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第一章 平穏だった日常の片端
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Ⅰ
――時は、数ヶ月前に遡る。
月居幸空は、自室の窓枠に腰掛けていた。窓から時折入ってくる穏やかで温かい風を受ければ、ロリエの髪がサラリと揺れる。窓から見えるのは、桜の木で。満開な薄桃色に染まったそれを窓から眺め、口元を緩めた。
片足を伸ばし、もう片方の足は曲げてくつろぐ。着物の裾が風に揺らいだ。足の間には酒瓶が置かれており、右手には盃を収めていた。時折、盃を口元に持っていき、ゆっくりと傾ける。
穏やかな時間を過ごしていれば、少々強めに自室の襖が開かれた。
「幸空、行儀が悪いですよ。それに、そんなところにいては危ないですし、身体を冷やすでしょうから――」
「たまには良いだろう。つい、桜に惹かれてな」
室内に足を踏み入れたのは、幸空の部下の一人である奏で。彼の手の中には、盆があった。その上には湯呑みと茶菓子が置かれている。幸空はクスリと笑って告げるだけで、窓枠から下りるつもりはないらしい。奏はそれを見て深くため息をついた。
「一人で酒盛りですか? 私たちも誘ってくださればよろしいのに」
「なに、今日はひとりで楽しもうかと思っただけだ。きっと、またお前たちとは花見をするだろうからな」
「・・・・・・幸空には勝てません」
奏は困ったように眉を下げてから、降参とばかりに告げる。幸空はそれを見つつも、奏に笑いかけて告げる。
「何を言うか、奏に勝てるとは思っておらん。・・・・・・わざわざ持ってきてくれたのだろう、すまないな」
幸空は奏の手にある盆を見つつ告げる。幸空が頼んだわけではなく、気を遣った奏が持ってきてくれたことを理解して告げたのである。奏はそれを聞いて、穏やかに微笑んだ。
「もったいなきお言葉。・・・・・・その様子だと、すでに仕事は終わっているようですね」
「ああ、少し前にな。報告書を書くだけだ、そう時間もかからん」
「幸空のように、淡々と執務を終わらせてくれるものばかりだと、私も困らないのですが・・・・・・」
奏は盆を机の上に置いてから、報告書を手に取った。目を通し終えると、満足そうに頷いてからぼやく。ぼやいたその言葉は、きっと幸空に仕えている他の部下たちに零したものだろう。幸空は盃を傾けてから、くつりと笑った。
「そう言ってやるな。人間の中でも得手不得手があるように、俺たちにもあるさ。期日を守れば良しとしてやれ」
幸空が言えば、奏は渋々頷いた。奏の中にも不満はあるのだろう。幸空が上司の立場に当たることによって、言えないこともあると理解する。幸空も別に奏を困らせたいわけではない、彼には感謝しているのだ。
幸空は奏を呼ぶ。奏が不思議そうに幸空に近づけば、幸空は彼の頭をゆっくりと撫でた。奏がピクリと反応を示す。
――その頭には、ふわりとした獣の耳があった。
幸空は撫でながら微笑む。
「奏には、苦労をかけるな」
「・・・・・・いえ、私は幸空のためなら」
「ああ、助かっている。感謝している」
幸空はフッと笑ってから、奏の頭をぽんと軽く叩いた。奏が嬉しそうに目を細め、もう少しと強請ろうとした瞬間、今度は襖が勢いよく開かれた。第三者が室内に足を踏み入れる。
「幸空、現世で饅頭買ってきた。食おうぜ」
「倭、出かけていたのか。おかえり」
「おう、ただいま」
幸空は奏の頭から手を離し、視線を倭に向ける。奏は主君の手が離れたのを残念に思うのと同時に、倭へとにこりと笑いかけた。その目は笑っていなかったが。
「倭、書類仕事は終わったんですよね?」
「うっ・・・・・・。も、もう少しだから良いだろ。幸空、美味そうだろ?」
「ああ、良いな」
「そんなに食べたら、夕飯が入りませんよ」
幸空の元に足を進め、抱えていた紙袋の中を自身の主君に見えるように倭は見せる。
――そんな彼の背中には、大きな翼があった。
