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第3話 『デート①』
しおりを挟む八月初旬。猛暑は治まる気配を見せず、一週間連続で最高気温を更新し続けている。日が沈んでも熱気は街にこもったまま、アスファルトの隙間からむわっとした空気が立ち上る。
そんな暑く湿った夜の吉祥寺の街で、二人の男女が待ち合わせをしていた。
「待たせちゃいましたか?」
夜の雑踏の中、少し息を弾ませながら彼女——矢田絵梨花が現れる。肩まで伸びた髪を耳にかけ、いつもの緑のエプロンではなく、シンプルなブラウスとスカート姿。蒼真は、普段とは違う彼女の雰囲気に思わず見とれてしまう。
「い、いや!俺も今来たところだから!」
ベタな返しをしつつも、実際は約束の時間より少し早めに来ていた。落ち着かない様子でスマホをいじりながら、何度も周囲を確認していたのは秘密だ。
「なら良かったです。さて、行きましょうか」
彼女は微笑みながら、駅前の通りを歩き出す。目指すは、吉祥寺にある紅茶専門のカフェ。普段は本屋での短い会話しか交わさなかった二人にとって、初めての“外での”時間だっ
「そういえば…シフト、休んじゃってよかったの?」
エリカとの初めてのデートに喜びのあまり興奮しつつも、お店をたったの二人で切り盛りしてるうえに看板娘をお借りしてしまったことに対して、店主の爺さんに申し訳なさもあった蒼真。しかし、そんな蒼真を安心させるかのようにエリカは語る。
「あー、大丈夫です。元々はこの時間開けてないので」
「え?開けてない?」
「店長すごく優しい人で、私を雇う代わりに深夜帯もお店を開けてくれてるんですよ」
特別待遇。あの古本屋は、普通なら夕方の段階でお店を完全に閉めてしまうらしく、エリカをアルバイトとして雇ったことで深夜帯も毎日のように開けているらしい。
「そんなことって……ある?」
蒼真は思わず呟いてしまう。だって、たった一人のアルバイトのために営業時間を変えるなんて、普通なら考えられない。それに、あの店主の爺さんがそんなに柔軟な人間だとは思えなかった。
「店長、すごく私のこと気にかけてくれてるんです。私、少し前に引っ越してきたばかりで知り合いも少なかったから、あのお店が居場所みたいになってて」
エリカは笑いながら、どこか遠くを見るような目をした。
「それで、お店を開ける時間を調整してくれたってわけか……すごいな」
「ふふっ、店長、意外と優しいですよ? ちょっと頑固ですけど」
確かに、蒼真から見てもあの爺さんはただの気難しい店主ではなかった。最初は不機嫌そうに睨まれたけど、本を買った途端に態度が和らいだのを思い出す。もしかすると、エリカに対してもそんな風に何か特別な思いがあるのかもしれない。
「それにしても、深夜の古本屋ってちょっと特別ですよね。なんか、秘密基地みたいで」
「……確かに、そんな感じするかも」
二人はそんな話をしながら、目的の紅茶専門店へと歩みを進めた。ビルの一角にひっそりと佇むその店は、昼間の喧騒とは無縁の落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「着きました!ここの3階ですね」
エレベーターの無い、細く狭い階段を一列に登り、見えたこじんまりとしたカフェ、『カフェ・ブラン』。木製のドアには、小さな黒板に白いチョークで「営業中」の文字。シンプルながら温かみのある手書きの文字に、どこかホッとする。
「へぇ、こんなところに紅茶専門のカフェがあったんだな」
「ふふっ、隠れ家みたいでしょ? 友達に教えてもらったんですけど、落ち着いた雰囲気でお気に入りなんです」
エリカはそう言いながらドアを押し開けた。
カランカラン……
小さな鈴の音が鳴り、こぢんまりとした店内に足を踏み入れる。照明は柔らかく、ウッド調のインテリアが心地よい。テーブル席が数卓と、壁際のカウンター席。奥の方には、紅茶の茶葉が並ぶガラスケース。まるで洋館の書斎のような落ち着いた雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
奥から店員らしき女性が静かに声をかけてくる。
「カウンターでもいいですか?」
「はい、ご自由にどうぞ」
エリカが迷わずカウンター席を選び、蒼真もその隣に腰を下ろす。すぐ近くに紅茶のポットが並び、漂う香りが心を和ませる。
「すごいな、ここ。なんか落ち着く」
「でしょ? 紅茶もすごくおいしいんですよ。種類もたくさんあって」
