ポーリュプスの籠絡

橙乃紅瑚

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11.Rubrum

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 マーシュの話を聞いてから、ラズリの精神状態は悪化の一途を辿っていた。

 一体誰を信じればいいのか。これから何を拠り所にして生きていけばいいのか。

 マーシュの言う通り、ルブラは自分を嫌い、酷く恨んでいたのかもしれない。この存在自体がルブラにとっての毒だったのだ。自分と共に暮らすことで、彼を苦しめることもあっただろう。聞きたくても、聞く相手はもういない……。

 疑問と罪悪感が頭の中でぐるぐると巡り続け、息が出来なくなる。

 私が殺した。
 あの男を、私が苦しめた。ルブラは私を憎んでいる。

 ラズリは消えることがない強烈な不安に、なお己の肌を傷付けた。

 ラズリの腕はぼろぼろになってしまっている。放っておくと引っ掻き傷や噛み痕が増え続ける一方だったので、マーシュは彼女に与える薬の中に睡眠薬と筋弛緩剤を足すようになった。

 だが、ラズリは強い薬を以てしても深く眠ることはなかった。彼女は寝ると悪い夢を見てしまうからと、必死に唇を噛み締めて眠りに落ちないように耐えていた。薬が効き始めてからも、うわ言のようにルブラの名を呼び続け、時折夢遊病を患ったかのように辺りを徘徊した。

「ルブラ……どこ? ごめんね、私を、恨んでいるのよね……。だから私にあんな夢を見せるのでしょう? ルブラ、ねえルブラ……どこにいるの? 戻ってきて、お願い……! あなたともう一度会えるなら、私は海の底に沈んだっていいわ……。ルブラ、ルブラ、るぶら……」

 まともな睡眠を取らないラズリはやつれ、日毎に病的になっていった。

 長い黒髪を振り乱しながら愛する男を捜し続ける。
 箪笥と箪笥の隙間を、寝台の下を、薬品棚を覗き込む。青い目を爛々と輝かせながら窓を見下ろしたり、机の引き出しを何度も何度も開ける。いるはずのない男の影を、執拗に求め続ける。

 泣き叫んだかと思えば突然けたけたと笑い始める。マーシュに何の脈絡もなく海の美しさを説く。
 海の民以外には決して発音できぬ「xxxxx」の名を、何とか自分も紡ごうと試みる。咳き込むように、吼えるように。声が嗄れても、ラズリは構わず冒涜的なその名を発声しようとした。

「うふふ。ふふっ、xx██、█っふふふ、んふふふふふふふふ██xx█ぅぅぅ」

 マーシュが止めてもなお、ラズリは邪神の名を呼び続けた。不気味な笑い声を上げながら、愛を囁くように神の名を口にする。ラズリは邪神の名を、拙くも紡いでみせた。

「戻ってきて。戻ってきて、戻ってきて戻ってきて戻ってきてもどってきておねがいもどってきて……」


 ラズリは頭を抱え込み、ぶつぶつと呟いた。彼女本来の声と重なる形で、くぐもった笛のような音が響く。


 私はルブラに恨まれている。だからあんな夢を見るのだ。

 わたしは苦しまなければならない。
 彼が感じた苦痛をこの身で感じなければならない。そうしなければ許されない。許されない。

 許されない。許されない。

 許されない。
 許されない。

 許されない。

 許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。 

 許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。 許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。 
 許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。 許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。許されない。


 許許されない。ゆる されない。 ゆるし て

 わ

 わたしは る 

 私 は  るぶらを殺しし てしまった。 殺した 
 ころ し
 た。  ころ した。ころし、ころした……。

 ころした。突き刺して焼いた。焼焼いて 灰に
 はいに、して海へと棄てた。こんなことをしたわ

 たしが わたしが、ゆるされていいはずがない。 ない。ない。ない。    臓腑を喰わ
 れ、喉を喰わ れ、顔 も腹も腕も足もすべて、すべ てくわれてほねとなってこそゆるされる。ゆるされ る

 めも ほねも ぞ 
 臓もつ 臓腑 腑腑腑 

 だれも わたしもな にものもなにもかも全てて す べてすべ

 て あのおか たからはのがれられない 。 のがれられない。のがれられない。

 ききき きょ 
 う だんのいぎを わする るなかれ

 われわれは大いなるおんか た のせんぺい 
 りゅうれ いなる ち しゅご者な   り

 もうまいなるものどもにかのち 血 に塗れた かの 地のけしきを伝えひろめ るのだ 。たえずうみ みみみからの よびごえに。 こえに。 こえ みみをかたむけけ け。 かたむけ

