んできたりしている。
(次、何を話せばいいんだろう)
前回の会話を思い出しながら、蒼真はそれとなくタイミングを伺う。何か適当な話題を振りたいが、どうにも言葉が出てこない。気の利いたことが言えればいいのに、と思うほど、余計に焦ってしまう。
そんな中、彼女がふと顔を上げた。
「あの……今日は何かお探しですか?」
彼女の方から話しかけられ、蒼真は一瞬固まる。
「あっ、レッ…サー」
「アレッサーぁ?」
「レッサーパンダ…知ってます?」
当たり前だろーー。
緊張と焦りで思わず、愚直な質問をしてしまったことに恥ずかしくなる。
「当たり前じゃないですか。私山育ちなので、詳しいですよ」
「山育ち、なんですか?」
思わず聞き返すと、彼女は小さく微笑んで、どこか懐かしそうに目を細めた。
「はい。昔はよく森の中を歩き回っていました。レッサーパンダも、動物園じゃなくて、野生のを見たことがあります」
蒼真は驚いてしまう。日本にレッサーパンダの野生個体なんていたか? それとも、彼女の育った場所が特殊だったのだろうか。
「野生で、ですか?」
蒼真は思わず聞き返した。日本にレッサーパンダの野生個体なんていないはずだ。だが、彼女は当たり前のように話している。
「……あれ? いないんでしたっけ?」
彼女は小首を傾げる。
「少なくとも日本にはいないですね。動物園にはいるけど、野生のは確か中国とかヒマラヤとか……」
「あ、そうでしたね。すみません、昔読んだ本とごちゃ混ぜになってたみたいです」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、森で動物を見かけることは多かったですよ。鹿とか、狸とか、時々狐とか」
「へぇ……やっぱり山育ちって感じですね」
蒼真は感心しながら頷く。彼女の育った環境は、自分とはまるで違う。彼女は自然の中で育ち、自分は都会のコンクリートの中で生きてきた。
そう考えると、なんだか彼女がますます遠い存在に思えてしまう。
「じゃあ、その……他にも詳しい動物とかいます?」
そう尋ねると、彼女は少し考えてから、ふっと蒼真を見た。
「そうですね……コウモリとか?」
その答えに、蒼真は一瞬だけ違和感を覚えた。けれど、彼女が夜行性の動物を知っているのは不思議なことではない。
「コウモリ、見たことあるんですか?」
「ええ。夜になると、時々飛んでいるのを見ました。羽ばたく音とか、結構近くで聞くと面白いですよ」
「へぇ……俺、ちゃんと見たことないかも。夜の街でちらっと影が飛ぶのを見たことがあるくらいで」
「そうなんですね」
彼女はクスリと笑った。
「今度、じっくり観察してみるといいですよ。夜の世界には、昼間とは違った生き物がたくさんいますから」
その言葉に、蒼真はふと、この古本屋のことを思い出した。
夜にならないと現れない彼女。
まるで、彼女自身も「夜の生き物」みたいじゃないか。
そう考えると、なぜか少しだけ胸がざわついた。
「この時間って、やっぱり人来ないんですね」
蒼真がぽつりと呟くと、彼女はレジの奥で頬杖をついたまま微笑む。
「ええ、まあ。たまに酔っ払いの方が立ち寄ってくれますよ」
「酔っ払い……?」
「はい。本も買ってくれますし」
その言葉に、蒼真は一瞬考え――そして、ハッとした。
(……待てよ。それ、まさか――)
気づいた瞬間、妙な居心地の悪さがこみ上げる。思わず目を逸らして、棚の方へと手を伸ばす。
「……なるほど」
苦笑しながら、適当に一冊の本を手に取った。
そんな蒼真を見て、彼女はクスクスと笑いながら、少し身を乗り出す。
「たとえば――こんな感じで?」
彼女が上目遣いで覗き込んでくる。
近い。近すぎる。
夜の照明に照らされた肌、揺れる髪、涼しげな瞳――すべてが視界に飛び込んできて、完全にやられる。
蒼真の心臓が跳ねる音が聞こえそうだった。
