『一佐の裁き(いっさのさばき) 〜イージス艦長(50)、江戸北町奉行(25)に成り代わる〜』

月神世一

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EP 24

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ダメ男の覚悟、指揮官への報告
雪之丞は、どうやって『菊の屋』から(自分の)足で帰ったのか、覚えていなかった。
菊乃の、あの泣き顔だけが、目に焼き付いていた。
彼は、いつもの馴染みの居酒屋には行かなかった。
ヤケ酒を煽る気分にすら、なれなかった。
(……酒なんかで、紛れるもんか、こんなもん)
夜。
彼は、一人、冷たい風が吹き抜ける両国橋のたもとで、暗い川面を、ただじっと見つめていた。
(……菊乃さん……)
(……吉原の……太夫……)
その「過去」に、驚きはなかった。
(……どおりで。俺なんかには勿体ないくらい、筋の通った、いい女だ)
彼のような女にだらしない男だからこそ、菊乃が他の誰とも違うことは、解っていた。
(……だが、侍か)
(……真壁 源三郎、か)
こっちが、痛い。
胸の奥が、じくじくと痛む。
自分ではない、他の男。
しかも、自分が逆立ちしても敵わないほど、「誠実」で「真っ当」な男。
(……俺が、一緒に慣れたら……?)
(……いや)
雪之丞は、自嘲気味に、鼻で笑った。
(……ダメだ。俺みてえな、(元)借金まみれの、ダメ同心が、どうやって菊乃さんを幸せにできる?)
(……あの日、喜助のおかげで証文が燃えてなけりゃ、今頃もまだ……)
(……あの侍なら)
(……真壁殿なら、菊乃さんを、本当の『日向』に連れて行ってやれる)
「…………」
雪之丞は、ゆっくりと(自分の)失恋を、その川面に沈めた。
(……ああ、そうか)
(……そうすりゃあ、いいんだ)
――だが。
彼の脳裏に、あのゴロツキ共の下卑た顔が、蘇った。
『傷物』。
『金を融通しろ』。
(……あいつら)
(……菊乃さんの、その『門出』を)
ドクン、と。
川の冷たさとは真逆の、熱い何かが、彼の腹の底から、湧き上がってきた。
(……あいつらだけは、許さねえ)
(……好いた女の、門出だ)
(……俺が、その『道』を塞ぐゴミどもを、掃除してやる)
「――人肌、脱ぐか」
雪之丞は、呟いた。
それは、もう、「ダメ男」の顔ではなかった。
「同心・秋元 雪之丞」の、仕事の顔だった。
翌朝。
北町奉行所の役人たちが誰よりも早く、雪之丞は坂上の執務室の前に控えていた。
「……入れ」
中から、いつもの冷たい(だが、今はコーヒーのおかげで不機嫌ではない)声がした。
雪之丞は、襖を開けると、坂上がいつもの竹水筒を口に運ぶその前に、
(あの日の、近江屋に捕らわれた失態とは、まったく別の)覚悟の顔で、完璧な勢いで、土下座した。
「――御奉行!」
(坂上が、コーヒーを飲む寸前で、ピタリと止まった)
「同心・秋元 雪之丞! ご報告申し上げます!」
坂上は、眉をピクリと動かした。
(……雪之丞が、この時間に? しかも、『報告』だと?)
坂上は、水筒を音もなく置いた。
「……言ってみろ」
「はっ!」
雪之丞は、顔を伏せたまま、昨日の失恋の痛みを押し殺し、
「(公の)報告」として、正確に事実を述べた。
「(管轄内の)日本橋裏手、茶屋『菊の屋』の主人・菊乃と申す民が、(素性不明の)ゴロツキ共に、脅されております!」
坂上の50歳の目が、スッと細められた。
「(菊乃は)、その『過去』を盾に、金銭を脅し取られ、
「(また)、(別の)縁談を妨害されようとしております!」
(……『過去』? 『縁談』?)
坂上は、あの日、菊の屋で見たあの菊乃のプロの所作と、その菊乃にデレデレしていた雪之丞の顔を、瞬時に思い出した。
(……なるほど)
(……部下が、惚れた女の、痴情のもつれか)
(……そして、あいつは、以前のように『隠蔽』しなかった)
雪之丞は、あの近江屋での失態から、
(「私事の隠蔽」が、組織にどれほどの損害を与えるかを)、
(坂上の(恐怖の)下で)学んでいた。
雪之丞は、額を畳に擦り付けた。
「……こ、これは……!」
「(……正直に言えば、私事に関わるやもしれませぬ!)」
「(……ですが!)」
彼は、顔を上げ!
(涙ではなく)
(覚悟の)決まった「同心」の目で、坂上を真っ直ぐに見た。
「――御奉行!」
「『脅迫』は、公の犯罪にございます!」
「――民が、脅されております! 同心として! 助けたく存じます!」
「…………」
執務室に、静寂が落ちた。
坂上は、自分の前で「部下」が(「ダメ男」から)「兵士」に(変わった)その瞬間を、
(コーヒーの湯気の向こうで)、
(深く、誰にも見せずに)、
(確かに)「満足」していた。
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