幸空は紙袋の中を見て、満足そうに頷く。だが、大量にある饅頭を見て苦言を申すのは奏で。幸空はそれにくつりと笑った。
「なに、後でまた皆で食えば良い。奏の飯を食わないなど、勿体ないからな」
「もう、幸空ったら、褒めても何も出ませんよ」
「乙女か」
嬉しそうに告げる奏を見て、倭はボソリと呟く。そのツッコミには触れることなく、奏は別のことを口にした。
「それはそうと、倭。人間に扮して現世には行きましたよね?」
「当たり前だろ。こいつはここに着いてから出したってーの」
倭は当然だと言わんばかりに告げてから、自身の背中を親指で示す。
――幸空も、奏も、倭も、それからこの場にいない残りの二人も、皆、人間ではなかった。姿は人間ではあるものの、その存在とは程遠い。
幸空は首の辺りに鱗が、奏には獣の耳と尻尾が、倭には翼がある。
彼らは、人間の世界で「妖怪」と称されるものたちであった――。
奏の正体は、妖狐。一般的に、「化け狐」と呼ばれているものである。
倭は、白狼。「木の葉天狗」と呼ばれることが多い、天狗の種族である。
そして、幸空は――。
――「九頭龍」と呼ばれる神話に登場する九つの頭を持つ龍であった。
幸空は窓の外を眺める。桜の先を見て、最近足を運んでいない現世のことを思い浮かべた。
「現世、か⋯⋯。ここのところ、足を運べていないな」
「幸空に何かあっては困ります。あまり一人では出歩かないでくださいね」
「分かっている。奏は心配性だな」
「つーか、幸空。一人で酒飲んでんなよ、俺も誘え」
「お前もか、倭。⋯⋯今夜は、満月らしい。月見酒、でも良いだろう」
「お、やりい」
三人は口々に言葉を交わして笑うのであった。
Ⅱ
少し時間が経過すると、三人目が幸空の部屋へと訪れる。
「幸空、いるだろうか」
「凰、戻ったか。無事で何よりだ」
幸空は凰をにこやかに出迎えた。
――凰。彼の正体は、八咫烏。黒き翼をはためかせて飛ぶ。偵察や情報収集を得意とし、幸空の元から離れていることが多かった。
凰は幸空の言葉に頷く。
「もったいなきお言葉。⋯⋯少し、耳に入れておきたいことが」
「⋯⋯何か、あったのか」
凰の言葉に幸空は低い声で聞き返す。目を細め、黄金に輝く瞳を煌めかせた。凰はその言葉にしっかりと頷いて見せる。周囲にいた奏や倭も彼の言葉に耳を傾けた。
「現世――人間の世界で不穏な動きが⋯⋯。そちらに住んでいる妖怪たちも落ち着かないようで、見回り中に声をかけられることもしばしば」
「⋯⋯すでに、異変が起きていると言うのか」
「いえ、まだ何も。ただ、彼らは不穏な空気を察しているようで、何とかしてくれ、と⋯⋯」
凰の言葉に反応を示したのは、奏だった。
「我が主の手を煩わせるとは⋯⋯」
黒いオーラを出し始めている奏を、幸空は手で制す。
「良い。⋯⋯凰、今日の見回りでそれ以外には」
「問題なく。ただ、気になることとするなら、現世では、ここのところ事件に巻き込まれて亡くなる者が多い、と⋯⋯」
幸空はその報告を受けて頭を抱える。一つ息を吐き出して、ポツリと呟いた。
「またか⋯⋯」
幸空が心を痛める中、倭はそれを緩和しようと口を開く。
「幸空、どうしようもねえよ。お前がどれだけ気にかけようと、人間の欲は大きすぎる」
「⋯⋯分かっている。欲のない者はいないと言っても、過言ではないことぐらい。だが⋯⋯」
幸空はどうにもできない悔しさを息とともに吐き出した。
幸空は人間が好きだった。感情を持ち、多種多様な考えを述べ、この世界にありとあらゆるものを作り出せる発送を持つ人間のことを。素直に尊敬したし、感心もしていた。
だが――。
奏が次いで口を開く。
「幸空、人間は過ちを起こす者です。⋯⋯正直に言って、ここ最近の現世はおかしい。はっきり言って、壊れてきているでしょう。人が人を手にかけ、自分勝手な正義を振りかざし、心にもない言葉が飛び交う。自身すら追い込むほどです。その世界を変えることなど――」
「――奏」