 せいしんがただしいいちにつく とき、あのおん 
 かた  めざめる

 █xx█ █ めざめる。 めざめるのだ
 あがめ よ かれを かれを、いだいなる█████を  

 わた し はかれ のはなよめ たましいを わたし わた し ます。

 わたしはか れだ けのも。もの。かれだけのものだから かれのはなよめ つが がいい 

 それを ひていするなら

 とわに ゆるされない 
 ゆるされないゆるされな 許されないゆ 
 る されな い 

 ゆるされないゆるされない されな  のろろろお の詛詛 われ る 呪
 の われ る。



 呪われる 




 ……ああ、この女はすっかりおかしくなってしまった。



 壊れたラズリを前に、マーシュは背筋が寒くなった。

 ラズリが放つ霊気が弱まる。
 天の遣いの骨が、虫歯のように黒ずんでいく。




 嫌な予感がする。

 胸騒ぎが、止まらない。




 ********



 喉が渇く。いくら水を飲んでも満たされない。肌が乾き、粉吹き、ひび割れる。部屋で過ごすのは駄目だ、肌がかさかさに乾いてしまうから。潤いが足りない。自分はやはり、水のある場所で過ごさなくてはいけない……。

 気持ちがいい。やはりここが一番落ち着く。

 ラズリは浴槽に入りながら、うっとりと微笑んだ。

 浴槽は冷水で満たされている。こんなに冷たい水に浸かり続けては身体に良くないというのに、今のラズリには凍えるようなその冷たさが心地よかった。

 人間の風呂は熱すぎる。あんなに熱くては茹だってしまう。どうして自分はあんなに熱い湯を浴びていたのだろうか? こうして水に浸かることの方が自然に思える……。
 浴槽の中で人魚のように足を揺蕩わせながら、ラズリはぼうっと考えを巡らせた。

 満たされぬ渇きに苦しむラズリは、一日の殆どを浴場で過ごすようになった。ここにいれば精神が安定する。あの夢から逃れられる……。冷水に浸かり続けた肌はすっかりふやけている。ひび割れた肌から水が入り込み、自分の芯を潤していく。

 ふと、ラズリは腕に違和感を抱いた。

 何かに吸われたような痕が浮き出ている。腕だけではなく、胸や腿、腹にもその痕がある。いくら擦ってもそれは取れない。奇妙な痕は段々とくっきりした形で現れ、ラズリの白い肌の上に、赤く美しい花を次々と咲かせた。

 吸盤を思わせる引き攣れた痕。
 薔薇のように、彼岸花のように、肌の上で赤く赤く咲き誇る。

 ラズリはじっとそれを見つめた。蛸の吸盤の痕が現れたところは、あの怖ろしい夢の中で触腕に巻き付かれた箇所だった。

 夢と現実の境界が曖昧になっていく。
 潮の臭いが、暗い水底が、現実のものとして脳裏に迫り来る。

 肌に赤い花々が咲くと同時に、蛸を模した紋が下腹に浮かび上がる。その紋は、ルブラの全身に施された冒涜的な刺青とよく似ていた。六つの眼を持つ赤褐色の蛸が、ラズリの下腹に殊更くっきりと刻まれる。

 頭を下に向けた蛸の丸み、そして左右に伸ばされた触手。
 それは、どこか子宮の形を思わせた。

 ラズリは恐怖と歓喜が入り混じった感情で蛸を見つめた。
 これは何だろうか? ルブラは自分に呪いをかけたのだろうか?

