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第三章 大和
EP 30
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撤退という名の勝利
昭和18年(1943年)2月。
南太平洋、ガダルカナル島沖。
夜の帳(とばり)が下りた海を、駆逐艦の群れが音もなく滑るように進んでいた。
「ケ号作戦」、最終段階。
それは、日本軍が初めて経験する、大規模な「戦略的撤退」だった。
「……レーダー感度、良好」
駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」の艦橋で、艦長が緑色のスコープを覗き込む。
「敵魚雷艇、接近中。……方位110、距離5000」
かつてなら、闇夜からの奇襲に怯え、照明弾を打ち上げて位置を暴露していただろう。
だが今は、後方のラバウル基地を経由し、大和CICからのデータリンクが届いている。
「……右砲戦、用意」
艦長が静かに命じる。
「……撃ち方、始め(テッ)!」
ズドン!
正確なレーダー射撃が、暗闇の中の米軍魚雷艇を粉砕した。
米軍側は混乱する。「なぜ見えている?」「日本軍は夜目が効きすぎる!」
その隙に、海岸では痩せ衰えた兵士たちが、最後の力を振り絞って大発(上陸用舟艇)に乗り込んでいた。
泥と、糞尿と、死臭にまみれた敗残兵たち。
だが、彼らは生きていた。
ラバウル基地。
早乙女薫は、桟橋でその光景を見ていた。
駆逐艦から降りてくる兵士たちは、もはや人間というより、幽鬼だった。
肋骨が浮き出た体。虚ろな目。
彼らの多くは、自分の足で歩くことさえできず、担架で運ばれていく。
「……これが、現実」
薫は、ハンカチで口元を押さえた。
勇ましい大本営発表の裏にある、補給を軽視した結果がこれだ。
「……泣くな、薫君」
隣に立った坂上真一が、冷徹に言った。
「彼らは『生還』した。それが全てだ」
坂上は、担架で運ばれる兵士の一人を見た。
まだ若いが、マラリアで高熱にうなされている。
「……彼ら1万人が戻れば、1万人の『経験』が残る。
米軍の火力の凄まじさ、ジャングルでの生存術。
……それは、新兵を10万人徴兵するより価値がある『情報』だ」
坂上は、薫に向き直った。
「彼らを内地へ戻せ。
温泉で療養させ、飯を食わせろ。
回復したら、彼らを教官にして、新兵を教育させる。
……『精神論では死ぬ』という真実を、骨の髄まで叩き込ませるんだ」
翌日。ラバウル方面司令部。
撤退を終えた安堵感など微塵もなく、会議室は怒号に包まれていた。
「……撤退だと!? 恥を知れ!」
内地から視察に来た陸軍参謀が、机を叩いて喚き散らしていた。
「ガダルカナルを放棄するなど、陛下の赤子(せきし)を見殺しにするも同然!
