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1話 裏メニューを欲する女性
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人間とは忘れることによって自分を守る生き物だ。
身を裂くような悲しみも、息すら出来なくなるような苦悩も、時間の経過により徐々に薄らいでいき、やがてほとんど思い出すことがなくなる。もちろん例外もあるだろうが、ほとんどの場合はそうだ。
これはそれほどまでの激情を長く抱え続けることが、生命活動自体へ支障をきたすことになるからだろう。
しかし時間が経ち、その悲しみや苦悩を忘れられるようになる前に、その感情に飲まれてしまう者がいる。
自らの感情に飲み込まれ、振り回され、追い詰められて……ついには命を断ってしまう者がいる。
これはそのような人間に忘却という名のひとつの救いを与える不思議な珈琲と、その珈琲を提供する店主のお話である。
―――――――――――――――――――――――――――……
喫茶店のカウンターに立つのは一見してくたびれた印象の男。年は40歳前後と見える。よくよく見ればがっしりした体格で容姿も整っているように見えるが、どうにも覇気がない。
そして彼は誰もいないことをいいことに、営業中の店内でためらいもせず大きなあくびをしていた。
そんな覇気もやる気もない男であるが、それでもこの男こそがこの喫茶店の店主であった。
それはちょうど店主が、あくびのために大きく口を開けているタイミングだった。
喫茶店の入り口が開き、その扉に付いたベルの音が店内に響き渡る。
店主も流石にマズいと思ったのか慌ててあくびをかみ殺し、ついでに姿勢を正した店主が軽く咳払いをして入店した客に声を掛ける。
「いらっしゃいませ、コチラのへカウンターどうぞ」
店内に入ってきたのは、どうやらまだ若い女性のようだった。
彼女は店主に促されるままカウンター前の席に腰を掛ける。
「こちらがメニュー表でございます」
さっとメニュー表を差し出し、手早く準備した水も女性の前に出す。
しかしそこで店主は女性の様子がおかしいことに気付いた、彼女は一向にメニューを開く素振りを見せず何かに迷うように視線をさ迷わせてる。
そこで店主は経験から察した。
――――ああ、あれ目当ての客か……。
しばしの時間が流れた後に、女性は意を決したように口を開いた。
「噂を聞いて来たんです……裏メニューの……」
「裏メニューですか……?」
店主はあえて気付いていないような口ぶりで返した。
何故なら彼は裏メニューの存在自体を嫌っており、提供することも出来るだけ避けたいからだ。
「ええ、記憶を消してくれる珈琲……それは本当にあるのですか?」
すがり付くような必死な眼差しで女性は店主を見つめる。
そして当の店主はその視線をただ無言で受け止めた。
「お願いです……もし本当にあるのであればその珈琲を私に出して下さい!!」
――――これだけハッキリ言われてしまっては、しらを切るのもルール違反だろうな……。
店主自身は出来れば裏メニューは出したくないとは思っているものの、ここまでハッキリ出して欲しいと言われてしまえばで断ることは許されない。
何故ならそれがこの喫茶店において定められた絶対のルールだからだ。
――――店のルールに縛られなきゃなんなくて何が店主なんだかねー。
内心で悪態をつきながら店主は渋々頷いた。
「……分かりました、そこまで仰るのであれば裏メニューについてご説明しましょう」
――――とりあえず、まずは説明をするだけだ……それで諦めてくれれば良いんだけどな。
「はい……!!」
店主の言葉に女性は力強く答えた。
――――こっちは諦めて欲しいのに、ずいぶんとやる気満々なことで……。
思わず苦笑いが出そうになるのをこらえつつ店主は口を開く。
「はい、その珈琲の名は忘却ブレンド……消し去りたい記憶を忘れさせるための特別な珈琲です」
「忘却ブレンドですか……では、それをお願いします!!」
――――はえーな、おい……!!
即決する女性に店主はぎょっとした。もちろん表面上には出さないが。
「いえいえ、ちょっと待って下さいよ」
「何か問題でも?」
――――問題があるかと問われると、個人的には裏メニューを出して欲しいって言っているところから問題なんだよな……言わねーけど。
「問題と言うわけではありませんが、これを出す前に必ずお話している内容がありましてね。まずは一旦それを聞いて下さい」
「はい、分かりました……」
――――ずいぶんとイヤイヤな返事だが、ほんとーに分かってくれてるのかよ……?
