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第二章 軍法
EP 22
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『駒』の移動
陸軍省、課長室にて
早乙女薫の全身の血が、凍りついていた。
「……奇遇だな」
川上中佐の副官が、蛇のような目で、彼女を射抜いていた。
「昨日の、帝国ホテルの騒ぎと、同じ時間に、『腹痛』とは」
(……終わった)
薫の頭は、真っ白になった。
特高が、彼女の行動を、陸軍に報告したのだ。
坂上の「共犯者」として、自分も、あのコンクリートの独房へ送られる。
父と同じだ。
「合理」に関わった者は、この国の「非合理」に、潰される。
「……何か、弁明は?」
副官が、まるで猫が鼠を弄ぶかのように、言った。
「……」
薫は、唇を噛み締め、首を横に振るしかなかった。
ここで「坂上とは無関係だ」と嘘をついても、この「状況証拠」の前では、非効率な抵抗だ。
「そうか。では、君には、別の場所で、詳しく話を聞かせてもらおう」
副官が、立ち上がった。
彼女の上司である課長は、青ざめた顔で、目を伏せているだけだった。
「……来たまえ」
薫が、絶望に足を竦ませ、その「連行」に従おうとした、
その、瞬間だった。
ジリリリリリリッ!
課長室の黒電話が、けたたましく鳴り響いた。
副官は、自分の「仕事」を邪魔され、苛立たしげに、舌打ちをした。
「……何だ! 取れ!」
課長が、ビクビクしながら受話器を取った。
「は、はい! 経理課長室であります! ……え? ……は?
……か、川上中佐……ご本人から?
……は、はい! 少々お待ちを!」
課長が、受話器を、まるで燃え盛る炭でも掴むかのように、副官に差し出した。
「……閣下からです!」
「……何だと?」
副官は、訝しげに受話器を受け取った。
「……私だ。どうされました、閣下。今、例のタイピストの女の『処理』を……」
次の瞬間。
副官の顔色が変わった。
彼の背筋が、カエルのように、ピン、と伸びた。
「……はっ!
……し、しかし、閣下! この女は、明らかに……!
……はっ!
……『上』の、ご意向、でありますか?
……りょ、了解いたしました!
……ただちに、中止いたします! はっ!」
ガチャン!
副官は、まるで軍隊の閲兵を受けたかのように、受話器を叩きつけた。
彼は、息を荒げ、信じられない、という目で、
呆然と立ち尽くす薫を、睨みつけた。
その目は、もはや「容疑者」を見る目ではなく、「理解不能な怪物」を見る目だった。
「…………」
副官は、何も言わなかった。
彼は、自分の軍帽を乱暴に掴むと、薫の横を、彼女が「存在しない」かのように、
すり抜け、部屋から出て行った。
「……あ……」
薫は、何が起きたのか、分からなかった。
「……早乙女君」
課長が、震える声で、彼女に言った。
「……分からん。私には、何も分からんが……。
……『上』の、お達しだ。
……君への『尋問』は、中止だそうだ。
……席に、戻りたまえ」
薫は、糸の切れた人形のように、ふらふらと、課長室を出た。
廊下で、彼女は、壁に手をつき、崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
(……助かった……?)
(……なぜ? 川上中佐が、自ら、止めた?)
彼女は、理解した。
山本五十六が、動いたのだ。
彼が、川上本人か、あるいは、陸軍の、更に「上層部」に、
彼女に「手を出すな」と、
恐るべき「政治的圧力」を、かけたのだ。
(……山本閣下……)
(……あの「爆弾」を、「監査」したんだ……!)
(……そして、私を、坂上さんの「共犯者」として、……守った?)