幸空は遮るようにして静かに名前を呼んだ。奏は口を噤む。話を黙って聞いていた倭や凰も、ただじっと主君の言葉を待った。幸空は桜へと視線を向けてから言葉を紡ぐ。
「⋯⋯確かに、俺たちが人間のすべてを理解することなど到底できないだろう。彼らとは考え方が違う、何より生きる時間の長さが違いすぎる。俺たちの時間は遥かに長いが、彼らの時間は一瞬だ。俺たちからすれば、の話ではあるが、な」
幸空は一度言葉を区切って、桜に向けていた視線を今度は三人へと向ける。幸空は黄金に煌めく瞳をさらに輝かせた。
「それでも、彼らは懸命に生きている。俺たちでは思いつかなかったものも、彼らの発想で作り出された。彼らのおかげで、生活は豊かになったも同然だ。⋯⋯同族を手にかけるというのは、理解に乏しい。それ相応の理由があるにせよ、罪を犯すことを許してはいけないだろう。だが、それでも現世には人間が必要だ。彼らがいたからこそ、ここまで発展した。いくつかの問題も出てはいるが、それでも現世には人間が必要だと、俺は思っている」
幸空の意志は固い。ただ単に、人間が好きだから援護しているわけではない。この世界に、現世に人間が必要だと思うから、彼らがこの世界で前へ進もうとするから、幸空は彼らを守りたいと思うのである。だからこそ、彼らが好きなのである。
主君の意思は固く、誰が何を言ったとしてもきっと意見を曲げることはないだろう。
彼は、何としてでも人間を守ろうとするに違いない。
幸空の言葉を聞いて、三人は困ったように顔を合わせる。だが、やがて諦めたように笑った。何を言っても無駄だと、理解しているからであった。
「⋯⋯幸空に何を言っても、無駄ですね」
「だな。どんな理由でも覆さねえだろう。まず、俺たちも現世のこと、現世って言うようになっちまってるしなあ。影響力すげえわ」
「我らが主は人が良すぎるからな」
三者三様に言葉を告げる彼らを見て、幸空はくつりと笑う。それから、困ったように告げた。
「⋯⋯まったく、好き勝手言ってくれる」
嫌な気はしない。自分の部下が、自分の意志を聞いてくれるのは、何とも嬉しいものだ。幸空は再度くつりと笑ってから、三人を見つめた。
「少し、調べてみる必要はありそうだな」
「それなら、大丈夫ー」
幸空が言葉を紡いだ直後、最後の一人の声が外から届いたのであった。
Ⅲ
「よっと」
窓から身軽に入ってきたのは、最後の一人である柳。華麗に着地すると、窓枠に腰掛けていた幸空の膝に頭を乗せる。
「幸空、ただいまー」
「おかえり、柳。相も変わらず散歩してきたのか。無事に帰ってきたようで何よりだが」
「へへ、もっと撫でてー」
幸空は柳の頭をゆっくりと撫でる。柳は嬉しそうに頭を擦り寄せた。
――柳。彼の正体は、猫神。よく現世には猫の姿で出かけているらしい。人間に撫でられ、可愛がられている中でマイペースに情報を集めてくる。彼は猫神だかなのか、幸空の手と膝の上がお気に入りだった。
幸空が柳を撫でる中、奏が静かに説教を始める。
「柳、幸空の膝を占領しないでください。幸空の足が痺れてしまいます。それに、あなたは毎回毎回――」
「奏の説教はいらなーい」
「⋯⋯柳?」
奏の言葉を遮って口を尖らせる柳。ツーンと素っ気なく顔を背け、幸空の手に意識を委ねる。奏は黒いオーラを放って柳の名を呼ぶが、柳が反応することはなかった。
幸空はそれを優しく制す。
「まあ、待て、奏。柳の話を聞いてからでも遅くはないだろう」
「むー、幸空は奏の説教を止めてよ」
「柳、奏はお前を心配しているから言うんだ。甘んじて受け止めるんだな」
幸空の言葉に、柳は頬を膨らませる。納得いかない、そう告げている表情に、幸空は苦笑した。機嫌を取るように彼の頭を撫で続けながら、話の先を促す。
「柳、聞かせてくれ。何があった」
「んー、何かね、現世の気配が禍々しかったの。落ち着かないっていう感じ。でも、探れなかった。人間は気がついてないみたいだったから、こっちの感じだろうなーって」
「⋯⋯珍しいな、柳が曖昧な表現をするのは」