今すぐ兵力を再編し、奪還作戦を行うべきだ!」
現地の指揮官たちは、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。
彼らは知っているのだ。米軍の圧倒的な火力を。これ以上突っ込めば、今度こそ全滅することを。
「……うるさいな」
坂上が、部屋の隅から声を上げた。
「……何だと、貴様!」
「奪還? 夢を見るな」
坂上は、ラバウルの地図の上に、ドサリと書類の束を置いた。
「これが、ソロモン海域における航空消耗率のデータだ。
……制空権は失われた。
輸送船の沈没率は80%を超えている。
これ以上、南に戦線を広げれば、ラバウルさえ維持できなくなる」
坂上は、地図上に一本の赤い線を引いた。
マリアナ諸島(サイパン、グアム)から、トラック諸島、そしてパラオを結ぶライン。
「『絶対国防圏』だ」
坂上は宣言した。
「ここから外は、捨てる」
「捨てる!? 貴様、売国奴か!」
「捨てる勇気がなければ、守ることはできん!」
坂上が一喝した。
「ソロモン、ニューギニア……これらは単なる『遅滞陣地』だ。
米軍を出血させ、足止めするための捨て石だ。
……本命の防衛ラインは、この赤い線の内側に作る」
坂上は、陸軍参謀を睨みつけた。
「精神論で塹壕(ざんごう)は掘れん。
……俺が必要としているのは、貴官らの『勇気』ではない。
『コンクリート』と『ブルドーザー』だ」
昭和18年春。
坂上真一は、日本の戦争の形を、根本から変えようとしていた。
それは、「土木工事」という名の戦争だった。
「……小松製作所、日立製作所。
国内の建機メーカーを総動員しろ」
坂上は、東京の技術院で命令を下していた。
「陸軍が満州の開拓に使っているブルドーザー、ショベルカー、ダンプトラック。
……全て徴用し、南方の島々へ送れ」
「しかし、それでは満州の食料生産が……」
「飛行場がなければ、日本中が焼け野原になるぞ!」
史実の日本軍は、飛行場建設を「ツルハシとモッコ」による人力頼みで行っていた。
数千人の兵士が汗水垂らして数ヶ月かかる滑走路を、米軍はブルドーザー数台で数日で完成させた。
この「土木力の差」こそが、制空権の差に直結していた。
「……設営隊(せつえいたい)を機械化する」
坂上は、新しい編成表を見せた。
「『海軍機械化設営隊』。
彼らに最新の重機を与え、絶対国防圏の島々を『不沈空母』に変える。
……サイパンを、硫黄島を、コンクリートで固めろ。
地下要塞を掘れ。
米軍が上陸してきた時、絶望するほどの『迷宮』を作り上げろ」
坂上の指令により、内地から続々と重機が積み出されていった。
兵器ではない。ただの建設機械だ。
だが、それはゼロ戦や大和以上に、これからの「守りの戦争」において、決定的な意味を持つ武器だった。
「……間に合うでしょうか」
薫が、積み込みを待つブルドーザーの列を見て呟く。
「……ギリギリだ」
坂上は、南の空を見上げた。
「アメリカの『反攻』のスピードは、俺たちの想像を超えてくる。
……急げ。
コンクリートが乾く前に、奴らが来るぞ」
昭和18年(1943年)2月。
南太平洋、ガダルカナル島沖。
夜の帳(とばり)が下りた海を、駆逐艦の群れが音もなく滑るように進んでいた。
「ケ号作戦」、最終段階。
それは、日本軍が初めて経験する、大規模な「戦略的撤退」だった。
「……レーダー感度、良好」
駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」の艦橋で、艦長が緑色のスコープを覗き込む。
「敵魚雷艇、接近中。……方位110、距離5000」
かつてなら、闇夜からの奇襲に怯え、照明弾を打ち上げて位置を暴露していただろう。
だが今は、後方のラバウル基地を経由し、大和CICからのデータリンクが届いている。
「……右砲戦、用意」
艦長が静かに命じる。
「……撃ち方、始め(テッ)!」
ズドン!
正確なレーダー射撃が、暗闇の中の米軍魚雷艇を粉砕した。
米軍側は混乱する。「なぜ見えている?」「日本軍は夜目が効きすぎる!」
その隙に、海岸では痩せ衰えた兵士たちが、最後の力を振り絞って大発(上陸用舟艇)に乗り込んでいた。
泥と、糞尿と、死臭にまみれた敗残兵たち。
だが、彼らは生きていた。
ラバウル基地。
早乙女薫は、桟橋でその光景を見ていた。
駆逐艦から降りてくる兵士たちは、もはや人間というより、幽鬼だった。
肋骨が浮き出た体。虚ろな目。
彼らの多くは、自分の足で歩くことさえできず、担架で運ばれていく。
「……これが、現実」
薫は、ハンカチで口元を押さえた。
勇ましい大本営発表の裏にある、補給を軽視した結果がこれだ。
「……泣くな、薫君」
隣に立った坂上真一が、冷徹に言った。
「彼らは『生還』した。それが全てだ」
坂上は、担架で運ばれる兵士の一人を見た。
まだ若いが、マラリアで高熱にうなされている。
「……彼ら1万人が戻れば、1万人の『経験』が残る。
米軍の火力の凄まじさ、ジャングルでの生存術。
……それは、新兵を10万人徴兵するより価値がある『情報』だ」
坂上は、薫に向き直った。
「彼らを内地へ戻せ。
温泉で療養させ、飯を食わせろ。
回復したら、彼らを教官にして、新兵を教育させる。
……『精神論では死ぬ』という真実を、骨の髄まで叩き込ませるんだ」
翌日。ラバウル方面司令部。
撤退を終えた安堵感など微塵もなく、会議室は怒号に包まれていた。
「……撤退だと!? 恥を知れ!」
内地から視察に来た陸軍参謀が、机を叩いて喚き散らしていた。
「ガダルカナルを放棄するなど、陛下の赤子(せきし)を見殺しにするも同然!
