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第二章 世一と結
EP 10
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それでも月は綺麗だから
阿久津興業への転職から、一ヶ月が経った。
俺の生活は、劇的に……いや、革命的に変わっていた。
「主(あるじ)! いや、月神部長! こちらの決裁をお願いします!」
「ああ、そこ置いといてくれ」
オフィスは清潔で、空調は完璧。
部下たちは優秀で、俺を「伝説のヘッドハンティング枠」として尊敬の眼差しで見てくる。
パワハラもなければ、サービス残業もない。定時になれば、社長である阿久津が「主! さっさと帰って姫様とイチャついてください!」と追い出してくるホワイト企業だ。
「お疲れ様です、世一様」
そして、隣にはいつも彼女がいる。
俺の専属秘書となった結(ゆい)だ。
テキパキと仕事をこなしながら、俺にお茶を出す時だけ、こっそりと小指が触れるような距離感で微笑んでくる。
「……ああ、お疲れ」
俺は苦笑しながら、PCを閉じた。
世界を統べる王? 経済界のフィクサー?
そんな大層なものにならなくても、俺は今、人生で一番満たされていた。
◇
帰り道。
都心の喧騒を離れ、二人は並んで夜道を歩いていた。
冬の空気が澄んでいる。
俺はポケットから電子タバコを取り出し、深く吸い込んだ。
水蒸気が白く揺らめき、街灯の光に溶けていく。
「世一様」
結が、遠慮がちに俺のコートの裾を摘んだ。
「……今の生活、退屈ではありませんか?」
「ん?」
「貴方様は本来、もっと自由で、荒々しくて……世界を全て壊してしまうほどの力をお持ちの方です。こんな、ちっぽけなサラリーマンの枠に収まるような器では……」
彼女は不安そうに俯いた。
俺がいつか、この平穏に飽きてしまうのではないか。
前世のような「悪党」としての血が騒ぎ出すのではないか。そんな恐れを抱いているようだった。
俺は足を止めた。
そして、夜空を見上げた。
「……あ」
そこには、一ヶ月前のあの日と同じ、透き通るような満月が浮かんでいた。
「なぁ、結」
「はい」
「俺は、前の俺のことなんて、実はほとんど覚えてねえんだよ」
俺は煙を吐き出しながら、淡々と語った。
「世界を壊したとか、神を殴ったとか。正直、今の俺にはピンとこない。俺はただの、運が悪くて、要領も悪い、月神世一っていう人間だ」
「世一様……」
「でもな。そんな俺でも、一つだけ分かってることがある」
俺は振り返り、結に向き直った。
彼女の濡羽色の瞳が、月光を反射して揺れている。
「俺は、世界なんかより、今のこの生活の方が気に入ってる」
「え……」
「美味い飯があって、ふかふかの布団があって。……隣にお前がいて、こうして月を見て『綺麗だ』って笑い合える。これ以上の幸せなんて、どこにあるんだよ」
神のいない世界。
誰かに与えられる「楽園」ではなく、自分たちの足で歩き、手に入れた、ささやかで温かい日常。
それが、元・破壊者と元・女神が辿り着いた、本当の答えだった。
「だから、俺は王様になんてならねえ。ただの、お前に惚れた男として生きていく」
俺は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「……ま、お前が嫌じゃなけりゃの話だけどな」
沈黙。
次の一瞬、俺は温かい衝撃に包まれた。
「うっ……うぅ……っ!」
結が俺の胸に飛び込み、しがみついてきたのだ。
「嫌なわけ、ありません……! 嬉しい……嬉しいです……!」
彼女の涙が、俺のコートに染みていく。
「貴方様が貴方様である限り……いえ、世一様がどこにいようと、そこが私の世界の全てです。愛しています。数千年前よりも、もっと深く……!」
俺は苦笑して、彼女の背中に腕を回した。
華奢だけど、芯の強い体温。
もう二度と、この手を離しはしない。
俺たちはしばらく抱き合った後、ゆっくりと体を離した。
結は涙を拭い、満開の花のような笑顔を見せた。
そして、二人でもう一度、空を見上げた。
「世一様」
「ん」
「月が、綺麗ですね」
それはかつて、彼女が俺を見つけた時の言葉。
でも今は、違う響きを持っていた。
再会の合図ではなく、未来への約束の言葉として。
「……ああ。死んでもいいくらいにな」
俺は文学青年ぶった返しをして、彼女の手を握った。
その手は温かく、強く握り返された。
神はいなくとも、俺たちの歩く道は明るい。
月が、優しく俺たちを照らしていたから。
阿久津興業への転職から、一ヶ月が経った。
俺の生活は、劇的に……いや、革命的に変わっていた。
「主(あるじ)! いや、月神部長! こちらの決裁をお願いします!」
「ああ、そこ置いといてくれ」
オフィスは清潔で、空調は完璧。
部下たちは優秀で、俺を「伝説のヘッドハンティング枠」として尊敬の眼差しで見てくる。
パワハラもなければ、サービス残業もない。定時になれば、社長である阿久津が「主! さっさと帰って姫様とイチャついてください!」と追い出してくるホワイト企業だ。
「お疲れ様です、世一様」
そして、隣にはいつも彼女がいる。
俺の専属秘書となった結(ゆい)だ。
テキパキと仕事をこなしながら、俺にお茶を出す時だけ、こっそりと小指が触れるような距離感で微笑んでくる。
「……ああ、お疲れ」
俺は苦笑しながら、PCを閉じた。
世界を統べる王? 経済界のフィクサー?
