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第三章
53.星火
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暖かな陽光が射す病室で、リアはうとうとと船を漕いでいた。
柔らかな毛が腕に纏わりつく。リアが微睡みから覚めると、何やらふわふわとしたものが鼻先を掠った。
白い塊に手を伸ばし、抱き締め、リアは頬を緩ませた。
「……猫ちゃん」
銀色にも見える真っ白な長毛と、紫水晶の如き瞳を持つ愛くるしいラグドール。どこから入ってくるのかは分からないが、この猫は度々病室を訪れ、存分にリアに甘えた。すりすりと身体を寄せる猫を撫で、リアは猫を驚かせないようにそっと上体を起こした。
「また来てくれたのね」
リアがおいでと声を掛ければ、猫は一鳴きしてリアの腕の中に飛び込んでくる。優しく猫を抱え、リアはその柔らかさにうっとりと目を閉じた。
「可愛い……」
リアはだらしなく顔を蕩けさせ、ふわふわとした腹に顔を埋めた。深呼吸すれば、日向に似た空気が肺に満ちていくようで、リアは嬉しくなった。
「ふふっ」
リアが猫の腹に顔を埋めながら笑うと、病室の扉が開く音がした。
「あ、オリヴァー様! おはようございます」
リアが挨拶すると、オリヴァーはおかっぱ頭をさらさらと揺らし片手を上げた。
「調子は良さそうだな。痛むところはないか」
「はい! この通り。もうすっかり元気ですよ」
リアはにこりと笑ってオリヴァーを見た。
「オリヴァー様、助けてくださって本当にありがとうございました。ご心配をお掛けしました。身体も軽いし、またいつも通り働けそうです!」
オリヴァーは僅かに口角を上げ、目を細めた。
「そうか」
「オリヴァー様、私をずっと捜して下さったのでしょう? きっと助けが来ると信じていました。今こうして生きていられるのはオリヴァー様のお陰です。ありがとうございます」
リアが深く頭を下げると、オリヴァーはほう、と深い息を吐いた。
「貴様の明るい笑顔を、私は初めて見た気がするよ」
「まあ、そうですか?」
「ああ。中央政府の役人として守るべき者の笑顔。それが見れた時が一番安心する。我々は不甲斐なかったが、それでも貴様にそう言ってもらえると救われる。起き上がれるようになったとはいえ油断は禁物だ。綿毛女、今はまだゆっくり休めよ」
オリヴァーはリアに優しい声を掛け、そしてリアが抱き締めている猫に視線を向けた。
「綿毛女。ミーミス様の触り心地はどうだ?」
オリヴァーはにやりと笑った。悪戯っぽいその笑みに、リアは首を傾げた。
「ミー……? えっと、この猫ちゃんのことですか?」
「ああ、そうだ。ミーミス様だ」
リアが背中を撫でると、腕の中の猫はにゃあとひとつ鳴いた。
(……オリヴァー様、変なの。猫に様付けなんて……)
リアがきょとんとした顔で猫を撫で続けると、オリヴァーはやがて肩を震わせて笑い始めた。
「……ぷぷっ……くくくっ……その顔、分かっとらんな? まあそのうち分かる。綿毛女、ミーミス様をこちらに」
オリヴァーがリアの腕の中から猫を抱き上げようとすると、美しいラグドールは不満げな顔をして足をぴんと伸ばし、彼の手から逃れようとした。オリヴァーの腕の中で、白い毛の塊がわさわさと暴れまわる。オリヴァーは猫を落とさないようにしつつも、必死に猫を抱えた。
「あ、先生! 暴れないで下さい! こら!」
「にゃああああっ!」
「先生、あなたの悪癖ですよ! 誰彼構わず撫でられようとするのは!」
猫は不服そうな顔をしてしなやかな身体を大きくくねらせていたが、とうとうオリヴァーの腕の中でだらりと長い胴を伸ばした。
「ふう……。やっと捕まえましたよ」
「みゅうううっ……!」
「あ痛っ、爪を立てないで下さい先生!」
猫は暴れまわりながらも切ない鳴き声を上げた。リアは猫の真っ白な腹を見ながら、朧げな記憶を辿った。
(……ミーミス様……。ミーミス様? ……どこかで……あっ……?)
リアは口元に手を当てた。オリヴァーの言葉を思い出す。
――もうすぐ大魔導師であるミーミス様が帰国する。彼女は私やゼルドリックの師であった方だ。
「え、ミーミス様!?……ミーミス様って、私に魔法を掛けてくれるはずの方じゃ!? え!? じゃあ、この猫ちゃんは……!」
リアは目を見開いて、忙しなく動く猫とオリヴァーを交互に見た。オリヴァーが大笑いしながら頷くと、猫が彼の腕の中から素早く抜け出し、リアの足の上に飛び乗った。ラグドールの冬毛がリアの毛布の上に柔らかく広がる。
くりくりとした、愛くるしいラグドールの瞳をじっと見て、リアは難しい顔をした。
「ほら、綿毛女が混乱している。わざわざ猫の姿になって治療をする必要はないでしょうに」
「何、猫の姿だから良いんだ。動物と触れ合うのは精神安定に繋がるからね。重要なことだよ」
白い猫から女性の声が聞こえる。リアは猫を食い入るように見つめ、口を開けた。
「とうとうバレてしまったか。まあ怒らないでよ、オリヴァー。私は常に理想の撫でられ心地を求めてるんだ。彼女が私を満足させてくれるか確かめたくもなるじゃないか。リア、君の撫で方は中々よかったよ。もう少し君と愉しみたかったのだけどね」
猫の身体がみるみるうちに変化し、やがてリアの前に美女が現れた。
低くも落ち着いた透き通る声。絹糸のような美しい銀の髪、紫水晶の如き見事な輝きを放つ瞳。リアは眼前に迫る白皙のエルフの顔を見た後、悲鳴を上げた。リアに四つん這いで伸し掛かるミーミスは、一切の着衣をしていない。