柳の言葉に、幸空が反応を示す。彼はマイペースではあるが、ハッキリと物は申すほうだった。「妖怪」とは言わずに、「こっちの感じ」なんて曖昧な表現をする。おそらく、何か引っかかることがあるのだろう。
幸空の言葉に、柳は間延びした返事で肯定した。
「よく分からなかったから。人間がおかしくなっているのと関係があるのかもね。毎日のように何かしらの事件も起きているみたいだし」
柳はそう告げると、話は終わったとばかりにダラーンと幸空の膝の上で伸びた。人間に近い姿であるというのに、動作は猫そのものである。
幸空も文句を言うことなく、柳の好きにさせていた。顎に手を添えたまま、ふむと頷く。考え始めた幸空を眺めつつ、奏は問いかけた。
「いかがいたしますか、幸空」
幸空はその言葉に、とりあえず「そうだな」とだけ呟くのであった。
Ⅳ
幸空は四人に視線を向けてから言葉を紡ぐ。
「会議の場を設けてもらえるように、文を出して報告する。動くとしたら、その後だな」
「しかし――」
「下手に動くこともあるまい。わざわざお前たちを危険な目に遭わせることもなかろう。方向性を皆と決めてからにすれば良い」
幸空がそう告れば、四人は神妙な顔をした。重々しい空気が室内を包み込んでいく。幸空はそれを和らげるために口を開いた。
「そう構えるな。これは俺たちだけの問題ではないだろう。他のものたちにも協力してもらえば良い。⋯⋯それよりも――」
幸空は一つ言葉を区切る。四人がじっと主君の言葉を待つ中、幸空はフッと笑った。
「――まずは、花見と洒落込むことにしよう。一時の休息も必要だ。今宵は満月とも言う、夜桜も良かろう」
「お、やりい!」
「⋯⋯そうですね」
「わーい」
「我らが主の仰せのままに」
表情が緩んだ四人を見て、幸空は安堵する。それから、窓の外へと視線を移し、桜の散るさまを見つめた。
桜が散ってしまった時のことなど、未来のことまで自分たちには分からない。今だけは、そう祈るかのように、幸空は散る桜へと願いを込めた。
だが、この後思いもよらぬ事が起きるなど、この時は誰も予想できなかったのであった――。
――時は、数ヶ月前に遡る。
月居幸空は、自室の窓枠に腰掛けていた。窓から時折入ってくる穏やかで温かい風を受ければ、ロリエの髪がサラリと揺れる。窓から見えるのは、桜の木で。満開な薄桃色に染まったそれを窓から眺め、口元を緩めた。
片足を伸ばし、もう片方の足は曲げてくつろぐ。着物の裾が風に揺らいだ。足の間には酒瓶が置かれており、右手には盃を収めていた。時折、盃を口元に持っていき、ゆっくりと傾ける。
穏やかな時間を過ごしていれば、少々強めに自室の襖が開かれた。
「幸空、行儀が悪いですよ。それに、そんなところにいては危ないですし、身体を冷やすでしょうから――」
「たまには良いだろう。つい、桜に惹かれてな」
室内に足を踏み入れたのは、幸空の部下の一人である奏で。彼の手の中には、盆があった。その上には湯呑みと茶菓子が置かれている。幸空はクスリと笑って告げるだけで、窓枠から下りるつもりはないらしい。奏はそれを見て深くため息をついた。
「一人で酒盛りですか? 私たちも誘ってくださればよろしいのに」
「なに、今日はひとりで楽しもうかと思っただけだ。きっと、またお前たちとは花見をするだろうからな」
「・・・・・・幸空には勝てません」
奏は困ったように眉を下げてから、降参とばかりに告げる。幸空はそれを見つつも、奏に笑いかけて告げる。
「何を言うか、奏に勝てるとは思っておらん。・・・・・・わざわざ持ってきてくれたのだろう、すまないな」
幸空は奏の手にある盆を見つつ告げる。幸空が頼んだわけではなく、気を遣った奏が持ってきてくれたことを理解して告げたのである。奏はそれを聞いて、穏やかに微笑んだ。
「もったいなきお言葉。・・・・・・その様子だと、すでに仕事は終わっているようですね」
「ああ、少し前にな。報告書を書くだけだ、そう時間もかからん」
「幸空のように、淡々と執務を終わらせてくれるものばかりだと、私も困らないのですが・・・・・・」