 ……ああ、やはりあの邪神は生きているのだ。
 生き延びて、私の魂を狙っているのだ……。


 ――何者も我から逃れることはできぬ。何者も、決して。


 呪いをかけるほど私を恨んでいるなら、早く会いに来て。
 もうあなたを拒絶しない。あなたから逃げない。憎しみも愛も何もかも、あなたからの感情は私がすべて受け止める。私もあなたを愛している。この腕でもう一度あなたを抱きしめたいの……。

 ルブラとの再会を待ち望みながら、ラズリは下腹に現れた蛸を何度も何度も摩った。



 ********


 鏡を見る度、後ろに焼けた男が立っている。
 高温の炎に炭化した真っ黒な腕を前に回し、強く強く抱きしめてくる。

「……ルブラ」

 ラズリは男に呼びかけた。
 振り向いてもそこには誰もいない。だが鏡を見ると、確かに自分の後ろにルブラが立っている。

 黒い腕が肉に食い込み、骨が軋む。
 ラズリが鏡越しに目を合わせると、ルブラは焼け爛れた唇を歪めた。

 ルブラの焼損した顔は見るに堪えない。荒々しくも端正だった彼の顔は、すっかり焦げてしまっている。だが、暗闇の中でも眩く光る金の目だけはそのままだ。金の目に、凄まじい怨毒と狂愛が渦巻いている……。

 ラズリが許しを請おうとすると、ルブラはその場から消えてしまった。

 いつもそうだ。彼は釈明をさせてくれない。自分の後ろに立つルブラは幻覚なのだろうか? 何が夢で、何が現実なのかもう分からない……。
 ラズリはぽろぽろと涙を流し、その場にしゃがみ込んだ。

「ラズリくん!? どうした!?」

 洗面台の前に座り込むラズリのもとに、マーシュが駆け寄ってくる。彼は泣きじゃくるラズリをそっと立たせ、病室に連れて行こうとした。

「また。また私の後ろにルブラがいた。彼は私の話を聞いてくれない。私のこと、絶対に許さないって、お前は永遠に呪われるんだって。ルブラはきっとそう思ってる……」

 マーシュは辺りを見た。
 自分とラズリの他には誰もいない。一体この部下には何が見えているのだろうかと、マーシュは強い不安を感じながら彼女に声をかけた。

「大丈夫。……大丈夫だ、ラズリくん。ほら、周りには誰もいない。ルブラはもういないんだよ。何も怯えることなんてないんだ、ラズリくん」

「ああ、でも……」

 マーシュの声掛けなど聞こえていないといった様子で、ラズリはうっとりとまた鏡を見つめた。

「ルブラと会えて嬉しかった。また会いに来てくれるわよね? ルブラは生きている。絶対に生きている! もうすぐで私のもとに戻ってきてくれるはず! だって神様だものね。私の夫だものね? 地の果てまで追いかけてくれるのでしょう? 愛しいルブラ……!」

 ラズリは蠱惑的な微笑みを浮かべた。こけた頬をほんのりと赤く染め、そこにいないルブラに向けて情熱的な視線を送る。蕩けた顔で鏡の中の自分を見つめ続けるラズリを見ていられず、マーシュは無理矢理彼女を抱え込んで外に連れ出した。

「ラズリくん、空を見ろ! ……そう、そうだ。おかしくなりそうになった時は空を見上げるんだ。あの青空こそ君の魂の色。暗いところを見て、その清らかな魂を穢してはならない……!」

 天はラズワードの領域。この地球を取り囲む大気には天空神の霊気が満ちている。空から降り注ぐ陽光をたくさん浴びたラズリは、少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 マーシュは日中、ラズリを必ず外に出すようにした。その甲斐あってラズリが狂気的な行動に出ることはなくなったが、彼女の肉体に巡る青い霊気は薄まったままだった。


 マーシュはラズリに縋りながら世界の安寧を願った。
 だが弱々しいラズワードの化身に縋る以外、彼にはどうすることも出来なかった。


 骨の短剣が黒ずみ、欠け、崩壊する。
 何か、決定的に悪いことが起きてしまっている……。



 ********



 ラズリは病室を抜け出し、あてもなく街中を彷徨っていた。青空を見上げながら歩いているのに、全く気分が晴れない。

「……おなか、空いた……」

 空腹感が消えない。毎日食事を摂っているのに、ずっと飢えが収まらない。マーシュが出す食事や病院食は、きっと自分には合わないのだ。自分の胃も心も完璧に満たしてくれる、そんな料理を探さなくては……。

 ラズリの頭に浮かんだのは、ルブラが作った料理だった。

 ルブラの作る料理はいずれも素晴らしかった。あの味が恋しい。うっとりとするようなあの美味を、もう一度味わいたい。そうだ、食べるなら海のものがいい。獣肉よりも何よりも、魚や蛸を食べたい。

