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一章 ユリア公爵令嬢
三十二 綺羅星ユリア公爵令嬢
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おそらくこれだろうとユリアの直感がひらめいた。
綺羅星の神様だ。
近づいていくほどにユリアの中の血が沸くようであった。この神様に見つけてほしいと自分の血が訴えている……。
髪に紅色をもつ綺羅星公爵家の血。母のように真紅の髪の毛ではないものの、ユリアの中にも衝動が受け継がれていた。
ふと、想像が巡る。
お母様はどうして縁の遠いお父様と結婚をしたのだろう。彼女がわがままをいえば貴族の血をわずかに引くだけのダンサーのお父様とも結婚できたのだろうけど、それだけだろうか。ユリアたちの髪には銀色がかなり混ざってしまっている。紅色だけの髪にしたくなかったのではないだろうか。
猫がこれまでふんばってくれたのは血の紅さに染まりきらないこと。
その二つは似ているように思えた。
守られなくてはいけないほどの何かがあったのだ、と勘づいてしまった。
それに関わることができる身分も、未来がかいまみえるメガネも与えられてしまっている。
もしかしたら不幸になるのかもしれないわ、とユリアは思った。
けれど、不幸になるかなんてわからないじゃないの、とも思った。
そう思わないと、先に進んでいくばかりのこの足が、不安で不安で、心がくじけそうだったからだ。
猫たちのことを思い出してもふしぎな引力には敵わずに、前に、前に、進んでしまう。それを、しょうがないか、とだけは思うまいと、ユリアは抵抗をしていた。
「進みたくないらしい」
「誰? 助けてちょうだいよ」
「そんなこと言えるんだ」
「だって、なんだかとても、嫌なんだもの。綺羅星公爵家に借りを作ってもいいくらい。これはだめよ」
「あんた自身に価値はないのか」
「──」
すぐには返事ができなかった。自分に価値があると信じきれていないし、もし価値があるとすればそれは猫や周りの人が作ってくれた価値なのだろうから、渡してしまえないと思った。お人形として作られた自分のことならば嫌いだったから、差し出してしまってもいいと言ったかもしれない。とすれば、ユリアは今の自分のことを前よりは好きになっているらしい。
それを守るために助けてほしいと口にしたのに、訳のわからない声に差し出したら意味がないから。
そういう気持ちでいたら、声の主はユリアの意志を読みとったようだ。
「ほら。これで止まるだろう」
足元のあたりに動物の淡い毛のような感触がある。
「ありがとう」
「公爵令嬢がお礼を言ってもいいのかよ」
「あなたはものしりなのね。この場所では心を隠しておくことはどうせできないらしいじゃない。どうせ伝わってしまうなら自分の口で言おうかしらって……。私は今人形の光のようになっているから、口というのは正しくないかもしれないけれど」
「そのように正しく伝えることが誠意だと信じているところが、あんたの生きづらいところなんだろうさ。嘘をつくのは物事をまろやかに収めるため、おべっかを使うのは気持ちのよい関係をつくるため。いちいち正しいことばかりで進めていこうとすれば対立が多くなって社交会がとっくに崩壊しているだろう」
「……そうなのよね。ところで、こんなにもここで誰かとおしゃべりするなんて思いもしなかった」
「そうでもないだろう。猫がいた。そのあとを任されたのが、オレだ」
現れたのは銀色の牙が並んだ輪っかのようだった。
それが半分にがちりとくっつけば、その歯の近くから鼻がわかり、目がわかり、毛むくじゃらの体がようやく見えていった。この暗闇とそっくりの色をしていたからそれが黒い狼のような獣だと気づくことに時間がかかったのだ。ユリアは本物の狼を見たことがない。それらしい獰猛な雰囲気の獣だと感じていた。
立った姿勢から座るように、ユリアは足を折り曲げた。
どうやらもう神様に近づいていくことはないと思ったのか黒い狼は離れていき、わずかに距離をあけて隣に座った。
「”あれ”はなに?」
「これからあんたが知っていくものだろう。現実で今から解き明かしていくんだよ。ああ、いい、口に出して俺に答えたりしなくてもいい。もしもその名前をここで声にしてしまったら、この場所に何かないかと探っているような奴らから、探知されてしまうかもしれないからな」
