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第十六話 傷を抱いて眠る夜
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第十六話 傷を抱いて眠る夜
私は──擦り傷程度で済んだ。将軍がすぐに助けてくれたおかげだ。
でも、晨はどうして。
どうしてこんなにも……殴られているの?
子どもの頃、人買いにひどく虐げられていた彼を見つけ、私はすぐさま買い取った。そして、心に誓ったのだ。──もう二度と、誰にも傷つけさせないと。
なのに。
なのに、どうして。
顔をよく見ると、口端は切れ、頬には赤黒い腫れが広がっていた。顔だけじゃない。拳には血が滲み、指先の皮は剥け、折れた爪が痛々しい。
「……薬を、頂戴」
私がつぶやくと、草盈(ツァオイン)がすかさず薬包を差し出した。
私はそっと手に取り、晨の傷ついた手に、ゆっくりと、ゆっくりと塗り始める。できるだけ痛くないように。ふぅ、ふぅ、と息を吹きかけながら。
「……子どもに戻ったみたいです」
晨が、微笑んだ。まるで幸せな夢を見ている子どものような、優しい笑顔だった。
その顔を見た瞬間、私は堪えきれなかった。
「……ごめん、ね……!」
涙が堰を切ったようにあふれた。嗚咽が漏れ、体が震えた。自分でもどうしてこんなに泣けるのか分からない。ただ、悲しさと悔しさと申し訳なさが胸に溢れて、止まらなかった。
私は晨の首元や手のひらを布で拭いた。熱が下がるようにと願いながら。
ふと、頬をかすめた何か。晨の指だった。
「そんなに泣いたら、目が溶けてしまいますよ。もう大丈夫です。……行ってください、奥様」
そう、優しく促してくる。
だけど、首を振った。
「だめよ。一晩、様子を見るわ」
侍女たちも無言で頷く。
草盈が煎じた薬を手渡し、私はレンゲで掬って晨の口元へ運ぶ。だが晨が「自分でできます」と手を伸ばした瞬間、皮のむけた指先がレンゲに触れ、カチン、と椀のふちに落ちた。
「ほら、もう……!」
思わず咎めるように声が出た。
「ですが……そんなに涙を流されては……私の胸が痛みます」
晨が、困ったように言った。
私は、ぐっと目を見開いた。
「これは涙じゃない。汗よ!」
その瞬間、部屋の空気がふっと緩む。思わず、みんなが吹き出した。
晨も、王子も、侍女たちも。笑い声が、静かな寝室に小さく響いた。
こうして──恐ろしい夜は、ようやく過ぎていった。
ーーーーーーーーー
夜が、白々と明け始めた。
東の空から、光の矢が差し込む。その一筋の光が、ようやく長い夜の終わりを告げていた。
私はその光を見た瞬間、張り詰めていた何かがふっと緩んだ気がして、椅子にもたれかかるように目を閉じた。
晨は眠っていた。草盈(ツァオイン)が炊いてくれた安心香のおかげで、痛みを訴えることもなく、安らかな寝顔だった。
「奥様も、少しお休みください」
明蘭(ミンラン)がそっと声をかけてくる。
勧められるままに、私は晨のそばの長椅子に身を横たえた。明蘭は続けて言った。
「交代で見ておりますから、ご安心を」
だけど、そう言われても、私は晨のそばから離れたくなかった。目を離すのが怖い。もう二度と、彼にあんな思いをさせたくなかった。
「王子様に、何か簡単な食事を出してあげて。……それと、将軍がもうお帰りか、見てきて」
繍慧(シュウフェイ)にそう頼むと、ふと気づいた。
──王子様も、お泊まりになるなら部屋を用意しないと。
椅子から体を起こし、一歩を踏み出した瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
「わっ、無理しないでよ、嫁っ子ちゃん」
王子様がすかさず抱きとめてくれた。
「す、すみません……」
小さく頭を下げながら、繍慧に部屋の手配を指示する。すると王子様は、ゆるく笑って言った。
「しばらく、ここにいさせてよ。……晨の近くの部屋がいいんだけど、そしたら嫁っ子ちゃんが様子見に来たときも、すぐ付き添えるでしょ?」
そう言って、片目をつぶる。
軽い調子なのに、なぜだか胸の奥に引っかかる。
──頼りになるのか、ならないのか。ほんと、よくわからない人だなぁ……。
私は心の中でつぶやきながら、そっと彼に微笑み返した。
私は──擦り傷程度で済んだ。将軍がすぐに助けてくれたおかげだ。
でも、晨はどうして。
どうしてこんなにも……殴られているの?
