あらざらむ

松澤 康廣

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 翌日、日が上がるとともに、二人は出発した。
          
 早朝のほんの僅(わず)かな時間だけだった。涼気は消え去り、すぐに焼け付く暑さになった。草鞋(ぞうり)を履(は)いていても砂の熱さは防ぎきれなかった。
「このところ、何日も雨が降っていない。我が村は大丈夫だが、水に恵まれていないところは大変だろう……」
 陽(ひ)を右手で遮(さえぎ)りながら、河井は言った。
 河井は騎乗した。騎乗者のみすぼらしさと不似合いな、がっしりした体躯(たいく)の、立派な馬だった。
三郎は走っていくことになる。帷子(かたびら)に着替えてよかったと三郎は思った。昨日まで来ていた布子は腰に巻いた。
 幸田村までどのくらいだろう。小田原に近いとは考えられなかった。未開の地に行くのだから。そこまで走るのだと思うと暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
 しかし、それは杞憂(きゆう)だった。馬は最初の鞭(むち)ですぐに走り始めたが、やがて人が歩くのと変わらない速さになった。
 有難いことに河井が鞭を入れることもなかった。この馬は戦には向かないなと、三郎は思った。この馬は農耕馬だろう……と思うと共に、河井は本当に武士なのだろうかという疑問が再び湧き上がった。

 太陽の強い光を浴びて海が眩(まぶし)かった。三郎は海沿いの道を無言で歩いた。
 至(いた)るところで何かが造られていた。小田原はまさに建設中の町だった。
「どでかい町ができるらしいぞ。相模の都にするらしい。そして、あの城はこの町に住む全ての人が篭城(ろうじょう)できるような巨大な城になるらしい」
 腰に巻きつけた布袋を摩(さす)りながら、振り返って、森の中に僅(わず)かに見える小田原城を凝視し河井は言った。
「その袋は……?」疑問に思ったことを三郎は訊いた。
 やけに大きい袋だった。しかし、大きい割には中に入っているものは僅(わず)かで、袋の下三分の一ほどが少し膨らんでいるだけだ。
「塩だ。雑木と交換したんだ。塩を作るには雑木が大量に必要だからな。この馬の背にいっぱい雑木を積んで、それと交換してこれだけだからな。まあ、そんなものだ。さっきの話はあそこの塩焼きの主人に聞いたんだ」
 河井が振り向いた砂浜の方に三郎も眼を転じると、そこにどこから漏れでているのか、細く煙がたなびいている粗末な苫屋(とまや)があった。今も塩を焼いているのだろう。そこの主人から塩を買ったのか。
 波の音は僅かに聞こえるだけだった。海はどこまでも穏やかだった。
 そのうちに二宮を抜け、平塚に入った。平塚に入ると道沿いの木々が増えた。蝉の音が呆れるほど大きかった。そして、相模川に出る。今度は川に沿って歩いた。河井にとっては慣れた道なのだろう。町の名を自慢げに言った。
 海から離れても、相模川の川幅は広く、僅(わず)かに狭くなっただけで、人や荷物を積んだ何艘もの船が交差していた。
「この川を暫く上った先の、その向かい側に幸田村はある。どこかでこの川を渡らなくてはならない。ここは川幅もあるし深いが、もっと上流には、渡れる箇所が幾つもある。このところの天気で水量も減っていて、渡るのに苦労はない」河井は、馬を止め、ゆるりと流れる相模川を見渡しながら、言った。
 川の流れはゆるやかだがが深い。川の中ほどは濃い緑色をしていた。両岸は土手がかけあがり、そこに、鬱蒼(うっそう)とした、背丈(せたけ)のある萱(かや)や笹が繁茂していた。
 川を見下ろしながら、川沿いの土手の道を三郎は歩いた。川沿いの平地は広く、畠が続いた。民家も散在していた。未開の地はまだだいぶ先に思えた。
 ところどころ、川に下りる道があり、そこは船が係留できるように整備されていた。商用の舟ではなく、漁用の小船が数艘繋がれていた。

