雨が乾くまで

日々曖昧

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見知った声

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 目の前の少年は、自分の事を人殺しだと言っている。もちろんにわかには信じられないが、それがもし本当だとしたら私が置かれている状況はかなり危険なものではないのか。私は胸に湧き上がってきた得体の知れない不安に従うように後退りした。
 もし仮にこの子が危険な人間じゃなかったにしても、私が手を貸さなければいけない理由はどこにもない。この子にも帰るべき家があり、探しに来る家族がいるだろう。そんな言い訳を繰り返す。そうだ。何も別に私である必要はないのだ。
「ありがとう……ござい……ます……」
 私の身体が完全に遊具から出ようとした時、目の前で少年が倒れた。
「ちょっと! 大丈夫?」
 慌てて少年に近づく。少年の顔は紅潮して、息遣いも荒くなっていた。額に手を当てると、彼はかなりの高熱を出していた。
「ねえ君、私の声聞こえる?」
 少年は頷いた。どうやら意識はあるらしい。

 近くに病院がないか頭を巡らせたが、歩いて行ける範囲には思いつかなかった。救急車を呼ぶのも手だったが、まずは自宅に運んで濡れた服を着替えさせるのが優先だろう。濡れた服は少年の体温をどんどんと奪っていく。私は運び出すため、少年を抱きかかえた。
 そして、私はあることに気がついた。
「裸足?」
 少年は靴を履いていなかった。両方の足の裏からはポタポタと血が流れている。これは、一刻も早く家に運ばなければならない。
 私は少年を抱えて走った。不思議とそこまでの重みは感じない。ただ手の中にある命がどんどんと弱っていくのが恐ろしくて、私は靴も何もかも泥まみれになりながら一心不乱に走り続けた。

 公園を出てアパートまでの坂を駆け上がり、やっとの思いでアパートまで着くと、部屋のキーをポケットから取り出してドアを開けた。
 私はそのまま少年の服を脱がせ体を拭いた。流石に下着までは替えられないので、なるべくタオルで水分を吸ってから自分のスウェットを着せた。擦り傷だらけの足には応急処置ではあるが消毒液で傷を洗浄してから包帯を巻いた。消毒が傷にしみるのか、少年は表情を歪ませて私の服を強く掴んだ。
「ごめんね、痛いよね」
 なんとか傷口の応急処置を終えた後、ベッドの上に散らかっていた服を払いのけて、少年をそこに寝かせた。

「とにかく身体をあっためないと……」
 幸い、米だけは今朝のうちに炊いてから出ていた。何か衰弱した少年を回復させられそうなものはないかと、私は縋るような思いで冷蔵庫を開いた。
 やはり中にはほとんど何も入っていなかったが、奥に二・三個ほど卵が転がっているのを見つけた。私は急いでそれを取り出し、卵雑炊を作った。
 自分が風邪を引いた時は、大概これを作って何とか栄養を摂るのだ。
「本当はお粥の方が良いんだろうけど、ごめんね」
 拙い出来の雑炊を一口分スプーンに掬い、濃い湯気の立ち昇るそれに息を吹きかけて冷ました。少年の口元までそれを持って行くと、少年は嫌がるそぶりもなく食べてくれた。どうやら食欲はあるらしい。
 私は皿が空になるまで、そうやって少年に雑炊を掬って食べさせた。

 食べ終わる頃には少年の顔色はかなり良くなり、私が皿を片付けて戻ってきたときには、既に深い寝息を立てて眠っていた。
「……良かった」
 安らかな寝顔を見て、私は膝から崩れ落ちた。先程まで微塵も感じていなかった疲労感が一気に体中へ広がっていき、自分が今立っているので精一杯なことに初めて気づいた。
 足元を見ると、私の服から落ちる水滴でフローリングの上に水溜りができていた。あんな雨の中、ずぶ濡れのこの子を抱えて走ったのだから、当たり前のことではあった。
 少年の呼吸はかなり落ち着いていた。このまま寝かせておけば、明日の朝頃にはきっと良くなるだろう。

 私は重たい体を何とか風呂場まで運んで、濡れて肌に張り付いた服を脱いでシャワーを浴びた。先程までの痛い程の雨とは一転して、暖かく柔らかな水滴が私を包んだ。寒さで強張った体の緊張が徐々にほぐれていくのが分かる。
「あの子、連れて帰って良かったのかな」
 つい運んできてしまったが、今の状況をはたから見ると、これはれっきとした誘拐ではないのか。あの子の両親が警察に捜索届でも出していたら、私に言い逃れの余地はない。明日あの子が目覚め次第、家に送り届けて事情を説明するのが得策だろう。
 そして、気になることはもう一つあった。

 あの少年は確かに、自分の事を「人殺し」だと言った。何の突拍子もない嘘をつくような子には見えない。あの子が雨の中靴も履かず、一人で外にいたことも全てが説明つかずだった。
 しかし、それらは明日あの子に聞けばすべて分かることだろう。それに今日はもう、これ以上考えられそうにない。
 私はそれ以上思案するのをやめ、目を瞑ってとめどなく流れ出る温水を浴びた。

【ねえ先生。次はあの子なの?】
 絶え間なく落ちる水音を遮り、頭の中の暗闇で声が響いた。私は、この声の主を知っている。
「……違うよ。雨の中一人で、熱もあったから雨宿りさせてあげてるだけ」
 私が頭の中の声にそう答えると、声はもうしなくなった。
 今日はもう眠ろう。きっと私が思う以上に、私は疲れているのだ。
 明日はアルバイトもないし、あの子を家に送り届けることもできるだろう。詳しい事情も、その時に聞けばいい。
 私がシャワーを浴びて時計を見ると、既に時刻は一時を回っていた。私はそのまま寝間着に着替え、ソファに横になると、布団を被るのも忘れて眠りについた。
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