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鬼神と月兎
EP 22
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鬼神の眠りと、残された者たち
盗賊団「赤牙」の最後の一人が絶命してから、どれほどの時間が経っただろうか。
水車の街・アクアブルックの中央広場は、死の匂いと、血の静寂に支配されていた。解放されたはずの街に、歓喜の声はない。家々の窓から恐る恐る顔を覗かせた住民たちは、目の前の惨状と、その中心で力尽き、崩れ落ちた龍魔呂の姿に、ただ恐怖で立ち尽くすだけだった。
「…ひどい…」
震えるダイチの声が、その沈黙を破った。ユイの腕の中からそっと顔を上げた彼は、目の前の光景から目を逸らすことができなかった。あれは、自分が知っている龍魔呂さんじゃない。でも、あの人があんな風になってしまったのは…。
ダイチの脳裏に、母親を斬られて泣き叫ぶ少女の姿が焼き付いて離れない。あの慟哭が、この地獄を招いたのだと、彼は直感的に理解していた。
「…全員、我に返れ!」
その場の空気を切り裂いたのは、ダイヤの鋭い声だった。彼女は、自らの頬を強く張り、無理やり平静を取り戻していた。
「負傷者の救護! 街の安全確保を急げ! そして…」
ダイヤは、地面に倒れ伏す龍魔呂へと、複雑な視線を向けた。
「…彼を、街の宿屋へ。丁重に運べ」
その命令に、部下の騎士たちは一瞬ためらった。あの怪物を? という無言の問いが、彼らの顔に浮かんでいる。
「団長の命令が聞けんのか!」
ダイヤが一喝すると、騎士たちは慌てて数人がかりで、ぐったりとした龍魔呂の身体を担ぎ上げた。その身体は、あれだけの闘気を放っていたのが嘘のように、今はただ重く、冷たい。
宿屋の一室。ベッドに横たえられた龍魔呂は、静かに寝息を立てていた。その寝顔は、鬼神でも、死神でもなく、ただの傷ついた少年のように、どこか幼く見えた。しかし、その額には玉のような汗が浮かび、時折、苦悶の表情でうなされている。悪夢に囚われているのは明らかだった。
部屋には、ダイチとユイ、そしてダイヤの三人がいた。重い沈黙が、三人を支配している。
「…あれは、一体何なのだ?」
最初に口を開いたのは、ダイヤだった。その声は、騎士団長としての威厳を失い、純粋な問いかけとして響いた。
「あの男は、一体、何なのだ…?」
ユイは、眠る龍魔呂の顔を見つめながら、静かに答えた。
「あの人の中には…とても深くて、悲しい『鬼』がいます。普段は、龍魔呂様自身の強い意志で、それを心の奥底に封じているのですが…」
彼女は、言葉を選びながら続ける。
「子供の、あの、悲しい声が…その封印を、壊してしまったんだと思います。あの状態の彼は、もう、龍魔呂様自身にも止められない…」
ダイヤは、その言葉を黙って聞いていた。鬼。まさに、言い得て妙だ。だが、それは、魔族のような生まれついての悪ではない。あまりにも深い悲しみが作り出した、後天的な、呪いのようなもの。
彼女の脳裏に、宰相の冷酷な言葉が蘇る。『毒をもって毒を制す』。帝国の上層部は、この男のこの危険な本質を、理解した上で利用しようとしていたのか。
その時、ずっと黙っていたダイチが、おずおずと動いた。彼は、水差しと布を持ってくると、ベッドの傍らに座り、龍魔呂の額の汗を、そっと拭い始めた。
「ダイチ様…!?」
ユイが驚きの声を上げる。あれほどの恐怖を味わったのに、なぜ。
「…怖かった」
ダイチは、手を止めずに、ぽつりと呟いた。
「すごく、怖かった。でも…」
彼は、苦しそうに眠る龍魔呂の顔を見つめる。
「…でも、あの時の龍魔呂さん、なんだか、すごく苦しそうだったから。泣いてるみたいだったから…」
僕が勇者なのに、とダイチは思う。僕がしっかりしていれば、あのお母さんも傷つかなかった。あの女の子も、泣かなかった。そうすれば、龍魔呂さんがあんな風になることもなかった。
全て、自分のせいだ。
罪悪感と、そして、この人を助けたいという、純粋な思い。それが、彼の恐怖を上回っていた。
ダイヤは、その光景を、ただ、言葉もなく見つめていた。
勇者のくせに、と最初は思った。あまりにも非力で、気弱で、理想ばかりを口にする子供だと。
しかし、今、目の前にいるのは、恐怖を乗り越え、自らを救ってくれた「怪物」を、その優しさで包み込もうとしている、紛れもない「勇者」の姿だった。
その夜、ダイヤは聖都の宰相へ、定期報告の書状を書いた。
『――水車の街・アクアブルックを占拠せし盗賊団「赤牙」を、鬼神龍魔呂の助力により、これを殲滅。街の解放に成功せり。鬼神は、その戦闘において、ある種の強力な秘術を行使。代償として、現在は魔力枯渇により昏睡状態にあり――』
彼女は、筆を止めた。そして、書いた一文を、インクで塗りつぶす。「Death4」への変貌については、一切触れない。それは、報告義務の違反。帝国への、ささやかな反逆だった。
彼女は、ペンを置き、窓の外の月を見上げた。
私の任務は、勇者ダイチ様を守ること。そして、その勇者が守りたいと願うものを、守ること。それが、騎士としての、私の新たな誓いだ。
この日、水車の街で流れた血と涙は、四人のバラバラだった心を、一つの、危険で、そして切実な秘密で固く結びつけた。
彼らの旅は、もはや帝国の思惑の下にあるのではない。
