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第三章 大和
EP 18
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勝利病(ビクトリー・ディジーズ)
昭和17年(1942年)、春。
東京は、桜の季節を迎える前に、狂騒の春を迎えていた。
「香港陥落!」「マレー沖で英戦艦二隻撃沈!」
「ジャワ沖海戦、完全勝利!」
連日、新聞の見出しは踊り狂っていた。
真珠湾での「兵站破壊」による米軍の足止めは、予想以上の効果を上げていた。米太平洋艦隊が動けない間に、日本軍は破竹の勢いで南方資源地帯を制圧していたのだ。
街には「勝った、勝った」の声が溢れ、人々は戦前の生活苦を忘れ、この「無敵の皇軍」という甘美な麻薬に酔いしれていた。
だが、築地の「掃き溜め」研究所だけは、冷え切っていた。
「……浮かれるな」
坂上真一は、ラジオのスイッチを乱暴に切った。
「ニュースが伝えるのは『領土が増えた』ことだけだ。
その広がった領土を維持するための『輸送船』が足りていないことは、誰も言わない」
「でも、みんな明るいですよ」
早乙女薫が、少し複雑な表情で言った。
「配給は相変わらず苦しいですけど……『希望』があるから、耐えられるって」
「それが『病気』だ」
坂上は、壁のグラフを指差した。
米国の工業生産力指数。
真珠湾の直後から、そのグラフは垂直に近い角度で上昇を始めていた。
「アメリカは、怒りで覚醒した。
デトロイトの自動車工場は、全て戦車と飛行機の工場に作り変えられた。
……奴らの生産力は、半年後には日本の十倍になる。
今の日本の『連戦連勝』は、相手がリングに上がる前の準備運動期間に、好き勝手に暴れているだけに過ぎん」
坂上は、黒飴を噛み砕いた。
「一番怖いのは、敵の物量じゃない。
……味方の『慢心』だ」
数日後。広島、柱島泊地。
連合艦隊旗艦「大和」。
その巨大な艦内にある作戦室は、東京の街と同じく、熱気に包まれていた。
黒島亀人(くろしま かめと)大佐をはじめとする参謀たちが、巨大な太平洋地図を囲み、次なる作戦を議論していた。
「ハワイ攻略! これしかありません!」
黒島が、赤鉛筆で地図を叩く。
「米軍が動けない今こそ、ミッドウェー島を攻略し、そこを足がかりにオアフ島を落とす。
そうすれば、太平洋の制海権は完全に我々のものです!」
「いや、オーストラリアだ!」
別の参謀が叫ぶ。
「米豪分断こそが急務!」
議論というよりは、獲物の分け前を争うような、浮ついた空気。
「負けるはずがない」という前提が、彼らの思考を麻痺させていた。
これが、坂上の恐れていた「勝利病」だった。
その部屋の隅で、坂上は腕を組み、冷ややかにその光景を見ていた。
隣には、沈痛な面持ちの山本五十六が座っている。
「……どう思う、顧問」
山本が、小声で尋ねた。
「……正気ではありませんね」
坂上は、容赦なく切り捨てた。
「兵站の限界を無視しています。
ミッドウェー? ハワイ?
占領したとして、そこへどうやって石油と食料を送るんです?
輸送船団の護衛もなしに、補給線だけ伸ばせば、潜水艦の餌食になるだけだ」
「だが、士気は高い」
「士気で飯は食えません」
その時、黒島大佐が坂上に気づき、嘲るような笑みを向けた。
「おや、これはこれは。『技術屋』の顧問殿。
また『計算』ですか?
貴官の作ったレーダーとやらは役に立ちましたがね、戦争は計算通りにはいかんのですよ。
『勢い』というものがある」
「勢いで死ぬのは、現場の兵士だ」
坂上は立ち上がり、地図の前に立った。
「黒島大佐。貴官の立案した『ミッドウェー作戦』。
……穴だらけだ」
「何だと?」
「第一に、戦力の分散。
なぜ、アリューシャン方面に陽動部隊を割く?