奏は盆を机の上に置いてから、報告書を手に取った。目を通し終えると、満足そうに頷いてからぼやく。ぼやいたその言葉は、きっと幸空に仕えている他の部下たちに零したものだろう。幸空は盃を傾けてから、くつりと笑った。
「そう言ってやるな。人間の中でも得手不得手があるように、俺たちにもあるさ。期日を守れば良しとしてやれ」
幸空が言えば、奏は渋々頷いた。奏の中にも不満はあるのだろう。幸空が上司の立場に当たることによって、言えないこともあると理解する。幸空も別に奏を困らせたいわけではない、彼には感謝しているのだ。
幸空は奏を呼ぶ。奏が不思議そうに幸空に近づけば、幸空は彼の頭をゆっくりと撫でた。奏がピクリと反応を示す。
――その頭には、ふわりとした獣の耳があった。
幸空は撫でながら微笑む。
「奏には、苦労をかけるな」
「・・・・・・いえ、私は幸空のためなら」
「ああ、助かっている。感謝している」
幸空はフッと笑ってから、奏の頭をぽんと軽く叩いた。奏が嬉しそうに目を細め、もう少しと強請ろうとした瞬間、今度は襖が勢いよく開かれた。第三者が室内に足を踏み入れる。
「幸空、現世で饅頭買ってきた。食おうぜ」
「倭、出かけていたのか。おかえり」
「おう、ただいま」
幸空は奏の頭から手を離し、視線を倭に向ける。奏は主君の手が離れたのを残念に思うのと同時に、倭へとにこりと笑いかけた。その目は笑っていなかったが。
「倭、書類仕事は終わったんですよね?」
「うっ・・・・・・。も、もう少しだから良いだろ。幸空、美味そうだろ?」
「ああ、良いな」
「そんなに食べたら、夕飯が入りませんよ」
幸空の元に足を進め、抱えていた紙袋の中を自身の主君に見えるように倭は見せる。
――そんな彼の背中には、大きな翼があった。
幸空は紙袋の中を見て、満足そうに頷く。だが、大量にある饅頭を見て苦言を申すのは奏で。幸空はそれにくつりと笑った。
「なに、後でまた皆で食えば良い。奏の飯を食わないなど、勿体ないからな」
「もう、幸空ったら、褒めても何も出ませんよ」
「乙女か」
嬉しそうに告げる奏を見て、倭はボソリと呟く。そのツッコミには触れることなく、奏は別のことを口にした。
「それはそうと、倭。人間に扮して現世には行きましたよね?」
「当たり前だろ。こいつはここに着いてから出したってーの」
倭は当然だと言わんばかりに告げてから、自身の背中を親指で示す。
――幸空も、奏も、倭も、それからこの場にいない残りの二人も、皆、人間ではなかった。姿は人間ではあるものの、その存在とは程遠い。
幸空は首の辺りに鱗が、奏には獣の耳と尻尾が、倭には翼がある。
彼らは、人間の世界で「妖怪」と称されるものたちであった――。
奏の正体は、妖狐。一般的に、「化け狐」と呼ばれているものである。
倭は、白狼。「木の葉天狗」と呼ばれることが多い、天狗の種族である。
そして、幸空は――。
――「九頭龍」と呼ばれる神話に登場する九つの頭を持つ龍であった。
幸空は窓の外を眺める。桜の先を見て、最近足を運んでいない現世のことを思い浮かべた。
「現世、か⋯⋯。ここのところ、足を運べていないな」
「幸空に何かあっては困ります。あまり一人では出歩かないでくださいね」
「分かっている。奏は心配性だな」
「つーか、幸空。一人で酒飲んでんなよ、俺も誘え」
「お前もか、倭。⋯⋯今夜は、満月らしい。月見酒、でも良いだろう」
「お、やりい」
三人は口々に言葉を交わして笑うのであった。
Ⅱ
少し時間が経過すると、三人目が幸空の部屋へと訪れる。
「幸空、いるだろうか」
「凰、戻ったか。無事で何よりだ」
幸空は凰をにこやかに出迎えた。
――凰。彼の正体は、八咫烏。黒き翼をはためかせて飛ぶ。偵察や情報収集を得意とし、幸空の元から離れていることが多かった。
凰は幸空の言葉に頷く。
「もったいなきお言葉。⋯⋯少し、耳に入れておきたいことが」
「⋯⋯何か、あったのか」
