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第二章 軍法
EP 7
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「非効率な食卓」
その夜。
坂上は、埃とインクの匂いが染み付いた作業着のまま、安アパートの自室に戻った。
彼が「紙の墓場」から解放されるのは、日が暮れてからだ。
部屋は、冷え切っていた。
彼は、監視されていることを承知の上で、わざと窓のカーテンを引かず、部屋の明かりをつけた。
通りの向かい、電柱の影に立つ中折れ帽の男――特高警察――の姿が、ガラスにぼんやりと映る。
(……非効率な「リソース」の無駄遣いだ)
彼は、蛇口を捻り、錆臭い水で顔を洗った。
夕食は、ポケットに残った黒飴三粒。
(……栄養バランス、劣悪。このままでは、思考システム(脳)の稼働効率が低下する)
だが、彼に「まともな食事」を調達し、調理する時間も、その「合理的」な理由も見つからなかった。
彼が、資料室から盗み出してきたメモ(データ)を広げ、不味いコーヒーの出がらしを温め直そうとした、その時だった。
コン、コン、……コンコンコン。
扉が、不規則なリズムで叩かれた。
(……! このパターンは……)
坂上は、即座にメモを隠し、監視に聞こえるよう、わざと気怠そうな声で「誰だ」と応えた。
「……私です。早乙女です」
小さな、しかし芯の通った声。
坂上は、眉をひそめた。
(……あの女。この状況で、なぜ来る。非効率なリスクだ)
彼が鍵を開けると、そこには、夜目にも緊張で顔をこわばらせた早乙女薫が、大きな風呂敷包みを抱えて立っていた。
「……入れ」
坂上は、彼女を素早く部屋に引き入れると、音を立てずに扉を閉めた。
「特高が見ている。何の用だ」
「見られています」
薫は、息を詰めながら答えた。
「ですけど、彼らは正面の入口しか見ていません。私は、裏の勝手口から……」
彼女は、そこで言葉を切った。
坂上の「部屋」――いや、その「惨状」を見て。
部屋は、荒れてはいない。
坂上の性格どおり、無駄なものは一切置かれていない。
だが、それが逆に「異常」だった。
まるで人間が生活しているとは思えない、冷え切った「兵舎」のようだった。
そして、机の上には、黒飴の空き袋と、黒い泥のような液体が入った湯呑だけが置かれている。
「……信じられない」
薫が、呆然と呟いた。
「貴方、こんな……これでは、北支の拠点以下です」
「状況は理解した。本題を言え。データは?」
坂上は、彼女の「感情」を「ノイズ」として遮断しようとした。
「……これです」
薫は、風呂敷包みを解いた。
中から出てきたのは、帳簿ではなかった。
小さな土鍋。米の包み。干し大根と、一切れの鮭。そして、味噌。
「……何だ、それは」
坂上の声に、明らかな苛立ちが混じった。
「俺が要求しているのは、海軍の最新の艦船燃料の備蓄データだ。野菜ではない」
「『合理主義者』が、自分の『兵站(健康管理)』を疎かにして、どうするのですか」
薫は、北支で彼が言った言葉を、そのまま返した。
「……!」
「貴方が倒れれば、この国の『バグ』を修正する人間がいなくなります」
彼女は、坂上の「非効率だ」という制止を無視し、埃っぽい台所の七輪に、手際よく炭を起こし始めた。
「……無駄だ。そのリソースは、君が食べるべきだ」
坂上は、背を向けて、机に戻ろうとした。
「このお米を手に入れるのも、大変だったんですよ」
薫が、米を研ぎながら、静かに言った。
坂上の足が、止まる。
「『資料室』の数字は、そうは教えてくれないでしょうけど」