彼女はそんな蒼真の反応を楽しむように、クスクスと笑いながら体を引いた。
「冗談ですよ」
悪戯っぽい笑顔。
蒼真は息を整えながら、手に取った本をレジへと持っていった。
「これ、お願いします」
こうしてまた、一冊の本が増えていく。
紙袋を手に、蒼真は店の出口――いや、ドアのない開け放たれた入り口へと足を向けた。
そのまま帰るつもりだった。だけど、ふと、ずっと聞きそびれていたことを思い出す。
「そういえば――」
立ち止まり、振り返る。
彼女はレジの向こうで伝票を整理していたが、蒼真の声に気づくと顔を上げた。
「?」
首をかしげる仕草が、どこか柔らかい。
蒼真は少し迷った末に、思い切って口を開いた。
「ずっと聞きたかったんですけど……名前、聞いてもいいですか?」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふわりと微笑む。
「エリカ……矢田絵梨花です」
「矢田絵梨花……」
声に出してみると、なんとなくしっくりくる名前だった。
彼女は微笑んだまま、「あなたは?」と聞き返してくる。
「俺は、宮下蒼真です」
そう名乗ると、彼女――絵梨花は静かに頷いた。
「宮下さん、ですね」
「いや、蒼真でいいです」
蒼真がそう言うと、彼女は一瞬考えるような素振りを見せ――
「……じゃあ、蒼真さん」
どこかくすぐったそうに、名前を呼んだ。
その響きが、夜の静けさに馴染んでいく。
「本、ありがとうございました。また来ます」
「是非!またお待ちしてます」
彼女の言葉を背に、蒼真は夜の吉祥寺へと歩き出した。
「カラオケ90分待ちだってよ!」
「ボーリングも似たようなもん」
「楽しかったね~」
「夏休み最高~」
街ゆく学生たちは笑顔で、夏休みというものを大いに満喫していた。
そんな中、蒼真が向かったのはもちろんサンロードの路地裏にある古本屋だった。年中無休で昼夜問わず営業しているこの店は、今夜もまた数人の常連と爺さんがレジに座って新聞を広げているだけだった。
店内に入ると、静けさが広がっていた。以前と変わらない光景に少しだけ安心感を覚え、蒼真はカウンターの方に目をやる。
「やっぱいないよな~」
店内を見回しても彼女の姿は見当たらず。仕方なく適当に一冊の本を手に取り、常連同様に立ち読みをして時間潰すことにした。
夏休みということもあり、何かするわけでもない蒼真は、ただ彼女を待つように時間を潰す。パラパラとページをめくる音。こそこそと常連が世間話をする小さな声。レジ奥の方で微かに聞こえるラジカセのラジオ番組。どこをとってもレトロチックというか、落ち着くの一言に尽きる。
ただ、何故だろうか。背中にぞっとするような悪寒が走る。こんな猛暑の中、首筋を撫でるような冷たい感覚が…。ふと右側に目をやると、店主の爺さんが新聞越しにこちらをじっと睨んでいた。
ドキッと肩を震わせ、何事もなかったかのように本に目を落とす。しかし、改めて横目で確認してみても、やはりずっとこちらを睨んでいる。何かまずいことをしてしまっただろうか、と行動を振り返る。
もしかして、立ち読みのことだろうか。いや、他の常連も同じように立ち読みしているのに…。我に返り、蒼真は本の値札を確認し、50円の本を二冊手に取る。そしてレジに向かって歩き出す。
「これ、お願いします。」
すると、店主は少し驚いたような表情を浮かべながらも、すぐにご機嫌な様子でレジに通し、紙袋に入れて渡してくれた。
「ありがとね~」
なるほど、物も買わずに立ち読みだけする新規の客だと思われたわけだ。もちろん、店主がいるときに、商品をレジに通したことはなかったから、そのまま購入して、何かのきっかけになるかと思いながら、蒼真は店を後にした。
店を出るや否や、吉祥寺中を埋め尽くす熱風は止まることを知らず、首元や服の中は、流れる汗でぐちょぐちょになり、張り付いて気持ち悪かった。
「あちーーー。」