凰の言葉に幸空は低い声で聞き返す。目を細め、黄金に輝く瞳を煌めかせた。凰はその言葉にしっかりと頷いて見せる。周囲にいた奏や倭も彼の言葉に耳を傾けた。
「現世――人間の世界で不穏な動きが⋯⋯。そちらに住んでいる妖怪たちも落ち着かないようで、見回り中に声をかけられることもしばしば」
「⋯⋯すでに、異変が起きていると言うのか」
「いえ、まだ何も。ただ、彼らは不穏な空気を察しているようで、何とかしてくれ、と⋯⋯」
凰の言葉に反応を示したのは、奏だった。
「我が主の手を煩わせるとは⋯⋯」
黒いオーラを出し始めている奏を、幸空は手で制す。
「良い。⋯⋯凰、今日の見回りでそれ以外には」
「問題なく。ただ、気になることとするなら、現世では、ここのところ事件に巻き込まれて亡くなる者が多い、と⋯⋯」
幸空はその報告を受けて頭を抱える。一つ息を吐き出して、ポツリと呟いた。
「またか⋯⋯」
幸空が心を痛める中、倭はそれを緩和しようと口を開く。
「幸空、どうしようもねえよ。お前がどれだけ気にかけようと、人間の欲は大きすぎる」
「⋯⋯分かっている。欲のない者はいないと言っても、過言ではないことぐらい。だが⋯⋯」
幸空はどうにもできない悔しさを息とともに吐き出した。
幸空は人間が好きだった。感情を持ち、多種多様な考えを述べ、この世界にありとあらゆるものを作り出せる発送を持つ人間のことを。素直に尊敬したし、感心もしていた。
だが――。
奏が次いで口を開く。
「幸空、人間は過ちを起こす者です。⋯⋯正直に言って、ここ最近の現世はおかしい。はっきり言って、壊れてきているでしょう。人が人を手にかけ、自分勝手な正義を振りかざし、心にもない言葉が飛び交う。自身すら追い込むほどです。その世界を変えることなど――」
「――奏」
幸空は遮るようにして静かに名前を呼んだ。奏は口を噤む。話を黙って聞いていた倭や凰も、ただじっと主君の言葉を待った。幸空は桜へと視線を向けてから言葉を紡ぐ。
「⋯⋯確かに、俺たちが人間のすべてを理解することなど到底できないだろう。彼らとは考え方が違う、何より生きる時間の長さが違いすぎる。俺たちの時間は遥かに長いが、彼らの時間は一瞬だ。俺たちからすれば、の話ではあるが、な」
幸空は一度言葉を区切って、桜に向けていた視線を今度は三人へと向ける。幸空は黄金に煌めく瞳をさらに輝かせた。
「それでも、彼らは懸命に生きている。俺たちでは思いつかなかったものも、彼らの発想で作り出された。彼らのおかげで、生活は豊かになったも同然だ。⋯⋯同族を手にかけるというのは、理解に乏しい。それ相応の理由があるにせよ、罪を犯すことを許してはいけないだろう。だが、それでも現世には人間が必要だ。彼らがいたからこそ、ここまで発展した。いくつかの問題も出てはいるが、それでも現世には人間が必要だと、俺は思っている」
幸空の意志は固い。ただ単に、人間が好きだから援護しているわけではない。この世界に、現世に人間が必要だと思うから、彼らがこの世界で前へ進もうとするから、幸空は彼らを守りたいと思うのである。だからこそ、彼らが好きなのである。
主君の意思は固く、誰が何を言ったとしてもきっと意見を曲げることはないだろう。
彼は、何としてでも人間を守ろうとするに違いない。
幸空の言葉を聞いて、三人は困ったように顔を合わせる。だが、やがて諦めたように笑った。何を言っても無駄だと、理解しているからであった。
「⋯⋯幸空に何を言っても、無駄ですね」
「だな。どんな理由でも覆さねえだろう。まず、俺たちも現世のこと、現世って言うようになっちまってるしなあ。影響力すげえわ」
「我らが主は人が良すぎるからな」
三者三様に言葉を告げる彼らを見て、幸空はくつりと笑う。それから、困ったように告げた。
「⋯⋯まったく、好き勝手言ってくれる」
嫌な気はしない。自分の部下が、自分の意志を聞いてくれるのは、何とも嬉しいものだ。幸空は再度くつりと笑ってから、三人を見つめた。
「少し、調べてみる必要はありそうだな」
「それなら、大丈夫ー」
