豪華客船での結婚式一時間前、婚約者が金目当てだと知った令嬢は

常野夏子

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白きドレスはまだ純白1

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 潮の香りが、絹の裾にまで忍び込んでくる。
 豪華客船〈オーシャン・グレイス〉の船体は、朝の光を浴びて乳白色に輝き、波を裂いて進んでいた。大理石の床に陽光が反射し、天井のシャンデリアは宝石のように煌めいている。
 
 セレーナ・アルバートは、船内の特別控え室にてドレスの裾を直していた。刺繍職人が半年をかけて仕立てた純白のドレス。胸元には母の形見の真珠のブローチが光っている。

 今日は、ベリッシマ・ロッソとの結婚式。
 社交界で「黄金の青年」と称えられる彼は、端正な顔立ちと、油断ならないほど滑らかな口調で、セレーナの家族や友人までも魅了してきた。婚約発表の夜には、彼の微笑み一つで人々が拍手を送った。
 
 ――あの日から、私は疑いを抱く理由などなかった。

 甲板の向こうから、船楽団が試し弾きするヴァイオリンの音色が届く。心臓の鼓動もその旋律に合わせるように静まっていく……はずだった。

 だが、妙なざわつきが胸の奥に渦を巻いていた。
 まるで潮流の中に落とした指輪を探しているような、説明のつかない不安。
 
 式まであと一時間。
 控え室から出たセレーナは、気分転換に船内を散歩することにした。

 〈オーシャン・グレイス〉は三層吹き抜けのプロムナードを中心に、左右に店舗やサロンが並び、その上には展望デッキやプールがある。壁面の金箔モールディング、赤絨毯の階段、香水のように甘い花の香り。
 どこを切り取っても絵画のようだが、その豪奢さが今はやけに遠く感じられた。

 視線は自然と人々の顔を探していた。ベリッシマの姿を見たい、安心したい――そんな感情だったのかもしれない。

 だが、その瞬間。
 プロムナードの奥、ガラス張りの回廊に二つの影が揺れているのが見えた。
 
 男の背中。見慣れた、紳士服の仕立て線。肩の傾き、片手の癖――ベリッシマ。
 そして彼の腕の中には、艶やかな赤いドレスの女。

 女は笑いながらベリッシマの胸元に指先を滑らせ、彼はそれを包み込むように腰を引き寄せた。
 耳元で囁き合い、唇が重なる。
 ただの挨拶の口づけではない。恋人だけが交わす、深く、甘い口づけ。

 セレーナは、足の裏が船の床に吸い付くように動けなくなった。
 視界の端で、真珠のブローチが震えているのがわかる。
 
 ――あれは何? 夢? 悪い冗談?

 だが、現実はさらに残酷だった。
 口づけのあと、ベリッシマは女の頬を撫でながら、低く甘やかな声で言った。

「……あの女(セレーナ)の資産が手に入ったら、この船の寄港地で消えよう。二人で、ね」

 波音が、耳の奥で破裂したように響いた。
 ドレスの裾が、突風に煽られるように揺れる。胸の奥に冷たい海水を流し込まれたような感覚が広がり、指先から温度が奪われていく。

 ベリッシマは、もう一度女に口づけを落とした。
 そして、セレーナの知らない笑顔を浮かべた――獲物を食らう獣のような笑顔を。
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