「み、み、ミーミス様! はだか! 裸ですよ!」
「うん? ああ、変化をそのまま解いたからね」
ミーミスはそう言うと、しなやかに身体を仰向けにさせた。これでは大事なところが全てオリヴァーに見えてしまう。リアはまた悲鳴を上げ、急いで枕でミーミスの身体を隠そうとした。オリヴァーは目を閉じ、呆れたように首を横に振った。
「はあ……。綿毛女、焦らずとも大丈夫だ。中央政府に勤める者ならば、ミーミス様の全裸は何十回も何百回も見ている。嫌というほど見せつけられている」
「冷静だねオリヴァー。少しは顔を赤らめてくれても良いのだよ」
「先生、馬鹿なことを言っていないで身体を隠して下さい。綿毛女が可哀想ですから」
オリヴァーは嫌そうに顔をしかめ、自分のコートをミーミスにばさりと被せた。
「ふむ。このコートは柔らかいね」
ミーミスは機嫌良さそうに笑い、猫のようにコートに身体を擦り寄せた。
「さてと、オリヴァー。外してくれるかい? リアの調子も良さそうだ。そろそろ彼女と話がしたいのでね」
「先生、ですが……」
オリヴァーが顔を強張らせると、ミーミスは片手を上げ微笑んだ。
「今の状態なら話しても問題ない。私はそう判断した」
「……承知しました」
ミーミスが背中にコートを掛け猫の如く丸まると、オリヴァーは一礼をし、病室を後にした。ミーミスは寝転がり、口を開いたままのリアの顔を見上げた。
「リア。驚かせて済まなかったね。私は服を着るのが嫌いでね、こうして猫の姿になって伸び伸びと過ごすことが好きなんだよ。ついでに誰かに背中や腹を撫でてもらうのも好きでね」
「は、はあ……」
目の前の白皙のエルフは飄々としていて掴みどころがない感じがした。リアを観察するように、じっと紫水晶の目が向けられる。
「大分顔色が良くなったね。食欲もそれなりにあるとメルローから聞いている」
「……はい、特に問題なく過ごせています」
「そう、本人からそう聞けて良かったよ。リア、君は最近になって思い出しただろう。己に起きたことを」
「……はい」
リアは顔を曇らせた。ここ数日、堰き止められていた水が一気に流れるように記憶が自分の頭を埋め尽くし、苦しくて仕方がなくなる事があった。ゼルドリックが自分に見せた殺戮の景色や、自ら四肢を傷付けた記憶が急に蘇った。
「保護した時の君は酷く衰弱していて、恐怖から周囲の者に縋り付き、泣き叫んだ。そのままでは治療に支障が出ると判断し、一時的に君の記憶を魔法で覆い隠していたんだ。君はかなり安定してきた。もう、ゼルドリックの名を聞いてすぐ錯乱を起こしかけることもなさそうだね」
ゼルドリック。その名を聞き、リアの胸がどくりと跳ねる。ミーミスは真面目な顔をしてリアに切り出した。
「リア。君に話さなければならないことがある。辛い話だと思うが……今から私が話すことを、どうか落ち着いて聞いてほしい」
「分かりました……」
ミーミスは深く息を吐いた後に、静かな声で言った。
「君の子宮に、ごく小さいがゼルドリックのものとはまた異なる魔力の塊があることを確認した。リア、つまり……君の腹の中に子供がいる。ゼルドリックの子だ」
ミーミスの声が頭の中で響く。リアは諦めたように目を瞑った。そうなることは、自分でも分かりきっていた。
(当然よ、何回も何十回も……ゼルをその身に、受け入れたのだから……)
俯いたリアに、ミーミスは白く長い腕を伸ばした。リアの頬に手が触れる。苦しみや痛みを吸い取ってしまうような、ひんやりとした手だとリアは思った。ミーミスはリアの顔をじっと見て、低く透き通った声で彼女に問いをした。
「君に確認しておきたい。胎の子は、どうする」
「どうするっ、て……」
「堕ろすか、それとも産むのか。難しい問題だが君の意思を聞きたい。もしも堕ろすことを選ぶのならば、君に一切の苦痛を与えることなく処理すると約束しよう」
ミーミスの猫目がじっとリアを見つめる。リアは己の腹に手を当てた。
(ここに、命が宿っている)
ゼルドリックが望んだ、己との子。リアは命の気配を探るように自分の腹を摩った。
(堕ろす、なんて……選べない。この子はゼルとの子よ。私と、ゼルの。でも、私は宿ったこの子を、無事に育てていけるのかな……)
口を噤み俯いたリアにミーミスは続けた。
「リア。もしかして君は、その子を産もうと考えているのかい」
リアはびくりと肩を震わせた。
「っ……わ、たし……堕ろす、なんて……」
ミーミスはおかしいと思うのだろうか、乱暴された末に孕んだ子を産みたいと考える自分を。
(私は夢を見ていた。愛する人と出会って、契って、暖かな家庭を作る夢を。そしていつしか、愛する人との間に子供を持てたらと。そう考えていたの……。その夢は朽ちてしまったけれど。でも、どんな過程で出来た子でも……。この子の傍に、父親がいなくても……。私はゼルを愛している。愛しているから……この子の命を奪いたくない。奪える訳がないっ……。育てたい)
「君の選択は自由だ」
ミーミスはリアの沈黙を、無言の肯定と受け取った。彼女はコートを羽織り直し、そして包み込むようにリアを抱き締めた。
「だが、どちらの選択を選ぶにしろ君に知っておいてほしいことがある。エルフという種はね、人間、オーク、ドワーフ、妖精、獣人などのヒト属と比較して、突出して寿命が長い。我々はね、同族が天寿を全うしたところを見たことがないのだよ」
「……?」
「戦争、事故、自殺、あるいは重篤な病で。エルフの死は不幸によって訪れる。そして、その不幸さえなければエルフは何千年も何万年も生きるのだ。エルフの祖と云われる女神がこの世に生まれ落ちてより凡そ五万年、それから現在に至るまで生き続けているエルフもいる。我々は自分たちの寿命を知らない。一体どこまで生きるのか分からない」