非効率だ。全戦力を一点に集中すべきだ」
坂上は、史実の敗因を一つずつ指摘していく。
「第二に、索敵の軽視。
『敵空母は出てこないだろう』という願望で作戦を立てている。
……敵は、すでに行動を開始しているぞ」
「馬鹿な!」
黒島が反論する。
「真珠湾であれだけ叩いたのだ。奴らはまだ修理中だ!」
「修理は終わる。奴らの工業力をナメるな」
坂上は、一枚の報告書をテーブルに叩きつけた。
「そして、第三。これが最大の問題だ。
……『暗号』だ」
会議室が、静まり返った。
「海軍暗号『JN-25』。
……すでに、米軍に解読されている恐れがある」
「貴様ッ! 皇国の暗号を愚弄するか!」
参謀の一人が激昂して立ち上がった。
「我々の暗号は理論上、解読不可能だ! 乱数表は定期的に更新している!」
「理論上?」
坂上は冷たく笑った。
「俺がアメリカの指揮官なら、まずはそこを攻める。
……情報が筒抜けなら、どんな奇襲も『待ち伏せ』に変わる。
ミッドウェーに行けば、待ち構えていた敵空母に、横っ面を殴られるぞ」
「妄想だ!」
黒島が叫ぶ。
「臆病風に吹かれたか、顧問!
貴様は黙って、機械の手入れでもしていればいい!」
山本が、重く口を開いた。
「……そこまでだ」
長官の発言に、場が凍る。
山本は、坂上を見た。
「……坂上君。暗号漏洩の懸念、根拠はあるのか?」
「状況証拠の積み上げです」
坂上は答えた。
「最近の米潜水艦の動きが、あまりに『効率的』すぎる。
こちらの輸送船団のルートを、事前に知っているかのような待ち伏せ方だ」
「……」
山本は、目を閉じた。
彼もまた、連戦連勝の中で、微かな違和感を抱いていたのだ。
「作戦は、実行する」
山本は言った。
「ミッドウェーを攻略し、敵空母を誘い出して叩く。
……だが、計画は修正する」
山本は、黒島ではなく、坂上に指揮棒を向けた。
「坂上顧問。
君の『魔改造』を、作戦計画(ソフトウェア)にも適用しろ。
……暗号変更の前倒し。
そして、空母機動部隊の『防御システム』の再構築だ」
坂上は、深く頷いた。
「……承知しました。
『ドーリットル空襲』のようなマネは、させません」
史実では、4月に東京初空襲(ドーリットル空襲)があり、それに衝撃を受けた海軍がミッドウェー作戦を強行した。
坂上は、その「屈辱」を未然に防ぎ、かつ、ミッドウェーでの「運命の5分間」を書き換えるために、動き出した。
「……まずは、この『大和』を動かします」
坂上は、自分が作り変えた、アンテナだらけの巨艦を見上げた。
「ホテルは廃業だ。
これより本艦は、全艦隊の情報を統括する『巨大サーバー』として機能する」
昭和17年(1942年)、春。
東京は、桜の季節を迎える前に、狂騒の春を迎えていた。
「香港陥落!」「マレー沖で英戦艦二隻撃沈!」
「ジャワ沖海戦、完全勝利!」
連日、新聞の見出しは踊り狂っていた。
真珠湾での「兵站破壊」による米軍の足止めは、予想以上の効果を上げていた。米太平洋艦隊が動けない間に、日本軍は破竹の勢いで南方資源地帯を制圧していたのだ。
街には「勝った、勝った」の声が溢れ、人々は戦前の生活苦を忘れ、この「無敵の皇軍」という甘美な麻薬に酔いしれていた。
だが、築地の「掃き溜め」研究所だけは、冷え切っていた。
「……浮かれるな」
坂上真一は、ラジオのスイッチを乱暴に切った。
「ニュースが伝えるのは『領土が増えた』ことだけだ。
その広がった領土を維持するための『輸送船』が足りていないことは、誰も言わない」
「でも、みんな明るいですよ」
早乙女薫が、少し複雑な表情で言った。
「配給は相変わらず苦しいですけど……『希望』があるから、耐えられるって」
「それが『病気』だ」
坂上は、壁のグラフを指差した。
米国の工業生産力指数。
真珠湾の直後から、そのグラフは垂直に近い角度で上昇を始めていた。
「アメリカは、怒りで覚醒した。
デトロイトの自動車工場は、全て戦車と飛行機の工場に作り変えられた。
……奴らの生産力は、半年後には日本の十倍になる。
今の日本の『連戦連勝』は、相手がリングに上がる前の準備運動期間に、好き勝手に暴れているだけに過ぎん」
坂上は、黒飴を噛み砕いた。
「一番怖いのは、敵の物量じゃない。
……味方の『慢心』だ」
数日後。広島、柱島泊地。
連合艦隊旗艦「大和」。
その巨大な艦内にある作戦室は、東京の街と同じく、熱気に包まれていた。
黒島亀人(くろしま かめと)大佐をはじめとする参謀たちが、巨大な太平洋地図を囲み、次なる作戦を議論していた。
「ハワイ攻略! これしかありません!」
黒島が、赤鉛筆で地図を叩く。
「米軍が動けない今こそ、ミッドウェー島を攻略し、そこを足がかりにオアフ島を落とす。
そうすれば、太平洋の制海権は完全に我々のものです!」
「いや、オーストラリアだ!」
別の参謀が叫ぶ。
「米豪分断こそが急務!」
議論というよりは、獲物の分け前を争うような、浮ついた空気。
「負けるはずがない」という前提が、彼らの思考を麻痺させていた。
これが、坂上の恐れていた「勝利病」だった。
その部屋の隅で、坂上は腕を組み、冷ややかにその光景を見ていた。
隣には、沈痛な面持ちの山本五十六が座っている。
「……どう思う、顧問」
山本が、小声で尋ねた。
「……正気ではありませんね」
坂上は、容赦なく切り捨てた。
「兵站の限界を無視しています。
ミッドウェー? ハワイ?
