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鬼神と月兎
EP 1
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『鬼神と月兎』
第一章:鬼神、兎を拾う
アスファルトの照り返しが強い、春の午後。都会の喧騒は、鬼神龍魔呂きしんたつまろにとって日常の一部と化していた。かつて「死を呼ぶ四番」と呼ばれた傭兵時代の殺気は鳴りを潜め、数年にわたる鬼神流の修練は、彼の佇まいに静かな威圧感を与えつつも、どこか凪いだような雰囲気すら纏わせていた。だが、それは水面に映る月のようなもの。心の奥底、決して癒えることのない弟の喪失と、世界への静かな怒りは、今もなお澱のように沈んでいる。
その日、龍魔呂は目的もなく街を歩いていた。相棒のガジェットが結婚し、自身も道場での立場が変わる中で、ふと手持ち無沙汰になったのかもしれない。思考は、昨日ガジェットが置いていった最新型のスマートフォンに向けられていた。便利さよりも、煩わしさが先に立つ代物だ。そんなことを考えていた、その時だった。
けたたましいブレーキ音と、大型トラックのクラクション。歩行者信号が点滅を始め、人々が足を速める中、小さな白い影が車道に取り残されているのが見えた。車の間をすり抜けようとしたのだろうか、白い毛玉のようなそれは、迫り来る巨大な鉄塊を前に立ち尽くしている。
小さな、白い兎だった。
次の瞬間、龍魔呂は動いていた。思考ではない。反射だ。かつて戦場で培われた、あるいはもっと根源的な、守るべきものへの衝動。空気を裂くように踏み込み、地面を蹴る。周囲の時間が引き伸ばされたかのように感じられる中、彼はトラックのバンパーが兎を捉える寸前にその場に到達し、驚きに目を丸くする兎を、壊れ物を扱うように柔らかく、しかし素早く抱え上げた。そのまま身体を翻し、歩道に着地する。背後を、トラックが轟音と共に走り抜けていった。
「……チッ」
舌打ち一つ。腕の中の兎は、恐怖で小さく震えている。温かく、柔らかな命の感触。それが龍魔呂の記憶の琴線に微かに触れた。面倒なものを拾ってしまった、と思いながら腕から降ろそうとした、その時。
「あ、ありがとうございます……!強き、お方……!」
高く、しかし凛とした少女の声が響いた。声の主は、腕の中の兎。赤い瞳が、不安と安堵、そして強い意志を湛えて龍魔呂を見上げていた。
「……喋る兎か。珍しいな」
龍魔呂は感情の読めない声で応じた。
「は、はい!わたくしはユイと申します!異世界アストリアより参りました、月兎族の者です!」
兎――ユイは、震えを抑えながらも、懸命に言葉を続けた。故郷アストリアが魔王の脅威に晒されていること。世界を救う希望とされる「勇者ダイチ」を守るために、助力を求めてこの世界へ来たこと。そして、強い力を持つ協力者を探していたこと。
「あなたの『音』を聞きました。とても強く、揺るぎなく…そして、とても深い悲しみの音……。でも、その底には、温かくて、誰かを守ろうとする優しい響きがあるのを、わたくしの耳は聞き取りました。あなた様なら、きっと……!」
ユイは身を乗り出すようにして懇願した。
「どうか、わたくし達の世界を救うため、勇者ダイチ様をお守りするため、あなた様のお力をお貸しください!」
異世界。勇者。魔王。まるで子供向けの絵本のような単語の羅列に、龍魔呂は鼻白んだ。関わるだけ時間の無駄だ。そう切り捨てようとした。だが、できなかった。