 ラズリが過ごしている都市には、数え切れないほどのレストランがある。昼時の街には人々の食欲をそそるようなよい匂いが漂っていた。
 だが、いずれの匂いもラズリの気を惹くものではなかった。彼女は俯きながら、飢えを満たしてくれそうな料理の匂いをひたすら探し続けた。

 ふと、薄暗い路地から魅力的な匂いがした。

 香ばしく、食欲をそそる匂い。……焼けた蛸の匂いだ。

「辛そうだねえ」

 ラズリがゆっくりと顔を上げると、いつの間にか彼女の前に男が立っていた。不気味な男はラズリを見下ろし、また「辛そうだねえ」と繰り返した。

「うちに寄りなよ、お客さん。腹減ってんだろ? うちならお客さんを満足させられるよ?」

 黒いコック帽を被った男は、黄ばんだ歯を見せながら笑った。男はとても生臭い。魚のはらわたを思わせる悪臭にラズリは顔をしかめたが、同時に懐かしさも感じた。

 海の匂いを纏うこの男についていけば、きっと自分の飢えは満たされる。ラズリは男に手を引かれ、薄暗い路地にある店に入った。

 男が営む店は暗く、湿気ていて、小汚かった。キッチンにどす黒い液体が大量に飛び散っている。ラズリはカウンターに座りながら、男が料理するところをぼんやりと見つめた。

 オリーブ油、にんにく、トマト、そして蛸の足。男はそれらを手早くフライパンに投げ入れながら、独り言のようにラズリに話しかけた。

「お客さんはうちと会えて運がいい! ええ、ええ。いい蛸がね、入ったんだよ。とても新鮮な蛸でねえ。お客さんを見た瞬間、あんたに食べてもらいたいと思ったんだ。この蛸は美味い。きっとお客さんを完璧に満たせる」

「……満たせる?」

「そうだよお客さん。あんたの心も身体も満たせるものはこの蛸以外にない。ひひ、お代はいらねえよ。心ゆくまでたんまりと食べてくれ! あんたのために用意した蛸だからさ……。さあ、待たせたね」

 カウンターに料理が次々と並ぶ。 

 タコスミのパスタ。
 蛸のフライ。蛸のスープ。
 蛸のマリネ。たこ焼き。蛸のタコス。

「蛸の墨ってのは料理に向かねえんだ。やたらにさらさらしていて、臭くて、烏賊のようには固まらねえからな。でも俺が扱ったお蛸様は特別なのさ。足から墨まで、何もかもが完璧で美味い! さあ、食いなお客さん。もう待ちきれねえんだろう? お蛸様も食われるのを待ってるぜ……」

 ごくりと唾を飲み込んだラズリに、男は耳障りな笑い声を上げた。

 男の料理はどれも美味しかった。一口食べるごとに飢えが消え、欠けていたものが埋められていく。ラズリは無我夢中で料理を平らげ、すっきりとした顔で男に礼を言った。


 その夜はよく眠れた。

 そしてその日から、ラズリの見る夢は変わった。

 かつて見た、赤褐色の大蛸と絡み合う夢だ。
 薄暗い神殿の中、自分よりもずっと大きい蛸足に捕らわれて、身体をじっくり嬲られる。蛸の足が全身に巻き付き、絡みつき、四肢を扱くようにうねる。胸に、秘部に、背中に。二の腕に、爪先に、脇の下に。粘液を纏った触手をずるずると擦り付けられる。

 逃れられない絶頂を何度も与えられる。
 精莢を最奥に押し込められる度に、下腹に刻まれた紋が妖しく光る。

 また酷い淫欲に襲われる。いくら自慰をしても疼きが消えない。

 ルブラに会いたい。満たされたい。
 あの男が、欲しい……。


 ********


 マーシュは焦っていた。

 邪神『xxxxx』はラズリの手によって滅ぼされたはずなのに、いつまでもその影が消えない。

 何かが起きている。
 抗いようのない、怖ろしい何かが……。

「海からの呼び声が消えない。一体、なぜ?」

 脳の裏側を掻きむしるような不快な声。水底に無理やり誘われるような変貌の呼び声。それがずっと頭の奥で響き続けている。邪神を消せば、この強烈な声は消え去るものだと思っていたのに。