占領したとして、そこへどうやって石油と食料を送るんです?
輸送船団の護衛もなしに、補給線だけ伸ばせば、潜水艦の餌食になるだけだ」
「だが、士気は高い」
「士気で飯は食えません」
その時、黒島大佐が坂上に気づき、嘲るような笑みを向けた。
「おや、これはこれは。『技術屋』の顧問殿。
また『計算』ですか?
貴官の作ったレーダーとやらは役に立ちましたがね、戦争は計算通りにはいかんのですよ。
『勢い』というものがある」
「勢いで死ぬのは、現場の兵士だ」
坂上は立ち上がり、地図の前に立った。
「黒島大佐。貴官の立案した『ミッドウェー作戦』。
……穴だらけだ」
「何だと?」
「第一に、戦力の分散。
なぜ、アリューシャン方面に陽動部隊を割く?
非効率だ。全戦力を一点に集中すべきだ」
坂上は、史実の敗因を一つずつ指摘していく。
「第二に、索敵の軽視。
『敵空母は出てこないだろう』という願望で作戦を立てている。
……敵は、すでに行動を開始しているぞ」
「馬鹿な!」
黒島が反論する。
「真珠湾であれだけ叩いたのだ。奴らはまだ修理中だ!」
「修理は終わる。奴らの工業力をナメるな」
坂上は、一枚の報告書をテーブルに叩きつけた。
「そして、第三。これが最大の問題だ。
……『暗号』だ」
会議室が、静まり返った。
「海軍暗号『JN-25』。
……すでに、米軍に解読されている恐れがある」
「貴様ッ! 皇国の暗号を愚弄するか!」
参謀の一人が激昂して立ち上がった。
「我々の暗号は理論上、解読不可能だ! 乱数表は定期的に更新している!」
「理論上?」
坂上は冷たく笑った。
「俺がアメリカの指揮官なら、まずはそこを攻める。
……情報が筒抜けなら、どんな奇襲も『待ち伏せ』に変わる。
ミッドウェーに行けば、待ち構えていた敵空母に、横っ面を殴られるぞ」
「妄想だ!」
黒島が叫ぶ。
「臆病風に吹かれたか、顧問!
貴様は黙って、機械の手入れでもしていればいい!」
山本が、重く口を開いた。
「……そこまでだ」
長官の発言に、場が凍る。
山本は、坂上を見た。
「……坂上君。暗号漏洩の懸念、根拠はあるのか?」
「状況証拠の積み上げです」
坂上は答えた。
「最近の米潜水艦の動きが、あまりに『効率的』すぎる。
こちらの輸送船団のルートを、事前に知っているかのような待ち伏せ方だ」
「……」
山本は、目を閉じた。
彼もまた、連戦連勝の中で、微かな違和感を抱いていたのだ。
「作戦は、実行する」
山本は言った。
「ミッドウェーを攻略し、敵空母を誘い出して叩く。
……だが、計画は修正する」
山本は、黒島ではなく、坂上に指揮棒を向けた。
「坂上顧問。
君の『魔改造』を、作戦計画(ソフトウェア)にも適用しろ。
……暗号変更の前倒し。
そして、空母機動部隊の『防御システム』の再構築だ」
坂上は、深く頷いた。
「……承知しました。
『ドーリットル空襲』のようなマネは、させません」
史実では、4月に東京初空襲(ドーリットル空襲)があり、それに衝撃を受けた海軍がミッドウェー作戦を強行した。
坂上は、その「屈辱」を未然に防ぎ、かつ、ミッドウェーでの「運命の5分間」を書き換えるために、動き出した。
「……まずは、この『大和』を動かします」
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