眉間にシワを寄せそうになるのをこらえて店主は言葉を紡いだ。
「忘却ブレンドを飲むということは、自分の中から一つの過去を無かったことにすることと同じ意味を持ちます。忘れたいほど辛く苦しい過去であったとしても、いつか時を重ねたあとで意味を持つのが人生です……だからくれぐれも注文するか、どうかは慎重に決めて頂きたい」
「確かにその通りですね……」
――――おお、以外にも素直に頷いてくれたか……!?
女性の言葉に店主は一瞬喜びかけたが、彼女は更に言葉を続けた。
「ですが、それはあくまで普通に生きていけることを前提にした上で話しですよね? 今の私にとっては平常心でいることすらとても難しいことなんです……今はなんとか踏みとどまっているものの、これ以上時間が経つようなら私はきっと……」
女性の声は悲壮の色と仄暗い狂気をはらんでいた。
――――ああ、ヤベーなこのねーちゃん。このまま帰ることになったら自殺でもしそうな感じじゃねえか。こりゃー安易な説得は難しそうだな……。
「そこまで仰るのであれば御注文を承りましょう……」
「よかった……」
――――そんな安心したような反応するなよ……あーあーもうヤダヤダ。
女性の様子に店主は溜め息を吐きそうになるのを堪えながら更に必要事項を説明する。
「ただし忘却ブレンドは特別な珈琲であるため、一度忘れたい記憶についてのお話しを伺ってからでないとお作りすることは出来ません……それをご了承頂けますでしょうか?」
「え……忘れたい記憶について話さなければならないのですか?」
戸惑いを浮かべる女性に対して、これで諦めてくれたらと少々の期待を込めて頷く。
――――まぁわざわざ、忘れたいような記憶を赤の他人話すのはヤダよな……。これがきっかけでもいいから思い直してくれ、そしてなんか良い感じに幸せに暮らせ。
「はい、もちろん無理強いはいたしませんよ。ですが、その際は忘却ブレンドもお出しすることは出来ませんが……」
「いいえ、話します……!!だからどうにか忘却ブレンドを出してください」
――――ははは、やはりそうなるよな……知ってたぜ。
落胆を表に出さないように気を付けながら、店主は淡々した返事する。
「かしこまりました、では珈琲をお出しするためのサイフォンをセットするので少々お待ち下さい」
身を裂くような悲しみも、息すら出来なくなるような苦悩も、時間の経過により徐々に薄らいでいき、やがてほとんど思い出すことがなくなる。もちろん例外もあるだろうが、ほとんどの場合はそうだ。
これはそれほどまでの激情を長く抱え続けることが、生命活動自体へ支障をきたすことになるからだろう。
しかし時間が経ち、その悲しみや苦悩を忘れられるようになる前に、その感情に飲まれてしまう者がいる。
自らの感情に飲み込まれ、振り回され、追い詰められて……ついには命を断ってしまう者がいる。
これはそのような人間に忘却という名のひとつの救いを与える不思議な珈琲と、その珈琲を提供する店主のお話である。
―――――――――――――――――――――――――――……
喫茶店のカウンターに立つのは一見してくたびれた印象の男。年は40歳前後と見える。よくよく見ればがっしりした体格で容姿も整っているように見えるが、どうにも覇気がない。
そして彼は誰もいないことをいいことに、営業中の店内でためらいもせず大きなあくびをしていた。
そんな覇気もやる気もない男であるが、それでもこの男こそがこの喫茶店の店主であった。
それはちょうど店主が、あくびのために大きく口を開けているタイミングだった。
喫茶店の入り口が開き、その扉に付いたベルの音が店内に響き渡る。
店主も流石にマズいと思ったのか慌ててあくびをかみ殺し、ついでに姿勢を正した店主が軽く咳払いをして入店した客に声を掛ける。
「いらっしゃいませ、コチラのへカウンターどうぞ」
店内に入ってきたのは、どうやらまだ若い女性のようだった。
彼女は店主に促されるままカウンター前の席に腰を掛ける。
「こちらがメニュー表でございます」
さっとメニュー表を差し出し、手早く準備した水も女性の前に出す。
しかしそこで店主は女性の様子がおかしいことに気付いた、彼女は一向にメニューを開く素振りを見せず何かに迷うように視線をさ迷わせてる。
そこで店主は経験から察した。
――――ああ、あれ目当ての客か……。
しばしの時間が流れた後に、女性は意を決したように口を開いた。
「噂を聞いて来たんです……裏メニューの……」