 窓の外は雨風が吹き荒れている。
 荒れる海を見つめながら、マーシュは呆然と呟いた。

「まさか……まだxxxxxは生きているのか? 生きて、ラズリくんを狙っているのか……?」

 邪神の影は色濃い。

 海沿いの都市に住む人間たちは、皆悪夢を見るようになった。宇宙の彼方にある星の景色や、烏賊や蛸が暮らす海中都市の様子が彼らの頭に植え付けられる。正常な精神を失い、自ら海に入水する者まで現れた。

 空は雨雲に覆われ、大量の水が地に降り注いでいる。まるで全てを水浸しにするかのように。全てを水底に沈めてしまうかのように……。

 そして何よりも。

 ――ルブラは生きている。絶対に生きている! もうすぐで私のもとに戻ってきてくれるはず!

 ラズリを蝕んだ狂気だ。
 彼女の魂をあそこまで穢すことができるのは、水神以外にあり得ない。

 天の遣いの骨は崩れてしまった。水神の霊気から都市を守るものは、もう何もない。

(……まずいぞ。正気を取り戻しつつあるとはいえ、ラズリくんは未だに精神不安定だ。彼女が放つ青い霊気は随分と弱まってしまった。水神の呼び声に対して、この都市はあまりにも無防備だ……。このままだと住人たちは皆、魚へと変貌してしまうのではないか?)

 マーシュは唇を噛み締めながらラズリの病室へと向かった。強烈な不安が彼の心を支配する。マーシュは血走った目を何度も瞬き、頭の中で素早く次の計画を組み立てた。

(とにかく、ラズリくんの精神を安定させるのが最優先だ。天空神の力を取り戻させ、戦いに備えなければ。……ああ、駄目だ! 何てことだ、あの者の復活を阻むことができたと思ったのに! このままでは世界の終わりが訪れる。何とか彼女を説得し、奮い立たせないと……!)

 ノックの返事を待たずに病室に入る。
 マーシュは椅子に腰掛けていたラズリに駆け寄り、彼女の手を強く握り込んだ。

「ラズリくん! どうかこの世界を救ってくれ! 君しか頼れないんだ、お願いだ!」

 頭を深く下げ懇願する。騙して悪かった、だがどうしても君の力が必要なのだとラズリに縋る。そんな上司を見て、ラズリは訝しげに首を傾げた。

「マーシュ隊長? 急にどうしたのです。一体何が――」

 その続きを、ラズリもマーシュも紡ぐことができなかった。

 ラズリの手から、突如禍々しい靄のようなものが立ち上る。彼女の手を握り込んでいたマーシュはその靄を浴び、ぎょっとした顔で後ずさった。

「あ、ぁ……!? これ、は……xxx、xxの……!」

 マーシュの肌が忽ち生白く変わっていく。皮膚に鱗が生え、彼の柔和な顔が魚のものへと変化する。

 ぎょろりと突き出た目、たるんだ唇、広い顔に平らな鼻、引っ込んだ顎。島民たちと同じ、海の民であることを示す独特の顔つき。

「ひっ……!? ま、マーシュ隊長!!」

 ラズリは咄嗟にマーシュの手を握り込んだ。だがラズリが触れれば触れるほど、彼は魚人の姿へと変わっていく。えらが、水掻きが、尾が、彼の服を突き破って現れる……。

 強い困惑に、ラズリは掠れた息を吐いた。

「な、なんで……。私の霊気があれば、隊長は魚にならずに済むのでしょう? なのにどうして? どうして私が触れる度に変わっていくの!?」

「あ、ぁ……。そんな、そんな馬鹿な! 唯一の希望である君が、水神の手に堕ちてしまったというのか!? 僕がやってきたことは何だったんだ? あの狡猾な神には、何者も対抗できないのか……!」

 ラズリの肉体に巡っているのは、悍ましい水神の霊気だった。清らかな青い霊気はすっかり掻き消されてしまっている。マーシュは絶望の涙を流しながら、ラズリの背後を指差した。

「あ、あっ……。ああああぁぁぁぁッ………!」



 窓に! 窓に!