今すぐ兵力を再編し、奪還作戦を行うべきだ!」
現地の指揮官たちは、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。
彼らは知っているのだ。米軍の圧倒的な火力を。これ以上突っ込めば、今度こそ全滅することを。
「……うるさいな」
坂上が、部屋の隅から声を上げた。
「……何だと、貴様!」
「奪還? 夢を見るな」
坂上は、ラバウルの地図の上に、ドサリと書類の束を置いた。
「これが、ソロモン海域における航空消耗率のデータだ。
……制空権は失われた。
輸送船の沈没率は80%を超えている。
これ以上、南に戦線を広げれば、ラバウルさえ維持できなくなる」
坂上は、地図上に一本の赤い線を引いた。
マリアナ諸島(サイパン、グアム)から、トラック諸島、そしてパラオを結ぶライン。
「『絶対国防圏』だ」
坂上は宣言した。
「ここから外は、捨てる」
「捨てる!? 貴様、売国奴か!」
「捨てる勇気がなければ、守ることはできん!」
坂上が一喝した。
「ソロモン、ニューギニア……これらは単なる『遅滞陣地』だ。
米軍を出血させ、足止めするための捨て石だ。
……本命の防衛ラインは、この赤い線の内側に作る」
坂上は、陸軍参謀を睨みつけた。
「精神論で塹壕(ざんごう)は掘れん。
……俺が必要としているのは、貴官らの『勇気』ではない。
『コンクリート』と『ブルドーザー』だ」
昭和18年春。
坂上真一は、日本の戦争の形を、根本から変えようとしていた。
それは、「土木工事」という名の戦争だった。
「……小松製作所、日立製作所。
国内の建機メーカーを総動員しろ」
坂上は、東京の技術院で命令を下していた。
「陸軍が満州の開拓に使っているブルドーザー、ショベルカー、ダンプトラック。
……全て徴用し、南方の島々へ送れ」
「しかし、それでは満州の食料生産が……」
「飛行場がなければ、日本中が焼け野原になるぞ!」
史実の日本軍は、飛行場建設を「ツルハシとモッコ」による人力頼みで行っていた。
数千人の兵士が汗水垂らして数ヶ月かかる滑走路を、米軍はブルドーザー数台で数日で完成させた。
この「土木力の差」こそが、制空権の差に直結していた。
「……設営隊(せつえいたい)を機械化する」
坂上は、新しい編成表を見せた。
「『海軍機械化設営隊』。
彼らに最新の重機を与え、絶対国防圏の島々を『不沈空母』に変える。
……サイパンを、硫黄島を、コンクリートで固めろ。
地下要塞を掘れ。
米軍が上陸してきた時、絶望するほどの『迷宮』を作り上げろ」
坂上の指令により、内地から続々と重機が積み出されていった。
兵器ではない。ただの建設機械だ。
だが、それはゼロ戦や大和以上に、これからの「守りの戦争」において、決定的な意味を持つ武器だった。
「……間に合うでしょうか」
薫が、積み込みを待つブルドーザーの列を見て呟く。
「……ギリギリだ」
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