エリカはメニューを開きながら、楽しそうに紅茶の説明を始めた。その横顔を見ながら、蒼真はふと、こんな時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。
「どれにしようかな……」
エリカはメニューを覗き込みながら、悩む素振りを見せる。
一方の蒼真は、紅茶に関して特に詳しくないため、正直どれを選べばいいのかわからない。
「おすすめとかある?」
「うーん……蒼真さん、紅茶は普段飲みます?」
「いや、全然。コーヒーばっかり」
「じゃあ、初めてでも飲みやすいのがいいですね。アールグレイとか、ディンブラとか……あ、アイスロイヤルミルクティーもおいしいですよ」
すらすらと紅茶の種類を挙げるエリカの姿に、改めて彼女の紅茶への愛が感じられる。
「じゃあ、それで。アイスロイヤルミルクティー」
「了解です! じゃあ、私は……ダージリンにしようかな」
二人は店員を呼び、それぞれの紅茶を注文する。
「しかし、エリカって本当に紅茶詳しいんだな」
「昔から好きなんです。実家にいた頃は、よく親と紅茶を飲んでました。田舎なんですけど、自然の中で飲む紅茶って、すごく贅沢な気分になれるんですよ」
そう言って微笑むエリカの表情は、どこか懐かしさを含んでいるようにも見えた。
「へぇ……エリカの実家って、どこなんだ?」
「んー、秘密です」
「え、なんで?」
「言ったら、いつか蒼真さんが突然訪ねてきそうだから」
「そんなストーカーみたいなことしないって!」
二人は自然と笑い合う。
そうしているうちに、注文した紅茶が運ばれてきた。
「お待たせしました。アイスロイヤルミルクティーと、ダージリンです」
テーブルに置かれた二つのカップから、ほのかに立ち上る湯気。ミルクのまろやかな香りと、ダージリンの爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐる。
「いただきます」
「いただきます」
蒼真は、まずストローでアイスロイヤルミルクティーを一口。
……ほんのり甘く、優しい味が口の中に広がる。
「どうですか?」
「……めちゃくちゃうまい」
「でしょ?」
エリカは満足そうに微笑む。
こうして二人の穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
そんな中、エリカがダージリンの入ったカップに目を落としながら、反射する自分の瞳を見つめて言葉を漏らす。
「私、あまりこっちに知り合いいなくて」
先ほどの「引っ越してきた」という話だろう。
「知らない土地で、周りは知らない人たちばかりで、その…夜型だし、人とあわないんですよ。だから…」
「だから?」
蒼真が促すように尋ねると、エリカはふっと笑いながら、ゆっくりとカップを揺らす。琥珀色の液体が静かに波打ち、淡い光を反射した。
「だから……蒼真さんが来てくれるの、嬉しいんです」
その言葉が予想外だったのか、蒼真の心臓が一瞬だけ強く跳ねる。
「俺が?」
「はい!最初はちょっと変わったお客さんだなぁって思ってましたけど、何度も来てくれるうちに……うん、なんて言うんでしょうね」
エリカは少し考えるように視線を落としたあと、再び顔を上げ、茶目っ気たっぷりに微笑む。
「まるで……私のお店の“常連さん”みたいだなって」
冗談めかした言葉に、蒼真は肩の力が抜ける。
「それって褒められてるのか?」
「もちろん!」
エリカは楽しそうにカップを傾け、ダージリンを一口。
「私、心落ち着く人とゆっくり話してる時間が好きだったんですよ。だから、久しぶりにこうやって誰かと紅茶を飲みながら話せるの、すごく嬉しいです」
穏やかにそう言う彼女の表情は、普段の茶化すような笑みとは違って、どこか柔らかい。
蒼真は手元のカップを見つめながら、ふと気づく。
この時間、この空間、そして向かいに座るエリカとの会話——それらが、自分にとっても心地よいものになっていることに。
「……そっか」
短く答え、アイスロイヤルミルクティーをもう一口飲む。ミルクの優しい甘さが、少し火照った胸の内を冷ましてくれるようだった。
しばらく紅茶を飲みながら、ぽつぽつと何気ない会話を交わす。エリカの好きな本の話、蒼真が最近読んだ小説のこと——とりとめのないやりとりが、静かで穏やかな時間を作り出していた。
「……こうしてると、時間が経つのあっという間ですね」
エリカがカップをソーサーに置きながら、ゆるく笑う。
「確かに。気づけば結構長居してるな」
時計を見ると、もうすぐ日付が変わる頃だった。
「そろそろ帰ろっか」
蒼真がそう言うと、エリカは少し残念そうにしながらも「そうですね」と頷いた。二人は会計を済ませ、店を出る。
