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第三十話 王命と、それぞれの想い
しおりを挟む第三十話 王命と、それぞれの想い
将軍は朝靄に包まれた宮道を、静かに、
しかし確かな歩調で進んでいた。
冷えた空気の中、軍靴の音が石畳に静かに響き、やがて御前の広間にたどり着く。
玉座の前でひざまずき、静かに、一言一句噛みしめるように報告を終えた。
「……第二皇女が、この私に恋慕の情を抱き、それが理性を越えた行動へと至りました」
沈黙の後、陛下が重々しく言葉を返す。
「第二皇女が将軍に想いを寄せていたことは、既に内々には広く知られておる。その感情が破裂したのみ、いわば王族の不始末――
ゆえに、これ以上の追及はせぬ。第二皇女は“療養”と“領地の管理”を名目に、地方へ下らせよ。あくまで自らの意思で、心を鎮めに行く形を取れ。表立った処罰とするな」
「…っ、しかし――」
将軍が言いかけた刹那、陛下は静かに片手を上げ、それ以上の言葉を封じた。
「これは、王家の内密事である。おまえの責務は、この事を終わらせ、前を向くことだ」
玉座の帷が風のように閉ざされ、将軍は再びひとりきりとなる。
朝靄のなか、白く滲んだ世界に立ち尽くすその横顔には、言葉にならぬ怒りと無力感が浮かんでいた。
―望んで手に入れたはずの人を、またしても守れなかった。
将軍の胸には、生気を失い横たわる瑶華の面影が焼きついて離れない。
己の不甲斐なさに、拳を握る手が震える。
だが、軍務を司る者として、情に溺れて事を誤ることは許されない。ましてや、軍と宮廷の均衡を司る将軍である以上、感情ではなく先を見据えるしかない。それでも、彼女の傷が自分のせいであることを否定できない罪悪感が、静かに心を蝕んでいく。
公務と私情の狭間で、墨霖寅という男は今、最も深く、最も静かに、孤独に沈んでいた。
その頃、第六王子の客室では、療養中の夫人が右腕を抱えながら長椅子に寄りかかっていた。まだ自由に動かせない腕だが、痛みは少しずつ和らぎ始めていた。ただ、将軍が一度も顔を見せないことが、胸を締め付けていた。「お顔も見せずに……」
そんな様子を見た明蘭の表情は日ごとに険しくなっていた。「私の奥様を、こんな目に遭わせて……」
それでも夫人は、「将軍府が留守になってはいけないから、様子を見に行ってちょうだい」と明蘭に指示を出し、「将軍が来た時に出せるよう、お茶もお菓子も準備しておいて」と心を砕いていた。
繍慧(シュウフェイ)は明蘭の不満を理解しつつ、夫婦の絆がさらに損なわれぬよう神経を尖らせていた。「一度、泰さまに様子を……」と考えたものの、将軍がどこにいるのか分からず悩んでいた。その時、第六王子がそっと声をかけてきた。
「何かお困りのようですね」
驚いた繍慧に、王子は優しく微笑む。
「奥様と晨のご様子を見ていて、気になっていたのです」。
晨は、自分を庇った夫人が怪我をしたことをひどく悔やんでいるという。また、夫人は将軍が訪ねて来ないことを心苦しく思っている、と。繍慧が素直に「泰さまに様子を伺いたい」と言うと、第六王子は少し考えた末、「分かりました。任せてください」と静かに去っていった。
その頃、夫人は寝台の上で静かに窓を眺めていた。時折、窓辺に花や果物が置かれている。誰が、いつ置いているのかは分からない。それでも、果物の甘い香りと小さな花の美しさに、心が少し和らいでいた。
「奥様、よろしいですか?」明蘭がそう声をかけると、一人の客を連れていた。
「兄様!」
声を上げた夫人が目を見開いた。そこにいたのは、幼き頃から兄のように慕っていた幼馴染。気安く甘えられる、ただ一人の存在。
