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105 幻影に手をふる
しおりを挟む頭の中にこびりついた、時成さんの死に際に、絶望感に襲われていた時だった。
『由羅』と、私の名を呼ぶ、時成さんの声が聞こえた気がして…。
考える暇もなく反射的に振り向いたそこには、白い霧の中、見覚えのある景色が広がっていた…。
幻なのか、幻覚なのか…。そこには見慣れた部屋があって、すぐに旅館の時成さんの部屋だとわかった…。私の視線は慣れたようにいつもの場所へと移動すると、その先には、いつものように窓際の座椅子に座り、キセルの煙をふかす、時成さんの姿があった……。
「・・・っ…!」
言葉が詰まる。目頭が熱い…。そんな私に、霧の中の時成さんはわずかに顔を傾けながら私を見ると、いつものように胡散臭い笑みを、にっこりと浮かべた…。
『由羅、君はーー…』
口を開いた時成さんの声が頭に響き、無意識に一歩、前に進む。幻覚でも幻でもいい…。今すぐそこに行きたいと、思った時だったーー…。
『ーー本当に、アホなんだねぇ…。』
「・・・は?」
しみじみと、かみしめるように呟いた時成さんの言葉に、私の口から乾いた声が漏れた。
予想外の皮肉に、見事に思考が停止して、怒りや悲しみや、高ぶっていた感情がどこかに去ってしまったような感覚がして…残ったのは、どこか冷静にこの状況を俯瞰する思考だけだった。
目の前にあったはずの時成さんや見慣れた景色は、いつの間にかサラサラと霧の中に消えていて…。猫魔が見せた幻覚なのか、私が勝手に見た幻だったのか、それがなんだったのかはわからないけど、落ち着きを取り戻した思考が私の固まっていた身体をゆっくりと動かし始める。
そして同時にひとつ、確信したことがある。
覚悟を決めるように大きく深呼吸をして、私はぐっと膝を伸ばし立ち上がると、守るように前に立つ3人の背中を横切った。
猫魔を視線で捉えながら、一歩一歩と前に進み出る私に、3人が驚き制止の声をあげる。
「え、由羅さん!?」
「バカ由羅!お前なにしてんだ!!」
「由羅ちゃんさがってろ!」
私が小さく笑い、大丈夫であることを伝えると、三人は納得のいかない顔をしつつも口を閉じる…。
さらに一歩一歩と前へと進み、猫魔の眼前までくると、私は口を開いた。
「猫魔…」
『由羅』
猫魔の声は直接頭に響く。時成さんとよく似たその声に…私はぐっと下唇を噛んだ。
「知っているんですよ、私は…。」
「あなたが何故生まれたのか、何故私や時成さんに執着するのか…その理由も…」
「だから。無駄です。時成さんの死体の幻覚も、もうきかない。私はもう…。時成さんは死んでいないと、わかっているから』
射抜くように猫魔を見つめ告げた私の言葉に、猫魔の金色の瞳が細められ探るように私を見る。
「あなたは…、時成さんの残留思念を糧とした存在。だから時成さんなくして生きながらえることはできないはずです。」
『……由羅、それは半分正解で、半分はずれだ』
「え?」
『たしかに私は時成のただの思念…。だが、ある条件を満たし、思念の主体でである時成を私が食らえば、私が主体となり、空っぽの時成は必要なくなるんだよ』
私は時成を殺せないわけではない。と告げた猫魔に愕然とする。
・・・ちょっと待ってよ。話が違う。
だって、時成さんはそのために、猫魔とともに自分も消える必要があったから…だから消滅しようとしてたのに…。運命を共にしていないなら、時成さんはなんのために……っ。
『時成は、このことを知らないんだよ。知ったところでどうしようもできないだろうけど。』
「……ある条件ってなんなんですか…」
『いま、している事だよ。時成の近しい者の記憶から時成の記憶を消す事。つまり時成という人間が存在した事実を抹消することだ』
「だから、サダネさんたちの記憶を…」
『そう。だからね由羅。半分は正解だよ。たしかに私は“まだ”時成を殺すことはできない。』
『苦しいよね。辛いだろう由羅。君は優しいから時成に情がうつってる。だけど大丈夫。私が消してあげる。安心していいよ。洗脳は得意だから。』
『そして、時成を消したら私とずっと一緒にいよう。かつてのあの時のように、今度こそずっと一緒にいよう』
・・・あぁ、ふつふつと湧く怒りのせいで、体が震えているのがわかる…。頭の中に直接響く猫魔の言葉のひとつひとつが私の感情を逆撫でていく…。
私は小刀を持つ片手に力を込めながら、猫魔をキッと睨みつけた。
「猫魔…。確かに私は、昔あなたの主人だった人と同じ魂をもっているのかもしれない…。でも、私はその人じゃない」
私を見るその金色の瞳がわずかに細められ、その爪が鋭くとがりだすのがわかった…。
猫魔…、あなたはとても愚かな鎖にとらわれているのだろう…。
時成さんを殺し、人間として成り替わることができたとしてもあなたはきっと何もかわらない。
「洗脳なんて、意味がないんだよ猫魔」
あなたは人間の感情というものの大きさをわかっていない。
リブロジさんは自力で洗脳を解いた。
サダネさんたちもきっと時成さんの事を思い出す。
人を、心を、支配なんてできないんだよ。
「私は、あなたとは一緒にいられない」
ーギシャアアアア!
めきめきと音をたてながら叫び、猫魔は巨大なバケモノの姿へと変貌していく。
猫魔の爪が振り下ろされたとき、グイッとナズナさんに腕を引っ張られ後ろに追いやられる
「このバカ由羅、下がれ!」
「下がりません!」
庇うように前に出たナズナさんの前へと再び出れば、降ってきた猫魔の爪と私の小刀がガキンと掠める音が響く。
僅かに触れただけなのに猫魔の力に押し負け、私はドサリと倒れた
両手両足を猫魔の四肢て踏まれ、身動きができなくなる。
「っ由羅さん!」
サダネさん達が動こうとした瞬間、猫魔の爪が私の喉元に添えられ『動けば殺す』と口にした猫魔の言葉に三人はピタリと動きをとめた…。
「あなたが、求めている人は、私じゃない…」
『違わない。由羅の魂はあの人と同じだ』
「…そんなものが欲しいわけじゃないでしょ猫魔。あなたはただもう一度あの人に会いたいだけ。」
死んでしまったことを受け入れることができなかった…。
かつての幸せを手放すことが怖かった…。
だからあなたは、あの人の魂を…光を求めた…。
あの人が最後に時成さんに託した魂の光を…
その光を手に入れれば、もう一度やり直せると信じたから…。
前世とか魂とか、正直言って、覚えてないし。
私は私として生きてきた記憶しかない。
同情しないとは言わない。
だけどそれ以上に強く思うものが、私にだってある…。
「ねぇ、猫魔。」
取り引きしない?
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