 ラズリはゆっくりと振り向き、そこにあるものを見て悲鳴を上げた。


『りーりーりーりーりーりーりーりー』

『██繝昴??█xx██』

『ふよよよよよよよ? ぽ。ぽぽぽぽっ』

『るるる、るりるり、りららららーらー』

 魚人たちが、隙間もなくべったりと病室の窓に張り付いている。未知の言葉を吐き散らしながら、怯えるラズリをにたにたと見つめている。奇妙な魚の歌に、ラズリはルブラから追いかけ回された時の恐怖を思い出した。

「逃げろラズリくん! 狙いは君だ!!」

 ラズリは訳も分からぬままマーシュに追い出された。辺りの様子を伺いつつ、素早く出口へと向かう。ラズリは悪態を吐きながら、生臭い階段を必死に駆け下りた。

「くっ……何、一体何が起きてるの!? 大体ここが何階だと思ってんのよ!」

 ラズリとすれ違った患者が、看護婦が、医者が、次々と魚人に変貌する。彼らは古のものが紡ぐ魚の歌に導かれ、ラズリの後を執拗に追いかけ始めた。

「ああああもうっ! 邪魔よ! どいて!」

 粘液にぬめる数多の白い手がラズリを捕まえようとする。ラズリは大声を上げ、襲い来る魚人たちを必死に投げ飛ばした。

 魚人たちの手を掻い潜り、何とか外に転がり出る。
 ラズリは一息つき、そしてすぐに空の異常に気が付いた。

「……なに、あれ?」

 分厚い雨雲の切れ目に見える空が、波のように揺らいでいる。
 まるで空の上に、もうひとつの海があるような……。

 水面を思わせる独特の光が、雲の向こうでゆらゆらと煌めいている。膨大な水量を示すそれに、ラズリはぞっとし背を震わせた。

(……あの水が、全部地上に落ちてきたらどうなる? マーシュ隊長の言う通り、陸に生きる者は全て死に絶えてしまうだろう……)

 ――何者も我から逃れることはできぬ。何者も、決して。

「ルブラ、あなたがやったのね」

 やはりあの邪神は生きていた。
 逃げた自分を恨み、この世界に終焉をもたらそうとしている。

『りーりーりー……? り、りりりっ!! りりりりりりぃぃ!!!』

 けたたましい魚の声が響く。その声と共に、数多の魚人が自分を捕まえようと迫り来る。
 ラズリははっとし、急いでその場から駆け出した。

 街は悪夢に呑まれていた。

 異常な空を見て狂奔する者。笑いながら壁に頭を打ち付け続ける者。手を繋いで海へと駆け出す者。壁に、地面に、その他いたるところに冒涜的な絵を描く者。狂気に蝕まれた人間たちは皆、ラズリとすれ違う度に魚の姿へと変わっていく。

 辺りは魚のはらわたの臭いに満ちている。ラズリは吐き気を堪えながら必死に魚人の軍勢から逃げ続けたが、ふと自分が海へと誘導されていることに気が付いた。

(まずい、海は彼らの領域だ。私は追い込まれている)

 あてなどない。
 これ以上、どこへ逃げればいいか分からない。

 ――もうそなたの逃げ場はこの世界のどこにもない。

 邪神は復活した。逃げてどうなる。
 自分にはあの神に対抗できる力はない。逃げたところで、何も変わらないではないか。

 ――終わりを迎える世界の中で俺を裏切ったことを後悔しやがれ!!

(…………後悔)

 ならば、自分のやるべきことは何だ? 
 ルブラと向き合うことではないか?

「私は、後悔している」

 ルブラを避けたという後悔。ルブラの目を見て話せなかったという後悔。
 その後悔の棘が、心に耐え難い痛みを残しているのだ。
 
 何もかもが終わるのなら、その前にルブラと話せないだろうか。ルブラにこの気持ちを伝えたい。

(……傷付けてごめんね、ルブラ。私もあなたを愛しているの。すれ違ってしまったけれど、叶うならあなたをもう一度抱きしめたいの……)

 もう拒絶しない。逃げない。
 憎しみも愛も何もかも、ルブラからの感情はすべて受け止める。

 
 ラズリは思考を巡らせながら、真っ直ぐ海へと駆け出した。



 *



 浜辺に辿り着いたラズリは、重苦しい空気に押し潰されその場に座り込んだ。

 ずるり、ずるりと何かが激しく蠢く音がする。ラズリは自分が立っていた砂浜が、いつの間にか緑色の肉塊に変わっていることに気が付いた。ぬめる。沈み込む。自分の身体が、醜悪な肉塊に取り込まれていく……。