早く帰ってシャワーに浴びたい、そう思いながら家を目指すのであった。
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家に帰った蒼真は、手に取った本をぼんやりと眺めていた。今までのように彼女と話すための口実として本を買っていたが、ふと気になってその本の中身を読んでみることにした。
一冊目を開いてみると、「レッサーパンダの生態」と題された本が、予想以上に詳しく書かれていた。ページをめくると、レッサーパンダがどのように生活しているかが克明に記されており、思わず引き込まれる。
レッサーパンダは、もともとヒマラヤ山脈や中国の高地に生息しているが、その生息地は標高の高い場所に限られている。通常は竹林や針葉樹林を好み、夜行性であるため、昼間は木の上でじっとしていることが多い。しかし、夜になるとその鋭い嗅覚と夜行性の視覚を活かして、主に竹の葉や果物、時には小さな昆虫や小動物を食べて生活している。
本の中で特に印象的だったのは、レッサーパンダが非常に社会性の高い動物であることが記されていた点だ。彼らは一度は木の上で寝そべると、まるで木の一部になったかのように動かないことが多いが、同じ場所で見かけることが多いのは、どうやら群れで過ごすことが本能的に大切だとされているからだという。さらに、オスとメスは繁殖期になると一緒に過ごすが、それ以外の季節には別々に行動するという、非常に独特な社会構造を持っているのだ。
そんなことを読みながら、蒼真はふと、あの古本屋の彼女がレッサーパンダを好きだったらどうしようと考えてみたりした。
その時、蒼真は自分が少しだけ恥ずかしい気持ちになったことに気づいた。まさか、あの本が彼女と会話をするためのただの口実だったとは思えない。少しでも彼女に近づこうとする自分の気持ちが、いきなり浮き彫りになったようで、なんだか照れくさく感じた。
「レッサーパンダか…」
本を開いたまま、蒼真はしばらくそのページを眺めていた。レッサーパンダの生活は、少し孤独でありながらも、決して無駄なものではない。自然の中で自己完結的に生き、時に仲間と過ごす。その静かな暮らしが、どこか彼女の雰囲気にも似ているような気がして、思わず目を細めた。
彼女がもしレッサーパンダのことを知っていたら、どういう反応をするだろう。きっと、あの穏やかな微笑みを浮かべながら、静かに語ってくれるだろう。それがとても楽しみであり、同時に少しだけ怖いとも感じた。自分が彼女にどれだけ近づけるのか、今はまだわからない。
その時、蒼真はふと気づく。レッサーパンダが絶滅危惧種であること、そしてその数が減少していること。彼女がもしこの本を見たら、どんな風に思うのだろうか。蒼真は本を閉じて、窓の外を眺めた。吉祥寺の街の灯りが、夜空に溶け込むように輝いていた。
「明日、また行こうかな…」
蒼真は思わずそう呟いた。あの古本屋で、彼女ともう一度会いたくて。彼女がどう思っているのか、少しでも知りたくて。また本を買って、ただそれだけの理由で会いたくて。それだけの理由が、蒼真にはとても大きく感じられた。
彼はもう一度、本のページを開き、レッサーパンダのページをめくった。明日、あの店に行けば、何かが変わるかもしれない—そんな気がした。
その後も、二冊目や三冊目を読み比べ、一日を過ごした…。
次の日、ふと気づくと深夜の時間帯に再びあの古本屋に足を運んでいた。
「また来てしまったな…」
自分でも驚くほど、自然に足が向いていた。いつも通り、静かな夜の街並みを歩きながら、心のどこかで彼女の姿を期待していた。あの微笑みと、穏やかな声が頭の中でちらつく。彼女に会うためだけに、こんな時間に古本屋に足を運んでいる自分に気づいて、少し恥ずかしくなるが、それでもまた自然にドアを押し開けて店内へ足を踏み入れる。