「…………」
「そして、それは純血のエルフのみならず、エルフの血を分けた者も同様なのだ。リア、その胎の子は長く生きるぞ。君よりも遥かに長く。女神よりもたらされし長命。その終わりが分からない中、気の遠くなるような時間を生きていくかもしれない」
「そ、れは……」
「オリヴァーやレントから聞いたかもしれないが、混ざり血に対する差別は依然として存在する。私が制定した多種族差別解消法の普及により、表立って差別する者は少なくなったが……。それでも、陰湿な輩というものはいつまでも消えないものだ。君たちには、冷ややかな視線が向けられることもあるだろう。そして胎の子は君亡き後も、差別と戦い続けなければならない。君は、それに耐えられるか?」
息を飲み唇を噛み締めたリアに対し、追い打ちを掛けるようにミーミスは続けた。
「リア。胎の子の前に父親は現れない。私はゼルドリックの記憶を、彼自身も探れぬ暗闇の底へと封じた。君はもう彼に会うことはできない。彼はもう君を思い出すことはない。それでも君は、その子を産むことを選ぶかい?」
「……え?」
リアは呆然とミーミスを見た。心臓が早鐘を打つ。
「ミーミス様、どういうことですか? ゼルが、私を思い出すことはないって、それ……」
「罰として、あるいは救いとして。私はゼルドリックの記憶を封じることを選んだ。彼はね、君を深く愛し、君と契りたいと考える余り禁呪に手を出したのだよ」
ミーミスは白く滑らかな己の胸に、白魚のような指を差し込んだ。肌が淡く光り、やがて胸から一輪の薔薇が取り出される。凛と咲き誇る、そして何者をも寄せ付けぬ孤高の美しさを持った、漆黒の薔薇。
「同じようなものを君も見たことがあるだろう。これは禁呪『契りの薔薇』だ」
ミーミスは真っ黒な花びらに指を這わせ、そして薄く微笑んだ。
「……それは」
(ゼルが私に手渡そうとしたものと……似ている)
「これは婚姻の象徴、そして愛の魔法。心の底から愛する者がいれば、一生に一度だけ自分の胸から創り出すことができる。この薔薇はね、最初はつぼみで生み出されるのだ。相手が薔薇を受け取り、心からの愛の言葉を贈り主に捧げた時……薔薇は咲き、つぼみに込められた魔法が発動する」
「薔薇のつぼみには、どんな魔法が込められているのですか?」
「受け取った相手の魂を自分に縛り付ける魔法だ。恋情も貞操も、全てを自分に捧げさせる魔法。ゼルドリックは君にこの薔薇を贈り、不変の契りを交わそうとした……」
ミーミスは薔薇を胸に戻した。黒い薔薇が、白い胸へと吸い込まれていく。
「この魔法が禁呪とされた理由を話そうか。この薔薇はね、魂を削って創りだすものだ」
どくり、とリアの胸がざわめいた。
「魂?」
「ああ、魂だ。この薔薇は、魂そのものなのだ。創り上げた契りの薔薇を相手に受け取ってもらえなかったり、傷付けられた場合、創り出した者の魂がひび割れる。具体的には、肉体と精神に回復困難な損傷が発生する。愛に狂い、己や相手を酷く傷付けるのだ」
「……ぁ、そんな……! そんな……」
リアは身体を震わせた。雨でぬかるんだ地面に落ち、泥に汚れた青い薔薇を思い出す。
あれは、ゼルドリックの魂そのものだったのだ。それを腐し、拒絶した自分はなんて残酷なことをしてしまったのかと、リアは罪に震えた。
「君はゼルドリックから契りの薔薇を手渡されたのだろう? そしておそらくそれを拒絶した」
リアは震えながら、小さく頷いた。
「結果、ゼルドリックは君を傷付け、そして己も死にかけた。保護した時、彼は魔力を使い果たし死を待つばかりだったよ。治療を施し続けているにもかかわらず、目を覚ますことはなかった。魂に付いた傷が、ゼルドリックの目覚めを阻んでいると私は考えた」
「……ゼル」
「だから、彼から君に関する記憶一切を封じ、そしてリア=リローランという存在を知覚あるいは認識できないように、強い魔法を施した。解ってほしい。禁呪に手を出し、君への愛憎に苦しむゼルドリックを救うには、彼の中から君に関する一切を奪うしか方法はなかったのだ」
ミーミスは頭を下げた。
「ゼルドリックは私の教え子だった。教え子の罪は私の罪。彼によって尊厳を奪われ、深く傷付けられた君に……心より謝罪する。彼から受けた傷を無くすことは出来ないかもしれない。だが、全力を以て君の傷を癒やすことを約束しよう。望むのならば、君からゼルドリックに関する記憶を取り去ることも出来る」
リアはぼろぼろと泣いた。ミーミスの言葉が痛くて苦しくて仕方がなかった。
「ゼルは……もう、私を思い出すことはないのですか?」
「ああ。二度と」
「っ……! 彼に、会えば……私のことを」
「思い出さない。君の姿を、もう捉えることはできない。私がそのように魔法を施した。もし思い出すようなことがあれば、また恋情に狂って君と自分自身を酷く傷付けるだろうから。彼の記憶は、決して戻らない」
ミーミスの紫色の瞳を涙でぼやける目で見る。その真っ直ぐな瞳に嘘はなく、リアは静かな絶望を味わった。
――リア。
優しいダークエルフの微笑みが思い浮かぶ。自分の心の拠り所である、「黒の王子様」の微笑みを。
あの微笑みはもう、自分に向けられることはない。どんなに望んでも、二度と手に入らない。
だが、それでも……。
(私は、この子を産みたい。ゼルの全てを……自分の中に留めておきたい。だから……)
「……私、は………」
――――――――――