幸空が言葉を紡いだ直後、最後の一人の声が外から届いたのであった。
Ⅲ
「よっと」
窓から身軽に入ってきたのは、最後の一人である柳。華麗に着地すると、窓枠に腰掛けていた幸空の膝に頭を乗せる。
「幸空、ただいまー」
「おかえり、柳。相も変わらず散歩してきたのか。無事に帰ってきたようで何よりだが」
「へへ、もっと撫でてー」
幸空は柳の頭をゆっくりと撫でる。柳は嬉しそうに頭を擦り寄せた。
――柳。彼の正体は、猫神。よく現世には猫の姿で出かけているらしい。人間に撫でられ、可愛がられている中でマイペースに情報を集めてくる。彼は猫神だかなのか、幸空の手と膝の上がお気に入りだった。
幸空が柳を撫でる中、奏が静かに説教を始める。
「柳、幸空の膝を占領しないでください。幸空の足が痺れてしまいます。それに、あなたは毎回毎回――」
「奏の説教はいらなーい」
「⋯⋯柳?」
奏の言葉を遮って口を尖らせる柳。ツーンと素っ気なく顔を背け、幸空の手に意識を委ねる。奏は黒いオーラを放って柳の名を呼ぶが、柳が反応することはなかった。
幸空はそれを優しく制す。
「まあ、待て、奏。柳の話を聞いてからでも遅くはないだろう」
「むー、幸空は奏の説教を止めてよ」
「柳、奏はお前を心配しているから言うんだ。甘んじて受け止めるんだな」
幸空の言葉に、柳は頬を膨らませる。納得いかない、そう告げている表情に、幸空は苦笑した。機嫌を取るように彼の頭を撫で続けながら、話の先を促す。
「柳、聞かせてくれ。何があった」
「んー、何かね、現世の気配が禍々しかったの。落ち着かないっていう感じ。でも、探れなかった。人間は気がついてないみたいだったから、こっちの感じだろうなーって」
「⋯⋯珍しいな、柳が曖昧な表現をするのは」
柳の言葉に、幸空が反応を示す。彼はマイペースではあるが、ハッキリと物は申すほうだった。「妖怪」とは言わずに、「こっちの感じ」なんて曖昧な表現をする。おそらく、何か引っかかることがあるのだろう。
幸空の言葉に、柳は間延びした返事で肯定した。
「よく分からなかったから。人間がおかしくなっているのと関係があるのかもね。毎日のように何かしらの事件も起きているみたいだし」
柳はそう告げると、話は終わったとばかりにダラーンと幸空の膝の上で伸びた。人間に近い姿であるというのに、動作は猫そのものである。
幸空も文句を言うことなく、柳の好きにさせていた。顎に手を添えたまま、ふむと頷く。考え始めた幸空を眺めつつ、奏は問いかけた。
「いかがいたしますか、幸空」
幸空はその言葉に、とりあえず「そうだな」とだけ呟くのであった。
Ⅳ
幸空は四人に視線を向けてから言葉を紡ぐ。
「会議の場を設けてもらえるように、文を出して報告する。動くとしたら、その後だな」
「しかし――」
「下手に動くこともあるまい。わざわざお前たちを危険な目に遭わせることもなかろう。方向性を皆と決めてからにすれば良い」
幸空がそう告れば、四人は神妙な顔をした。重々しい空気が室内を包み込んでいく。幸空はそれを和らげるために口を開いた。
「そう構えるな。これは俺たちだけの問題ではないだろう。他のものたちにも協力してもらえば良い。⋯⋯それよりも――」
幸空は一つ言葉を区切る。四人がじっと主君の言葉を待つ中、幸空はフッと笑った。
「――まずは、花見と洒落込むことにしよう。一時の休息も必要だ。今宵は満月とも言う、夜桜も良かろう」
「お、やりい!」
「⋯⋯そうですね」
「わーい」
「我らが主の仰せのままに」
表情が緩んだ四人を見て、幸空は安堵する。それから、窓の外へと視線を移し、桜の散るさまを見つめた。
桜が散ってしまった時のことなど、未来のことまで自分たちには分からない。今だけは、そう祈るかのように、幸空は散る桜へと願いを込めた。
だが、この後思いもよらぬ事が起きるなど、この時は誰も予想できなかったのであった――。
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