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第二章 軍法
EP 36
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美しき「紙飛行機」
名古屋、三菱重工業・航空機製作所。
油と金属の匂いが充満する巨大な工場の一角に、その設計室はあった。
「……お待ちしておりました、海軍技術顧問殿」
案内された部屋には、大量の青焼き(設計図)と、計算尺を手にした技術者たちが、殺気立った雰囲気で作業をしていた。
その中心に、一人の男がいた。
丸眼鏡に、知的な風貌。
静かだが、内側に強烈な熱量を秘めた目。
堀越二郎(ほりこし じろう)。この時代の日本が誇る、天才設計技師だ。
「君が、坂上顧問ですね」
堀越は、坂上を一瞥し、すぐに手元の図面に戻った。
「噂は聞いています。『屑拾い』をしてレーダーを作ったとか。
……だが、ここは電気屋の来るところではない。我々は忙しい」
「忙しいのは知っている」
坂上は、遠慮なく堀越のデスクに近づき、広げられた図面を覗き込んだ。
そこには、流麗な曲線を描く、美しい機体の線が引かれていた。
極限まで空気抵抗を削ぎ落とし、軽量化を追求した、芸術品のような機体。
「……美しいな」
坂上は、素直に感嘆した。
「無駄がない。ギリギリまで贅肉を削ぎ落としている」
「分かりますか」
堀越が、少しだけ表情を緩めた。
「海軍の要求は過酷です。速度、航続距離、旋回性能。これら全ての相反する要素を満たすには、極限の軽量化しかない。
この機体は、日本の航空技術の結晶になります」
「ああ。まさに結晶だ」
坂上は頷き、そして、冷水を浴びせるように続けた。
「……『ガラス細工』のようにな」
「……何だと?」
堀越の手が止まった。
坂上は、図面の「燃料タンク」と「操縦席」の部分を、指でトントンと叩いた。
「堀越技師。
この燃料タンクに、12.7ミリ機銃弾が当たったら、どうなる?」
「……発火するでしょうな」
堀越は淡々と答えた。
「ですが、当たらなければいい。
そのための『格闘戦能力(運動性)』です」
「非論理的だ」
坂上は断じた。
「戦場で『当たらなければいい』などという前提は成立しない。
それは『雨の中を濡れずに歩け』と言うのと同じだ。
操縦席の背中に防弾鋼板がない。燃料タンクにゴム被膜(防漏材)がない。
消火装置も簡易的すぎる」
坂上は、堀越の目を真っ直ぐに見据えた。
「これでは、パイロットは『空飛ぶライター』に乗せられるようなものだ。
……設計変更を要求する。
防弾鋼板と、防漏タンクを装備しろ」
設計室の空気が、凍り付いた。
三菱の技師たちが、一斉に坂上を睨む。
堀越は、ゆっくりと眼鏡の位置を直し、静かに、しかし明確な怒りを込めて言った。
「……素人が。
簡単に言ってくれる」
第58話:エンジンのない国
「防弾だと?」
堀越二郎は、計算尺をデスクに叩きつけた。
「坂上さん。貴方は、この機体に『何キロ』の重量増を求めているのか、理解しているのですか?」
「パイロットの命を守るための重量だ。数百キロは必要だろう」
「数百キロ!」
堀越は、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「いいでしょう。百歩譲って、その装甲を積んだとしましょう。
結果、どうなるか分かりますか?」
堀越は、黒板に猛烈な勢いで数式を書き殴った。
揚力係数、抗力、翼面荷重、そして推力重量比。
「飛ばないんですよ」
堀越は、チョークをへし折った。
「いや、浮くことは浮くでしょう。だが、海軍が要求する『速度』も『航続距離』も、何一つ満たせなくなる。
ただの『重くて遅い鉄の棺桶』が出来上がるだけだ!」
「エンジンだ」
坂上は、核心を突いた。