子を産むと決めた。そうリアから打ち明けられたのだ、とミーミスは三人のエルフの前で言った。
メルローは顔を強くしかめ、レントは悲しみに瞳を揺らした。オリヴァーだけが冷静に師の言葉を聞いていた。彼は、あのハーフドワーフがそれを選ぶことを分かっていた。あの女は酷く傷付けられてなお、まだゼルドリックを愛している。はっきりした意識を取り戻してからゼルドリックの名を何度も呼び、頻繁に彼の容態を訊ねてくるリアを見て、オリヴァーはそう確信していた。
愛する男との子ならば、彼女は産むことを選ぶのだろうと。そしてゼルドリックとの繋がりを失い、この先強い差別を受けることがあったとしても、宿った子を大切に育てていくことを選ぶのだろうと。オリヴァーはリアの選択の結果を、これから先ずっと見守っていくことに決めた。
「綿毛女、入るぞ」
病室の扉を開ければ、寝台の上でぼんやりと窓の外を眺めているリアが目に入った。
「オリヴァー様、こんにちは」
リアはオリヴァーに向かって微笑んだ。頬は血色が良く、穏やかな笑みを湛える顔には、何ら悲愴や迷いは感じない。リアの穏やかな微笑みに、オリヴァーは一種の強さを認めた。
「ミーミス様から聞いた。貴様の選択を」
リアが目をゆっくりと瞬かせ、オリヴァーから視線を外す。そしてまた彼女は窓の外に目を向けた。
「オリヴァー様。私の選択をおかしいと思いますか?」
「いいや。私は貴様がそう選択することを、心のどこかで分かっていたよ。奴の子を産み育てるのだろうと。貴様は、まだゼルドリックを愛しているのだろう?」
リアは薄く微笑み、目を瞑った。
「はい。これまでも、これからも……私はずっと、彼を愛しています。ゼルとはもう会えない。ゼルは私のことを忘れている。ミーミス様からそう聞いた時、私は暗闇の中へと放り出された気持ちでした。痛くて、寂しくて仕方がなかった。こうなるのなら怖れなど抱かず、真っ直ぐに愛していると伝えれば良かったと。あの時、契りの薔薇を受け取っていれば良かったと、強く後悔しました」
「…………」
「彼が私のことを忘れてしまっても、私は、私の中に残された彼の何もかもを留めておきたいのです。幸せなことばかりではない、辛い記憶も、身体に受けた痛みさえも。私は忘れたくはありません。彼にかかわる全てを、決して手放すことなんて出来ない」
「……綿毛女」
「ですから、堕ろすという選択肢は最初から私の中には無かった。この子は、私とゼルを繋ぐ唯一です。私の中に宿ったこの子を、自分の全てを賭けて大切に育てていくと決めました」
リアはまだ膨らまぬ自分の腹を愛おしげに撫でた。
「我儘なのでしょうね。レントさんやミーミス様から、混ざり血へ向けられる冷たい視線のことは聞いているのに。この子は私よりずっとずっと長い時を生きていく。私はこの子の隣から、すぐにいなくなってしまうのに。この子は、いつか自分の出生を呪うでしょうか。差別に晒されて、なぜ自分を産んだのかと……母親である私を責める時が来るのでしょうか」
「来ない! そんなことはさせない!」
オリヴァーは声を荒げ、強く断言した。
「良いか、綿毛女。確かに混ざり血に対する差別は存在する。純血のエルフは画一的な教育を施されるがゆえに考えが狭量だ。自分と異なる者に嫌悪を示す者が多い。心の無い者たちは、貴様やその子供に侮蔑の視線を送ることもあるだろう。だが、決して貴様らに手出しはさせない」
「……オリヴァー様」
「私も、ミーミス様も、レントもメルローも。中央政府に勤める者として貴様とその子を守り抜くことを約束しよう。貴様が天寿を全うした後も、子を見守り続けることを誓おう。生まれてくる子が混ざり血だろうが関係ない。祖である女神の血を分けた我々の仲間、我々の同胞なのだから」
「……っ」
「覚えておけ。貴様の傍にゼルドリックはいないが、我々がいる。貴様は決して独りではない。綿毛女、貴様が命を賭して子を産み育てることを選ぶというのならば、我々も全力を懸けて貴様らを守るまで。難しいことは考えず、ただ命ある限りその子に愛情を注いでやれ。愛され、望まれて生まれてきたのだと。そう子供に伝え続けてやれ。母亡き後も、その子が母の愛を抱きながら生きていけるように……」
リアはそこで初めて大きく表情を崩した。
眉を下げ、ぼたぼたと涙を流す。オリヴァーはリアに近づき、小さな手をしっかりと握り込んだ。
「私は政府から充分な給金を貰っている。レントもメルローもだ。ハーフドワーフとその子ひとり、養うのに何の問題もない。金銭、立場、使えるものは何でも使って貴様ら親子を保護する。だから余計な心配はするな。しっかりと食べて、しっかりと休め。ハーフドワーフの代謝に合った食事をして、精々胎の子を肥え太らせておけよ」
オリヴァーが笑うと、リアはオリヴァーの大きな手をしっかりと握り返し、涙を流しながら微笑んだ。
「オリヴァー様っ……ありがとう、ありがとうございます……本当に、ありがとう……」
リアは何度も何度も礼を言った。オリヴァーは緑色の目を細め、応えるように頷いた。若草色のおかっぱ頭が陽光を受けて輝く。リアはそれを、心から頼もしく思った。
――――――――――
リアは明るい部屋の中で、マルティンへの手紙を書いていた。
色々あったけれど、今は元気で過ごせているから心配しないでと、遠く離れた村に住む弟に伝えたかった。
それからゼルドリックのことと、自分の腹に宿った子供のことも。
メルローから手渡された高級なレターセットと窓から見える青空を交互に眺めながら、リアは、愛おしいダークエルフに思いを馳せた。
(……ゼル。……あなたは、今どうしているのかしら?)