彼ら自身の、意志の旅へと、その意味合いを、静かに変えようとしていた。
盗賊団「赤牙」の最後の一人が絶命してから、どれほどの時間が経っただろうか。
水車の街・アクアブルックの中央広場は、死の匂いと、血の静寂に支配されていた。解放されたはずの街に、歓喜の声はない。家々の窓から恐る恐る顔を覗かせた住民たちは、目の前の惨状と、その中心で力尽き、崩れ落ちた龍魔呂の姿に、ただ恐怖で立ち尽くすだけだった。
「…ひどい…」
震えるダイチの声が、その沈黙を破った。ユイの腕の中からそっと顔を上げた彼は、目の前の光景から目を逸らすことができなかった。あれは、自分が知っている龍魔呂さんじゃない。でも、あの人があんな風になってしまったのは…。
ダイチの脳裏に、母親を斬られて泣き叫ぶ少女の姿が焼き付いて離れない。あの慟哭が、この地獄を招いたのだと、彼は直感的に理解していた。
「…全員、我に返れ!」
その場の空気を切り裂いたのは、ダイヤの鋭い声だった。彼女は、自らの頬を強く張り、無理やり平静を取り戻していた。
「負傷者の救護! 街の安全確保を急げ! そして…」
ダイヤは、地面に倒れ伏す龍魔呂へと、複雑な視線を向けた。
「…彼を、街の宿屋へ。丁重に運べ」
その命令に、部下の騎士たちは一瞬ためらった。あの怪物を? という無言の問いが、彼らの顔に浮かんでいる。
「団長の命令が聞けんのか!」
ダイヤが一喝すると、騎士たちは慌てて数人がかりで、ぐったりとした龍魔呂の身体を担ぎ上げた。その身体は、あれだけの闘気を放っていたのが嘘のように、今はただ重く、冷たい。
宿屋の一室。ベッドに横たえられた龍魔呂は、静かに寝息を立てていた。その寝顔は、鬼神でも、死神でもなく、ただの傷ついた少年のように、どこか幼く見えた。しかし、その額には玉のような汗が浮かび、時折、苦悶の表情でうなされている。悪夢に囚われているのは明らかだった。
部屋には、ダイチとユイ、そしてダイヤの三人がいた。重い沈黙が、三人を支配している。
「…あれは、一体何なのだ?」
最初に口を開いたのは、ダイヤだった。その声は、騎士団長としての威厳を失い、純粋な問いかけとして響いた。
「あの男は、一体、何なのだ…?」
ユイは、眠る龍魔呂の顔を見つめながら、静かに答えた。
「あの人の中には…とても深くて、悲しい『鬼』がいます。普段は、龍魔呂様自身の強い意志で、それを心の奥底に封じているのですが…」
彼女は、言葉を選びながら続ける。
「子供の、あの、悲しい声が…その封印を、壊してしまったんだと思います。あの状態の彼は、もう、龍魔呂様自身にも止められない…」
ダイヤは、その言葉を黙って聞いていた。鬼。まさに、言い得て妙だ。だが、それは、魔族のような生まれついての悪ではない。あまりにも深い悲しみが作り出した、後天的な、呪いのようなもの。
彼女の脳裏に、宰相の冷酷な言葉が蘇る。『毒をもって毒を制す』。帝国の上層部は、この男のこの危険な本質を、理解した上で利用しようとしていたのか。
その時、ずっと黙っていたダイチが、おずおずと動いた。彼は、水差しと布を持ってくると、ベッドの傍らに座り、龍魔呂の額の汗を、そっと拭い始めた。
「ダイチ様…!?」
ユイが驚きの声を上げる。あれほどの恐怖を味わったのに、なぜ。
「…怖かった」
ダイチは、手を止めずに、ぽつりと呟いた。
「すごく、怖かった。でも…」
彼は、苦しそうに眠る龍魔呂の顔を見つめる。
「…でも、あの時の龍魔呂さん、なんだか、すごく苦しそうだったから。泣いてるみたいだったから…」
僕が勇者なのに、とダイチは思う。僕がしっかりしていれば、あのお母さんも傷つかなかった。あの女の子も、泣かなかった。そうすれば、龍魔呂さんがあんな風になることもなかった。
全て、自分のせいだ。
罪悪感と、そして、この人を助けたいという、純粋な思い。それが、彼の恐怖を上回っていた。
ダイヤは、その光景を、ただ、言葉もなく見つめていた。
勇者のくせに、と最初は思った。あまりにも非力で、気弱で、理想ばかりを口にする子供だと。
しかし、今、目の前にいるのは、恐怖を乗り越え、自らを救ってくれた「怪物」を、その優しさで包み込もうとしている、紛れもない「勇者」の姿だった。
その夜、ダイヤは聖都の宰相へ、定期報告の書状を書いた。
『――水車の街・アクアブルックを占拠せし盗賊団「赤牙」を、鬼神龍魔呂の助力により、これを殲滅。街の解放に成功せり。鬼神は、その戦闘において、ある種の強力な秘術を行使。代償として、現在は魔力枯渇により昏睡状態にあり――』
彼女は、筆を止めた。そして、書いた一文を、インクで塗りつぶす。「Death4」への変貌については、一切触れない。それは、報告義務の違反。帝国への、ささやかな反逆だった。
彼女は、ペンを置き、窓の外の月を見上げた。
私の任務は、勇者ダイチ様を守ること。そして、その勇者が守りたいと願うものを、守ること。それが、騎士としての、私の新たな誓いだ。
この日、水車の街で流れた血と涙は、四人のバラバラだった心を、一つの、危険で、そして切実な秘密で固く結びつけた。
彼らの旅は、もはや帝国の思惑の下にあるのではない。
彼ら自身の、意志の旅へと、その意味合いを、静かに変えようとしていた。
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