 太陽が真上に上がった。
 河井は川を渡ると言った。そこには渡し場があった。普段は、この舟に乗って渡るしかないのだろう。しかし、この日は舟に乗る者はいなかった。その必要がないほど、水量は落ちていた。
 渡る前に川岸で休憩をとった。
 河井は、腰に下げていた小物籠を取り出し、そこに入っていた干し飯(いい)を食べ、三郎にも食べさせた。昨日、船に乗り込んでから、三郎は何も食べていなかった。空腹を忘れていた。

 三郎は馬を引いた。馬も川を怖がらなかった。一番深いところでも、馬の腹が川面に触れることはない。三郎の膝を越えることが数回あるだけだった。 
 相模川を渡ると、川沿いの道を外れ、少しずつ川から離れて行った。雑草の生い茂る狭い道が続いた。周囲に家は無く、ついに未開の地に入ったと思った。
 道沿いには、黄色や紫の小さな花が咲いていた。紫の花はあざみだ。あざみは密集して咲いていた。
 そのうちに畑地と人家も見られるようになった。落胆した。未開の地はまだだった。
 ところどころに欅(けやき)の巨木もあった。自然に育ったとは思えない。人の手で植えられたものなのだろう。日陰(ひかげ)が心地よかった。
「もう少しで幸田川に出る。その川に沿って行けば幸田村だ」河井は嬉(うれ)しそうに何度も頷(うなず)きながら言った。


 幸田川は2間(けん)に満たない幅の小さな川だった。ところどころに川を渡るための丸木が架(か)けられていた。こんな小さな川にも船は浮かんでいた。幅が狭いが水量はあった。雑木を積んだ舟もあった。
「これから向かう地は、この川が氾濫を繰り返すから、人が住みつかず、今は私しか住んでいない。しかし、住めないことはない。川の傍に住まなければいいのだ」
 河井は小声で言った。自分に言い聞かせているようだった。

 幸田村は川沿いに僅(わず)かな平地があるだけの、周囲を山で囲まれた村だった。その狭い平地も大半が沼だった。そこに、稲穂が浮かんでいた。
 沼の尽きる辺(あた)りに、田舟があった。
 沼地から離れると、もうそこは山で、緑濃い森が続いている。その一部が開けていた。そこが河井の家だった。川沿いからよく見えた。

 河井の家は立派だった。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、ところどころ大きな石が載(の)せられていた。壁は綺麗に漆喰(しっくい)で塗り固められていた。建てたばかりのようで、どこからも木の香りが立ち上っていた。家の前には植栽を整えた庭が広がり、おそらく裏山から流れる谷川の水をひいたのであろう、組まれた二本の木で支えられた竹の懸樋(かけひ)が伸び、大木を繰(く)りぬいた矩形(くけい)の水槽に水を落としていた。

「ここは水が豊富でね。いいことばかりではないがね……」
 馬小屋に馬を入れると、杉皮を貼った板戸の前で、河井はそう言って、すぐに板戸を開けた。
 恐らく偶然だったと思う。
 板戸を空けると、色鮮やかな童(わらべ)が飛び出してきた。
 上品な桃色の地に濃い紅の花を配した小袖に淡い黄色の細帯を締めた童だった。
 童は長髪を後ろで束ねていた。そして両手で大きな竹箒(ぼうき)を大事そうに抱えていた。
 河井は、まるで予期していたかのように、驚くこともなく、両手を広げ、その子を抱えあげた。
 童は竹箒を離した。竹箒は三郎の手前で倒れ、三郎の足に当たった。
 武士の娘の様だと三郎は思った。明らかに農民の着る小袖ではなかった。
 童は抱えられたことが嫌なのか、降りようとして、暴れた。
 河井はすぐに下ろした。
 童は倒れていた竹箒を右手で持ち、左手で河井肥前守の手を握り、顔を上げ三郎を見た。そして、少し小首をかしげて微笑(ほほえみ)を浮かべた。
 三郎は童の笑顔に応える術(すべ)も見つけられず、虚ろで、意味不明な表情をして河井肥前守の指示を待っていた。            
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