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王立芸術アカデミーの大ホールは、年に一度のデザインコンペが放つ独特の熱気に満ちていた。
磨き上げられた大理石の床に、天井から吊るされた巨大な魔晶石のシャンデリアが、万華鏡のような光の模様を投げかけている。
着飾った貴族たちの立てるさざ波のような会話と、幾種類もの香水の甘い香りが混じり合い、華やかで、どこか刺々しい緊張感が空気を満たしていた。
その喧騒の中を、セラフィナは背筋を伸ばし、静かな歩みで進んでいく。
彼女の隣には、忠実な侍女であり、今やアトリエ「アウラ」の敏腕マネージャーとして手腕を発揮し始めたクロエと、場違いな場所に連れてこられた無骨な熊のように、むっつりとした表情のギルバートが付き添っている。
「まあ……! セラフィナ様、見てください、この人だかり! まるで王宮の夜会みたいです……! 私たち、本当にここまで来たんですね……!」
クロエが感嘆の声を漏らす。
彼女の目には、目の前のすべてが信じがたい奇跡のように映っているのだろう。市場地区の安宿で凍えていた日々が、まるで遠い昔のことのようだ。
「けっ。見ろ、あの女のドレス。宝飾の重みで生地が泣いてるぞ。中身のねぇ連中ほど、ガワだけは一丁前に飾り立てやがる。反吐が出るわい」
ギルバートは、周囲のきらびやかな装飾には目もくれず、忌々しげに吐き捨てた。
彼の無骨な職人としての矜持が、中身のない虚飾に満ちた社交界を心の底から許せないのだ。
セラフィナは、そんな二人の対照的な反応に小さく微笑んだ。
彼女自身が纏うのは、自らデザインした一着。深いチャコールグレーのシルクが、体の動きに合わせてしなやかに流れる。
装飾は極限まで削ぎ落とされ、ただ襟元に寄せたドレープの陰影だけが、静謐な主張をしていた。
それは、これから披露される彼女の作品「フェニックス」の序曲であり、彼女自身の新たな決意の表明でもあった。
周囲から注がれる好奇の視線を感じる。「あれが噂の『アウラ』の……」「没落したヴァレンシア家の令嬢だろう?」「セバスチャン・モラン公爵が後援しているとか」「市場の工房風情が、このような晴れ舞台に立てるとはな」――囁き声は、賞賛と侮蔑が半々に混じった、複雑な響きを持っていた。
「セラフィナ」
穏やかで、それでいて芯の通った声に振り返ると、セバスチャン・モランが立っていた。
彼はいつものように、研究者のような実直さを感じさせる、しかし完璧に仕立てられたダークスーツを身に纏っている。彼の存在は、この華やかだがどこか浮ついた空間に、確かな重しを置くようだった。
「モラン公爵」
「不安かい? その必要はない。君の創り出したものが、君という人間の証明になる。……私は、それを誰よりも知っている」
セバスチャンの言葉は、魔術的な効果でもあるかのように、セラフィナの胸の奥にあったわずかな不安をすっと溶かしていく。
彼女は彼に深く頷き返した。
その時だった。まるで示し合わせたかのように、人垣が割れ、その中心にいる人物に道を開けた。
「あら、まあ。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですわね」
甲高い、鈴を転がすような声。しかし、その響きには隠しきれない棘が含まれている。
ヴィヴィアン・ルクレールが、ジュリアン・ベルフォートを伴って、勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。
今日の彼女は、金糸と銀糸をふんだんに織り込んだ、燃えるような真紅のドレスを身に纏っている。胸元や裾には、これでもかとばかりに大粒の宝石が縫い付けられ、彼女が動くたびにけばけばしい光を放った。
それは富と権力の誇示であり、成金趣味の見本市のようでもあった。