「もっと馬力のあるエンジンを積めばいい。
1000馬力、いや、2000馬力級のエンジンがあれば、装甲の重量など誤差でしかない」
「……無いんだよ!」
堀越が、初めて声を荒げた。
「そんなエンジンは、日本には無い!」
シーンと、設計室が静まり返った。
堀越は、苦渋に満ちた顔で、窓の外――工場の試運転場を見た。
「我々が使えるエンジンは、『瑞星(ずいせい)』。たかだか700馬力から800馬力だ。
欧米の列強は、すでに1000馬力級を実用化しようとしている。
だが、日本の基礎工業力では、高精度の部品も、高品質なハイオクタンガソリンも、作れないんだ!」
これが、現実だった。
坂上が直面した、二度目の「リソースの壁」。
真空管と同じだ。
「知識(設計)」があっても、「素材(エンジン)」がない。
「我々は……」
堀越の声が震えた。
「この『非力な心臓』で、欧米の『強力な心臓』を持つ怪物たちと、戦わなければならないんです。
そのためには、削るしかない。
骨を削り、肉を削り、防御を捨てて……『軽さ』という一点で、対抗するしかないんだ!」
それは、技術者の悲痛な叫びだった。
彼もまた、人命を軽視しているわけではない。
ただ、日本の「貧しさ」という現実の前で、性能を出すためには、何かを犠牲にするしかなかったのだ。
早乙女薫は、そのやり取りを聞いて、胸が締め付けられた。
(……坂上さんの言う「合理」も、堀越さんの言う「現実」も、どちらも正しい。
だからこそ……救いがない)
坂上は、腕を組み、沈黙した。
50歳のイージス艦長としての知識が、冷酷な事実を告げている。
(……無理だ。
今の日本の冶金技術と石油事情では、これ以上の高出力エンジンは作れない。
俺がいくら未来の知識を持っていても、明日すぐに工場が高性能エンジンを吐き出すわけではない)
ここで無理に装甲を積ませれば、ゼロ戦は駄作機になり、制空権を奪われ、結果としてもっと多くの兵士が死ぬ。
(……詰んだか?)
坂上は、初めて、自分の「合理性」が、壁に弾き返される音を聞いた。
名古屋、三菱重工業・航空機製作所。
油と金属の匂いが充満する巨大な工場の一角に、その設計室はあった。
「……お待ちしておりました、海軍技術顧問殿」
案内された部屋には、大量の青焼き(設計図)と、計算尺を手にした技術者たちが、殺気立った雰囲気で作業をしていた。
その中心に、一人の男がいた。
丸眼鏡に、知的な風貌。
静かだが、内側に強烈な熱量を秘めた目。
堀越二郎(ほりこし じろう)。この時代の日本が誇る、天才設計技師だ。
「君が、坂上顧問ですね」
堀越は、坂上を一瞥し、すぐに手元の図面に戻った。
「噂は聞いています。『屑拾い』をしてレーダーを作ったとか。
……だが、ここは電気屋の来るところではない。我々は忙しい」
「忙しいのは知っている」
坂上は、遠慮なく堀越のデスクに近づき、広げられた図面を覗き込んだ。
そこには、流麗な曲線を描く、美しい機体の線が引かれていた。
極限まで空気抵抗を削ぎ落とし、軽量化を追求した、芸術品のような機体。
「……美しいな」
坂上は、素直に感嘆した。
「無駄がない。ギリギリまで贅肉を削ぎ落としている」
「分かりますか」
堀越が、少しだけ表情を緩めた。
「海軍の要求は過酷です。速度、航続距離、旋回性能。これら全ての相反する要素を満たすには、極限の軽量化しかない。
この機体は、日本の航空技術の結晶になります」
「ああ。まさに結晶だ」
坂上は頷き、そして、冷水を浴びせるように続けた。
「……『ガラス細工』のようにな」
「……何だと?」
堀越の手が止まった。
坂上は、図面の「燃料タンク」と「操縦席」の部分を、指でトントンと叩いた。
「堀越技師。
この燃料タンクに、12.7ミリ機銃弾が当たったら、どうなる?」
「……発火するでしょうな」
堀越は淡々と答えた。