ユイの必死な眼差し。小さな身体から発せられる、使命感に満ちた気配。「勇者」を「守る」という、その言葉の響き。それらが、彼の心の奥底、硬く閉ざしたはずの扉を軋ませる。守れなかった弟の姿。あの日の無力感。もし、違う運命があったなら。もし、失ったものを取り戻せる世界があるのなら――。
そんな都合の良い話があるはずがない。だが、万に一つ、億に一つでも。
龍魔呂は、足元のコンクリートに視線を落とし、長く息を吐いた。そして、再びユイに向き直る。その瞳には、自嘲とも、諦念とも、あるいは新たな道への微かな好奇心ともつかない、複雑な光が宿っていた。
「……いいだろう。案内しろ」
その一言に、ユイの表情がぱっと輝いた。
第二章:異世界アストリア
「本当ですか!?ありがとうございます、龍魔呂様!」
ユイの感謝の言葉と共に、彼女の小さな身体(まだ兎の姿だ)から、温かく柔らかな光が溢れ出した。光は急速に周囲に広がり、龍魔呂の全身を包み込む。視界が純白に染まり、身体がふわりと浮き上がるような、あるいはどこかへ強く引かれるような不思議な感覚。時空が歪むような感覚の後、光はゆっくりと収まっていった。
次に目を開けた時、龍魔呂を包んでいたのは、見慣れた都会の喧騒ではなかった。
どこまでも高く広がる、抜けるような青空。遠くには雪を頂いた雄大な山脈が連なり、近くには鬱蒼とした森が広がっている。足元は柔らかな土と草。空気は澄み切り、草と木々の匂いが鼻腔をくすぐる。少し離れた場所には、石造りの壁に囲まれた、中世ヨーロッパ風の街並みが見えた。
「……ここが、アストリアか」
龍魔呂は呟きながら、警戒を解くことなく周囲を見渡した。
「はい!わたくしの故郷です!」
隣から、先ほどよりも少し低い、落ち着いた少女の声がした。見ると、そこにはもう兎の姿はない。白い簡素なワンピースを纏い、亜麻色の髪からはぴょこんと愛らしい兎の耳が覗いている。大きな瞳は期待と不安に揺れていた。人間の少女の姿だが、その耳が彼女が人ならざる者――月兎族であることを示している。
「改めて、鬼神龍魔呂様。わたくしは月兎族のユイと申します。この度は、わたくしの無理なお願いを聞き入れてくださり、本当にありがとうございます」
ユイは深々と頭を下げた。
「あなたの『音』は、やはり間違いありませんでした。とても強く、そして…わたくしなどが軽々しく触れてはいけないような、深い悲しみと怒りを抱えていらっしゃる…。それでも、根底にある優しさの響きが、わたくしには聞こえます」
龍魔呂はユイの言葉に答えず、ただ黙って前方の街を見据えた。自分の内面を見透かすような彼女の能力は、少々厄介だと感じた。
「それで? その勇者とやらはどこにいる」
「それが…まだ詳しい居場所までは…。わたくしがこちらへ来る直前に、勇者ダイチ様は何者かに連れ去られそうになり、その混乱の中で、わたくしはダイチ様を案じながらも、助力を求めるために龍魔呂様のいる世界へ飛ばされてしまったのです」
ユイは俯き、耳をしゅんとさせた。
「ですから、まずはダイチ様の行方を探さなくてはなりません。あちらの街で情報を集めましょう」
ユイが指さす街は、活気があるようにも見えるが、どこか物々しい雰囲気も漂っている。城壁の上には武装した兵士の姿が見え、街へ入る門も固く閉じられているように見えた。
「世界は魔王の侵攻によって、日に日に混乱を深めています。人々も疑心暗鬼になっているかもしれません。どうか、お気をつけください」
龍魔呂は無言で頷くと、街へ向かって歩き出した。面倒なことに巻き込まれた、という思いは変わらない。だが、彼の心の中では、既に新たな戦いの予感が、静かに、しかし確実に胎動を始めていた。失われた過去を取り戻すためではない。ただ、目の前の少女の願いと、守るべき勇者の存在が、彼の止まっていた時間を再び動かし始めたのかもしれなかった。