子どもの頃、人買いにひどく虐げられていた彼を見つけ、私はすぐさま買い取った。そして、心に誓ったのだ。──もう二度と、誰にも傷つけさせないと。
なのに。
なのに、どうして。
顔をよく見ると、口端は切れ、頬には赤黒い腫れが広がっていた。顔だけじゃない。拳には血が滲み、指先の皮は剥け、折れた爪が痛々しい。
「……薬を、頂戴」
私がつぶやくと、草盈(ツァオイン)がすかさず薬包を差し出した。
私はそっと手に取り、晨の傷ついた手に、ゆっくりと、ゆっくりと塗り始める。できるだけ痛くないように。ふぅ、ふぅ、と息を吹きかけながら。
「……子どもに戻ったみたいです」
晨が、微笑んだ。まるで幸せな夢を見ている子どものような、優しい笑顔だった。
その顔を見た瞬間、私は堪えきれなかった。
「……ごめん、ね……!」
涙が堰を切ったようにあふれた。嗚咽が漏れ、体が震えた。自分でもどうしてこんなに泣けるのか分からない。ただ、悲しさと悔しさと申し訳なさが胸に溢れて、止まらなかった。
私は晨の首元や手のひらを布で拭いた。熱が下がるようにと願いながら。
ふと、頬をかすめた何か。晨の指だった。
「そんなに泣いたら、目が溶けてしまいますよ。もう大丈夫です。……行ってください、奥様」
そう、優しく促してくる。
だけど、首を振った。
「だめよ。一晩、様子を見るわ」
侍女たちも無言で頷く。
草盈が煎じた薬を手渡し、私はレンゲで掬って晨の口元へ運ぶ。だが晨が「自分でできます」と手を伸ばした瞬間、皮のむけた指先がレンゲに触れ、カチン、と椀のふちに落ちた。
「ほら、もう……!」
思わず咎めるように声が出た。
「ですが……そんなに涙を流されては……私の胸が痛みます」
晨が、困ったように言った。
私は、ぐっと目を見開いた。
「これは涙じゃない。汗よ!」
その瞬間、部屋の空気がふっと緩む。思わず、みんなが吹き出した。
晨も、王子も、侍女たちも。笑い声が、静かな寝室に小さく響いた。
こうして──恐ろしい夜は、ようやく過ぎていった。
ーーーーーーーーー
夜が、白々と明け始めた。
東の空から、光の矢が差し込む。その一筋の光が、ようやく長い夜の終わりを告げていた。
私はその光を見た瞬間、張り詰めていた何かがふっと緩んだ気がして、椅子にもたれかかるように目を閉じた。
晨は眠っていた。草盈(ツァオイン)が炊いてくれた安心香のおかげで、痛みを訴えることもなく、安らかな寝顔だった。
「奥様も、少しお休みください」
明蘭(ミンラン)がそっと声をかけてくる。
勧められるままに、私は晨のそばの長椅子に身を横たえた。明蘭は続けて言った。
「交代で見ておりますから、ご安心を」
だけど、そう言われても、私は晨のそばから離れたくなかった。目を離すのが怖い。もう二度と、彼にあんな思いをさせたくなかった。
「王子様に、何か簡単な食事を出してあげて。……それと、将軍がもうお帰りか、見てきて」
繍慧(シュウフェイ)にそう頼むと、ふと気づいた。
──王子様も、お泊まりになるなら部屋を用意しないと。
椅子から体を起こし、一歩を踏み出した瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
「わっ、無理しないでよ、嫁っ子ちゃん」
王子様がすかさず抱きとめてくれた。
「す、すみません……」
小さく頭を下げながら、繍慧に部屋の手配を指示する。すると王子様は、ゆるく笑って言った。
「しばらく、ここにいさせてよ。……晨の近くの部屋がいいんだけど、そしたら嫁っ子ちゃんが様子見に来たときも、すぐ付き添えるでしょ?」
そう言って、片目をつぶる。
軽い調子なのに、なぜだか胸の奥に引っかかる。
──頼りになるのか、ならないのか。ほんと、よくわからない人だなぁ……。
私は心の中でつぶやきながら、そっと彼に微笑み返した。
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