ゼルドリックのことも、彼から受けた傷のことも、少しずつ受け止められるようになった。痩せて、落ち窪んでしまった彼の昏い目を思い出す。
(あのままだったら、きっと私もゼルも死んでいた。でも……ゼルが生きていて、本当に良かった……)
リアは寂しげな笑みを浮かべ、俯いた。
自分とゼルドリックの関係は粉々に壊れてしまったけれど、それでも彼を深く愛しているのには変わりない。彼が生きてさえいてくれれば、それでいい。長い生の中で、自分ではない誰かと幸せに過ごしていけばいいのだ。
「ふうっ……」
リアは込み上げる感情のまま、ぶわりと目から涙を溢れさせた。
目の前のレターセットにぱたぱたと涙が滴ってしまい、リアは急いでそれを拭った。だが涙に滲んだ字は戻らなくて、リアは溜息を吐いた。
柔らかな毛が腕に纏わりつく。リアが微睡みから覚めると、何やらふわふわとしたものが鼻先を掠った。
白い塊に手を伸ばし、抱き締め、リアは頬を緩ませた。
「……猫ちゃん」
銀色にも見える真っ白な長毛と、紫水晶の如き瞳を持つ愛くるしいラグドール。どこから入ってくるのかは分からないが、この猫は度々病室を訪れ、存分にリアに甘えた。すりすりと身体を寄せる猫を撫で、リアは猫を驚かせないようにそっと上体を起こした。
「また来てくれたのね」
リアがおいでと声を掛ければ、猫は一鳴きしてリアの腕の中に飛び込んでくる。優しく猫を抱え、リアはその柔らかさにうっとりと目を閉じた。
「可愛い……」
リアはだらしなく顔を蕩けさせ、ふわふわとした腹に顔を埋めた。深呼吸すれば、日向に似た空気が肺に満ちていくようで、リアは嬉しくなった。
「ふふっ」
リアが猫の腹に顔を埋めながら笑うと、病室の扉が開く音がした。
「あ、オリヴァー様! おはようございます」
リアが挨拶すると、オリヴァーはおかっぱ頭をさらさらと揺らし片手を上げた。
「調子は良さそうだな。痛むところはないか」
「はい! この通り。もうすっかり元気ですよ」
リアはにこりと笑ってオリヴァーを見た。
「オリヴァー様、助けてくださって本当にありがとうございました。ご心配をお掛けしました。身体も軽いし、またいつも通り働けそうです!」
オリヴァーは僅かに口角を上げ、目を細めた。
「そうか」
「オリヴァー様、私をずっと捜して下さったのでしょう? きっと助けが来ると信じていました。今こうして生きていられるのはオリヴァー様のお陰です。ありがとうございます」
リアが深く頭を下げると、オリヴァーはほう、と深い息を吐いた。
「貴様の明るい笑顔を、私は初めて見た気がするよ」
「まあ、そうですか?」
「ああ。中央政府の役人として守るべき者の笑顔。それが見れた時が一番安心する。我々は不甲斐なかったが、それでも貴様にそう言ってもらえると救われる。起き上がれるようになったとはいえ油断は禁物だ。綿毛女、今はまだゆっくり休めよ」
オリヴァーはリアに優しい声を掛け、そしてリアが抱き締めている猫に視線を向けた。
「綿毛女。ミーミス様の触り心地はどうだ?」
オリヴァーはにやりと笑った。悪戯っぽいその笑みに、リアは首を傾げた。
「ミー……? えっと、この猫ちゃんのことですか?」
「ああ、そうだ。ミーミス様だ」
リアが背中を撫でると、腕の中の猫はにゃあとひとつ鳴いた。
(……オリヴァー様、変なの。猫に様付けなんて……)
リアがきょとんとした顔で猫を撫で続けると、オリヴァーはやがて肩を震わせて笑い始めた。
「……ぷぷっ……くくくっ……その顔、分かっとらんな? まあそのうち分かる。綿毛女、ミーミス様をこちらに」
オリヴァーがリアの腕の中から猫を抱き上げようとすると、美しいラグドールは不満げな顔をして足をぴんと伸ばし、彼の手から逃れようとした。オリヴァーの腕の中で、白い毛の塊がわさわさと暴れまわる。オリヴァーは猫を落とさないようにしつつも、必死に猫を抱えた。
「あ、先生! 暴れないで下さい! こら!」
「にゃああああっ!」
「先生、あなたの悪癖ですよ! 誰彼構わず撫でられようとするのは!」
猫は不服そうな顔をしてしなやかな身体を大きくくねらせていたが、とうとうオリヴァーの腕の中でだらりと長い胴を伸ばした。
「ふう……。やっと捕まえましたよ」
「みゅうううっ……!」
「あ痛っ、爪を立てないで下さい先生!」
猫は暴れまわりながらも切ない鳴き声を上げた。リアは猫の真っ白な腹を見ながら、朧げな記憶を辿った。
(……ミーミス様……。ミーミス様? ……どこかで……あっ……?)
リアは口元に手を当てた。オリヴァーの言葉を思い出す。
――もうすぐ大魔導師であるミーミス様が帰国する。彼女は私やゼルドリックの師であった方だ。
「え、ミーミス様!?……ミーミス様って、私に魔法を掛けてくれるはずの方じゃ!? え!? じゃあ、この猫ちゃんは……!」
リアは目を見開いて、忙しなく動く猫とオリヴァーを交互に見た。オリヴァーが大笑いしながら頷くと、猫が彼の腕の中から素早く抜け出し、リアの足の上に飛び乗った。ラグドールの冬毛がリアの毛布の上に柔らかく広がる。
くりくりとした、愛くるしいラグドールの瞳をじっと見て、リアは難しい顔をした。
「ほら、綿毛女が混乱している。わざわざ猫の姿になって治療をする必要はないでしょうに」
「何、猫の姿だから良いんだ。動物と触れ合うのは精神安定に繋がるからね。重要なことだよ」
白い猫から女性の声が聞こえる。リアは猫を食い入るように見つめ、口を開けた。
「とうとうバレてしまったか。まあ怒らないでよ、オリヴァー。私は常に理想の撫でられ心地を求めてるんだ。彼女が私を満足させてくれるか確かめたくもなるじゃないか。リア、君の撫で方は中々よかったよ。もう少し君と愉しみたかったのだけどね」
猫の身体がみるみるうちに変化し、やがてリアの前に美女が現れた。
低くも落ち着いた透き通る声。絹糸のような美しい銀の髪、紫水晶の如き見事な輝きを放つ瞳。リアは眼前に迫る白皙のエルフの顔を見た後、悲鳴を上げた。リアに四つん這いで伸し掛かるミーミスは、一切の着衣をしていない。
