離婚しようとしたら将軍が責任とれ?

エイプリル

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 第三十一話 遠ざかる背と、迫る闇

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第三十一話 遠ざかる背と、迫る闇

朝焼け前の、まだ夜の余韻を残した薄闇の中。
瑶華は、静かに城壁の上に立っていた。その肩に、薄い夜気が容赦なくまとわりつく。
高い城の上から見下ろす景色は、薄青くけぶり、遠くの地平に微かに朝が滲み始めている。
右腕はまだ綿布で吊られており、冷えた風に当たると痛みが奥に響いた。
反射的に体を丸めたそのとき――
「奥さま、風が冷たいです。身を乗り出しては危のうございます」
そっと、柔らかな外套が肩にかけられた。背中に添えられた手は、気遣わしげな晨のものだ。
その優しい力にふっと身を預けたものの、瑶華の目はまだ遠くを捉えたままだ。
「……わかってる。でも、どうしても……見ていたくて」
離れていく将軍。
それでも何も理解できないままの自分。
「あなたの気遣いは、表面的だ」
あの言葉は、今も心に棘のように刺さり続けていた。
なぜ、そんなふうに言われたのか。
夫として将軍を思いやることが、そんなにもいけないことなのか。
第二皇女に告げられた「寝所を追い出された哀れな女」という言葉も、まだ胸をえぐる。
第一皇女に言われた「受け入れ始めて」という言葉。
それは――何を、どう、受け入れればよかったのだろう?
ぐるぐると、答えの出ない問いだけが頭の中を渦巻く。
気づけば、指先が風に晒されて冷たくなっていた。
(……いっそ、手放してしまえば、楽になれるのだろうか)
ふと、そんな考えが浮かびそうになったその時だった。
「奥さま! ほら、あそこ……将軍が、こちらを見ましたよ!」
晨の指さす先を、反射的に見やる。
朝靄の中、出立の馬隊がゆっくりと城門へ向かって進んでいる。
第一皇女を乗せた馬車の横に、墨影兵に囲まれた将軍が馬を進めていた。
ほんのわずかに、こちらを見上げた気がした。
目が合った――と錯覚したその瞬間、胸の奥に何かがじんと熱く灯った。
「……さ、戻ろっか」
肩をそっと抱く第六王子の声。
「まだ無理しちゃだめだよ。風も冷たいし」
その飄々とした口調が、ほんの少し心をほぐす。
城壁を背に歩きながら、瑶華は小さく息をついた。
(……もう少しだけ、頑張ってみよう)
夜明けと差し込む朝日が心温めた気がした




将軍が旅立ってからというもの、瑶華のため息は止むことがなかった。心にぽっかりと穴が空いたような、漠然とした喪失感が常に付きまとっていた。
それを見かねた明蘭は、瑶華の好物の菓子をせっせと焼き続け、
繍慧(シュウフェイ)は色とりどりの組紐を広げ、目に楽しいもので気を紛らわせようと努めた。
草盈(ツァオイン)は香り高いお茶を点て、香料の小瓶を並べて、「好きな香りを選んでください」と声をかける。
けれど――
それでも瑶華の笑顔は、どこか遠いところにあるようで。心からの明るさは戻らなかった。
そんな折、幼馴染の兄様が訪ねてきた。
「兄様!」
顔を輝かせて、小走りに駆け寄った瑶華は、何も言わずにぎゅっと胸に抱きついた。
「ったく……もう子供じゃないだろ」
そう言いながらも、兄様はしっかりと瑶華を抱き返す。
ああ、この匂い。このぬくもり。
「兄様の懐にいる時だけは、何も考えずに甘えていられる……」
そう呟いた瑶華の顔は、どこか安心した子供のようだった。
「ちょっとちょっと~? 何イチャついてんの~? 将軍が見たら焼きもち焼いちゃうよ~」
軽やかな声と共に現れたのは、第六王子だった。
手に抱えていた包みを瑶華に渡しながら言う。
「ほら、好きだったシリーズの新刊! ちょうど出てたんだよ~♪」
「えっ、ほんと!? やったぁ、ありがとうございます!」
「どういたしまして~♪」
嬉しそうに飛び跳ねる瑶華の声に、草盈(ツァオイン)がすかさずお茶を用意した。
三人はそのまま小さな茶会を始める。
幼馴染のぬくもり、第六王子のやさしい冗談、侍女たちの細やかな心遣い――
そのすべてが、瑶華の胸の空白を少しずつ埋めていく。
(……将軍とも、こんなふうに、笑い合えたらいいのに)
瑶華はそう思いながら、あたたかい湯気の立つ湯呑みにそっと手を添えた。




