嫌われ令嬢と冷酷王子の契約結婚​~氷の檻に、春を隠して~

エイプリル

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​『第二話:芳醇な香りと、和らぐ刃(やいば)』

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​『第二話:芳醇な香りと、和らぐ刃(やいば)』


​「……何の用だ。見世物ではないぞ」

​汗を拭おうともせず、カイルは鋭い眼光をエルセに突きつけた。
しかし、彼女の視線は吸い寄せられるように、彼の背中に釘付けになっていた。陽光を浴びて輝く背躯は、まるで名匠の手で彫り上げられた大理石の彫刻のように滑らかで、それでいて一振りごとに筋肉の一つ一つが猛々しく躍動している。滴り落ちる汗がその稜線をなぞり、野生的な美しさを放っていた。

​「……っ」

エルセはハッと我に返り、頬を赤らめて視線を落とした。震える手で懐からハンカチを取り出し、おそるおそる差し出す。

​「……誤解です、殿下。散歩をしていて、偶然通りかかっただけでございます。お邪魔のようですので、すぐに立ち去りますわ。……それでは」

​(早く去らなければ。ここは彼の領域……。目の前に現れるなと言われていたのに)

​焦燥が胸を突く。しかし、ここで取り乱して逃げ出すことは、ローゼンタール家の令嬢としての教育が許さなかった。どんな時も気品を失わず、誇り高く。
エルセは春の風に揺れる花のように優雅なカーテシーを捧げると、静かに踵を返した。
​カイルは差し出されたハンカチを一瞥した。そこには繊細な刺繍が施され、彼女の纏う淡い花の残り香が微かに漂っている。その瞬間、彼の真紅の瞳に一瞬だけ戸惑いのような色が走った。だが、彼はすぐにそれを押し殺し、いつもの冷徹な仮面を被り直す。

​「……ふん。別に必要ない」

​そう吐き捨てると、彼は自らの腕で無造作に額の汗を拭った。
遠ざかっていくエルセの、細く、折れそうなほどに可憐な後ろ姿。カイルはその背中に、えも言われぬ違和感を覚えていた。
​これまで媚びを売り、しなだれかかってきた女たちとは明らかに違う。彼女は、反逆者の娘という絶望的な淵にありながら、媚びることも嘆くこともなく、ただ淡々と、そして峻烈なまでに礼儀正しく自分に接してくる。
それがなぜか、彼の心に棘のように引っかかった。

​「……待て」

​自分でも無意識のうちに、声が漏れていた。
その一言に、カイル自身が驚いたように眉を寄せる。振り返ったエルセの、驚きに満ちた真珠のような瞳と視線がぶつかった。彼はわずかに視線を逸らし、ぶっきらぼうに問いかける。

​「……お前。毎日、ここで散歩をしているのか?」

​何を聞いているのだ、と自嘲する。だが、その声からは先ほどまでの凍てつくような殺気は消え、庭園を渡る微温い風のような柔らかさが混じっていた。
​周囲では、咲き誇る薔薇の芳醇な香りが狂おしいほどに満ちている。

「……はい。この庭園の花々が、あまりに美しかったものですから」

エルセが少しだけ緊張を解いて微笑んだ瞬間、カイルの胸の奥で、決して溶けることのないはずの氷が、パキンと音を立てて小さくひび割れた
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