「ですが、当たらなければいい。
そのための『格闘戦能力(運動性)』です」
「非論理的だ」
坂上は断じた。
「戦場で『当たらなければいい』などという前提は成立しない。
それは『雨の中を濡れずに歩け』と言うのと同じだ。
操縦席の背中に防弾鋼板がない。燃料タンクにゴム被膜(防漏材)がない。
消火装置も簡易的すぎる」
坂上は、堀越の目を真っ直ぐに見据えた。
「これでは、パイロットは『空飛ぶライター』に乗せられるようなものだ。
……設計変更を要求する。
防弾鋼板と、防漏タンクを装備しろ」
設計室の空気が、凍り付いた。
三菱の技師たちが、一斉に坂上を睨む。
堀越は、ゆっくりと眼鏡の位置を直し、静かに、しかし明確な怒りを込めて言った。
「……素人が。
簡単に言ってくれる」
第58話:エンジンのない国
「防弾だと?」
堀越二郎は、計算尺をデスクに叩きつけた。
「坂上さん。貴方は、この機体に『何キロ』の重量増を求めているのか、理解しているのですか?」
「パイロットの命を守るための重量だ。数百キロは必要だろう」
「数百キロ!」
堀越は、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「いいでしょう。百歩譲って、その装甲を積んだとしましょう。
結果、どうなるか分かりますか?」
堀越は、黒板に猛烈な勢いで数式を書き殴った。
揚力係数、抗力、翼面荷重、そして推力重量比。
「飛ばないんですよ」
堀越は、チョークをへし折った。
「いや、浮くことは浮くでしょう。だが、海軍が要求する『速度』も『航続距離』も、何一つ満たせなくなる。
ただの『重くて遅い鉄の棺桶』が出来上がるだけだ!」
「エンジンだ」
坂上は、核心を突いた。
「もっと馬力のあるエンジンを積めばいい。
1000馬力、いや、2000馬力級のエンジンがあれば、装甲の重量など誤差でしかない」
「……無いんだよ!」
堀越が、初めて声を荒げた。
「そんなエンジンは、日本には無い!」
シーンと、設計室が静まり返った。
堀越は、苦渋に満ちた顔で、窓の外――工場の試運転場を見た。
「我々が使えるエンジンは、『瑞星(ずいせい)』。たかだか700馬力から800馬力だ。
欧米の列強は、すでに1000馬力級を実用化しようとしている。
だが、日本の基礎工業力では、高精度の部品も、高品質なハイオクタンガソリンも、作れないんだ!」
これが、現実だった。
坂上が直面した、二度目の「リソースの壁」。
真空管と同じだ。
「知識(設計)」があっても、「素材(エンジン)」がない。
「我々は……」
堀越の声が震えた。
「この『非力な心臓』で、欧米の『強力な心臓』を持つ怪物たちと、戦わなければならないんです。
そのためには、削るしかない。
骨を削り、肉を削り、防御を捨てて……『軽さ』という一点で、対抗するしかないんだ!」
それは、技術者の悲痛な叫びだった。
彼もまた、人命を軽視しているわけではない。
ただ、日本の「貧しさ」という現実の前で、性能を出すためには、何かを犠牲にするしかなかったのだ。
早乙女薫は、そのやり取りを聞いて、胸が締め付けられた。
(……坂上さんの言う「合理」も、堀越さんの言う「現実」も、どちらも正しい。
だからこそ……救いがない)
坂上は、腕を組み、沈黙した。
50歳のイージス艦長としての知識が、冷酷な事実を告げている。
(……無理だ。
今の日本の冶金技術と石油事情では、これ以上の高出力エンジンは作れない。
俺がいくら未来の知識を持っていても、明日すぐに工場が高性能エンジンを吐き出すわけではない)
ここで無理に装甲を積ませれば、ゼロ戦は駄作機になり、制空権を奪われ、結果としてもっと多くの兵士が死ぬ。
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