「ヴァレンシアの……あら失礼、もう『元』令嬢でしたわね。まだ王都の空気を吸っていらしたの? てっきり、どこぞの田舎で芋でも掘っているかと。それとも、やっと貧乏男爵様のもとへ嫁ぐ決心がつきましたの?」
ヴィヴィアンは、セラフィナの頭のてっぺんから爪先までを、品定めするような侮蔑的な視線でゆっくりと眺め回した。
「まあ、その地味なドレス! まるで喪服ですわね。ああ、そうでしたわ。あなたの『アトリエ』とやらは、古着を繕うのがお仕事でしたかしら? 誰かのお古を譲っていただいたの? お可哀想に。ジュリアン様とご一緒なら、メゾン・ヴァレリアーノの最新作だって着放題でしたのにねぇ」
その言葉に、周囲の貴族たちからくすくすという忍び笑いが漏れる。
ヴィヴィアンの言葉は、このコンペの権威ある舞台に、セラフィナは相応しくないという空気を巧みに作り出そうとしていた。
彼女の隣で、ジュリアンもまた、セラフィナに軽蔑の眼差しを向けていた。
「セラフィナ。その格好……それに、その隣にいる連中はなんだ。君も落ちぶれたものだな。市場で針子仕事など、もはや平民と変わらん。私がどれほど、君に貴族としての品位を保てと言ってきたか、忘れたわけではあるまい」
彼の声には、かつての婚約者への憐れみと、自分の選択が正しかったのだと再確認するような自己満足が滲んでいた。
彼は、セラフィナが自分の手の届かない場所へ行こうとしていることなど、想像すらできていない。
ただ、自分の価値観から外れた哀れな女、としか見ていなかった。
クロエが悔しさに唇を噛みしめ、ギルバートの眉間の皺がさらに深くなる。
セバスチャンが一歩前に出ようとしたのを、セラフィナは目線だけでそっと制した。
これは、彼女の戦いだ。
セラフィナは、嵐の中でも揺らがない大樹のように静かに立ち、そして、花が綻ぶように穏やかに微笑んだ。
「ごきげんよう、ルクレール様、ベルフォート様。そんなに熱心にご覧になって……わたくしのドレスが、よほどお気に召したようですわね。光栄ですこと」
その予想外の反応に、ヴィヴィアンが一瞬、言葉に詰まる。
「このドレスは『静寂』と名付けましたの。真の価値というものは、声高に飾り立てて叫ぶのではなく、静寂の中にこそ、深く、そして確かに輝くものだと、わたくしは信じておりますので」
その言葉は、ヴィヴィアンの派手なドレスと、それを纏う彼女自身の内面の空虚さを、暗に、しかし的確に射抜いていた。
数人の貴婦人が、思わずヴィヴィアンのドレスとセラフィナのドレスを見比べ、意味ありげな視線を交わす。
セラフィナは続けた。その声はあくまでも穏やかだったが、一本の鋼の芯が通っているかのような強さがあった。
「それに、わたくしたちの仕事は、単なる『お直し』ではございませんことよ。古き思い出を未来への輝きへと織り直す……持ち主様の心に寄り添う仕事ですわ。……思い出を慈しむ心や、未来を夢見る希望をお持ちでない方には、もしかしたら、その価値がお分かりになりにくいのかもしれませんわね」
それは、完璧なカウンターだった。感情的な罵倒ではなく、理知と哲学に裏打ちされた反論。
ヴィヴィアンの嘲笑は、一瞬にして、彼女自身の心の貧しさを露呈するだけの、品のない悪口へと成り下がった。
ヴィヴィアンの顔が、ドレスと同じくらい真っ赤に染まる。
「な……なんですって! この、没落令嬢が……!」
「そこまでにしていただこうか、ルクレール嬢。ここは芸術の価値を問う場だ。あなたのその金切り声は、少々場違いではないかな」
セバスチャンが、冷ややかに、しかし決定的な一言を放った。
その声の底にある絶対的な権威に、ヴィヴィアンはぐっと言葉を飲み込むしかなかった。彼女の家が金で買った爵位では、建国以来の歴史を持つモラン公爵家の当主には逆らえない。
ジュリアンは、目の前の光景が信じられないといった顔をしていた。
彼が知るセラフィナは、いつも従順で、彼の言うことに黙って頷くだけの、美しい人形だったはずだ。
