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第二章 軍法
EP 4
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早乙女薫の「焦燥」と「決意」
坂上が「紙の牢獄」に送り込まれた、その翌日。
陸軍省、嘱託タイピスト室。
カチ、カチ、カチ……。
早乙女薫の指は、機械的にキーを叩いていた。
『……皇軍の士気は、北支の安定に大きく寄与し……』
(……嘘)
彼女の心は、ここになかった。
あの日、北支の拠点で目にした、「合理」によって救われた命と、「非合理」によって粉砕された指揮官の姿。
そして、東京に「強制送還」されていった、あの冷徹な監査官の目。
(……どうなったの? 坂上さん)
あれから数日。何の噂も聞かない。
軍法会議にかけられたのか。
それとも、川上中佐の言葉通り、「事故」として、すでに「処理」されたのか。
彼女の焦燥は、日に日に増していた。
「……おい、聞いたか?」
昼休み。給湯室で、陸軍省の若手官僚たちが声を潜めていた。
薫は、気づかれないよう、湯呑を洗うフリをして、聞く耳を立てた。
「あの帝都日報の坂上だよ。北支で問題を起こした」
「ああ、川上閣下を激怒させたっていう……。てっきり『消された』と思っていたが」
「それが、違うらしい」
官僚は、面白そうに声を低めた。
「軍法会議にもならず、帝都日報に戻されたそうだ。……ただし」
「ただし?」
「地下の『資料室』付き、だとさ。あの『新聞の墓場』だよ。事実上の『飼い殺し』だ」
「ははっ、そいつは陰湿だ! 川上閣下も、エグいことをなさる」
「おまけに、内務省の『お仲間(=特高警察)』が、四六時中、アパートを見張ってるらしい。哀れなもんだ」
カシャン。
薫の手から、湯呑が滑り落ちそうになった。
(……資料室)
(……飼い殺し)
(……特高の、監視)
彼女の背筋を、冷たい汗が伝った。
それは、「安心」とは、ほど遠い「最悪の結末」だった。
(……殺す気だ)
薫は、即座に川上の「意図」を理解した。
公に裁けば、「合理性」を証明されてしまう。
だから、社会から「隔離」し、発言力を奪い、監視下に置く。
そして、世間が彼を忘れた頃に……。
(……『事故』で、消す)
このままでは、坂上は、あの「紙の墓場」で、誰にも知られず、「非効率な存在」として抹殺される。
(……させない)
(あの人だけは、死なせてはいけない)
あの「合理」の光を、この「非合理」な国から、消させてはいけない。
その日、薫は、定時で陸軍省を出ると、いつもとは違う道を歩き、わざと三越で買い物をして、自分に「尾行」がついていないことを、慎重に確認した。
帰宅すると、彼女は、埃っぽい押し入れの奥から、旅行カバンの底に隠し持ち帰った、一冊の薄汚れた「帳簿」を取り出した。
(……竹下大尉の、横領裏帳簿)
北支の拠点で、坂上の指示により「文書整理」をしている最中に、彼女が「合理的」に確保した、唯一の「切り札」だった。
(……これだけでは、足りない)
彼女は、冷静に分析していた。
(これは、陸軍の『スキャンダル(醜聞)』でしかない。海軍が、この『証拠』のためだけに行動を起こす理由には、弱い)
(……坂上さんの『価値』そのものを、証明しなければ)
薫は、決意した。
彼女は、父が職を追われる前に、唯一「まともな議論ができる」と評していた、ある人物に、接触することを。
それは、父の学友であり、今(いま)は海軍省と深いつながりを持つ、大蔵省の、とあるリベラル派の官僚だった。
(……私も、「共犯者」になる)
薫は、その帳簿を胸に抱きしめた。
彼女は、もはや「監視役」でも「タイピスト」でもない。
坂上真一という「合理」を、この「非合理」な世界に解き放つための、「第二の主人公」としての、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
坂上が「紙の牢獄」に送り込まれた、その翌日。
陸軍省、嘱託タイピスト室。
カチ、カチ、カチ……。
早乙女薫の指は、機械的にキーを叩いていた。
『……皇軍の士気は、北支の安定に大きく寄与し……』
(……嘘)
彼女の心は、ここになかった。
あの日、北支の拠点で目にした、「合理」によって救われた命と、「非合理」によって粉砕された指揮官の姿。
そして、東京に「強制送還」されていった、あの冷徹な監査官の目。
(……どうなったの? 坂上さん)
あれから数日。何の噂も聞かない。
軍法会議にかけられたのか。
それとも、川上中佐の言葉通り、「事故」として、すでに「処理」されたのか。
彼女の焦燥は、日に日に増していた。
「……おい、聞いたか?」
昼休み。給湯室で、陸軍省の若手官僚たちが声を潜めていた。
薫は、気づかれないよう、湯呑を洗うフリをして、聞く耳を立てた。
「あの帝都日報の坂上だよ。北支で問題を起こした」
「ああ、川上閣下を激怒させたっていう……。てっきり『消された』と思っていたが」
「それが、違うらしい」
官僚は、面白そうに声を低めた。
「軍法会議にもならず、帝都日報に戻されたそうだ。……ただし」
「ただし?」
「地下の『資料室』付き、だとさ。あの『新聞の墓場』だよ。事実上の『飼い殺し』だ」
「ははっ、そいつは陰湿だ! 川上閣下も、エグいことをなさる」
「おまけに、内務省の『お仲間(=特高警察)』が、四六時中、アパートを見張ってるらしい。哀れなもんだ」
カシャン。
薫の手から、湯呑が滑り落ちそうになった。
(……資料室)
(……飼い殺し)
(……特高の、監視)
彼女の背筋を、冷たい汗が伝った。
それは、「安心」とは、ほど遠い「最悪の結末」だった。
(……殺す気だ)
薫は、即座に川上の「意図」を理解した。
公に裁けば、「合理性」を証明されてしまう。
だから、社会から「隔離」し、発言力を奪い、監視下に置く。
そして、世間が彼を忘れた頃に……。
(……『事故』で、消す)
このままでは、坂上は、あの「紙の墓場」で、誰にも知られず、「非効率な存在」として抹殺される。
(……させない)
(あの人だけは、死なせてはいけない)
あの「合理」の光を、この「非合理」な国から、消させてはいけない。
その日、薫は、定時で陸軍省を出ると、いつもとは違う道を歩き、わざと三越で買い物をして、自分に「尾行」がついていないことを、慎重に確認した。
帰宅すると、彼女は、埃っぽい押し入れの奥から、旅行カバンの底に隠し持ち帰った、一冊の薄汚れた「帳簿」を取り出した。
(……竹下大尉の、横領裏帳簿)
北支の拠点で、坂上の指示により「文書整理」をしている最中に、彼女が「合理的」に確保した、唯一の「切り札」だった。
(……これだけでは、足りない)
彼女は、冷静に分析していた。
(これは、陸軍の『スキャンダル(醜聞)』でしかない。海軍が、この『証拠』のためだけに行動を起こす理由には、弱い)
(……坂上さんの『価値』そのものを、証明しなければ)
薫は、決意した。
彼女は、父が職を追われる前に、唯一「まともな議論ができる」と評していた、ある人物に、接触することを。
それは、父の学友であり、今(いま)は海軍省と深いつながりを持つ、大蔵省の、とあるリベラル派の官僚だった。
(……私も、「共犯者」になる)
薫は、その帳簿を胸に抱きしめた。
彼女は、もはや「監視役」でも「タイピスト」でもない。
坂上真一という「合理」を、この「非合理」な世界に解き放つための、「第二の主人公」としての、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
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