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水仙の誘惑
水仙の誘惑 -3-
しおりを挟む「そうですね……」
花音は考えを巡らせ、チラリと時計の文字盤を確認した。それから視線を文乃に移し、「──今、三月ですよね」と問いかけた。
「そうね、三月ね」
文乃が不機嫌そうに応じる。
「たしか、菜摘さんの出産予定日と文乃さんの出産予定日は近いということでしたが……」
「ええ」と文乃が短く言葉を返す。
「ということは、菜摘さんの妊娠が発覚したのは、今年に入ってから。──ですよね?」
花音は菜摘に視線を移し、同意を求めた。菜摘は目を伏せたまま、コクリと頷いた。
「それが、どうしたの?」
再び文乃が不機嫌そうに合いの手を入れる。
花音は困ったように顔を歪めた。
「──実は、冬にその情報を知り得たとしても、ニラを育てることはできないのです」と肩をすくめた。
「どうして?」
「ニラの苗は、五月から六月頃に出回るのが一般的です。冬に苗を手に入れるのは難しいのです」
それなら、と文乃はまだ納得がいかないらしい。
「種から育てたのよ」と花音を睨みつけた。
すっかり文乃の中で、自分は敵になってしまったようだ。花音は苦笑した。
「確かに種から育てたのかもしれませんが、それでもやはり無理があるのです」
「無理?」
「そうです。ニラは冬の時期は休眠期になるので、いくら種を蒔いても、育たないのです」
「育たない……」
「もしかしたら、お家の中で育てられているのかもしれないですが……ただ、文乃さんの話では庭の手入れをされていたとのことでしたので、それも考えにくいです」
一つ一つ論理立てて説明をされ、文乃は押し黙る。
花音は菜摘を真っ直ぐに視線で捉え、呼びかけた。菜摘はピクリと肩を動かし、オズオズと顔を上げる。その顔面にはもはや血の気がない。
「もしかしてこれは『水仙の葉』ではないでしょうか?」
菜摘は視線を彷徨わせ、やがて「はい」と力なく頷いた。
「……そのとおりです。水仙の葉です」
その目には観念の色が浮かんでいた。
「だけど間違ったのよね?」
それでも文乃は菜摘を助け舟を出す。
「……だって、水仙の葉とニラはよく似ているんでしょう?」
縋るように花音を見つめた。
文乃の否定してもらいたい気持ちは理解できる。だが、その期待には到底応えられそうにない。
花音はユルユルと首を振った。
「残念ながら、今の時期、それはありえないのです」
「……ありえない?」
文乃が引きつった顔で花音を見つめた。
はい、と花音は申し訳なく、頷く。
「──今の時期、水仙は花を咲かせています。ニラと水仙の葉を間違えるのは、花のない時期の話で、花が咲いていたら、流石に見分けることはできるでしょう?」
文乃の顔からはみるみる血の気が引いていく。
「ですから、菜摘さんが水仙の葉を文乃さんに渡したのは故意的だとしか考えられないのです」
花音はそう結論づけ、口を閉じた。
重い沈黙が場を占め、場違いな明るい曲調のBGMが耳につく。
「……そうよ」
その沈黙を打ち破り、菜摘が嘲た笑みを浮かべる。
「華村さんの言うとおり、私、わざと文乃さんに水仙の葉を渡したの」
「そんな……」
文乃は困惑したように菜摘を見つめた。それから「どうして?」と辛うじて声を絞り出し、尋ねる。
「──憎かったから」
冷ややかに、菜摘が告げた。
「幸せそうな顔を晒して笑っている、あなた達が憎かった」
「あなた達……?」
焦点の合わない目で、文乃が菜摘を見つめた。
「そう。妊婦なら誰でもよかったの。たまたま文乃さんが通りかかっただけ」
産院に隣接する住居からは、否が応でも幸せそうな妊婦が目につくのだろう。
それがどんなに酷なことか。
時間と共に薄れていくはずの感情は、そんな状況では柔らぐことはなく、段々と募っていった妬みが、少しずつ心を追い詰めていったことは想像に難くない。
──しかし、だからと言って、今回の行為は許されるべきことではない。
「……それで、少しは気持ち晴れましたか?」
花音が蔑むように菜摘を見つめる。
「気持ちなんて、晴れるわけがないでしょ」
菜摘は目を伏せた。
「そうでしょうね。──あなたと同じになっていませんからね」
花音は口の端を歪め、辛辣な言葉を吐いた。
周りの空気がピーンと貼った糸のように張り詰めた。
「そんなつもりは」と菜摘は激しくかぶりを振り、顔を上げた。
「そんなつもりはなくても、あなたのされたことは一歩間違えると犯罪です」
花音は容赦なく厳しい言葉を浴びせる。菜摘の瞳が大きく揺らいだ。
わかっています、と菜摘は肩を落とし、項垂れた。
「……でも、あまりにも不公平で」
「不公平?」
花音の片眉がピクリと動いた。
「──では、文乃さんがあなたと同じ状況になれば、公平になるのでしょうか?」
口調は平坦だが、激しい怒りが目の奥に見えた。
「それとも、死を持って贖わなければ、公平にはならないのでしょうか?」
「……死、って?」
『死』という言葉に、菜摘の目が大きく見開かれる。
花音は呆れたようにため息を漏らし、ご存知ないのですね、と目を細めた。
「──海外では誤って水仙の葉を食べ、亡くなられた事例があるのです」
「亡くなった……?」
菜摘の顔がみるみる青ざめていく。彼女は激しくかぶりを振った。
「そんなっ。そんなつもりはっ。……ただ、ちょっと苦しめばいいのにって。本当に、それだけです」
菜摘は必死に弁明の言葉を並べた。
「それで?」
対照的に花音は冷めた目を菜摘に向ける。
「え?」
「苦しんだ文乃さんと、傷でも舐め合おうとしましたか?」
容赦のない言葉を投げつけた。
「それとも、優越感に浸ろうとでも?」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「それが、あなたの言う公平というものなのでしょうか?」
明らかに怒気の入り混じった声で、花音が揶揄した。
「もういい、やめてっ」
悲壮な声で文乃が花音を制止する。
それでようやく花音は、目の前の状況に気がついたようだった。青ざめた顔でカタカタと小刻みに肩を震わせている菜摘を憐れむように見つめた。
「大丈夫?」
文乃がその肩を優しく抱き寄せる。
菜摘はゆっくりと文乃を見上げると、「……ごめんなさい」と声を絞り出し、謝辞を述べた。
一筋の涙が頬を伝い、テーブルの上へとこぼれ落ちた。
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