「み、み、ミーミス様! はだか! 裸ですよ!」
「うん? ああ、変化をそのまま解いたからね」
ミーミスはそう言うと、しなやかに身体を仰向けにさせた。これでは大事なところが全てオリヴァーに見えてしまう。リアはまた悲鳴を上げ、急いで枕でミーミスの身体を隠そうとした。オリヴァーは目を閉じ、呆れたように首を横に振った。
「はあ……。綿毛女、焦らずとも大丈夫だ。中央政府に勤める者ならば、ミーミス様の全裸は何十回も何百回も見ている。嫌というほど見せつけられている」
「冷静だねオリヴァー。少しは顔を赤らめてくれても良いのだよ」
「先生、馬鹿なことを言っていないで身体を隠して下さい。綿毛女が可哀想ですから」
オリヴァーは嫌そうに顔をしかめ、自分のコートをミーミスにばさりと被せた。
「ふむ。このコートは柔らかいね」
ミーミスは機嫌良さそうに笑い、猫のようにコートに身体を擦り寄せた。
「さてと、オリヴァー。外してくれるかい? リアの調子も良さそうだ。そろそろ彼女と話がしたいのでね」
「先生、ですが……」
オリヴァーが顔を強張らせると、ミーミスは片手を上げ微笑んだ。
「今の状態なら話しても問題ない。私はそう判断した」
「……承知しました」
ミーミスが背中にコートを掛け猫の如く丸まると、オリヴァーは一礼をし、病室を後にした。ミーミスは寝転がり、口を開いたままのリアの顔を見上げた。
「リア。驚かせて済まなかったね。私は服を着るのが嫌いでね、こうして猫の姿になって伸び伸びと過ごすことが好きなんだよ。ついでに誰かに背中や腹を撫でてもらうのも好きでね」
「は、はあ……」
目の前の白皙のエルフは飄々としていて掴みどころがない感じがした。リアを観察するように、じっと紫水晶の目が向けられる。
「大分顔色が良くなったね。食欲もそれなりにあるとメルローから聞いている」
「……はい、特に問題なく過ごせています」
「そう、本人からそう聞けて良かったよ。リア、君は最近になって思い出しただろう。己に起きたことを」
「……はい」
リアは顔を曇らせた。ここ数日、堰き止められていた水が一気に流れるように記憶が自分の頭を埋め尽くし、苦しくて仕方がなくなる事があった。ゼルドリックが自分に見せた殺戮の景色や、自ら四肢を傷付けた記憶が急に蘇った。
「保護した時の君は酷く衰弱していて、恐怖から周囲の者に縋り付き、泣き叫んだ。そのままでは治療に支障が出ると判断し、一時的に君の記憶を魔法で覆い隠していたんだ。君はかなり安定してきた。もう、ゼルドリックの名を聞いてすぐ錯乱を起こしかけることもなさそうだね」
ゼルドリック。その名を聞き、リアの胸がどくりと跳ねる。ミーミスは真面目な顔をしてリアに切り出した。
「リア。君に話さなければならないことがある。辛い話だと思うが……今から私が話すことを、どうか落ち着いて聞いてほしい」
「分かりました……」
ミーミスは深く息を吐いた後に、静かな声で言った。
「君の子宮に、ごく小さいがゼルドリックのものとはまた異なる魔力の塊があることを確認した。リア、つまり……君の腹の中に子供がいる。ゼルドリックの子だ」
ミーミスの声が頭の中で響く。リアは諦めたように目を瞑った。そうなることは、自分でも分かりきっていた。
(当然よ、何回も何十回も……ゼルをその身に、受け入れたのだから……)
俯いたリアに、ミーミスは白く長い腕を伸ばした。リアの頬に手が触れる。苦しみや痛みを吸い取ってしまうような、ひんやりとした手だとリアは思った。ミーミスはリアの顔をじっと見て、低く透き通った声で彼女に問いをした。
「君に確認しておきたい。胎の子は、どうする」
「どうするっ、て……」
「堕ろすか、それとも産むのか。難しい問題だが君の意思を聞きたい。もしも堕ろすことを選ぶのならば、君に一切の苦痛を与えることなく処理すると約束しよう」
ミーミスの猫目がじっとリアを見つめる。リアは己の腹に手を当てた。
(ここに、命が宿っている)
ゼルドリックが望んだ、己との子。リアは命の気配を探るように自分の腹を摩った。
(堕ろす、なんて……選べない。この子はゼルとの子よ。私と、ゼルの。でも、私は宿ったこの子を、無事に育てていけるのかな……)
口を噤み俯いたリアにミーミスは続けた。
「リア。もしかして君は、その子を産もうと考えているのかい」
リアはびくりと肩を震わせた。
「っ……わ、たし……堕ろす、なんて……」
ミーミスはおかしいと思うのだろうか、乱暴された末に孕んだ子を産みたいと考える自分を。
(私は夢を見ていた。愛する人と出会って、契って、暖かな家庭を作る夢を。そしていつしか、愛する人との間に子供を持てたらと。そう考えていたの……。その夢は朽ちてしまったけれど。でも、どんな過程で出来た子でも……。この子の傍に、父親がいなくても……。私はゼルを愛している。愛しているから……この子の命を奪いたくない。奪える訳がないっ……。育てたい)
「君の選択は自由だ」
ミーミスはリアの沈黙を、無言の肯定と受け取った。彼女はコートを羽織り直し、そして包み込むようにリアを抱き締めた。
「だが、どちらの選択を選ぶにしろ君に知っておいてほしいことがある。エルフという種はね、人間、オーク、ドワーフ、妖精、獣人などのヒト属と比較して、突出して寿命が長い。我々はね、同族が天寿を全うしたところを見たことがないのだよ」
「……?」
「戦争、事故、自殺、あるいは重篤な病で。エルフの死は不幸によって訪れる。そして、その不幸さえなければエルフは何千年も何万年も生きるのだ。エルフの祖と云われる女神がこの世に生まれ落ちてより凡そ五万年、それから現在に至るまで生き続けているエルフもいる。我々は自分たちの寿命を知らない。一体どこまで生きるのか分からない」
「…………」