「裏メニューですか……?」
店主はあえて気付いていないような口ぶりで返した。
何故なら彼は裏メニューの存在自体を嫌っており、提供することも出来るだけ避けたいからだ。
「ええ、記憶を消してくれる珈琲……それは本当にあるのですか?」
すがり付くような必死な眼差しで女性は店主を見つめる。
そして当の店主はその視線をただ無言で受け止めた。
「お願いです……もし本当にあるのであればその珈琲を私に出して下さい!!」
――――これだけハッキリ言われてしまっては、しらを切るのもルール違反だろうな……。
店主自身は出来れば裏メニューは出したくないとは思っているものの、ここまでハッキリ出して欲しいと言われてしまえばで断ることは許されない。
何故ならそれがこの喫茶店において定められた絶対のルールだからだ。
――――店のルールに縛られなきゃなんなくて何が店主なんだかねー。
内心で悪態をつきながら店主は渋々頷いた。
「……分かりました、そこまで仰るのであれば裏メニューについてご説明しましょう」
――――とりあえず、まずは説明をするだけだ……それで諦めてくれれば良いんだけどな。
「はい……!!」
店主の言葉に女性は力強く答えた。
――――こっちは諦めて欲しいのに、ずいぶんとやる気満々なことで……。
思わず苦笑いが出そうになるのをこらえつつ店主は口を開く。
「はい、その珈琲の名は忘却ブレンド……消し去りたい記憶を忘れさせるための特別な珈琲です」
「忘却ブレンドですか……では、それをお願いします!!」
――――はえーな、おい……!!
即決する女性に店主はぎょっとした。もちろん表面上には出さないが。
「いえいえ、ちょっと待って下さいよ」
「何か問題でも?」
――――問題があるかと問われると、個人的には裏メニューを出して欲しいって言っているところから問題なんだよな……言わねーけど。
「問題と言うわけではありませんが、これを出す前に必ずお話している内容がありましてね。まずは一旦それを聞いて下さい」
「はい、分かりました……」
――――ずいぶんとイヤイヤな返事だが、ほんとーに分かってくれてるのかよ……?
眉間にシワを寄せそうになるのをこらえて店主は言葉を紡いだ。
「忘却ブレンドを飲むということは、自分の中から一つの過去を無かったことにすることと同じ意味を持ちます。忘れたいほど辛く苦しい過去であったとしても、いつか時を重ねたあとで意味を持つのが人生です……だからくれぐれも注文するか、どうかは慎重に決めて頂きたい」
「確かにその通りですね……」
――――おお、以外にも素直に頷いてくれたか……!?
女性の言葉に店主は一瞬喜びかけたが、彼女は更に言葉を続けた。
「ですが、それはあくまで普通に生きていけることを前提にした上で話しですよね? 今の私にとっては平常心でいることすらとても難しいことなんです……今はなんとか踏みとどまっているものの、これ以上時間が経つようなら私はきっと……」
女性の声は悲壮の色と仄暗い狂気をはらんでいた。
――――ああ、ヤベーなこのねーちゃん。このまま帰ることになったら自殺でもしそうな感じじゃねえか。こりゃー安易な説得は難しそうだな……。
「そこまで仰るのであれば御注文を承りましょう……」
「よかった……」
――――そんな安心したような反応するなよ……あーあーもうヤダヤダ。
女性の様子に店主は溜め息を吐きそうになるのを堪えながら更に必要事項を説明する。
「ただし忘却ブレンドは特別な珈琲であるため、一度忘れたい記憶についてのお話しを伺ってからでないとお作りすることは出来ません……それをご了承頂けますでしょうか?」
「え……忘れたい記憶について話さなければならないのですか?」
戸惑いを浮かべる女性に対して、これで諦めてくれたらと少々の期待を込めて頷く。
――――まぁわざわざ、忘れたいような記憶を赤の他人話すのはヤダよな……。これがきっかけでもいいから思い直してくれ、そしてなんか良い感じに幸せに暮らせ。
「はい、もちろん無理強いはいたしませんよ。ですが、その際は忘却ブレンドもお出しすることは出来ませんが……」
「いいえ、話します……!!だからどうにか忘却ブレンドを出してください」
――――ははは、やはりそうなるよな……知ってたぜ。
落胆を表に出さないように気を付けながら、店主は淡々した返事する。
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