第一章:鬼神、兎を拾う
アスファルトの照り返しが強い、春の午後。都会の喧騒は、鬼神龍魔呂きしんたつまろにとって日常の一部と化していた。かつて「死を呼ぶ四番」と呼ばれた傭兵時代の殺気は鳴りを潜め、数年にわたる鬼神流の修練は、彼の佇まいに静かな威圧感を与えつつも、どこか凪いだような雰囲気すら纏わせていた。だが、それは水面に映る月のようなもの。心の奥底、決して癒えることのない弟の喪失と、世界への静かな怒りは、今もなお澱のように沈んでいる。
その日、龍魔呂は目的もなく街を歩いていた。相棒のガジェットが結婚し、自身も道場での立場が変わる中で、ふと手持ち無沙汰になったのかもしれない。思考は、昨日ガジェットが置いていった最新型のスマートフォンに向けられていた。便利さよりも、煩わしさが先に立つ代物だ。そんなことを考えていた、その時だった。
けたたましいブレーキ音と、大型トラックのクラクション。歩行者信号が点滅を始め、人々が足を速める中、小さな白い影が車道に取り残されているのが見えた。車の間をすり抜けようとしたのだろうか、白い毛玉のようなそれは、迫り来る巨大な鉄塊を前に立ち尽くしている。
小さな、白い兎だった。
次の瞬間、龍魔呂は動いていた。思考ではない。反射だ。かつて戦場で培われた、あるいはもっと根源的な、守るべきものへの衝動。空気を裂くように踏み込み、地面を蹴る。周囲の時間が引き伸ばされたかのように感じられる中、彼はトラックのバンパーが兎を捉える寸前にその場に到達し、驚きに目を丸くする兎を、壊れ物を扱うように柔らかく、しかし素早く抱え上げた。そのまま身体を翻し、歩道に着地する。背後を、トラックが轟音と共に走り抜けていった。
「……チッ」
舌打ち一つ。腕の中の兎は、恐怖で小さく震えている。温かく、柔らかな命の感触。それが龍魔呂の記憶の琴線に微かに触れた。面倒なものを拾ってしまった、と思いながら腕から降ろそうとした、その時。
「あ、ありがとうございます……!強き、お方……!」
高く、しかし凛とした少女の声が響いた。声の主は、腕の中の兎。赤い瞳が、不安と安堵、そして強い意志を湛えて龍魔呂を見上げていた。
「……喋る兎か。珍しいな」
龍魔呂は感情の読めない声で応じた。
「は、はい!わたくしはユイと申します!異世界アストリアより参りました、月兎族の者です!」
兎――ユイは、震えを抑えながらも、懸命に言葉を続けた。故郷アストリアが魔王の脅威に晒されていること。世界を救う希望とされる「勇者ダイチ」を守るために、助力を求めてこの世界へ来たこと。そして、強い力を持つ協力者を探していたこと。
「あなたの『音』を聞きました。とても強く、揺るぎなく…そして、とても深い悲しみの音……。でも、その底には、温かくて、誰かを守ろうとする優しい響きがあるのを、わたくしの耳は聞き取りました。あなた様なら、きっと……!」
ユイは身を乗り出すようにして懇願した。
「どうか、わたくし達の世界を救うため、勇者ダイチ様をお守りするため、あなた様のお力をお貸しください!」
異世界。勇者。魔王。まるで子供向けの絵本のような単語の羅列に、龍魔呂は鼻白んだ。関わるだけ時間の無駄だ。そう切り捨てようとした。だが、できなかった。
ユイの必死な眼差し。小さな身体から発せられる、使命感に満ちた気配。「勇者」を「守る」という、その言葉の響き。それらが、彼の心の奥底、硬く閉ざしたはずの扉を軋ませる。守れなかった弟の姿。あの日の無力感。もし、違う運命があったなら。もし、失ったものを取り戻せる世界があるのなら――。