今、彼の目の前にいるのは、王都で最も影響力のある公爵を背後に控えさせ、舌鋒鋭く敵をやり込める、まったく知らない女だった。
微かな戸惑いと、理解できない焦燥が彼の胸をよぎる。
空気は、完全に入れ替わっていた。
もはやセラフィナを嘲笑う者はいない。人々は好奇と、そしてどこか畏敬の念を込めて、この静かなる挑戦者を見つめていた。
やがて、コンペの開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。
審査は、伝統派のデザイナーから順に進んでいった。
ヴィヴィアンが後援するデザイナー、マダム・ロザリーの作品が紹介される番が来た。彼女はベルフォート公爵家の御用達でもあり、旧守派の貴婦人たちから絶大な支持を得ている人物だ。
テーマは「王家の栄光」。舞台に現れたドレスは、まさにそのテーマを体現していた。
重厚な金のブロケード、幾重にも重ねられたレース、そして巨大なルビーが散りばめられたコルセット。
壮麗で、豪華で、そして誰もがどこかで見たことのある、驚きのないデザインだった。
審査員たちの評価も、それを反映していた。
「伝統の重みを感じさせる、見事な一着ですな」
「まさに王道のデザイン。マダム・ロザリーの手腕は揺るぎない。安定感があります」
無難な賞賛の言葉が並ぶ。
ヴィヴィアンは満足げに頷き、セラフィナの方へ勝ち誇ったような視線を送った。
そして、ついにその時が来た。
「最後に、アトリエ『アウラ』代表、セラフィナ・ド・ヴァレンシア様の作品。『フェニックス』です!」
司会の声と共に、会場の照明がすっと落とされ、一本のスポットライトが舞台袖を照らした。
静寂の中、一人のモデルがゆっくりと歩み出てくる。
その瞬間、会場全体が息をのんだ。
ドレスは、セラフィナ自身が着ていたものと同じ、深いチャコールグレーを基調としていた。
しかし、その布地はまるで夜空そのものを織り込んだかのように、内側から微かな光を放っている。
モデルが歩くたびに、裾にあしらわれた、本物の羽のように軽やかな絹の飾りがふわりと舞い、まるで銀河の星屑を纏っているかのようだった。
モデルが舞台の中央で立ち止まり、ゆっくりとポーズを取った。
その胸に去来する感情に呼応するかのように、ドレスが色を変え始めた。
静かな自信が、ドレスを夜明け前の空のような淡い藤色に染める。
未来への希望が、朝焼けの光を思わせる柔らかな金色を浮かび上がらせる。
そして、燃え上がるような情熱が、ドレス全体を不死鳥の炎のような、鮮烈でありながら決して下品ではない、気品に満ちた真紅へと変貌させた。
それは、もはや衣服ではなかった。
着用者の魂そのものを映し出す、魔法のカンバスだった。
しばらく、誰もが声を発することができなかった。
ただ、目の前で繰り広げられる奇跡のような光景に、心を奪われていた。
やがて、審査員長である王立アカデミーの重鎮、アルバイン侯爵が、椅子から立ち上がる。
老侯爵は声を震わせていた。
「……これは、ドレスではない。詩だ。感情そのものを編み上げた、生きた叙事詩だ!」
別の審査員が続いた。
「馬鹿な……エーテル織のパターンを、着用者の生体マナに直接リンクさせただと? これほどの安定性と応答速度で……!? こんな術式、いかなる文献にも記されてはおらんぞ! まさに『新時代の夜明け』……いや、革命そのものではないか!」
「芸術と技術の、完璧にして奇跡的な融合……! 我々は今日、歴史の転換点に立ち会っているのかもしれん!」
もはや、審査の必要はなかった。
結果は誰の目にも明らかだった。
アルバイン侯爵が、高らかに宣言した。
「今年のグランプリは、満場一致で、アトリエ『アウラ』の『フェニックス』に決定!」
一瞬の静寂の後、会場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