薫は、山本という男の、「合理的」な「手の回し方」に、戦慄した。
特高警察本部にて
同じ頃。
特高警察本部。
第一課課長・後藤は、陸軍の佐官を、ついに追い返したところだった。
「……クソッ。陸軍も海軍も、勝手なことばかり言いあがって……」
彼が、冷え切った茶を啜ろうとした、その時。
内線電話が鳴った。
「……何だ!」
「……課長。内務大臣官邸より、至急の『命令』です」
「……何だと?」
後藤が、受話器を握りしめる。
彼の顔が、みるみる、青ざめていった。
「……海軍に、だと?」
「……『軍属 特別任用令』?」
「……馬鹿な! あの男は、思想犯で……!」
「……は、はい! ……承知、いたしました! ただちに、身柄を、引き渡します!」
後藤は、受話器を置くと、天井を仰いだ。
「……何なんだ、一体。
あの男は、何をした……。
海軍が、内務大臣を直に動かして、あの男一人を、『引き取る』だと……?」
彼は、部下に、力なく命じた。
「……地下だ。
……坂上を、出せ。
……海軍の、お偉いさんが、
……『引き取り』に、来られる」
特高の独房にて
特高の独房。
坂上は、目を閉じたまま、瞑想に近い状態で、思考を続けていた。
ガシャン。
重い、鉄の扉が開く音がした。
(……尋問か?)
「……坂上真一」
呼びかけた声は、特高の、あの甲高い声ではなかった。
静かで、低い、別の「階級」の男の声だった。
坂上が、ゆっくりと目を開けた。
独房の入口に立っていたのは、
特高の制服ではない。
陸軍のカーキ色でもない。
冬の夜の海のように、
深く、濃い、
暗い「青」だった。
海軍だ。
一人の、海軍将校が、後藤課長を伴い、彼を見下ろしていた。
「坂上真一君。
……君の身柄は、
海軍省が、引き受けることになった」
海軍将校は、事務的に、しかし、どこか「価値の高い兵器」を検分するかのような目で、
坂上に言った。
「……出てもらおう。
……山本五十六 次官が、
……君と、『話がしたい』と、
……お待ちだ」
坂上は、無言で、立ち上がった。
彼の「賭け」は、勝った。
フェイズ2が、完了した。
彼の「OS」は、
今、
『海軍』という、
新しい「プラットフォーム」に、
インストールされようとしていた。
陸軍省、課長室にて
早乙女薫の全身の血が、凍りついていた。
「……奇遇だな」
川上中佐の副官が、蛇のような目で、彼女を射抜いていた。
「昨日の、帝国ホテルの騒ぎと、同じ時間に、『腹痛』とは」
(……終わった)
薫の頭は、真っ白になった。
特高が、彼女の行動を、陸軍に報告したのだ。
坂上の「共犯者」として、自分も、あのコンクリートの独房へ送られる。
父と同じだ。
「合理」に関わった者は、この国の「非合理」に、潰される。
「……何か、弁明は?」
副官が、まるで猫が鼠を弄ぶかのように、言った。
「……」
薫は、唇を噛み締め、首を横に振るしかなかった。
ここで「坂上とは無関係だ」と嘘をついても、この「状況証拠」の前では、非効率な抵抗だ。
「そうか。では、君には、別の場所で、詳しく話を聞かせてもらおう」
副官が、立ち上がった。
彼女の上司である課長は、青ざめた顔で、目を伏せているだけだった。
「……来たまえ」
薫が、絶望に足を竦ませ、その「連行」に従おうとした、
その、瞬間だった。
ジリリリリリリッ!
課長室の黒電話が、けたたましく鳴り響いた。
副官は、自分の「仕事」を邪魔され、苛立たしげに、舌打ちをした。
「……何だ! 取れ!」
課長が、ビクビクしながら受話器を取った。
「は、はい! 経理課長室であります! ……え? ……は?
……か、川上中佐……ご本人から?
……は、はい! 少々お待ちを!」
課長が、受話器を、まるで燃え盛る炭でも掴むかのように、副官に差し出した。
「……閣下からです!」
「……何だと?」
副官は、訝しげに受話器を受け取った。
「……私だ。どうされました、閣下。今、例のタイピストの女の『処理』を……」
次の瞬間。
副官の顔色が変わった。
彼の背筋が、カエルのように、ピン、と伸びた。
「……はっ!