彼女の声には、陸軍省では決して見せない、疲労と怒りが滲んでいた。
「街は、おかしくなっています。
ラジオは『戦争景気』だ、『皇軍の勝利』だと熱狂しているのに、裏では、お砂糖も、お米も、どんどん軍に『寄付』という名の徴発で持っていかれる」
「……」
「みんな、ラジオが作る『熱狂』と、日々(ひび)の台所の『生活苦』の間で、訳が分からなくなっているんです」
薫は、父が追いやられた「非合理」の正体を、日々の生活の中(なか)で見ていた。
やがて、土鍋から、湯気と共に、米と味噌の匂いが立ちのぼった。
鮭の雑炊だった。
「……食べてください。これも『兵站の維持』です」
薫が、お椀によそった雑炊を、坂上の机に、ドン、と置いた。
坂上は、その湯気を立てる「合理的ではない」食べ物を、数秒間、見つめていた。
彼は、無言で箸を取った。
そして、一口、それを口に運んだ。
(……温かい)
(……塩分と、糖質、タンパク質。
合理的な、栄養補給だ)
彼は、自分の「合理主義」の盾の内側で、そう「定義」しながら、無我夢中で、その雑炊を胃に流し込んだ。
「……明日」
彼が、お椀を置くと、顔も上げずに言った。
「ドイツ製の『ボールベアリング(精密軸受)』の、今年の輸入統計が要る。大蔵省の管轄だ」
薫は、その言葉を待っていた。
彼女は、片付けをしながら、懐から小さく折り畳んだ紙を、坂上の机に滑り込ませた。
「……これ」
「……!」
「私の父の知人です。大蔵省の、貴方の言う『合理的』な数字を、唯一信じている人」
そこに書かれていたのは、連絡先と、暗号の代わりとなる「経済学の専門用語」だった。
「これ(雑炊)は、『手付金』です」
薫は、悪戯っぽく笑った。
「残りのデータが欲しければ、その『命』、ちゃんと維持してくださいね」
彼女は、風呂敷を抱え、坂上の返事も待たずに、再び裏口の闇へと消えていった。
坂上は、一人残された部屋で、まだ温かいお椀と、手の中の「次の武器」を、静かに見つめていた。
他に何か物語の続きについてお手伝いできることはありますか?
その夜。
坂上は、埃とインクの匂いが染み付いた作業着のまま、安アパートの自室に戻った。
彼が「紙の墓場」から解放されるのは、日が暮れてからだ。
部屋は、冷え切っていた。
彼は、監視されていることを承知の上で、わざと窓のカーテンを引かず、部屋の明かりをつけた。
通りの向かい、電柱の影に立つ中折れ帽の男――特高警察――の姿が、ガラスにぼんやりと映る。
(……非効率な「リソース」の無駄遣いだ)
彼は、蛇口を捻り、錆臭い水で顔を洗った。
夕食は、ポケットに残った黒飴三粒。
(……栄養バランス、劣悪。このままでは、思考システム(脳)の稼働効率が低下する)
だが、彼に「まともな食事」を調達し、調理する時間も、その「合理的」な理由も見つからなかった。
彼が、資料室から盗み出してきたメモ(データ)を広げ、不味いコーヒーの出がらしを温め直そうとした、その時だった。
コン、コン、……コンコンコン。
扉が、不規則なリズムで叩かれた。
(……! このパターンは……)
坂上は、即座にメモを隠し、監視に聞こえるよう、わざと気怠そうな声で「誰だ」と応えた。
「……私です。早乙女です」
小さな、しかし芯の通った声。
坂上は、眉をひそめた。
(……あの女。この状況で、なぜ来る。非効率なリスクだ)
彼が鍵を開けると、そこには、夜目にも緊張で顔をこわばらせた早乙女薫が、大きな風呂敷包みを抱えて立っていた。
「……入れ」
坂上は、彼女を素早く部屋に引き入れると、音を立てずに扉を閉めた。
「特高が見ている。何の用だ」
「見られています」
薫は、息を詰めながら答えた。
「ですけど、彼らは正面の入口しか見ていません。私は、裏の勝手口から……」