そんな都合の良い話があるはずがない。だが、万に一つ、億に一つでも。
龍魔呂は、足元のコンクリートに視線を落とし、長く息を吐いた。そして、再びユイに向き直る。その瞳には、自嘲とも、諦念とも、あるいは新たな道への微かな好奇心ともつかない、複雑な光が宿っていた。
「……いいだろう。案内しろ」
その一言に、ユイの表情がぱっと輝いた。
第二章:異世界アストリア
「本当ですか!?ありがとうございます、龍魔呂様!」
ユイの感謝の言葉と共に、彼女の小さな身体(まだ兎の姿だ)から、温かく柔らかな光が溢れ出した。光は急速に周囲に広がり、龍魔呂の全身を包み込む。視界が純白に染まり、身体がふわりと浮き上がるような、あるいはどこかへ強く引かれるような不思議な感覚。時空が歪むような感覚の後、光はゆっくりと収まっていった。
次に目を開けた時、龍魔呂を包んでいたのは、見慣れた都会の喧騒ではなかった。
どこまでも高く広がる、抜けるような青空。遠くには雪を頂いた雄大な山脈が連なり、近くには鬱蒼とした森が広がっている。足元は柔らかな土と草。空気は澄み切り、草と木々の匂いが鼻腔をくすぐる。少し離れた場所には、石造りの壁に囲まれた、中世ヨーロッパ風の街並みが見えた。
「……ここが、アストリアか」
龍魔呂は呟きながら、警戒を解くことなく周囲を見渡した。
「はい!わたくしの故郷です!」
隣から、先ほどよりも少し低い、落ち着いた少女の声がした。見ると、そこにはもう兎の姿はない。白い簡素なワンピースを纏い、亜麻色の髪からはぴょこんと愛らしい兎の耳が覗いている。大きな瞳は期待と不安に揺れていた。人間の少女の姿だが、その耳が彼女が人ならざる者――月兎族であることを示している。
「改めて、鬼神龍魔呂様。わたくしは月兎族のユイと申します。この度は、わたくしの無理なお願いを聞き入れてくださり、本当にありがとうございます」
ユイは深々と頭を下げた。
「あなたの『音』は、やはり間違いありませんでした。とても強く、そして…わたくしなどが軽々しく触れてはいけないような、深い悲しみと怒りを抱えていらっしゃる…。それでも、根底にある優しさの響きが、わたくしには聞こえます」
龍魔呂はユイの言葉に答えず、ただ黙って前方の街を見据えた。自分の内面を見透かすような彼女の能力は、少々厄介だと感じた。
「それで? その勇者とやらはどこにいる」
「それが…まだ詳しい居場所までは…。わたくしがこちらへ来る直前に、勇者ダイチ様は何者かに連れ去られそうになり、その混乱の中で、わたくしはダイチ様を案じながらも、助力を求めるために龍魔呂様のいる世界へ飛ばされてしまったのです」
ユイは俯き、耳をしゅんとさせた。
「ですから、まずはダイチ様の行方を探さなくてはなりません。あちらの街で情報を集めましょう」
ユイが指さす街は、活気があるようにも見えるが、どこか物々しい雰囲気も漂っている。城壁の上には武装した兵士の姿が見え、街へ入る門も固く閉じられているように見えた。
「世界は魔王の侵攻によって、日に日に混乱を深めています。人々も疑心暗鬼になっているかもしれません。どうか、お気をつけください」
龍魔呂は無言で頷くと、街へ向かって歩き出した。面倒なことに巻き込まれた、という思いは変わらない。だが、彼の心の中では、既に新たな戦いの予感が、静かに、しかし確実に胎動を始めていた。失われた過去を取り戻すためではない。ただ、目の前の少女の願いと、守るべき勇者の存在が、彼の止まっていた時間を再び動かし始めたのかもしれなかった。
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