 空が赤く染まる。明滅する赤と緑の色彩が、ラズリの脳にちかちかとした刺激を与える。彼女は自分を取り込む肉塊の主に息を呑んだ。

「……ぁ」

 怪物が、自分を見下ろしている。

 蛸に似た頭部。六つの金眼、顎から生えた髭のような触手。鋭い鉤爪、水掻きのある手、蝙蝠のような翼、どろどろとした粘液を纏う肌。そして山のように大きな躰……。地下神殿の壁画で見た邪神だ。ルブラの真の姿に、ラズリは唇から震えた声を漏らした。

『言っただろう、ラズリ。何者も逃れることはできないと。お前は永遠にこの█████のものなのだ』

 ああ、は駄目だ。こんな存在には、誰も抗うことはできない……。

 触腕が全身に絡みつく。
 ラズリは凄まじい恐怖に気を失い、邪神によって暗い暗い海底へと引きずり込まれた。


 ********


 うねうね、ずりずり、にゅぷにゅぷ、くちゃくちゃ。粘度のある水音が響く。
 目を覚ましたラズリは、自分の四肢が肉の壁に埋め込まれていることに気が付いた。

「ん、ひっ……」

 敏感な足裏を、腿を、壁にくっつけられている臀部を、ぬめる触手に撫で摩られている。自分は裸だ。背後から伸びる蛸足の吸盤に胸の先端をちゅぱちゅぱと吸われ、開かれた足の間を太い蛸足で執拗に擦られている。

 ラズリは快楽の声を上げながら、辺りをゆっくり見渡した。
 
 肉、肉、肉。どこを見ても、軟らかな赤褐色の肉で埋め尽くされている。まるでこの空間が、ラズリを嬲るために造られたかのようだった。粘液滴る天井から、軟らかな壁から、床から、たくさんの蛸足が伸びている……。

 蛸足が蠢く向こうに人間の男の姿がある。
 男は触腕の椅子に腰掛けながら、ラズリに向けて挨拶をした。

「よーお、クソ女。久しぶりだなあ? また俺に捕まった気分はどうだ?」

「あっはぁ……。……る、ぶら……!」

 金髪、金眼、変わった瞳孔の形、刈り上げられた側頭部、編み込まれた八つの髪の束、浅黒い肌、長身、屈強な肉体、全身に施された刺青……。
 目の前のルブラは、ラズリがよく知る姿のままで現れた。彼は肉の壁に埋め込まれたラズリを嘲るような目で見つめ、彼女の顎をぐっと掴んだ。

「お前、なんで俺が復活できたのかって顔してんな」

「んんっ……。そう、ね。なんであなたが生きていたのかっ……知りたいわ」

「お前が俺の灰をわざわざ海に戻したからだよ。海は俺の領域。灰の一粒でも海に還れば、時間をかけて復活できる! ……あーあ、馬鹿なラズリ。余計なことをしたせいで、お前はまた俺に捕まっちまったんだ。……くく、俺を石の棺に入れて水葬したのは何でだ? 罪悪感でも刺激されたか?」

 ルブラは金の瞳に憎悪を宿しながらにんまりと笑った。

「捕まった魚は食われるのが運命だ。お前は逃げられない、決して俺から逃げられない。言ったろ? 地の果てまでも追いかけてやるからなって。この世界のどこにもお前の逃げ場はねえんだ!」

「……ルブラ」

「俺はかつての力を取り戻した。もう誰も俺を止めることはできない。お前が変わらないのなら、俺に堕ちないのなら……。お前以外の全てを変えてやるだけだ。お前が好きな山も、家族も、あのクソ忌々しい男も全部全部海に沈める。お前の肉体を変質させ、陸で生きられないようにしてやる……」

 憎悪と愛情が籠もった目で、ルブラはきらきらと光る青い瞳を見つめた。
 男の下半身が、蛸のものへと変わっていく。どろどろとした粘液を纏う触腕でラズリの下腹を撫で摩り、ルブラはうっとりと微笑んだ。

「さあラズリ、俺を受け入れろ。この海底都市で、存分にお前を可愛がってやるからな……」

 これから加えられるであろう淫虐に身体が疼く。
 男の情欲に塗れた声に、ラズリはこくりと喉を鳴らした。
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