彼女は、そこで言葉を切った。
坂上の「部屋」――いや、その「惨状」を見て。
部屋は、荒れてはいない。
坂上の性格どおり、無駄なものは一切置かれていない。
だが、それが逆に「異常」だった。
まるで人間が生活しているとは思えない、冷え切った「兵舎」のようだった。
そして、机の上には、黒飴の空き袋と、黒い泥のような液体が入った湯呑だけが置かれている。
「……信じられない」
薫が、呆然と呟いた。
「貴方、こんな……これでは、北支の拠点以下です」
「状況は理解した。本題を言え。データは?」
坂上は、彼女の「感情」を「ノイズ」として遮断しようとした。
「……これです」
薫は、風呂敷包みを解いた。
中から出てきたのは、帳簿ではなかった。
小さな土鍋。米の包み。干し大根と、一切れの鮭。そして、味噌。
「……何だ、それは」
坂上の声に、明らかな苛立ちが混じった。
「俺が要求しているのは、海軍の最新の艦船燃料の備蓄データだ。野菜ではない」
「『合理主義者』が、自分の『兵站(健康管理)』を疎かにして、どうするのですか」
薫は、北支で彼が言った言葉を、そのまま返した。
「……!」
「貴方が倒れれば、この国の『バグ』を修正する人間がいなくなります」
彼女は、坂上の「非効率だ」という制止を無視し、埃っぽい台所の七輪に、手際よく炭を起こし始めた。
「……無駄だ。そのリソースは、君が食べるべきだ」
坂上は、背を向けて、机に戻ろうとした。
「このお米を手に入れるのも、大変だったんですよ」
薫が、米を研ぎながら、静かに言った。
坂上の足が、止まる。
「『資料室』の数字は、そうは教えてくれないでしょうけど」
彼女の声には、陸軍省では決して見せない、疲労と怒りが滲んでいた。
「街は、おかしくなっています。
ラジオは『戦争景気』だ、『皇軍の勝利』だと熱狂しているのに、裏では、お砂糖も、お米も、どんどん軍に『寄付』という名の徴発で持っていかれる」
「……」
「みんな、ラジオが作る『熱狂』と、日々(ひび)の台所の『生活苦』の間で、訳が分からなくなっているんです」
薫は、父が追いやられた「非合理」の正体を、日々の生活の中(なか)で見ていた。
やがて、土鍋から、湯気と共に、米と味噌の匂いが立ちのぼった。
鮭の雑炊だった。
「……食べてください。これも『兵站の維持』です」
薫が、お椀によそった雑炊を、坂上の机に、ドン、と置いた。
坂上は、その湯気を立てる「合理的ではない」食べ物を、数秒間、見つめていた。
彼は、無言で箸を取った。
そして、一口、それを口に運んだ。
(……温かい)
(……塩分と、糖質、タンパク質。
合理的な、栄養補給だ)
彼は、自分の「合理主義」の盾の内側で、そう「定義」しながら、無我夢中で、その雑炊を胃に流し込んだ。
「……明日」
彼が、お椀を置くと、顔も上げずに言った。
「ドイツ製の『ボールベアリング(精密軸受)』の、今年の輸入統計が要る。大蔵省の管轄だ」
薫は、その言葉を待っていた。
彼女は、片付けをしながら、懐から小さく折り畳んだ紙を、坂上の机に滑り込ませた。
「……これ」
「……!」
「私の父の知人です。大蔵省の、貴方の言う『合理的』な数字を、唯一信じている人」
そこに書かれていたのは、連絡先と、暗号の代わりとなる「経済学の専門用語」だった。
「これ(雑炊)は、『手付金』です」
薫は、悪戯っぽく笑った。
「残りのデータが欲しければ、その『命』、ちゃんと維持してくださいね」
彼女は、風呂敷を抱え、坂上の返事も待たずに、再び裏口の闇へと消えていった。
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