『一佐の裁き(いっさのさばき) 〜イージス艦長(50)、江戸北町奉行(25)に成り代わる〜』

月神世一

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EP 23

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脅迫者の影、雪之丞の絶望
翌朝。
『菊の屋』の戸は、まだ固く閉ざされていた。
菊乃は、幸せな求婚を受けたあの日から一転、店も開けられず、小さな居室で「どう断るべきか」と、ただ震えていた。
カラリ。
無遠慮に、その店の戸が開いた。
「ひっ……!」
菊乃が、ビクリと肩を震わす。
客ではない。入ってきたのは、昨日(喜助が屋根から見ていた)、あの二人組のゴロツキだった。
「……な、何でしょうか。まだ、店は……」
「まあ、そう言うなよ」
男の一人が、下卑た笑いを浮かべ、勝手に土間に上がる。
「……『菊乃太夫』様よぉ」
菊乃の顔から、血の気が引いた。
その呼び名は、彼女がこの江戸で捨てたはずの名前だった。
「……人違いで、ございます」
「はっ! シラを切るな。俺たちは、あんたが吉原で『大見世』張ってた頃から知ってんだぜ」
男は、菊乃の顔を覗き込むように見た。
「……昨日、見たぜ。いい身分の侍様が、あんたにベタ惚れだったじゃねえか。なあ」
「……!」
菊乃は、後ずさった。
(……見られていた……!)
ゴロツキは、その怯える様を楽しむように見ると、いよいよ本題を切り出した。
その声は、粘りつくような嘲笑を含んでいた。
「――あんたみたいな『傷物』が、武家の嫁に?」
「……っ!」
菊乃の呼吸が、止まった。
「なあ、いい話じゃねえか。俺たちも、あんたの幸せを祝いてえんだよ」
もう一人の男が、ニヤニヤと汚い手を差し出しながら、続けた。
「――黙ってて欲しいなら、金銭を融通してくんねぇかな?」
「……あ……」
(……やはり)
(……これが、現実だ)
菊乃は、震える手で、なけなしの店の釣り銭を、銭入れごと掴むと、それを男の前に投げるように置いた。
「……これで……。これで、全てです」
「……お願いします。もう、来ないで……」
男は、その軽い銭入れを手に取ると、鼻で笑った。
「はっ! こいつは、『御祝儀』が安いねえ、『太夫』様よ」
「なっ……」
「まあ、いいや。今日は、これで勘弁しといてやる」
ゴロツキ共は、菊乃が絶望に崩れ落ちるのを見届けると、口笛でも吹きそうな様子で、店を出ていこうとした。
「あ、そうだ」
リーダー格の男が、暖簾の前で振り返る。
「――また来るぜ。『武家の奥方様』よぉ」
下卑た笑い声が、遠ざかっていく。
「……あ……ああ……」
菊乃は、その冷たい土間に、手をついた。
(……終わりだ)
(……金じゃない。あの人たちは、私が幸せになることを、許さない)
(……金を払い続けても、いつかバラされる)
(……真壁様との縁は、もう……)
涙が、ボロボロと土間の土を濡らしていく。
彼女は、もう立ち上がる気力もなかった。
カラリ。
その時、再び、店の戸が開いた。
菊乃は、「もう戻ってきたの!?」と絶望に顔を上げた。
「――菊乃さん! おはよ……」
そこに立っていたのは、ゴロツキではない。
いつものだらしない笑顔で、朝一番の団子を食べに来た、秋元 雪之丞だった。
「……ゆ、雪之丞さま……」
雪之丞は、その笑顔のまま、固まった。
彼の惚れた女が、店の土間で、朝から泣き崩れていたからだ。
「……き、菊乃さん!? ど、どうしたんだい!? 誰かに何か……」
(……今、汚ねえ男たちと、すれ違ったが……)
雪之丞が、慌てて彼女の側に駆け寄る。
菊乃は、もう、限界だった。
優しい雪之丞の顔を見たことで、張り詰めていた最後の糸が、切れた。
彼が「同心」であることすら、もう考えられなかった。
「……雪之丞さま……」
「……お、おう。どうした、菊乃さん」
「……もう、だめなんです……」
「……?」
「私は……」
菊乃は、泣きじゃくりながら、自分の「過去」を、そして、今「起きている」ことを、全て、その同心に、告白し始めた。
「――私は、元……。吉原の、女なんです……!」
「…………え?」
雪之丞の、あの笑顔が、音を立てて、消えた。
菊乃は、彼の衝撃を受けた顔にも気づかず、続けた。
「……昨日、侍の方に、『妻に』と言っていただきました……。でも、私なんかが……」
「……」
「……さっきの人たちが、『黙ってて欲しければ』と……」
雪之丞は、立ち尽くしていた。
彼の惚れた女が、自分ではない別の男との「縁談」に、自分の「過去」のせいで脅え、苦しんでいる。
(……そうか)
(……侍、ねえ)
彼の胸を、二つの感情が同時に襲った。
自分の「恋」が、今、完璧に終わったという静かな絶望。
そして。
(……あのゴロツキ共が……!)
惚れた女の「門出」(たとえそれが他の男の元へのものだとしても)を、無残にも踏みにじろうとする輩への、
同心・秋元 雪之丞としての、
静かな、しかし、今までに感じたことのないほど熱い、「怒り」だった。
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