レジの前には、やっぱりあの爺さんが新聞を広げて座っている。常連たちもちらほらと本を手に取り、相変わらず静かな時間が流れていた。しかし、肝心の彼女の姿は見当たらない。
「今日もいないか…」
蒼真は少しだけ肩を落とし、適当に本を手に取る。レジを一度見つめ、その後はふと足元に目を落とすと、何となくいつものように過ぎていく時間が物足りなく感じた。
「うーん…今日は何をして過ごすかな」
そして、手に取った一冊を読み始めながらも、やはり気になるのはあの店にいる彼女のことだった。
そんな中、深夜の吉祥寺の、人っ子一人現れないしがない古本屋に一人の少女が駆け込んでくる。
その足音が静寂を破るように店内に響き、蒼真は驚きのあまり本の手を止めて振り向いた。彼女だった…。
「すみません…遅くなりました~」
彼女は一息つくようにして、息を荒げながらもその小さな声で謝った。額に少しばかりの汗をかきながら、焦った様子が見て取れる。
白基調のワンピースにしたから少しはみ出たショートパンツ。そして青色の手提げエコバッグを持って、出勤してきたのだろう。
「大丈夫ですか?」
咄嗟の彼女の出現に驚きつつも、焦った彼女を放っておけず、思わず声をかけてしまった。そんな自分に愛想笑いで丁寧に対応してくれる彼女に、またしても魅了されてしまう。
「あ、はい。遅刻しちゃいました」
そういってレジの方へ向かうと、爺さんと何やら話しながらバックヤードに姿を消していく彼女。数分して緑のエプロンをつけ、再びお店に顔を出す。その後は爺さんと入れ替わるようにレジに入り、爺さんは店奥の自宅であろう空間に消えて行った。
蒼真はその様子を何気なく見守りながら、手に取った本のページをめくる。しかし、気にならないはずがない。彼女がこの店で働いていることは知っていたが、こうして目の前で「出勤」する姿を見ると、妙に現実味が増してくる。
(そりゃ、バイトなんだから当然だけど……)
改めて考えると、深夜に営業している古本屋も珍しいが、そこで働いている彼女もまた、どこか浮世離れしている気がした。昼間の吉祥寺の喧騒とはまるで別の世界にいるような、そんな静けさの中で、彼女は黙々とレジを整理したり、奥から何冊かの本を運んできたりしている。
(次、何を話せばいいんだろう)
前回の会話を思い出しながら、蒼真はそれとなくタイミングを伺う。何か適当な話題を振りたいが、どうにも言葉が出てこない。気の利いたことが言えればいいのに、と思うほど、余計に焦ってしまう。
そんな中、彼女がふと顔を上げた。
「あの……今日は何かお探しですか?」
彼女の方から話しかけられ、蒼真は一瞬固まる。
「あっ、レッ…サー」
「アレッサーぁ?」
「レッサーパンダ…知ってます?」
当たり前だろーー。
緊張と焦りで思わず、愚直な質問をしてしまったことに恥ずかしくなる。
「当たり前じゃないですか。私山育ちなので、詳しいですよ」
「山育ち、なんですか?」
思わず聞き返すと、彼女は小さく微笑んで、どこか懐かしそうに目を細めた。
「はい。昔はよく森の中を歩き回っていました。レッサーパンダも、動物園じゃなくて、野生のを見たことがあります」
蒼真は驚いてしまう。日本にレッサーパンダの野生個体なんていたか? それとも、彼女の育った場所が特殊だったのだろうか。
「野生で、ですか?」
蒼真は思わず聞き返した。日本にレッサーパンダの野生個体なんていないはずだ。だが、彼女は当たり前のように話している。
「……あれ? いないんでしたっけ?」
彼女は小首を傾げる。
「少なくとも日本にはいないですね。動物園にはいるけど、野生のは確か中国とかヒマラヤとか……」
「あ、そうでしたね。すみません、昔読んだ本とごちゃ混ぜになってたみたいです」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、森で動物を見かけることは多かったですよ。鹿とか、狸とか、時々狐とか」
「へぇ……やっぱり山育ちって感じですね」
蒼真は感心しながら頷く。彼女の育った環境は、自分とはまるで違う。彼女は自然の中で育ち、自分は都会のコンクリートの中で生きてきた。
そう考えると、なんだか彼女がますます遠い存在に思えてしまう。
「じゃあ、その……他にも詳しい動物とかいます?」
そう尋ねると、彼女は少し考えてから、ふっと蒼真を見た。
「そうですね……コウモリとか?」
その答えに、蒼真は一瞬だけ違和感を覚えた。けれど、彼女が夜行性の動物を知っているのは不思議なことではない。
「コウモリ、見たことあるんですか?」
「ええ。夜になると、時々飛んでいるのを見ました。羽ばたく音とか、結構近くで聞くと面白いですよ」
「へぇ……俺、ちゃんと見たことないかも。夜の街でちらっと影が飛ぶのを見たことがあるくらいで」
「そうなんですね」
彼女はクスリと笑った。
「今度、じっくり観察してみるといいですよ。夜の世界には、昼間とは違った生き物がたくさんいますから」
その言葉に、蒼真はふと、この古本屋のことを思い出した。
夜にならないと現れない彼女。
まるで、彼女自身も「夜の生き物」みたいじゃないか。
そう考えると、なぜか少しだけ胸がざわついた。
「この時間って、やっぱり人来ないんですね」
蒼真がぽつりと呟くと、彼女はレジの奥で頬杖をついたまま微笑む。
「ええ、まあ。たまに酔っ払いの方が立ち寄ってくれますよ」
「酔っ払い……?」
「はい。本も買ってくれますし」
その言葉に、蒼真は一瞬考え――そして、ハッとした。
(……待てよ。それ、まさか――)
気づいた瞬間、妙な居心地の悪さがこみ上げる。思わず目を逸らして、棚の方へと手を伸ばす。
「……なるほど」
苦笑しながら、適当に一冊の本を手に取った。
そんな蒼真を見て、彼女はクスクスと笑いながら、少し身を乗り出す。
「たとえば――こんな感じで?」
彼女が上目遣いで覗き込んでくる。
近い。近すぎる。
夜の照明に照らされた肌、揺れる髪、涼しげな瞳――すべてが視界に飛び込んできて、完全にやられる。
蒼真の心臓が跳ねる音が聞こえそうだった。
彼女はそんな蒼真の反応を楽しむように、クスクスと笑いながら体を引いた。
「冗談ですよ」
悪戯っぽい笑顔。
蒼真は息を整えながら、手に取った本をレジへと持っていった。
「これ、お願いします」
こうしてまた、一冊の本が増えていく。
紙袋を手に、蒼真は店の出口――いや、ドアのない開け放たれた入り口へと足を向けた。
そのまま帰るつもりだった。だけど、ふと、ずっと聞きそびれていたことを思い出す。
「そういえば――」
立ち止まり、振り返る。
彼女はレジの向こうで伝票を整理していたが、蒼真の声に気づくと顔を上げた。
「?」
首をかしげる仕草が、どこか柔らかい。
蒼真は少し迷った末に、思い切って口を開いた。
「ずっと聞きたかったんですけど……名前、聞いてもいいですか?」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふわりと微笑む。
「エリカ……矢田絵梨花です」
「矢田絵梨花……」
声に出してみると、なんとなくしっくりくる名前だった。
彼女は微笑んだまま、「あなたは?」と聞き返してくる。
「俺は、宮下蒼真です」
そう名乗ると、彼女――絵梨花は静かに頷いた。
「宮下さん、ですね」
「いや、蒼真でいいです」
蒼真がそう言うと、彼女は一瞬考えるような素振りを見せ――
「……じゃあ、蒼真さん」
どこかくすぐったそうに、名前を呼んだ。
その響きが、夜の静けさに馴染んでいく。
「本、ありがとうございました。また来ます」
「是非!またお待ちしてます」
彼女の言葉を背に、蒼真は夜の吉祥寺へと歩き出した。
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