23 / 70
EP 23
しおりを挟む
脅迫者の影、雪之丞の絶望
翌朝。
『菊の屋』の戸は、まだ固く閉ざされていた。
菊乃は、幸せな求婚を受けたあの日から一転、店も開けられず、小さな居室で「どう断るべきか」と、ただ震えていた。
カラリ。
無遠慮に、その店の戸が開いた。
「ひっ……!」
菊乃が、ビクリと肩を震わす。
客ではない。入ってきたのは、昨日(喜助が屋根から見ていた)、あの二人組のゴロツキだった。
「……な、何でしょうか。まだ、店は……」
「まあ、そう言うなよ」
男の一人が、下卑た笑いを浮かべ、勝手に土間に上がる。
「……『菊乃太夫』様よぉ」
菊乃の顔から、血の気が引いた。
その呼び名は、彼女がこの江戸で捨てたはずの名前だった。
「……人違いで、ございます」
「はっ! シラを切るな。俺たちは、あんたが吉原で『大見世』張ってた頃から知ってんだぜ」
男は、菊乃の顔を覗き込むように見た。
「……昨日、見たぜ。いい身分の侍様が、あんたにベタ惚れだったじゃねえか。なあ」
「……!」
菊乃は、後ずさった。
(……見られていた……!)
ゴロツキは、その怯える様を楽しむように見ると、いよいよ本題を切り出した。
その声は、粘りつくような嘲笑を含んでいた。
「――あんたみたいな『傷物』が、武家の嫁に?」
「……っ!」
菊乃の呼吸が、止まった。
「なあ、いい話じゃねえか。俺たちも、あんたの幸せを祝いてえんだよ」
もう一人の男が、ニヤニヤと汚い手を差し出しながら、続けた。
「――黙ってて欲しいなら、金銭を融通してくんねぇかな?」
「……あ……」
(……やはり)
(……これが、現実だ)
菊乃は、震える手で、なけなしの店の釣り銭を、銭入れごと掴むと、それを男の前に投げるように置いた。
「……これで……。これで、全てです」
「……お願いします。もう、来ないで……」
男は、その軽い銭入れを手に取ると、鼻で笑った。
「はっ! こいつは、『御祝儀』が安いねえ、『太夫』様よ」
「なっ……」
「まあ、いいや。今日は、これで勘弁しといてやる」
ゴロツキ共は、菊乃が絶望に崩れ落ちるのを見届けると、口笛でも吹きそうな様子で、店を出ていこうとした。
「あ、そうだ」
リーダー格の男が、暖簾の前で振り返る。
「――また来るぜ。『武家の奥方様』よぉ」
下卑た笑い声が、遠ざかっていく。
「……あ……ああ……」
菊乃は、その冷たい土間に、手をついた。
(……終わりだ)
(……金じゃない。あの人たちは、私が幸せになることを、許さない)
(……金を払い続けても、いつかバラされる)
(……真壁様との縁は、もう……)
涙が、ボロボロと土間の土を濡らしていく。
彼女は、もう立ち上がる気力もなかった。
カラリ。
その時、再び、店の戸が開いた。
菊乃は、「もう戻ってきたの!?」と絶望に顔を上げた。
「――菊乃さん! おはよ……」
そこに立っていたのは、ゴロツキではない。
いつものだらしない笑顔で、朝一番の団子を食べに来た、秋元 雪之丞だった。
「……ゆ、雪之丞さま……」
雪之丞は、その笑顔のまま、固まった。
彼の惚れた女が、店の土間で、朝から泣き崩れていたからだ。
「……き、菊乃さん!? ど、どうしたんだい!? 誰かに何か……」
(……今、汚ねえ男たちと、すれ違ったが……)
雪之丞が、慌てて彼女の側に駆け寄る。
菊乃は、もう、限界だった。
優しい雪之丞の顔を見たことで、張り詰めていた最後の糸が、切れた。
彼が「同心」であることすら、もう考えられなかった。
「……雪之丞さま……」
「……お、おう。どうした、菊乃さん」
「……もう、だめなんです……」
「……?」
「私は……」
菊乃は、泣きじゃくりながら、自分の「過去」を、そして、今「起きている」ことを、全て、その同心に、告白し始めた。
「――私は、元……。吉原の、女なんです……!」
「…………え?」
雪之丞の、あの笑顔が、音を立てて、消えた。
菊乃は、彼の衝撃を受けた顔にも気づかず、続けた。
「……昨日、侍の方に、『妻に』と言っていただきました……。でも、私なんかが……」
「……」
「……さっきの人たちが、『黙ってて欲しければ』と……」
雪之丞は、立ち尽くしていた。
彼の惚れた女が、自分ではない別の男との「縁談」に、自分の「過去」のせいで脅え、苦しんでいる。
(……そうか)
(……侍、ねえ)
彼の胸を、二つの感情が同時に襲った。
自分の「恋」が、今、完璧に終わったという静かな絶望。
そして。
(……あのゴロツキ共が……!)