「そして、それは純血のエルフのみならず、エルフの血を分けた者も同様なのだ。リア、その胎の子は長く生きるぞ。君よりも遥かに長く。女神よりもたらされし長命。その終わりが分からない中、気の遠くなるような時間を生きていくかもしれない」
「そ、れは……」
「オリヴァーやレントから聞いたかもしれないが、混ざり血に対する差別は依然として存在する。私が制定した多種族差別解消法の普及により、表立って差別する者は少なくなったが……。それでも、陰湿な輩というものはいつまでも消えないものだ。君たちには、冷ややかな視線が向けられることもあるだろう。そして胎の子は君亡き後も、差別と戦い続けなければならない。君は、それに耐えられるか?」
息を飲み唇を噛み締めたリアに対し、追い打ちを掛けるようにミーミスは続けた。
「リア。胎の子の前に父親は現れない。私はゼルドリックの記憶を、彼自身も探れぬ暗闇の底へと封じた。君はもう彼に会うことはできない。彼はもう君を思い出すことはない。それでも君は、その子を産むことを選ぶかい?」
「……え?」
リアは呆然とミーミスを見た。心臓が早鐘を打つ。
「ミーミス様、どういうことですか? ゼルが、私を思い出すことはないって、それ……」
「罰として、あるいは救いとして。私はゼルドリックの記憶を封じることを選んだ。彼はね、君を深く愛し、君と契りたいと考える余り禁呪に手を出したのだよ」
ミーミスは白く滑らかな己の胸に、白魚のような指を差し込んだ。肌が淡く光り、やがて胸から一輪の薔薇が取り出される。凛と咲き誇る、そして何者をも寄せ付けぬ孤高の美しさを持った、漆黒の薔薇。
「同じようなものを君も見たことがあるだろう。これは禁呪『契りの薔薇』だ」
ミーミスは真っ黒な花びらに指を這わせ、そして薄く微笑んだ。
「……それは」
(ゼルが私に手渡そうとしたものと……似ている)
「これは婚姻の象徴、そして愛の魔法。心の底から愛する者がいれば、一生に一度だけ自分の胸から創り出すことができる。この薔薇はね、最初はつぼみで生み出されるのだ。相手が薔薇を受け取り、心からの愛の言葉を贈り主に捧げた時……薔薇は咲き、つぼみに込められた魔法が発動する」
「薔薇のつぼみには、どんな魔法が込められているのですか?」
「受け取った相手の魂を自分に縛り付ける魔法だ。恋情も貞操も、全てを自分に捧げさせる魔法。ゼルドリックは君にこの薔薇を贈り、不変の契りを交わそうとした……」
ミーミスは薔薇を胸に戻した。黒い薔薇が、白い胸へと吸い込まれていく。
「この魔法が禁呪とされた理由を話そうか。この薔薇はね、魂を削って創りだすものだ」
どくり、とリアの胸がざわめいた。
「魂?」
「ああ、魂だ。この薔薇は、魂そのものなのだ。創り上げた契りの薔薇を相手に受け取ってもらえなかったり、傷付けられた場合、創り出した者の魂がひび割れる。具体的には、肉体と精神に回復困難な損傷が発生する。愛に狂い、己や相手を酷く傷付けるのだ」
「……ぁ、そんな……! そんな……」
リアは身体を震わせた。雨でぬかるんだ地面に落ち、泥に汚れた青い薔薇を思い出す。
あれは、ゼルドリックの魂そのものだったのだ。それを腐し、拒絶した自分はなんて残酷なことをしてしまったのかと、リアは罪に震えた。
「君はゼルドリックから契りの薔薇を手渡されたのだろう? そしておそらくそれを拒絶した」
リアは震えながら、小さく頷いた。
「結果、ゼルドリックは君を傷付け、そして己も死にかけた。保護した時、彼は魔力を使い果たし死を待つばかりだったよ。治療を施し続けているにもかかわらず、目を覚ますことはなかった。魂に付いた傷が、ゼルドリックの目覚めを阻んでいると私は考えた」
「……ゼル」
「だから、彼から君に関する記憶一切を封じ、そしてリア=リローランという存在を知覚あるいは認識できないように、強い魔法を施した。解ってほしい。禁呪に手を出し、君への愛憎に苦しむゼルドリックを救うには、彼の中から君に関する一切を奪うしか方法はなかったのだ」
ミーミスは頭を下げた。
「ゼルドリックは私の教え子だった。教え子の罪は私の罪。彼によって尊厳を奪われ、深く傷付けられた君に……心より謝罪する。彼から受けた傷を無くすことは出来ないかもしれない。だが、全力を以て君の傷を癒やすことを約束しよう。望むのならば、君からゼルドリックに関する記憶を取り去ることも出来る」
リアはぼろぼろと泣いた。ミーミスの言葉が痛くて苦しくて仕方がなかった。
「ゼルは……もう、私を思い出すことはないのですか?」
「ああ。二度と」
「っ……! 彼に、会えば……私のことを」
「思い出さない。君の姿を、もう捉えることはできない。私がそのように魔法を施した。もし思い出すようなことがあれば、また恋情に狂って君と自分自身を酷く傷付けるだろうから。彼の記憶は、決して戻らない」
ミーミスの紫色の瞳を涙でぼやける目で見る。その真っ直ぐな瞳に嘘はなく、リアは静かな絶望を味わった。
――リア。
優しいダークエルフの微笑みが思い浮かぶ。自分の心の拠り所である、「黒の王子様」の微笑みを。
あの微笑みはもう、自分に向けられることはない。どんなに望んでも、二度と手に入らない。
だが、それでも……。
(私は、この子を産みたい。ゼルの全てを……自分の中に留めておきたい。だから……)
「……私、は………」
――――――――――
子を産むと決めた。そうリアから打ち明けられたのだ、とミーミスは三人のエルフの前で言った。
メルローは顔を強くしかめ、レントは悲しみに瞳を揺らした。オリヴァーだけが冷静に師の言葉を聞いていた。彼は、あのハーフドワーフがそれを選ぶことを分かっていた。あの女は酷く傷付けられてなお、まだゼルドリックを愛している。はっきりした意識を取り戻してからゼルドリックの名を何度も呼び、頻繁に彼の容態を訊ねてくるリアを見て、オリヴァーはそう確信していた。
