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最終章 異世界の記憶を持つものたち

29 ナティビタス伯爵邸にて

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「うぷ……」
 転移魔法を初めて使った直後、軽い吐き気を催した。
 初めてで大陸間移動はやりすぎだったかしら。
 屋敷の前でしばらく気持ちと呼吸を落ち着けてから、扉を開ける。

「おっ、おかえりなさいませ、お嬢様」
 エントランスを掃除していた侍女が私に気づき、それから程なくして屋敷中に私の帰還が知れ渡った。

 どこでどう確認したのか、気配でも読めるのか。
 私が屋敷内に入って数秒後にはネウムが駆け寄ってきた。
「おかえりなさいませノーヴァ様! 顔色が悪うございます、お部屋でお休みを」
 ネウムが問答無用で私を抱き抱え、部屋へ運ばれた。

 部屋に着くと、これまたいつどうやって私の帰還を確認したのか、マノアとフェーヌとリージが待ち構えていた。

「おかえりなさいませ!」

 私は手早く着替えさせられてベッドに座らされ、ミント水が入ったグラスを手渡された。
 ミントの爽やかさが、吐き気を流してくれる。助かるわ。
「お食事はできますか? 何か軽いものでも……」
「そうね、軽くつまめるものを……スープやリゾットでなくて、サンドイッチがいいわ」
「かしこまりました!」
「あ、待って」
 私が口にしたことを一瞬でも早く叶えようとする皆を止めた。
 ようやく言えるわ。

「ただいま戻りました」
「はい、おかえりなさいませ!」



 顔色が悪かったのは転移魔法を使ったせいで、出掛けた先ではずっと椅子に座っていたから疲れや怪我はなく、体調も問題ないと説明しているのに、ネウム達は納得しなかった。
「転移魔法はあの男に使わせればよかったではないですか」
「私が使ってみたかったのよ」
「ずっと椅子にって、横にはなられなかったのですか?」
「あの男の魔法のお陰で、本当に疲れはないのよ。食事も美味しかったわ」

 マノア達私の専属侍女は仕事もあるから早めに引き下がってくれたけれど、ネウムはなかなか私から離れなかった。
「ネウム、仕事は?」
「ひと月先の分まで片付けてあります。飛び込みの仕事も全て私一人で事足りますので」
 ネウムは元々、仕事のできる人だけれど、流石にやりすぎだわ。
「ひと月先って……貴方こそちゃんと休んでた?」
「私のことは心配なさらず」
「心配にもなるわよ」
「でしたら、お休みください」
「どうしてそうなるの」
 転移魔法酔いはとっくに治っているし、屋敷に帰ってきてから十分に食べて、寝て、休んだ。
 疲れていたとしても、ここまでされれば誰だって元通りになる。
「ノーヴァ様がご無事でいらっしゃることが、私の安心になりますので」
 これ以上無事なことを主張しても、ネウムは引き下がらないのでしょうね。
「わかったわ。三日は休むから、ネウムも無理はしないで」
「はい。何事もお任せください」

 ネウムが異常に張り切り、仕事を率先して片付けていた理由は、このあと存分に思い知ることとなった。



 三日間、たっぷり休むという名目で自堕落に過ごした後、魔力供給の仕事を再開した。
 再開して最初のお客様は、亡き父が懇意にしていた公爵閣下だ。
 私が諸事情で屋敷を空けていて、帰宅後は療養していたという事情を軽く伝えてあったため、閣下からはお見舞いの品を頂戴した。
「まあ、素敵な花束。ありがとうございます。フェーヌ、これを飾って頂戴」
 頂いた花束をすぐに侍女のフェーヌに渡し、少しでも新鮮なうちに花瓶に活けてもらう。
 それにしても妙な花束だわ。確かこの、造り物にも見えるほど硬質で赤い花の花言葉は……。
 私が首を傾げていると、公爵閣下が以外なことを仰った。

「貴女のところのネウム君には、随分仕事をしてもらったからね。彼は良いと思う。以前私が紹介した者たちのことは無かったことにして……」
「お、お待ちを。何のお話ですか?」
 なんだか話の方向が……気の所為に違いないと思いつつ、失礼を承知で閣下の話を遮った。
 すると閣下は気を悪くする様子も見せず、朗らかに笑った。
「本人同士ではまだ話をしていないのだね。今日は蓄積機を頂いたらさっさと退散するとしよう」
 公爵閣下は「前祝いだよ」と、いつもより多めの代金を置いてお帰りになられた。



 執務室に入ると、ネウムがいつもの席で、書き物をしていた。
「ネウム!」
「はい、ノーヴァ様」
 公爵閣下からの贈り物と意味深な話、最近のネウムの様子、私の事情……。
 回りくどい話はデリムのところでもうお腹いっぱいになっていた私は、直接尋ねることにした。

「貴方もしかして、私と結婚しようとしてる?」
「はい、恐れ乍ら」
 ネウムは表情一つ変えずに肯定した。


 ネウムは爵位を持っていない。
 貴族は血で継ぐことが殆どで、国から新しい爵位を頂くには相当な実績が必要になる。あと、お金も。
 そして、血を重要視する貴族の間では、爵位を持つ、あるいは継ぐ予定のある者が、平民と結婚する事例は殆どない。
 そう、殆どないだけで、あり得なくはない。
 平民が、貴族としてやっていけるだけの知識と教養を身に着け、領の経営に関する仕事の実績を積めば。

「公爵閣下に手回ししたの」
「はい」
「たくさん仕事をしたのも、このため」
「はい」
「……何が、目的なの?」
 私と結婚するメリットといえば、伯爵位に就けることくらいしか考えられない。
 あとは、私の持つ魔力を利用するとか。

 私の問に、ネウムは顔を赤くして、ふい、と横を向いた。
 しかしすぐに、赤い顔のまま、私を正面から見つめた。
「ノーヴァ様をお慕い申しております。主従関係ではなく、その、男女として」
「!?」
 ネウムは、すらりとした長身に整った顔立ちをした美丈夫だ。
 家令としても有能で、亡き父ですら、ひと月先の仕事をひとりでこなすことなんてできなかったはず。
 他の使用人からの人望も厚く、上手に取り仕切ってくれている。
 人格、能力、そして容姿と、完璧に近い人間だ。

 対して私はどうだろう。
 多少の魔力はあるが、父の爵位を継いだだけの、ただの貴族の娘だ。
 見た目は侍女たちが磨いてくれたお陰でそこそこ整っている自覚はあるけれど、自分を虐げた人間たちを許せず、この手に掛けたことだってある。
 ネウムがいなければ領の仕事をちゃんと切り盛りできていたかどうかすら怪しい。

「ノーヴァ様、他に想い人などおられますか? 例えば、例の男とか……」
「例の? ああ、デリムのこと。彼とはそういう関係じゃないわよ。ただ頼まれたから仕事を手伝っただけ。仕事は終わったし、まだ礼を貰っていないから少なくともあと数回は会うでしょうけど、それだけよ」
「では……」
「い、いないわよ。ネウムこそ、どうして私なの? 貴方ほどの人なら選り取り見取りでしょう」
 ネウムは静かに首を横に振った。
「一目惚れでした」
「は?」
 ネウムは立ち上がったかと思えば、椅子に座るのを忘れていた私の前に跪き、私の右手を取った。
 その仕草も洗練されている。

「初めて会った時には、その麗しい容姿に。仕えるようになってからは、真っ直ぐな心根に。あの男……デリムと共に屋敷を出てゆかれたときは、生きた心地がしませんでした。もう二度と、放したくありません」
「べ、別に出ていったわけじゃ」
「私の主観では、ノーヴァ様が遠くへ行ってしまうと」
「戻ってきたじゃない」
「ええ。ですから、もう二度と……」
 こんなに熱っぽいネウムは初めて見たわ。こういうのを、男の色気というのね。

 私は結局、この場でネウムからのプロポーズは受けなかった。
 しばらく心の整理をさせて欲しいと頼んだ。
 ネウムは寂しげな顔で、了承してくれた。



 心の整理には一年掛かった。
 この一年、ネウムは今まで以上に完璧に家令の仕事をこなし、私を支え続けてくれた。
 最初は断る理由をあれこれ挙げていたのだけど、ネウムはその全てを受け入れ、あるいは「問題ありません」と受け流した。

 とうとう断る理由がなくなる日が来た。

「ねえ、ネウム」
「何でしょう」
「私ね、まだ貴方のことがす、好きとか、結婚するだとか、想像がつかないと言うか……そういう気持ちはあまりないの」
「はい」
「それでも私が好き?」
 我ながらこの問いは、面倒くさいと思ったわ。
「はい」
 でもネウムは、受け入れてくれる。

 もうこんなの、断り続けるの、無理に決まってるじゃない。

「わ……かった、わ」
「ノーヴァ様!」
 ネウムは立ち上がって私の両手を取った。
「様、はもう必要ないでしょう」
「はい……ああ、ノーヴァ」
 抱きしめられた。
 そういえばこの一年、私を口説くことはあっても、必要無いときに身体に触れることは一切なかったわ。
 誠実の塊なのかしら。

「……ふふっ」
「ノーヴァ?」
「なんでもない。不束者ですが、よろしくお願いしますわ」
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