それは、ただの勝利への賛辞ではなかった。旧い価値観を打ち破る、新しい時代の到来を歓迎する、熱狂的な歓声だった。
ヴィヴィアンは、血の気の引いた顔で唇をわななかせていた。
彼女の足元で、自らのプライドが木っ端微塵に砕け散る音が聞こえるようだった。
その隣で、ジュリアンはただ呆然と、喝采を浴びるセラフィナの姿を見つめていた。
彼が価値がないと断じ、捨て去った石ころが、今や王都で最も輝かしい至宝として、万人の賞賛を浴びている。
その信じがたい現実に、彼の思考は完全に停止していた。
セラフィナは、鳴りやまない拍手の中、静かに、そして深く一礼した。
顔を上げた彼女の視線が、客席で誇らしげに微笑むセバスチャンと交差する。
それは恋人たちの甘い視線ではなかった。共に戦い、困難を乗り越え、そして勝利を掴んだ同志だけが分かち合える、固い信頼と尊敬に満ちた眼差しだった。
彼女の公的な名誉回復の、輝かしい第一歩が、今ここに刻まれたのだ。
この歴史的な勝利の輝きは、王都の光が届かぬベルフォート公爵家の書斎にまで、魔導通信によって即座に届けられていた。
しかし、その光は祝福ではなく、排除すべき脅威の増大を告げる凶報として、冷たい瞳に映り込んでいた。
公爵アレクサンドル・デュマは、指先で静かに机を叩きながら、小さく、そして冷酷に呟いた。
「……予想以上に、育ちすぎたか。面白い。だが、雑草は根から断たねば意味がない」
磨き上げられた大理石の床に、天井から吊るされた巨大な魔晶石のシャンデリアが、万華鏡のような光の模様を投げかけている。
着飾った貴族たちの立てるさざ波のような会話と、幾種類もの香水の甘い香りが混じり合い、華やかで、どこか刺々しい緊張感が空気を満たしていた。
その喧騒の中を、セラフィナは背筋を伸ばし、静かな歩みで進んでいく。
彼女の隣には、忠実な侍女であり、今やアトリエ「アウラ」の敏腕マネージャーとして手腕を発揮し始めたクロエと、場違いな場所に連れてこられた無骨な熊のように、むっつりとした表情のギルバートが付き添っている。
「まあ……! セラフィナ様、見てください、この人だかり! まるで王宮の夜会みたいです……! 私たち、本当にここまで来たんですね……!」
クロエが感嘆の声を漏らす。
彼女の目には、目の前のすべてが信じがたい奇跡のように映っているのだろう。市場地区の安宿で凍えていた日々が、まるで遠い昔のことのようだ。
「けっ。見ろ、あの女のドレス。宝飾の重みで生地が泣いてるぞ。中身のねぇ連中ほど、ガワだけは一丁前に飾り立てやがる。反吐が出るわい」
ギルバートは、周囲のきらびやかな装飾には目もくれず、忌々しげに吐き捨てた。
彼の無骨な職人としての矜持が、中身のない虚飾に満ちた社交界を心の底から許せないのだ。
セラフィナは、そんな二人の対照的な反応に小さく微笑んだ。
彼女自身が纏うのは、自らデザインした一着。深いチャコールグレーのシルクが、体の動きに合わせてしなやかに流れる。
装飾は極限まで削ぎ落とされ、ただ襟元に寄せたドレープの陰影だけが、静謐な主張をしていた。
それは、これから披露される彼女の作品「フェニックス」の序曲であり、彼女自身の新たな決意の表明でもあった。
周囲から注がれる好奇の視線を感じる。「あれが噂の『アウラ』の……」「没落したヴァレンシア家の令嬢だろう?」「セバスチャン・モラン公爵が後援しているとか」「市場の工房風情が、このような晴れ舞台に立てるとはな」――囁き声は、賞賛と侮蔑が半々に混じった、複雑な響きを持っていた。
「セラフィナ」
穏やかで、それでいて芯の通った声に振り返ると、セバスチャン・モランが立っていた。
彼はいつものように、研究者のような実直さを感じさせる、しかし完璧に仕立てられたダークスーツを身に纏っている。彼の存在は、この華やかだがどこか浮ついた空間に、確かな重しを置くようだった。
「モラン公爵」