「無理に動かないで。ほら、寄りかかって」兄様は優しく支え、笑みを浮かべた。
「どうしてここに?」
「科挙に受かってね。今は宮仕えの新人だ。偶然明蘭さんと出会って、案内してもらったんだ」
痛々しい姿に目を伏せつつも、それを悟らせまいと明るい声で話す兄様。そしてそっと抱き上げると、窓の外の庭を見せてくれた。
幼い頃から変わらぬ優しさと、包み込むような温もりに、瑶華の頬は自然と緩んでいた。兄様――最も気安く、最も心から笑える存在。
「兄様のにおい、懐かしい……」
胸に顔を埋め、鼻先をくすぐるように擦り寄る。
「こらこら、くすぐったいって。落としたらどうする」
そう言いながらも、兄様の声には笑いが滲んでいた。
そのまま長椅子に腰かけ、瑶華をひょいと膝に乗せた。額をピンと弾かれ、「いたっ」と小さな声を上げるも、瑶華はまたくすくすと笑い、今度は首元に頬をくっつける。
「本当に子どもだなあ、おまえは」
呆れたように笑いながらも、兄様の手は優しく、落ちないようにしっかりと背を支えてくれていた。
その様子をそっと見守っていた明蘭は、胸の奥でふと、かつての“もしも”を思い出していた。
(――もしこの方と結ばれていたら、奥さまは穏やかに、安らかに笑っていられたのでは……)
心に浮かぶその想いを、明蘭はそっと胸の奥へと押し込めた。
そんな折、薬箱を持った草盈(ツァオイン)が控えめに声をかける。「失礼いたします、お薬の時間です」
「あ~~、やだ~~」
首を横にぶんぶん振り、兄様の胸に顔をうずめて逃げる瑶華。
「おいおい、またか……ほら、瑶華。やめな……あははっ、くすぐったいって!」
兄も思わず吹き出し、二人はすっかりじゃれ合い始めた。
「暴れると落ちるぞ、じっとしろ!」
そう言いながら、兄は苦笑しつつ、膝の上で抱いたまま薬をレンゲで差し出す。
「うぅ~、苦い~~~っ」
顔をしかめ、足をバタバタさせる瑶華。
「ほら、じっとしなさい」
兄にたしなめられ、しょんぼりしながらも薬を飲み干す。飲み終えると、「うぇ~~~」と小さな呻き声を上げる瑶華に、兄は優しく微笑みながら蜂蜜漬けの干し果実をそっと口元に。
「……はい、ご褒美」
「えへへ~♪ やっぱり兄様、だ~いすきっ」
甘えるように胸元にすり寄ると、「だからくすぐったいって!」と笑いながら兄が頭を撫でる。
そんなふたりの姿に、明蘭と草盈(ツァオイン)は自然と頬を緩ませ、ようやく心がほどけたような安らぎに包まれていた。
しかし――その和やかな空気を、突然の声が破った。
「……お、奥さまっ!!」
驚いたように部屋へ飛び込んできたのは、将軍の右腕・泰だった。
瑶華は慌てて衣の乱れを直し、兄の隣に姿勢を正して座り直す。
泰は一礼すると、真剣な面持ちで口を開いた。
「将軍より伝言を預かっております。第二皇女殿下が地方に下られることとなり、将軍はその護衛と監督のため、しばらく都を離れられるとのことです。戻りは半月後かと――」
「……そうですか。お役目……ご苦労さまです」
瑶華は一瞬、寂しげに目を伏せたが、すぐに顔を上げて明蘭に荷物の支度を指示した。
泰は、その様子にわずかに眉をひそめ、そっと手を伸ばして瑶華の手を握った。
「奥さま。将軍は……本当に心配されておりました。お見舞いにも何度も足を運ばれました。眠っておられるうちに、こっそりと。……どうか、その想いを見誤らないでください」
そう言い残し、泰は静かに頭を下げて去っていった。
――胸に残ったのは、兄様の温もりと、泰の言葉。
心のなかで複雑な思いが渦巻きながらも、瑶華はただ、少しだけ遠い空を見つめていた。
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