​『完璧な契約書の落とし穴 ~中立国の薬学王女は、氷の王の「合理的」な愛から逃げられない~』

エイプリル

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第10話:氷と太陽の鞘当て 第一幕:太陽を纏った皇太子と、凍てつく庭園の火種 第一幕:太陽を纏った皇太子と、凍てつく庭園の火種

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第10話:氷と太陽の鞘当て
第一幕:太陽を纏った皇太子と、凍てつく庭園の火種


1. 氷原に差した異国の熱
ノルディア王国の朝は、常に静寂と白銀に支配されている。窓の外には幾重にも重なる雪嶺が連なり、吐き出す息は瞬時に白く凍りつく。そんな厳しい冬の只中にある王宮の正門を、一際鮮やかな色彩を放つ一行が潜り抜けた。
南方の砂漠の国。太陽に愛され、砂金が舞うと言われる灼熱の国から訪れた皇太子、ソル・カシム。
「やあ、ノルディアの王妃殿下! 噂には聞いていたけれど、実物はまるで北極星のような気高い輝きだ。僕の瞳が、その美しさで焼けてしまいそうだよ」
謁見の間に足を踏み入れるなり、ソルは朗々とした声でそう告げた。
火に焼けた褐色の肌は艶やかに光り、燃えるような赤いウェーブがかった髪が肩で揺れる。光の当たり方で金色に爆ぜる琥珀色の瞳は、出会った瞬間に相手の心を見透かすような、不思議な魔力を秘めていた。
リーゼは、その圧倒的な存在感に一瞬目を丸くしたが、彼の手元にある「木箱」を見た瞬間、王妃としての淑やかな微笑みをかなぐり捨てた。
「まぁ! その箱から漏れ出る香りは……まさか、幻と言われる『砂漠の真珠草』ではありませんか!?」
「お目が高い。我が国でも、最も深く、最も熱い砂の下にしか育たない貴重な薬草だ。君のような美しい知性にこそ、相応しいと思ってね」
ソルは流れるような所作でリーゼの手をとり、その指先に迷いなく唇を落とした。レディースファーストを信条とする南国の流儀。しかし、それは北の国ではあまりにも大胆で、挑発的な挨拶だった。
2. 薬草畑の温度差(ディファレンシャル)
「さあ、案内してくれないか? 君が手塩にかけて育てているという、その素晴らしい薬草畑を」
ソルの提案に、リーゼは二つ返事で頷いた。二人はそのまま、王宮の裏手に設けられた巨大な温室へと向かう。そこには、リュミエールの花をはじめとする、北国の希少な植物たちが整然と並んでいた。
「見てください、カシム殿下! このリュミエール、南国の熱を加えれば、成分の安定化が図れるのではないかと考えていたのです」
「なるほど、面白い。僕たちの国の『火炎草』の抽出液を触媒に使えば、さらに純度を高められるかもしれないね」
歩き始めて数分。リーゼとソルは、まるで十年来の親友であるかのように意気投合していた。専門用語が飛び交い、互いの知識をぶつけ合う。リーゼにとって、自分と対等、あるいはそれ以上の知識を持つソルとの会話は、純粋に楽しく、有意義なものだった。
しかし、その後ろを歩くエイルヴィルケン陛下の周囲だけは、物理的に気温が数度下がっていた。
「……陛下、顔が怖いですよ。あちらは賓客です」
護衛の騎士が小声で進言するが、エイルヴィルケンは氷色の瞳を鋭く細め、二人を見つめたままだ。
(……近い。物理的な距離が、あまりにも非合理的だ)
エイルヴィルケンは、あくまで「王としての護衛」および「共同研究の責任者」という中立的かつ合理的なスタンスを装い、二人の数歩後ろを歩いていた。しかし、ソルの行動の一つ一つが、彼の理性を激しく揺さぶる。
南国の皇太子は、五分に一度はリーゼと視線を合わせ、十分に一度は彼女の肩や腰に手を添える。
「リーゼ、こっちの段差に気をつけて。君が転んだら、この庭園のすべての花が悲しみで枯れてしまう」
「あら、ありがとうございます、カシム殿下」
リーゼが自然にソルのエスコートを受け入れているのを見るたび、エイルヴィルケンの胸の奥で、正体不明の黒い靄が膨れ上がっていく。
(……五分に一度? いや、彼は三分に一度は彼女を口説いている。しかも、リーゼがそれに対して全く警戒していない。これは……危機的状況だ)
3. 氷の王の「合理的」な介入
「殿下。薬草の品質確認であれば、私の補佐官に任せることも可能です。王妃をこれ以上歩かせるのは、体力の消耗という観点から見て非効率だ」
ついに耐えかねたエイルヴィルケンが、二人の間に割り込んだ。冷徹なまでに響くその声は、温室内の湿った空気を一瞬で凍りつかせる。
ソルは琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、エイルヴィルケンを見上げた。
「おや、ノルディアの王。君は随分と慎重なようだね。僕たちは今、未来の提携について、心躍る議論をしているところなんだ。女性の心は、理屈ではなく情熱で動くものだということを忘れていないかい?」
「情熱などという不確定な要素は、研究には不要です。必要なのは正確なデータと、適切な管理だ」
「ははは! 君は本当に氷のように固い。リーゼ、こんなに冷たい男と一緒にいて、凍えてしまわないかい?」
ソルは屈託なく笑いながら、再びリーゼの肩に手を回した。
リーゼは「え? エイル様はいつもこうですけど……あ、でも最近は少し優しいんですよ?」と、フォローになっているのか微妙な言葉を返す。
その瞬間、エイルヴィルケンの理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
彼は無言で一歩踏み出すと、リーゼの腕を掴み、自分の背後へとグイと引き寄せた。
「……これ以上の視察は、私の権限で終了とする。カシム殿下、続きは晩餐会の席で伺おう」
4. 隠しきれない独占欲
リーゼを引き連れて温室を去るエイルヴィルケンの足取りは、いつになく速かった。
「陛下? 陛下! 痛いですわ、そんなに引っ張られたら」
研究室の入り口まで来てようやく立ち止まったエイルヴィルケンは、振り返ると、リーゼの肩を両手で掴んだ。彼の氷色の瞳には、かつてないほどの激しい動揺と、自分でも制御しきれない独占欲が渦巻いている。
「……あんな男と、あんなに親しげに話すな。知識の共有なら、私ともできるはずだ」
「え……? でも、カシム殿下は南国の植物に詳しいですし、お話も面白いですし……」
「面白い必要はない! ……必要なのは……」
エイルヴィルケンは言葉を詰まらせた。
「必要なのは、私だけを見ていればいいということだ」と言いかけて、彼は自分のあまりの「非合理性」に驚愕し、真っ赤になって顔を背けた。
「……とにかく、あのようなボディタッチを許すな。あれは、外交における不適切な距離だ。……いいな?」
「は、はい……? 外交って、難しいのですわね……」
リーゼは首を傾げた。心臓が少しだけ、昨日とは違う意味でドキドキしていることに気づきながら。
一方、温室に残されたソル・カシムは、二人の後ろ姿を見送りながら、面白そうに顎を撫でた。
「なるほど。氷の王も、中身はただの『恋する若者』だったか。……さて、今夜の晩餐会が楽しみだ。もう少し、その氷を溶かしてあげるとしよう」
南国の太陽は、北の氷を溶かす準備を整えていた。
そしてエイルヴィルケンは、人生で初めて「合理的」という言葉が、一人の女性を前にしていかに無力であるかを悟りつつあった。

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