「探知されるのは”名称”だけなのかしら」
「神様というのは存在を名前によって成り立たせているからな。あの赤い花びらは現実で名前を呼ばれた回数の分だけ”あれ”から現れてくる。ほとんどは周りに落ちていく前に消えてしまう。想いがこもっていないからだ。想いがこもっている紅いのは周りに溜まっていく。それもまたいつか消えてしまうが、それまではあそこに溜まって泉のようになる」
「なんだかへその泉みたい。湖ほどにはならなくて、水たまりよりは大きいくらいの存在なのかしら」
「さあな」
猫の代わりをしてくれるといっただけあり、この黒い狼もそれほどの情報は教えてくれないようだ。
「教えてちょうだい。あなたのことを。あなたにも私を助けていいことがあるのかしら」
「どうしてそんなことを聞くんだ」
「助けてくれたから」
ユリアは自分のことをひとつ理解した。
ノブリス・オブリージュ……助けてくれた存在を知り、助けようとしたいのだ。
「あるかもな」
はぐらかしてあくびをした黒い獣は、ユリアをつきとばした。
獣ってどうしてこういうところがあるのかしら! とユリアは思う。
前に目覚めたときにもユリアはこうして猫につきとばされたのだ。これは悪夢から……もう呼びやすいからそのように続けることにするが……遠ざかるための儀式か何かなのだろうか。
高いところから落ちるような感覚。
そしてユリアのまぶたを日の光が優しくもあやしく照らす。
目を覚ましたら、泣いていなかったから悪夢ではない。
ユリアは起きてすぐに執事のダンの姿をみつけた。
ということはここは別荘なのだろう。
そう思って周りを見渡してみれば、やはりそうだ。品のいい家具がそろっていてどれもよく手入れされている。窓は開けられており春の風がすこし熱くなったのが吹き込んでくる。カーテンが揺れて桜の香りがここまで届くかのようだった。
そうだ。桜咲く入学式はどうなっただろうか。
嫌な予感を胸に抱えながら、ユリアはダンに尋ねた。
「おはよう。私が眠ってからどれくらいの時間が経っている?」
「一〇日です」
「やっぱり……。けれどそれくらいでせめてよかったかしら」
「それくらいでよかった、と。……。ときにユリアお嬢様。さきほど、泣いていなかったから悪夢ではないとおっしゃいましたが、悪夢を見たというご自覚があるのでしょうか」
「ほとんど覚えていないけれどね。なんとなくわかっていることもあるの。夢の中で感じたことが胸の中に残っているから、そこから感じ取れるものがわずかにあるわ。あれ、私って、泣いていなかったから……なんて言ったかしら」
「口に出ておりましたよ」
ユリアは口元を押さえた。失言に気をつけようと心に刻みながら、出されたハーブティを飲み、制服に着替えて、身支度をメアリたちに頼む。
するとメアリはたくさんの小包を抱えながら部屋に入ってきた。聞けば、それはなんとクラスメイトからの贈り物だというのだ。体調が回復しますように、などの言葉が並んでいる。
これまでそんなものをもらったこともなかったユリアは目のあたりにひどく力を入れないと涙が出てしまいそうだった。「あまり泣きすぎるとさすがにメイクも落ちてしまいますからね。お嬢様の涙には魔力が含まれていて、メイク道具の魔法を上書きしてしまいますから」とメアリが教える。
けれど、日光帝スバルのサインが入ったカードに「誕生日おめでとう。君も私も」と添えられているのを見つけたら、涙があふれてしまった。
「実は本日は学園はお休みなんです。ですからメイクを直して明日に備えることができますよ」
ユリアはハンカチを目元に当てながら、スケジュールを確認した。
ユリアはこれから11日遅れの王立学園復学となる。
そして授業と補習を受けながら、学園生活を送ってゆく。
その間は学業に専念して、綺羅星公爵家の仕事はしなくてもよい。余裕があれば兄たちのいる本館に足を運んでも構わない。しかし基本的にはこの別荘に帰ってくる。
日光シュラ王国の国土はイギリスと同程度の広さがあるが、その本拠点は王都周辺に集中しているため学園と別荘を毎日往復してもそれほどの負担にならない。
馬車を引くための専用の馬がもう別荘にやってきていて、窓から見れば赤毛の品のいい馬たちがゆうゆうと牧草を食べている。専用の餌箱が設けられており庭で散歩もできるようだ。
その馬の調教師であろう人もどこかのんびりとした雰囲気があり、それは別荘の雰囲気にあてられたからなのだろうとユリアは二杯目の冷まされたお茶を飲みながらひと息ついた。
綺羅星の神様だ。
近づいていくほどにユリアの中の血が沸くようであった。この神様に見つけてほしいと自分の血が訴えている……。
髪に紅色をもつ綺羅星公爵家の血。母のように真紅の髪の毛ではないものの、ユリアの中にも衝動が受け継がれていた。
ふと、想像が巡る。
お母様はどうして縁の遠いお父様と結婚をしたのだろう。彼女がわがままをいえば貴族の血をわずかに引くだけのダンサーのお父様とも結婚できたのだろうけど、それだけだろうか。ユリアたちの髪には銀色がかなり混ざってしまっている。紅色だけの髪にしたくなかったのではないだろうか。
猫がこれまでふんばってくれたのは血の紅さに染まりきらないこと。
その二つは似ているように思えた。
守られなくてはいけないほどの何かがあったのだ、と勘づいてしまった。
それに関わることができる身分も、未来がかいまみえるメガネも与えられてしまっている。
もしかしたら不幸になるのかもしれないわ、とユリアは思った。
けれど、不幸になるかなんてわからないじゃないの、とも思った。
そう思わないと、先に進んでいくばかりのこの足が、不安で不安で、心がくじけそうだったからだ。
猫たちのことを思い出してもふしぎな引力には敵わずに、前に、前に、進んでしまう。それを、しょうがないか、とだけは思うまいと、ユリアは抵抗をしていた。
「進みたくないらしい」
「誰? 助けてちょうだいよ」
「そんなこと言えるんだ」
「だって、なんだかとても、嫌なんだもの。綺羅星公爵家に借りを作ってもいいくらい。これはだめよ」
「あんた自身に価値はないのか」
「──」
すぐには返事ができなかった。自分に価値があると信じきれていないし、もし価値があるとすればそれは猫や周りの人が作ってくれた価値なのだろうから、渡してしまえないと思った。お人形として作られた自分のことならば嫌いだったから、差し出してしまってもいいと言ったかもしれない。とすれば、ユリアは今の自分のことを前よりは好きになっているらしい。
それを守るために助けてほしいと口にしたのに、訳のわからない声に差し出したら意味がないから。
そういう気持ちでいたら、声の主はユリアの意志を読みとったようだ。
「ほら。これで止まるだろう」
足元のあたりに動物の淡い毛のような感触がある。
「ありがとう」
「公爵令嬢がお礼を言ってもいいのかよ」
「あなたはものしりなのね。この場所では心を隠しておくことはどうせできないらしいじゃない。どうせ伝わってしまうなら自分の口で言おうかしらって……。私は今人形の光のようになっているから、口というのは正しくないかもしれないけれど」
「そのように正しく伝えることが誠意だと信じているところが、あんたの生きづらいところなんだろうさ。嘘をつくのは物事をまろやかに収めるため、おべっかを使うのは気持ちのよい関係をつくるため。いちいち正しいことばかりで進めていこうとすれば対立が多くなって社交会がとっくに崩壊しているだろう」
「……そうなのよね。ところで、こんなにもここで誰かとおしゃべりするなんて思いもしなかった」
「そうでもないだろう。猫がいた。そのあとを任されたのが、オレだ」
現れたのは銀色の牙が並んだ輪っかのようだった。
それが半分にがちりとくっつけば、その歯の近くから鼻がわかり、目がわかり、毛むくじゃらの体がようやく見えていった。この暗闇とそっくりの色をしていたからそれが黒い狼のような獣だと気づくことに時間がかかったのだ。ユリアは本物の狼を見たことがない。それらしい獰猛な雰囲気の獣だと感じていた。
立った姿勢から座るように、ユリアは足を折り曲げた。
どうやらもう神様に近づいていくことはないと思ったのか黒い狼は離れていき、わずかに距離をあけて隣に座った。
「”あれ”はなに?」
「これからあんたが知っていくものだろう。現実で今から解き明かしていくんだよ。ああ、いい、口に出して俺に答えたりしなくてもいい。もしもその名前をここで声にしてしまったら、この場所に何かないかと探っているような奴らから、探知されてしまうかもしれないからな」
「探知されるのは”名称”だけなのかしら」
「神様というのは存在を名前によって成り立たせているからな。あの赤い花びらは現実で名前を呼ばれた回数の分だけ”あれ”から現れてくる。ほとんどは周りに落ちていく前に消えてしまう。想いがこもっていないからだ。想いがこもっている紅いのは周りに溜まっていく。それもまたいつか消えてしまうが、それまではあそこに溜まって泉のようになる」
「なんだかへその泉みたい。湖ほどにはならなくて、水たまりよりは大きいくらいの存在なのかしら」
「さあな」
猫の代わりをしてくれるといっただけあり、この黒い狼もそれほどの情報は教えてくれないようだ。
「教えてちょうだい。あなたのことを。あなたにも私を助けていいことがあるのかしら」
「どうしてそんなことを聞くんだ」
「助けてくれたから」
ユリアは自分のことをひとつ理解した。
ノブリス・オブリージュ……助けてくれた存在を知り、助けようとしたいのだ。
「あるかもな」
はぐらかしてあくびをした黒い獣は、ユリアをつきとばした。
獣ってどうしてこういうところがあるのかしら! とユリアは思う。
前に目覚めたときにもユリアはこうして猫につきとばされたのだ。これは悪夢から……もう呼びやすいからそのように続けることにするが……遠ざかるための儀式か何かなのだろうか。
高いところから落ちるような感覚。
そしてユリアのまぶたを日の光が優しくもあやしく照らす。
目を覚ましたら、泣いていなかったから悪夢ではない。
ユリアは起きてすぐに執事のダンの姿をみつけた。
ということはここは別荘なのだろう。
そう思って周りを見渡してみれば、やはりそうだ。品のいい家具がそろっていてどれもよく手入れされている。窓は開けられており春の風がすこし熱くなったのが吹き込んでくる。カーテンが揺れて桜の香りがここまで届くかのようだった。
そうだ。桜咲く入学式はどうなっただろうか。
嫌な予感を胸に抱えながら、ユリアはダンに尋ねた。
「おはよう。私が眠ってからどれくらいの時間が経っている?」
「一〇日です」
「やっぱり……。けれどそれくらいでせめてよかったかしら」
「それくらいでよかった、と。……。ときにユリアお嬢様。さきほど、泣いていなかったから悪夢ではないとおっしゃいましたが、悪夢を見たというご自覚があるのでしょうか」
「ほとんど覚えていないけれどね。なんとなくわかっていることもあるの。夢の中で感じたことが胸の中に残っているから、そこから感じ取れるものがわずかにあるわ。あれ、私って、泣いていなかったから……なんて言ったかしら」
「口に出ておりましたよ」
ユリアは口元を押さえた。失言に気をつけようと心に刻みながら、出されたハーブティを飲み、制服に着替えて、身支度をメアリたちに頼む。
するとメアリはたくさんの小包を抱えながら部屋に入ってきた。聞けば、それはなんとクラスメイトからの贈り物だというのだ。体調が回復しますように、などの言葉が並んでいる。
これまでそんなものをもらったこともなかったユリアは目のあたりにひどく力を入れないと涙が出てしまいそうだった。「あまり泣きすぎるとさすがにメイクも落ちてしまいますからね。お嬢様の涙には魔力が含まれていて、メイク道具の魔法を上書きしてしまいますから」とメアリが教える。
けれど、日光帝スバルのサインが入ったカードに「誕生日おめでとう。君も私も」と添えられているのを見つけたら、涙があふれてしまった。
「実は本日は学園はお休みなんです。ですからメイクを直して明日に備えることができますよ」
ユリアはハンカチを目元に当てながら、スケジュールを確認した。
ユリアはこれから11日遅れの王立学園復学となる。
そして授業と補習を受けながら、学園生活を送ってゆく。
その間は学業に専念して、綺羅星公爵家の仕事はしなくてもよい。余裕があれば兄たちのいる本館に足を運んでも構わない。しかし基本的にはこの別荘に帰ってくる。
日光シュラ王国の国土はイギリスと同程度の広さがあるが、その本拠点は王都周辺に集中しているため学園と別荘を毎日往復してもそれほどの負担にならない。
馬車を引くための専用の馬がもう別荘にやってきていて、窓から見れば赤毛の品のいい馬たちがゆうゆうと牧草を食べている。専用の餌箱が設けられており庭で散歩もできるようだ。
その馬の調教師であろう人もどこかのんびりとした雰囲気があり、それは別荘の雰囲気にあてられたからなのだろうとユリアは二杯目の冷まされたお茶を飲みながらひと息ついた。
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