「不安かい? その必要はない。君の創り出したものが、君という人間の証明になる。……私は、それを誰よりも知っている」
セバスチャンの言葉は、魔術的な効果でもあるかのように、セラフィナの胸の奥にあったわずかな不安をすっと溶かしていく。
彼女は彼に深く頷き返した。
その時だった。まるで示し合わせたかのように、人垣が割れ、その中心にいる人物に道を開けた。
「あら、まあ。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですわね」
甲高い、鈴を転がすような声。しかし、その響きには隠しきれない棘が含まれている。
ヴィヴィアン・ルクレールが、ジュリアン・ベルフォートを伴って、勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。
今日の彼女は、金糸と銀糸をふんだんに織り込んだ、燃えるような真紅のドレスを身に纏っている。胸元や裾には、これでもかとばかりに大粒の宝石が縫い付けられ、彼女が動くたびにけばけばしい光を放った。
それは富と権力の誇示であり、成金趣味の見本市のようでもあった。
「ヴァレンシアの……あら失礼、もう『元』令嬢でしたわね。まだ王都の空気を吸っていらしたの? てっきり、どこぞの田舎で芋でも掘っているかと。それとも、やっと貧乏男爵様のもとへ嫁ぐ決心がつきましたの?」
ヴィヴィアンは、セラフィナの頭のてっぺんから爪先までを、品定めするような侮蔑的な視線でゆっくりと眺め回した。
「まあ、その地味なドレス! まるで喪服ですわね。ああ、そうでしたわ。あなたの『アトリエ』とやらは、古着を繕うのがお仕事でしたかしら? 誰かのお古を譲っていただいたの? お可哀想に。ジュリアン様とご一緒なら、メゾン・ヴァレリアーノの最新作だって着放題でしたのにねぇ」
その言葉に、周囲の貴族たちからくすくすという忍び笑いが漏れる。
ヴィヴィアンの言葉は、このコンペの権威ある舞台に、セラフィナは相応しくないという空気を巧みに作り出そうとしていた。
彼女の隣で、ジュリアンもまた、セラフィナに軽蔑の眼差しを向けていた。
「セラフィナ。その格好……それに、その隣にいる連中はなんだ。君も落ちぶれたものだな。市場で針子仕事など、もはや平民と変わらん。私がどれほど、君に貴族としての品位を保てと言ってきたか、忘れたわけではあるまい」
彼の声には、かつての婚約者への憐れみと、自分の選択が正しかったのだと再確認するような自己満足が滲んでいた。
彼は、セラフィナが自分の手の届かない場所へ行こうとしていることなど、想像すらできていない。
ただ、自分の価値観から外れた哀れな女、としか見ていなかった。
クロエが悔しさに唇を噛みしめ、ギルバートの眉間の皺がさらに深くなる。
セバスチャンが一歩前に出ようとしたのを、セラフィナは目線だけでそっと制した。
これは、彼女の戦いだ。
セラフィナは、嵐の中でも揺らがない大樹のように静かに立ち、そして、花が綻ぶように穏やかに微笑んだ。
「ごきげんよう、ルクレール様、ベルフォート様。そんなに熱心にご覧になって……わたくしのドレスが、よほどお気に召したようですわね。光栄ですこと」
その予想外の反応に、ヴィヴィアンが一瞬、言葉に詰まる。
「このドレスは『静寂』と名付けましたの。真の価値というものは、声高に飾り立てて叫ぶのではなく、静寂の中にこそ、深く、そして確かに輝くものだと、わたくしは信じておりますので」
その言葉は、ヴィヴィアンの派手なドレスと、それを纏う彼女自身の内面の空虚さを、暗に、しかし的確に射抜いていた。
数人の貴婦人が、思わずヴィヴィアンのドレスとセラフィナのドレスを見比べ、意味ありげな視線を交わす。
セラフィナは続けた。その声はあくまでも穏やかだったが、一本の鋼の芯が通っているかのような強さがあった。