夜風がほんの少しだけ涼しく感じられる。人の少なくなった吉祥寺の街を並んで歩きながら、駅前の横断歩道に差し掛かったところで、蒼真はふと足を止めた。
「……また、誘ってもいい?」
その問いかけに、エリカは少し驚いたように瞬きをする。
そして、すぐに小さく微笑んで——
「もちろん」
そう一言、柔らかく答えた。
青信号に変わり、二人はそれぞれの帰路へと歩き出す。
その夜の空気は、いつもより少しだけ涼しく感じられた。
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それからというもの、蒼真とエリカは以前にも増して言葉を交わすようになった。
深夜の古本屋で、レジ越しに何気ない会話をしたり——
「これ、新しく入った本なんですけど、面白いですよ」
「おっ、どれどれ……あ、これ俺の好きな作家だ!」
「やっぱり。好きそうだなって思いました」
「エリカさん、俺のことわかってきましたね」
「ふふっ、どうでしょう?」
時には、お店が暇な時間に二人並んで本を読んだり——
「……なに笑ってるんですか?」
「あ、いや。エリカさんの表情、すごい真剣だったから」
「もー、変なこと言わないでください」
「いやいや、楽しそうでいいなって思っただけ」
「もう……」
そんな、些細だけれど心地いい時間が、当たり前のように続いていた。
そして、エリカが休みの日には、蒼真が誘って二人で深夜カフェを巡ることも増えた。
「ここ、前から気になってたんですよね」
「雰囲気いいな……お、メニューに紅茶がめっちゃある」
「え、何種類あるんですか?」
「ざっと見ても二十種類くらい?」
「すごいですね。……じゃあ、今日はどれにします?」
「エリカさんに任せます」
「えっ、責任重大!」
そんな他愛のないやり取りを重ねるたびに、二人の距離は少しずつ縮まっていく。
——深夜の静かな時間。
カフェの柔らかな灯りの下、笑い合う二人の姿があった。
そんな微笑ましい日常を送る中で、ある日、蒼真はふと心の中で一つの決意を固めた。前に一度、昼間の遊園地デートに誘ったとき、彼女は断ってきた。あの時は、まだお互いにどこかぎこちなさがあったし、もしかしたら蒼真自身が不安を感じていたのかもしれない。それから少し時間が経ち、少しずつ関係も深まった気がする。
でも、昼間のデートは、どうしても彼女にとっては重かったのだろうか? それとも、単純に他の予定があったのだろうか。あの時の断り方を思い返すと、なんとなく彼女が申し訳なさそうにしていたことを覚えている。
ただ、今なら違う。あの時よりも少しだけ自信が持てるようになったし、何よりも関係が少しずつ深まっている実感があった。そして、あのときの失敗を踏まえて、今度は昼間ではなく、夜の遊園地に誘おうと思った。
その夜、二人はお気に入りのカフェでお茶をしていた。周囲は薄暗くなり、窓の外には街灯の明かりがポツポツと灯り始めている。店内の照明も落ち着いた色合いで、落ち着いた雰囲気の中で二人は静かに会話を楽しんでいた。
「最近、遊園地とか行った?」
蒼真は少しの間、言葉を飲み込んでから、思い切って切り出した。
彼女は少し考えるように眉をひそめた後…
「行かないですね…。遊園地なんて行った記憶ないですし」
「一回も?」
「一回も無いです」
彼女は少し照れたように笑いながら言った。
その言葉に蒼真は思わず顔をほころばせた。こんなにも意外なことがあるなんて、少し面白くなってきた。
「じゃあ、今度一緒に行こうか。夜の遊園地、イルミネーションもきれいだし、きっと楽しいと思うよ」
蒼真は少し照れながら、でも真剣に言った。
「夜のイルミネーション…素敵ですね!」
エリカも満更ではなく、夜のイルミネーションというワードに思わず目を輝かせていた。その表情を見た瞬間、蒼真は少しホッとした。彼女が乗り気でいてくれて、心の中で自信が深まるのを感じた。
「楽しみにしていますね」
エリカは微笑みながら、少し嬉しそうに続けた。
「うん、きっとすごく楽しいよ」
蒼真は思わずうなずきながら言った。どこか安心したような気持ちで、彼女と一緒に過ごす夜のことを想像していた。
その日の夜、エリカのシフトが休みになる日を待つことになるとは、蒼真はもちろん、二人ともその後起こる出来事には全く気づいていなかった。あの日、遊園地での夜のデートがただの楽しい時間になると思っていたが、その日が彼らの関係にとって、思いがけない大きな転機になることを、誰も予測していなかった。
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