そんな大層なものにならなくても、俺は今、人生で一番満たされていた。
◇
帰り道。
都心の喧騒を離れ、二人は並んで夜道を歩いていた。
冬の空気が澄んでいる。
俺はポケットから電子タバコを取り出し、深く吸い込んだ。
水蒸気が白く揺らめき、街灯の光に溶けていく。
「世一様」
結が、遠慮がちに俺のコートの裾を摘んだ。
「……今の生活、退屈ではありませんか?」
「ん?」
「貴方様は本来、もっと自由で、荒々しくて……世界を全て壊してしまうほどの力をお持ちの方です。こんな、ちっぽけなサラリーマンの枠に収まるような器では……」
彼女は不安そうに俯いた。
俺がいつか、この平穏に飽きてしまうのではないか。
前世のような「悪党」としての血が騒ぎ出すのではないか。そんな恐れを抱いているようだった。
俺は足を止めた。
そして、夜空を見上げた。
「……あ」
そこには、一ヶ月前のあの日と同じ、透き通るような満月が浮かんでいた。
「なぁ、結」
「はい」
「俺は、前の俺のことなんて、実はほとんど覚えてねえんだよ」
俺は煙を吐き出しながら、淡々と語った。
「世界を壊したとか、神を殴ったとか。正直、今の俺にはピンとこない。俺はただの、運が悪くて、要領も悪い、月神世一っていう人間だ」
「世一様……」
「でもな。そんな俺でも、一つだけ分かってることがある」
俺は振り返り、結に向き直った。
彼女の濡羽色の瞳が、月光を反射して揺れている。
「俺は、世界なんかより、今のこの生活の方が気に入ってる」
「え……」
「美味い飯があって、ふかふかの布団があって。……隣にお前がいて、こうして月を見て『綺麗だ』って笑い合える。これ以上の幸せなんて、どこにあるんだよ」
神のいない世界。
誰かに与えられる「楽園」ではなく、自分たちの足で歩き、手に入れた、ささやかで温かい日常。
それが、元・破壊者と元・女神が辿り着いた、本当の答えだった。
「だから、俺は王様になんてならねえ。ただの、お前に惚れた男として生きていく」
俺は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「……ま、お前が嫌じゃなけりゃの話だけどな」
沈黙。
次の一瞬、俺は温かい衝撃に包まれた。
「うっ……うぅ……っ!」
結が俺の胸に飛び込み、しがみついてきたのだ。
「嫌なわけ、ありません……! 嬉しい……嬉しいです……!」
彼女の涙が、俺のコートに染みていく。
「貴方様が貴方様である限り……いえ、世一様がどこにいようと、そこが私の世界の全てです。愛しています。数千年前よりも、もっと深く……!」
俺は苦笑して、彼女の背中に腕を回した。
華奢だけど、芯の強い体温。
もう二度と、この手を離しはしない。
俺たちはしばらく抱き合った後、ゆっくりと体を離した。
結は涙を拭い、満開の花のような笑顔を見せた。
そして、二人でもう一度、空を見上げた。
「世一様」
「ん」
「月が、綺麗ですね」
それはかつて、彼女が俺を見つけた時の言葉。
でも今は、違う響きを持っていた。
再会の合図ではなく、未来への約束の言葉として。
「……ああ。死んでもいいくらいにな」
俺は文学青年ぶった返しをして、彼女の手を握った。
その手は温かく、強く握り返された。
神はいなくとも、俺たちの歩く道は明るい。
月が、優しく俺たちを照らしていたから。
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