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第二章 軍法
EP 6
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早乙女薫の「焦燥」と「決意」
坂上が「紙の墓場」で自らの「武器庫」を発見していた、まさにその時。
陸軍省、嘱託タイピスト室。
早乙女薫の指は、キーの上で凍り付いていた。
彼女の耳には、給湯室で聞いた若手官僚たちの、残酷なほど無邪気な噂話がこびりついていた。
(……資料室)
(……飼い殺し)
(……特高の、監視)
カチ、カチ、カチ……。
周囲のタイピストたちが打つ機械的な音が、まるで薫の焦燥をあざ笑うかのように、部屋に響いていた。
(……殺す気だ)
薫は、川上鷹司の「合理的」な悪意を、即座に理解していた。
公に裁けば、坂上の「合理性」が証明されてしまう。
だから、社会から「隔離」し、発言力を奪い、監視下に置く。
そして、世間が彼を忘れた頃に……。
(……「事故」で、消す)
彼女の背筋を、北支の乾いた空気とは違う、陰湿な東京の「恐怖」が這い上がってきた。
あの冷徹な監査官の目が、埃だらけの地下室で、光を失っていく姿が、ありありと目に浮かんだ。
(……させない)
(あの人だけは、死なせてはいけない)
あの北支の拠点で、彼女が目撃した「合理」の光。
「気合」ではなく「システム」で赤痢を制圧し、「精神論」ではなく「戦術」で狙撃手を排除した、あの姿。
この「非合理」な国に現れた、唯一の「バグ」であり、唯一の「ワクチン」でもある、あの男。
(……私(わたし)が、動かなければ)
薫は、自分がすでに「共犯者」であることを、強く自覚していた。
その日の夕方。
薫は、定時で陸軍省を出ると、いつもとは違う裏道を使い、わざと三越の化粧品売場に立ち寄るなど、自分に尾行(びこう)がついていないかを、北支で坂上から学んだ「警戒」の要領で、慎重に確認した。
特高の監視リソースは、今、すべて坂上本人に集中している。
「共犯者」である自分の優先順位は、まだ低いはずだ。
安アパートに帰り着くと、彼女は、鍵をかけた部屋で、旅行カバンの底板を外し、そこに隠し持ち帰った一冊の薄汚れた「帳簿」を取り出した。
(……竹下大尉の、横領裏帳簿)
北支で確保した、唯一の「切り札」。
これを、どう使うか。
(……これだけでは、足りない)
彼女は、冷静に分析していた。
父が弾圧されるのを、ただ見ているしかなかった、かつての無力な娘ではない。
(これは、陸軍の「スキャンダル」でしかない。海軍が、この「証拠」のためだけに行動を起す理由には、弱い)
(……坂上さんの「価値」そのものを、証明しなければ)
(あの人が、「陸軍のバグを暴くスパイ」などではなく、この国の「未来の兵站を計算できる天才」であることを)
薫は、決意した。
彼女は、埃のかぶった本棚から、一冊の古い大学の同窓会名簿を取り出した。
父が職を追われる前、まだ学者として尊敬を集めていた頃の、父の「人脈」。
パラパラと、ページをめくる。
そして、彼女の指が、ある名前の上で止まった。
(……この人)
父が、「霞が関で唯一、まともな経済の話ができる男」と評していた、学友の名前。
今は、大蔵省の要職にあり、海軍省とも予算編成で深いつながりを持つ、リベラル派の官僚。
(……この人なら)
(この人を通じてなら、海軍(山本五十六)に届くかもしれない)
薫は、その帳簿を、強く胸に抱きしめた。
彼女は、もはや「監視役」でも「タイピスト」でもない。
坂上真一という「合理」を、この「非合理」な世界に解き放つための、「第二の主人公」としての、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
坂上が「紙の墓場」で自らの「武器庫」を発見していた、まさにその時。
陸軍省、嘱託タイピスト室。
早乙女薫の指は、キーの上で凍り付いていた。
彼女の耳には、給湯室で聞いた若手官僚たちの、残酷なほど無邪気な噂話がこびりついていた。
(……資料室)
(……飼い殺し)
(……特高の、監視)
カチ、カチ、カチ……。
周囲のタイピストたちが打つ機械的な音が、まるで薫の焦燥をあざ笑うかのように、部屋に響いていた。
(……殺す気だ)
薫は、川上鷹司の「合理的」な悪意を、即座に理解していた。
公に裁けば、坂上の「合理性」が証明されてしまう。
だから、社会から「隔離」し、発言力を奪い、監視下に置く。
そして、世間が彼を忘れた頃に……。
(……「事故」で、消す)
彼女の背筋を、北支の乾いた空気とは違う、陰湿な東京の「恐怖」が這い上がってきた。
あの冷徹な監査官の目が、埃だらけの地下室で、光を失っていく姿が、ありありと目に浮かんだ。
(……させない)
(あの人だけは、死なせてはいけない)
あの北支の拠点で、彼女が目撃した「合理」の光。
「気合」ではなく「システム」で赤痢を制圧し、「精神論」ではなく「戦術」で狙撃手を排除した、あの姿。
この「非合理」な国に現れた、唯一の「バグ」であり、唯一の「ワクチン」でもある、あの男。
(……私(わたし)が、動かなければ)
薫は、自分がすでに「共犯者」であることを、強く自覚していた。
その日の夕方。
薫は、定時で陸軍省を出ると、いつもとは違う裏道を使い、わざと三越の化粧品売場に立ち寄るなど、自分に尾行(びこう)がついていないかを、北支で坂上から学んだ「警戒」の要領で、慎重に確認した。
特高の監視リソースは、今、すべて坂上本人に集中している。
「共犯者」である自分の優先順位は、まだ低いはずだ。
安アパートに帰り着くと、彼女は、鍵をかけた部屋で、旅行カバンの底板を外し、そこに隠し持ち帰った一冊の薄汚れた「帳簿」を取り出した。
(……竹下大尉の、横領裏帳簿)
北支で確保した、唯一の「切り札」。
これを、どう使うか。
(……これだけでは、足りない)
彼女は、冷静に分析していた。
父が弾圧されるのを、ただ見ているしかなかった、かつての無力な娘ではない。
(これは、陸軍の「スキャンダル」でしかない。海軍が、この「証拠」のためだけに行動を起す理由には、弱い)
(……坂上さんの「価値」そのものを、証明しなければ)
(あの人が、「陸軍のバグを暴くスパイ」などではなく、この国の「未来の兵站を計算できる天才」であることを)
薫は、決意した。
彼女は、埃のかぶった本棚から、一冊の古い大学の同窓会名簿を取り出した。
父が職を追われる前、まだ学者として尊敬を集めていた頃の、父の「人脈」。
パラパラと、ページをめくる。
そして、彼女の指が、ある名前の上で止まった。
(……この人)
父が、「霞が関で唯一、まともな経済の話ができる男」と評していた、学友の名前。
今は、大蔵省の要職にあり、海軍省とも予算編成で深いつながりを持つ、リベラル派の官僚。
(……この人なら)
(この人を通じてなら、海軍(山本五十六)に届くかもしれない)
薫は、その帳簿を、強く胸に抱きしめた。
彼女は、もはや「監視役」でも「タイピスト」でもない。
坂上真一という「合理」を、この「非合理」な世界に解き放つための、「第二の主人公」としての、最初の一歩を踏み出そうとしていた。
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