その夜―― 暖かな時間の名残がまだ室内に漂う中、晨はひとり、裏手の廊下を歩いていた。
瑶華が眠りについたのを確認し、外の警備の様子を見回るためだった。
(さっきは少し笑ってくださった……少しずつでも、奥さまの心が癒えていけば)
静かな満足と、わずかな疲れを背に感じながら曲がり角を折れた瞬間、晨の勘が鋭く警鐘を鳴らした。
――異常な静寂。
警備の見回りにしては、周囲がひっそりと静まり返りすぎている。闇が音を吸い込んだように不気味だった。
その一瞬の違和感を察したとき、**背筋に冷たいものが走った。殺気だ。**背後から微かな気配――いや、すでに間近に迫っている。
振り返るより早く、闇の中から銀色の閃光が走った。鋭い刃だ。
「――くっ!」
間一髪、晨は身をひねり、肩で斬撃を受け流す。 が、完全に避けることはできなかった。衣が裂け、熱い痛みが肩に焼き付く。皮膚が切れた。
「誰だ!」
声を上げたその瞬間、もう一人の影が左右から現れ、横から容赦なく飛びかかってきた。複数の襲撃者。
晨は追撃を避けるため、わざと足を滑らせるように見せかけ、近くの壁に身を叩きつけるように避ける。鈍い衝撃が背中を走る。
だが、数に押され、次第に体力を削られていく。 まるで獲物を追い詰めるかのように、刺客たちは的確に晨の動きを封じていく。呼吸が浅くなる。冷や汗が背中を伝った。
ついには背後を取られ、冷たい刃が、ぞっとするような感覚で喉元に突きつけられた――。まるで呼吸さえも奪われるような絶望的な一瞬。
その瞬間、

「そこまでだ」

鋭い声とともに、屋根の上から数人の墨影兵が一斉に飛び降りた。闇を切り裂くような素早い動き。
攻撃をしかけた刺客は咄嗟に逃げようとしたが、既に包囲されていた。その逃げ足は、獲物を見つけた猛獣に囲まれた小動物のようだった。
泰が駆けつけ、自らの剣で刺客の刃を払うと、晨を庇って一歩前へ出る。
「晨、大丈夫か!」
「はい……かすり傷です」
肩を押さえながらも、晨はしっかり立ち上がっていた。その顔には、わずかな疲労と、まだ残る緊張の色が浮かんでいた。
泰は冷たい目で捕えられた刺客を見下ろし、
「逃げられた者もいる、すぐに捜せ!」 と墨影兵に命じる。

その後、屋敷の一室――
晨は治療を受けた後、第六王子にすべてを報告した。
「……つまり、何者かがこの屋敷の中に潜み、私の行動を逐一報告している者がいると思われます」
第六王子は眉間に皺を寄せ、しばらく無言のまま考え込んだ。その表情は、普段の飄々としたものとはかけ離れ、深い思案の色が濃かった。
「狙いは……君の命だろうな」
「はい。おそらく、わたくしの出生に関係があります」
「そうだね。……でもまだ、はっきりとは言えない」
王子は大きく息を吐いてから、立ち上がった。
「まずは君と瑶華ちゃんをここから出さない。部屋から一歩も出ないように。君を守るのが先だ」
「恐れ入ります、王子……」
「命を狙らうような者が、こんなに傍にいたなんて。僕にも責任があるよ」
王子は思い詰めたような表情でふたりに背を向けた。 その目の奥には、何かを決意した光が灯っていた。
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