惚れた女の「門出」(たとえそれが他の男の元へのものだとしても)を、無残にも踏みにじろうとする輩への、
同心・秋元 雪之丞としての、
静かな、しかし、今までに感じたことのないほど熱い、「怒り」だった。
翌朝。
『菊の屋』の戸は、まだ固く閉ざされていた。
菊乃は、幸せな求婚を受けたあの日から一転、店も開けられず、小さな居室で「どう断るべきか」と、ただ震えていた。
カラリ。
無遠慮に、その店の戸が開いた。
「ひっ……!」
菊乃が、ビクリと肩を震わす。
客ではない。入ってきたのは、昨日(喜助が屋根から見ていた)、あの二人組のゴロツキだった。
「……な、何でしょうか。まだ、店は……」
「まあ、そう言うなよ」
男の一人が、下卑た笑いを浮かべ、勝手に土間に上がる。
「……『菊乃太夫』様よぉ」
菊乃の顔から、血の気が引いた。
その呼び名は、彼女がこの江戸で捨てたはずの名前だった。
「……人違いで、ございます」
「はっ! シラを切るな。俺たちは、あんたが吉原で『大見世』張ってた頃から知ってんだぜ」
男は、菊乃の顔を覗き込むように見た。
「……昨日、見たぜ。いい身分の侍様が、あんたにベタ惚れだったじゃねえか。なあ」
「……!」
菊乃は、後ずさった。
(……見られていた……!)
ゴロツキは、その怯える様を楽しむように見ると、いよいよ本題を切り出した。
その声は、粘りつくような嘲笑を含んでいた。
「――あんたみたいな『傷物』が、武家の嫁に?」
「……っ!」
菊乃の呼吸が、止まった。
「なあ、いい話じゃねえか。俺たちも、あんたの幸せを祝いてえんだよ」
もう一人の男が、ニヤニヤと汚い手を差し出しながら、続けた。
「――黙ってて欲しいなら、金銭を融通してくんねぇかな?」
「……あ……」
(……やはり)
(……これが、現実だ)
菊乃は、震える手で、なけなしの店の釣り銭を、銭入れごと掴むと、それを男の前に投げるように置いた。
「……これで……。これで、全てです」
「……お願いします。もう、来ないで……」
男は、その軽い銭入れを手に取ると、鼻で笑った。
「はっ! こいつは、『御祝儀』が安いねえ、『太夫』様よ」
「なっ……」
「まあ、いいや。今日は、これで勘弁しといてやる」
ゴロツキ共は、菊乃が絶望に崩れ落ちるのを見届けると、口笛でも吹きそうな様子で、店を出ていこうとした。
「あ、そうだ」
リーダー格の男が、暖簾の前で振り返る。
「――また来るぜ。『武家の奥方様』よぉ」
下卑た笑い声が、遠ざかっていく。
「……あ……ああ……」
菊乃は、その冷たい土間に、手をついた。
(……終わりだ)
(……金じゃない。あの人たちは、私が幸せになることを、許さない)
(……金を払い続けても、いつかバラされる)
(……真壁様との縁は、もう……)
涙が、ボロボロと土間の土を濡らしていく。
彼女は、もう立ち上がる気力もなかった。
カラリ。
その時、再び、店の戸が開いた。
菊乃は、「もう戻ってきたの!?」と絶望に顔を上げた。
「――菊乃さん! おはよ……」
そこに立っていたのは、ゴロツキではない。
いつものだらしない笑顔で、朝一番の団子を食べに来た、秋元 雪之丞だった。
「……ゆ、雪之丞さま……」
雪之丞は、その笑顔のまま、固まった。
彼の惚れた女が、店の土間で、朝から泣き崩れていたからだ。
「……き、菊乃さん!? ど、どうしたんだい!? 誰かに何か……」
(……今、汚ねえ男たちと、すれ違ったが……)
雪之丞が、慌てて彼女の側に駆け寄る。
菊乃は、もう、限界だった。
優しい雪之丞の顔を見たことで、張り詰めていた最後の糸が、切れた。
彼が「同心」であることすら、もう考えられなかった。
「……雪之丞さま……」
「……お、おう。どうした、菊乃さん」
「……もう、だめなんです……」
「……?」
「私は……」
菊乃は、泣きじゃくりながら、自分の「過去」を、そして、今「起きている」ことを、全て、その同心に、告白し始めた。
「――私は、元……。吉原の、女なんです……!」
「…………え?」
雪之丞の、あの笑顔が、音を立てて、消えた。
菊乃は、彼の衝撃を受けた顔にも気づかず、続けた。
「……昨日、侍の方に、『妻に』と言っていただきました……。でも、私なんかが……」
「……」
「……さっきの人たちが、『黙ってて欲しければ』と……」
雪之丞は、立ち尽くしていた。
彼の惚れた女が、自分ではない別の男との「縁談」に、自分の「過去」のせいで脅え、苦しんでいる。
(……そうか)
(……侍、ねえ)
彼の胸を、二つの感情が同時に襲った。
自分の「恋」が、今、完璧に終わったという静かな絶望。
そして。
(……あのゴロツキ共が……!)
惚れた女の「門出」(たとえそれが他の男の元へのものだとしても)を、無残にも踏みにじろうとする輩への、
同心・秋元 雪之丞としての、
静かな、しかし、今までに感じたことのないほど熱い、「怒り」だった。
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
幻影の艦隊
竹本田重朗
歴史・時代
「ワレ幻影艦隊ナリ。コレヨリ貴軍ヒイテハ大日本帝国ヲタスケン」
ミッドウェー海戦より史実の道を踏み外す。第一機動艦隊が空襲を受けるところで謎の艦隊が出現した。彼らは発光信号を送ってくると直ちに行動を開始する。それは日本が歩むだろう破滅と没落の道を栄光へ修正する神の見えざる手だ。必要な時に現れては助けてくれるが戦いが終わるとフッと消えていく。幻たちは陸軍から内地まで至る所に浸透して修正を開始した。
※何度おなじ話を書くんだと思われますがご容赦ください
※案の定、色々とツッコミどころ多いですが御愛嬌
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる