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一章 ユリア公爵令嬢

三十一 悪夢・改

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 包むような薄闇の中にいると気づく。

 ここは悪夢の中だっけ……とユリアは意識を花開いた。これまで何度も忘れてしまっており、しかしここに来れば「ああ悪夢だ」と思い出すような困ったところだ。

 ふと、悪夢という名称はふさわしいのだろうか? と疑問が浮かぶ。少なくとも苦しめられるだけの場所という印象は今はなかった。

 昔、ただただ今が怖かったけれど、未来に続く目標ができたことで今だけを怖がるようなことがなくなったらしい──。


 ユリアはしばらくたゆたっていた。
 このように静かな時間は最近では久しぶりだ。別荘にいるときのようにおだやかに時が流れている。その間にもたくさんの意思や情報がユリアの中をぐるぐると巡っている気配がある。これの整理をしたくて、必要な時間だった。


 どれくらいたっただろうか。

 視界のようなものの端に認知する、テレビ画面。日本のテレビの硬質な四角い灰色フレーム、有機ELディスプレイのやわらかな画面。
 しかしこの画面に傷ひとつないことがユリアは気になった。記憶にある日本のテレビというものは、傷がついていたからだ。長く家にあり雑に扱うものが家族だったから、テレビは傷だらけだったという確固たるイメージがある。それくらいテレビのことをよく観察していた。テレビ画面でプレイする乙女ゲームが好きだった。ばかみたいだと思いながら、愛について語られたら美しくて涙した。……そんなことをユリアはただただ覚えている。どこか遠くから俯瞰した記憶として。

 頭の中の騒動がおちついてきたので、白光のテレビ画面をよくよく見ようとしたら(白いイベントカードなのではないかしら)と気づき──すると、待ちかねたというように本来の姿があらわれた。

 光の王冠が描かれている。

【神々の記憶。これに近づきすぎて眠ってしまうあなた。たくさんの情報を受け入れすぎてしまい体がダウンした。
 もっと覗き込めば真相を知ることができるが、一年眠り続ける。遠ざかれば夢のことを忘れてしまうが、当日中に復帰できる。攻略対象キャラの好感度が高ければ回復をしてもらえる。好感度が普通ならば授業のノートを貸してもらえる。好感度が低ければいないものとして扱われる】

 またか、という気持ちになる。

 あまりにもリスクが高い。これはヒロインのための情報だが、神々に近づきすぎたものがくらう制裁なのだとすれば、ユリアにも同じ条件が返ってくるのだろう。

 しかしここまできて、守りに入るつもりはもうなかった。
 渦中から逃げ出すタイミングはとっくに逃しており、逃げるならば別荘で倒れたまま具合の悪いふりをしていたらよかったのだろうけど、従業員たちに助けられて猫の誘惑にのっかって、兄たちの前夜祭で顔を出して意見までしたのだから、それがユリアの結論なのだろう。……。……。……。

「知ったことを活かせるのかはわからないわ。けれど、ここまできて逃げてしまうのはどうにも嫌みたいなの」

 それでいいと猫ならば言ってくれるだろう。もしかしたら威嚇されるかもしれないが、それならばビスケットで交渉してでも、ユリアは挑戦してみたかったのだ。

 腹の底から湧き上がってくるもので体全体が熱くなる。意識だけが存在していたこの場所で、熱がユリアの体をかたどった。

 白いイベントカードに飛び込んでいった。

 すると見えているものが変わる。

 それは低い視点であった。
 野外の日光と青々とした草木。

 下を見れば小さな足、ささやかな素朴なスカートを穿いており、その裾を摘んで女の子の声が「どうしてこのように貧相な装いを!?」と文句を言っている。
 まるで自分が発したような気がしてユリアはびくびくとした。そんな乱暴な物言いをするなんて、と……。……。

 女の子の前に鏡が持って来られると、その姿は幼いユリア公爵令嬢であった。
 しかし、まるで悪役令嬢の幼少期のようなツンとした雰囲気をしている。

「いけないわ! 劇場支援団体から豪華すぎる装いだって苦情が入ったとしても、公爵家なんだから彼らと同等の服に落ち着いてしまってはだめ。つけあがってくるんだから。見た目が同じようだと、同じ目線から話し始めるものがいるんだもの。未来のトラブルになるんだから、絶対の絶対!」

 女の子は文句を機関銃のようにぶつけており、降参した従者が華やかな服を持ってきた。

 視線が変わると近くには小さな双子の男の子がいて、大人の男性の足に隠れているほど引っ込み思案な様子だ。彼らも地味な装いだったが、女の子に合わせられるように派手な服を持ってきてもらえばはにかんで喜んだ。明るい服を着たかったのに言い出せなかったのではないだろうか。
 男性の声で
「先見の明があるのだろうな」
 と言われると、
「知らへん!」
 ごまかす。周りにため息が満ちる。

 しかしこれは結果的に成功の道になることをユリアは知っている。

 劇場支援団体は先代公爵が亡くなったところから声をかけてきたのだが、その目的は、金銭支援をすること・ラブシャワーにより不安定な公爵家に取り入って、意のままに操ることであった。
 やがて才能あるノールとセーラが綺羅星劇場を盛りあげて再生を成し遂げたため、かの団体は付け入る隙をなくして離れていくしかなくなったのだが……それでも去り際に一悶着あった。

 その頃の処理の大変さを思い出すとユリアは今も身も震える思いである。

(どうしてあの子は、知らないってごまかすばかりなのかしら)

 想像がめぐる。

 ユリア公爵令嬢に綺羅星の神様が目をつけてしまい、加護を与えることで悪役令嬢になる未来を防ぐため──。

(猫ちゃん?)

 想像がめぐる。

(猫ちゃん……この体の幼いころに、ユリアとして生きていたのは、猫ちゃんの魂だったのかしら。それならばこれまでの距離感も筋がとおるもの。それにしてもどうして私にまで優しくしてくれたんだろう……。……。優しく教えてくれたわけではないけれど、私のための声だったもの)

 そこで激しい頭痛におそわれて、ユリアが伏せていた頭をまた持ち上げたときには、昔のみずみずしい風景は見つけられなくなってしまった。

(あなたは途中で諦めちゃったのかしら。綺羅星ユリアでいることを。
 私の記憶があるのは4歳の頃からで……そう……覚えていられるくらい体が成長してから、私の意識は、はじまっている。
 つらいことがあったから綺羅星ユリアでいることを諦めてしまったのか。それとも私のために譲ってくれたのか。どちらだろう。……。……でも、まだ、勝手に見てはいけないあなたの心だから遠ざけられたのね)

 心がぎゅうっと小さくなるような心地だ。

(これはイベントが示す神々の記憶ではない。猫ちゃんは神様ではないし、人の世にそんなにも直接的に関与してくる神様なんているはずがないのだから……。まだ、奥がありそうよ)

 ユリアは進んだ。

 薄闇の中に一人きりで歩いていくのは心細くて勇気がいる。かたく手を握る。自分の右手と左手だけど助け合うように手を組んで、胸の前に。

 紅色の魔力が蛍火のように飛び交いはじめて、それを追っていくと鎖が伸びているのを足元に見つけた。

 たどって歩いていく。

 視界にぼんやりと現れたのは、鎖に巻き付かれて身動きが取れなくなっている人型の紅色の光。はらはらと赤いものを撒き散らしているのは血のようだったが、光から溢れる薔薇の花びらである。


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