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ブルースターの色彩
華村ビルの人々 -3-
しおりを挟む悠太の喫茶店の前で足を止める。
『喫茶カノン』という、コーヒーの卸業者から提供されたであろう古びた立看板が目に入った。
いつも花音が『悠太くんの喫茶店』と呼んでいたので、店の名前までは知らなかったが、喫茶カノンというからには花音がオーナーなのだろう。
咲は蔦に侵略されたビルの外壁を眺めた。祖母の時代に建築された建物なら、築五〇年近いはずだ。
元は白かったであろう外壁は薄汚れ、ところどころにある小さなヒビは白いモルタルで補修されていた。それが余計にヒビを目立たせ、ボロさを強調するための手段のように思えた。
それでも五〇年も前にこのビルを築けたのだから、華村家はそれなりの資産家なのかもしれない。
そんなことを考えながら、新しいオレンジ色の木のドアを開ける。チリンと可愛いらしいベルの音が鳴った。
「あ、咲さん」
カウンターでコーヒーを淹れていた悠太が咲に気づいて、人懐っこい笑みを浮かべる。
「あの、花音さんと待ち合わせをしていて」
「それなら、こちらの席へどうぞ」
悠太は入口から左側、カウンター向かいの二人掛け席を勧めた。
「ありがとうございます」と礼を述べ、咲は椅子へと腰かけた。
「どういたしまして」と返し、悠太は再び元の作業に戻る。店内にはお客さんらしい人影は見えないから、自分用のコーヒーを淹れているのかもしれない。
やがて悠太は淹れ終えたコーヒーを、口広のコーヒーカップへと注いだ。
それから、金属製のミルクピッチャーに牛乳を注ぎ、エスプレッソマシーンでスチームし、ブレンダーで泡立てる。
それで準備が整ったのだろう。フゥッと大きく息を吐き出すと、左手にコーヒーカップ、右手に金属製のミルクピッチャーを構えた。
「もしかして、ラテアート?」
「あ、はい、一応そうなんですけど……」
咲をチラリと一瞥してから、悠太は再び視線を両手に戻した。
ミルクピッチャーから、カップへと細くミルクを垂らす。
そのミルクをカップの半分まで注いだところで、悠太はピッチャーとカップにの距離を縮めていく。
悠太の口が真一文字に結ばれた。ここからが難しいところなのかもしれない。
ゆっくり注いでいたミルクに勢いをつけ、何やら丸い模様が浮かんで来たところで、注ぎ口をまっすぐ移動させて、完成。の予定なのだろうが。
「ああ……」
悠太から情けない声が漏れた。
「また、失敗です」とガックリと肩を落とす。
そして、「良かったら、これ飲んでください」と咲のテーブルの上にカップを置いた。
カップの中には、かろうじてハートとわかる模様が描かれていた。
「ハート、ですか?」
はい、としょんぼりと悠太が答えた。
「僕、絵心がないようで。何度やっても上手く描けないんですよね」
たしかに、絵心はないのかもしれないが。
「一生懸命でいいと思います」
「咲さん……」
悠太の目がキランと輝いた。
「メニュー開発とかラテアートとか、新しいことに精力的に挑戦していて、偉いと思います」
咲の言葉に、悠太は「ありがとうございます」と瞳を潤ませた。
「あれ? でも、それって……」と悠太は何かに気がついたようだ。
「絵のことはフォローしてないですよね」
「あ、ごめんなさい」
咲は苦笑いを浮かべた。
「いいんです。咲さんが励ましてくるだけで嬉しいです」
悠太は無邪気に笑った。
「実はラテアートは凛太郎さんに言われて挑戦してみたんですけど」
「凛太郎さん?」
思いがけず、飛び出した凛太郎の名前に咲は眉を顰めた。
「ええ。ここの三階に住んでいる方です」
「知ってます。もうお会いしました」
さっきのことを思い出して、ついキツい言い方になってしまう。なので、悠太はある程度を察したようだった。
「そうですよね。初めはびっくりしますよね」と笑った。
「びっくりというか、あまりに失礼すぎて」
「たしかに、口が悪いですもんね」と悠太は胸の前で腕を組み、渋面を作った。
「僕、初対面でチビ呼ばわりされましたから」
たしかに彼なら言いそうなセリフである。
「咲さんは?」
「え?」
「咲さんは何を言われたんですか?」
悠太の問いに咲は言葉を詰まらせた。
「あ、すみません。余計なこと聞いて」
空気を察した悠太が謝辞を述べた。
「でも、凛太郎さんって、意外と面倒見がいいんですよ」と凛太郎のフォローを始める。
「そうなんですか?」
「なんだかんだで、兄貴肌みたいな性分らしくて。困っている人をほっとけないようです」
ふーん、と咲はカフェラテを口に含んだ。
「あ、美味しい」
そうでしょ、と悠太は満足げに笑った。
「絵心はイマイチでも、味には自信がありますから」と胸を張る。
「そのラテアートも、凛太郎さんに『新規顧客を開拓したい』って相談したら、提案してくれたんです」
「ラテアートで新規顧客?」
「はい。この喫茶店、花音さんのお祖母さんの時代からのお客さんが多くて、顧客年齢が高めなんです」
つまり喫茶店は元々花音さんのお祖母さまが切り盛りしていたわけだ。
「だから、若者を取り込もうということで、ラテアートをSNSで発信してみたらどうかってなりまして」
「ああ、それで」
「そうなんです」
でも、なかなか上手くいかなくて、と悠太はしょんぼり肩を落とした。
「まだ、SNSで紹介できていないんです」と眉尻を下げた。
「こんなに頑張っているんだから、きっと上手になりますよ」
そうだといいんですけど、と悠太はシュンとする。
「でないと、凛太郎さんが毎日のようにやって来て、プレッシャーをかけてくるから、辛いんです」
あ、そっち、と咲は心の中でツッコミを入れた。
「それにしても、SNSを活用することを思いつくなんて、凛太郎さんは広告関係のお仕事でもしてるんですか?」
咲は気を取り直して尋ねた。
「いえ、IT関係です。とはいっても、今は広告もITを駆使しているから大差ない、とは言ってましたけど」
「IT関係……」
あの大きな身体でパソコンの前に座り、キーボードを打つ姿が想像できなかった。
「ホームページもお任せしてます」
「もしかして、花音さんのホームページも?」
「はい。凛太郎さんが作ってます」
咲は驚いて目を見張った。
『アトリエ花音』のホームページはいかにも女子受けしそうな、ふわふわ系の可愛らしいデザインだった。凛太郎のイメージとはどこをどうやっても結びつかない。
一体、どんな顔をして作っているのだろうと想像して、咲は一人可笑しくなった。
そこへ、入口ドアのベルが鳴る。
「咲ちゃん、お待たせ」
花音がドアから顔を覗かせた。
「花音さん」
「すごく盛り上がっているみたいだね」
花音は二人の様子を眺めて、うんうん、と嬉しそうだ。
「悠太くん、咲ちゃんの相手してくれて、ありがとう」と悠太に礼を述べる。
悠太は、どういたしまして、とペコリとお辞儀をした。
「じゃあ、咲ちゃん出かけようか」
花音はニコリと笑い、手招きした。
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