……し、しかし、閣下! この女は、明らかに……!
……はっ!
……『上』の、ご意向、でありますか?
……りょ、了解いたしました!
……ただちに、中止いたします! はっ!」
ガチャン!
副官は、まるで軍隊の閲兵を受けたかのように、受話器を叩きつけた。
彼は、息を荒げ、信じられない、という目で、
呆然と立ち尽くす薫を、睨みつけた。
その目は、もはや「容疑者」を見る目ではなく、「理解不能な怪物」を見る目だった。
「…………」
副官は、何も言わなかった。
彼は、自分の軍帽を乱暴に掴むと、薫の横を、彼女が「存在しない」かのように、
すり抜け、部屋から出て行った。
「……あ……」
薫は、何が起きたのか、分からなかった。
「……早乙女君」
課長が、震える声で、彼女に言った。
「……分からん。私には、何も分からんが……。
……『上』の、お達しだ。
……君への『尋問』は、中止だそうだ。
……席に、戻りたまえ」
薫は、糸の切れた人形のように、ふらふらと、課長室を出た。
廊下で、彼女は、壁に手をつき、崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
(……助かった……?)
(……なぜ? 川上中佐が、自ら、止めた?)
彼女は、理解した。
山本五十六が、動いたのだ。
彼が、川上本人か、あるいは、陸軍の、更に「上層部」に、
彼女に「手を出すな」と、
恐るべき「政治的圧力」を、かけたのだ。
(……山本閣下……)
(……あの「爆弾」を、「監査」したんだ……!)
(……そして、私を、坂上さんの「共犯者」として、……守った?)
薫は、山本という男の、「合理的」な「手の回し方」に、戦慄した。
特高警察本部にて
同じ頃。
特高警察本部。
第一課課長・後藤は、陸軍の佐官を、ついに追い返したところだった。
「……クソッ。陸軍も海軍も、勝手なことばかり言いあがって……」
彼が、冷え切った茶を啜ろうとした、その時。
内線電話が鳴った。
「……何だ!」
「……課長。内務大臣官邸より、至急の『命令』です」
「……何だと?」
後藤が、受話器を握りしめる。
彼の顔が、みるみる、青ざめていった。
「……海軍に、だと?」
「……『軍属 特別任用令』?」
「……馬鹿な! あの男は、思想犯で……!」
「……は、はい! ……承知、いたしました! ただちに、身柄を、引き渡します!」
後藤は、受話器を置くと、天井を仰いだ。
「……何なんだ、一体。
あの男は、何をした……。
海軍が、内務大臣を直に動かして、あの男一人を、『引き取る』だと……?」
彼は、部下に、力なく命じた。
「……地下だ。
……坂上を、出せ。
……海軍の、お偉いさんが、
……『引き取り』に、来られる」
特高の独房にて
特高の独房。
坂上は、目を閉じたまま、瞑想に近い状態で、思考を続けていた。
ガシャン。
重い、鉄の扉が開く音がした。
(……尋問か?)
「……坂上真一」
呼びかけた声は、特高の、あの甲高い声ではなかった。
静かで、低い、別の「階級」の男の声だった。
坂上が、ゆっくりと目を開けた。
独房の入口に立っていたのは、
特高の制服ではない。
陸軍のカーキ色でもない。
冬の夜の海のように、
深く、濃い、
暗い「青」だった。
海軍だ。
一人の、海軍将校が、後藤課長を伴い、彼を見下ろしていた。
「坂上真一君。
……君の身柄は、
海軍省が、引き受けることになった」
海軍将校は、事務的に、しかし、どこか「価値の高い兵器」を検分するかのような目で、
坂上に言った。
「……出てもらおう。
……山本五十六 次官が、
……君と、『話がしたい』と、
……お待ちだ」
坂上は、無言で、立ち上がった。
彼の「賭け」は、勝った。
フェイズ2が、完了した。
彼の「OS」は、
今、
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新しい「プラットフォーム」に、
インストールされようとしていた。
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