愛する男との子ならば、彼女は産むことを選ぶのだろうと。そしてゼルドリックとの繋がりを失い、この先強い差別を受けることがあったとしても、宿った子を大切に育てていくことを選ぶのだろうと。オリヴァーはリアの選択の結果を、これから先ずっと見守っていくことに決めた。
「綿毛女、入るぞ」
病室の扉を開ければ、寝台の上でぼんやりと窓の外を眺めているリアが目に入った。
「オリヴァー様、こんにちは」
リアはオリヴァーに向かって微笑んだ。頬は血色が良く、穏やかな笑みを湛える顔には、何ら悲愴や迷いは感じない。リアの穏やかな微笑みに、オリヴァーは一種の強さを認めた。
「ミーミス様から聞いた。貴様の選択を」
リアが目をゆっくりと瞬かせ、オリヴァーから視線を外す。そしてまた彼女は窓の外に目を向けた。
「オリヴァー様。私の選択をおかしいと思いますか?」
「いいや。私は貴様がそう選択することを、心のどこかで分かっていたよ。奴の子を産み育てるのだろうと。貴様は、まだゼルドリックを愛しているのだろう?」
リアは薄く微笑み、目を瞑った。
「はい。これまでも、これからも……私はずっと、彼を愛しています。ゼルとはもう会えない。ゼルは私のことを忘れている。ミーミス様からそう聞いた時、私は暗闇の中へと放り出された気持ちでした。痛くて、寂しくて仕方がなかった。こうなるのなら怖れなど抱かず、真っ直ぐに愛していると伝えれば良かったと。あの時、契りの薔薇を受け取っていれば良かったと、強く後悔しました」
「…………」
「彼が私のことを忘れてしまっても、私は、私の中に残された彼の何もかもを留めておきたいのです。幸せなことばかりではない、辛い記憶も、身体に受けた痛みさえも。私は忘れたくはありません。彼にかかわる全てを、決して手放すことなんて出来ない」
「……綿毛女」
「ですから、堕ろすという選択肢は最初から私の中には無かった。この子は、私とゼルを繋ぐ唯一です。私の中に宿ったこの子を、自分の全てを賭けて大切に育てていくと決めました」
リアはまだ膨らまぬ自分の腹を愛おしげに撫でた。
「我儘なのでしょうね。レントさんやミーミス様から、混ざり血へ向けられる冷たい視線のことは聞いているのに。この子は私よりずっとずっと長い時を生きていく。私はこの子の隣から、すぐにいなくなってしまうのに。この子は、いつか自分の出生を呪うでしょうか。差別に晒されて、なぜ自分を産んだのかと……母親である私を責める時が来るのでしょうか」
「来ない! そんなことはさせない!」
オリヴァーは声を荒げ、強く断言した。
「良いか、綿毛女。確かに混ざり血に対する差別は存在する。純血のエルフは画一的な教育を施されるがゆえに考えが狭量だ。自分と異なる者に嫌悪を示す者が多い。心の無い者たちは、貴様やその子供に侮蔑の視線を送ることもあるだろう。だが、決して貴様らに手出しはさせない」
「……オリヴァー様」
「私も、ミーミス様も、レントもメルローも。中央政府に勤める者として貴様とその子を守り抜くことを約束しよう。貴様が天寿を全うした後も、子を見守り続けることを誓おう。生まれてくる子が混ざり血だろうが関係ない。祖である女神の血を分けた我々の仲間、我々の同胞なのだから」
「……っ」
「覚えておけ。貴様の傍にゼルドリックはいないが、我々がいる。貴様は決して独りではない。綿毛女、貴様が命を賭して子を産み育てることを選ぶというのならば、我々も全力を懸けて貴様らを守るまで。難しいことは考えず、ただ命ある限りその子に愛情を注いでやれ。愛され、望まれて生まれてきたのだと。そう子供に伝え続けてやれ。母亡き後も、その子が母の愛を抱きながら生きていけるように……」
リアはそこで初めて大きく表情を崩した。
眉を下げ、ぼたぼたと涙を流す。オリヴァーはリアに近づき、小さな手をしっかりと握り込んだ。
「私は政府から充分な給金を貰っている。レントもメルローもだ。ハーフドワーフとその子ひとり、養うのに何の問題もない。金銭、立場、使えるものは何でも使って貴様ら親子を保護する。だから余計な心配はするな。しっかりと食べて、しっかりと休め。ハーフドワーフの代謝に合った食事をして、精々胎の子を肥え太らせておけよ」
オリヴァーが笑うと、リアはオリヴァーの大きな手をしっかりと握り返し、涙を流しながら微笑んだ。
「オリヴァー様っ……ありがとう、ありがとうございます……本当に、ありがとう……」
リアは何度も何度も礼を言った。オリヴァーは緑色の目を細め、応えるように頷いた。若草色のおかっぱ頭が陽光を受けて輝く。リアはそれを、心から頼もしく思った。
――――――――――
リアは明るい部屋の中で、マルティンへの手紙を書いていた。
色々あったけれど、今は元気で過ごせているから心配しないでと、遠く離れた村に住む弟に伝えたかった。
それからゼルドリックのことと、自分の腹に宿った子供のことも。
メルローから手渡された高級なレターセットと窓から見える青空を交互に眺めながら、リアは、愛おしいダークエルフに思いを馳せた。
(……ゼル。……あなたは、今どうしているのかしら?)
ゼルドリックのことも、彼から受けた傷のことも、少しずつ受け止められるようになった。痩せて、落ち窪んでしまった彼の昏い目を思い出す。
(あのままだったら、きっと私もゼルも死んでいた。でも……ゼルが生きていて、本当に良かった……)
リアは寂しげな笑みを浮かべ、俯いた。
自分とゼルドリックの関係は粉々に壊れてしまったけれど、それでも彼を深く愛しているのには変わりない。彼が生きてさえいてくれれば、それでいい。長い生の中で、自分ではない誰かと幸せに過ごしていけばいいのだ。
「ふうっ……」
リアは込み上げる感情のまま、ぶわりと目から涙を溢れさせた。
目の前のレターセットにぱたぱたと涙が滴ってしまい、リアは急いでそれを拭った。だが涙に滲んだ字は戻らなくて、リアは溜息を吐いた。
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