「それに、わたくしたちの仕事は、単なる『お直し』ではございませんことよ。古き思い出を未来への輝きへと織り直す……持ち主様の心に寄り添う仕事ですわ。……思い出を慈しむ心や、未来を夢見る希望をお持ちでない方には、もしかしたら、その価値がお分かりになりにくいのかもしれませんわね」
それは、完璧なカウンターだった。感情的な罵倒ではなく、理知と哲学に裏打ちされた反論。
ヴィヴィアンの嘲笑は、一瞬にして、彼女自身の心の貧しさを露呈するだけの、品のない悪口へと成り下がった。
ヴィヴィアンの顔が、ドレスと同じくらい真っ赤に染まる。
「な……なんですって! この、没落令嬢が……!」
「そこまでにしていただこうか、ルクレール嬢。ここは芸術の価値を問う場だ。あなたのその金切り声は、少々場違いではないかな」
セバスチャンが、冷ややかに、しかし決定的な一言を放った。
その声の底にある絶対的な権威に、ヴィヴィアンはぐっと言葉を飲み込むしかなかった。彼女の家が金で買った爵位では、建国以来の歴史を持つモラン公爵家の当主には逆らえない。
ジュリアンは、目の前の光景が信じられないといった顔をしていた。
彼が知るセラフィナは、いつも従順で、彼の言うことに黙って頷くだけの、美しい人形だったはずだ。
今、彼の目の前にいるのは、王都で最も影響力のある公爵を背後に控えさせ、舌鋒鋭く敵をやり込める、まったく知らない女だった。
微かな戸惑いと、理解できない焦燥が彼の胸をよぎる。
空気は、完全に入れ替わっていた。
もはやセラフィナを嘲笑う者はいない。人々は好奇と、そしてどこか畏敬の念を込めて、この静かなる挑戦者を見つめていた。
やがて、コンペの開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。
審査は、伝統派のデザイナーから順に進んでいった。
ヴィヴィアンが後援するデザイナー、マダム・ロザリーの作品が紹介される番が来た。彼女はベルフォート公爵家の御用達でもあり、旧守派の貴婦人たちから絶大な支持を得ている人物だ。
テーマは「王家の栄光」。舞台に現れたドレスは、まさにそのテーマを体現していた。
重厚な金のブロケード、幾重にも重ねられたレース、そして巨大なルビーが散りばめられたコルセット。
壮麗で、豪華で、そして誰もがどこかで見たことのある、驚きのないデザインだった。
審査員たちの評価も、それを反映していた。
「伝統の重みを感じさせる、見事な一着ですな」
「まさに王道のデザイン。マダム・ロザリーの手腕は揺るぎない。安定感があります」
無難な賞賛の言葉が並ぶ。
ヴィヴィアンは満足げに頷き、セラフィナの方へ勝ち誇ったような視線を送った。
そして、ついにその時が来た。
「最後に、アトリエ『アウラ』代表、セラフィナ・ド・ヴァレンシア様の作品。『フェニックス』です!」
司会の声と共に、会場の照明がすっと落とされ、一本のスポットライトが舞台袖を照らした。
静寂の中、一人のモデルがゆっくりと歩み出てくる。
その瞬間、会場全体が息をのんだ。
ドレスは、セラフィナ自身が着ていたものと同じ、深いチャコールグレーを基調としていた。
しかし、その布地はまるで夜空そのものを織り込んだかのように、内側から微かな光を放っている。
モデルが歩くたびに、裾にあしらわれた、本物の羽のように軽やかな絹の飾りがふわりと舞い、まるで銀河の星屑を纏っているかのようだった。
モデルが舞台の中央で立ち止まり、ゆっくりとポーズを取った。
その胸に去来する感情に呼応するかのように、ドレスが色を変え始めた。
静かな自信が、ドレスを夜明け前の空のような淡い藤色に染める。
未来への希望が、朝焼けの光を思わせる柔らかな金色を浮かび上がらせる。
そして、燃え上がるような情熱が、ドレス全体を不死鳥の炎のような、鮮烈でありながら決して下品ではない、気品に満ちた真紅へと変貌させた。
それは、もはや衣服ではなかった。
着用者の魂そのものを映し出す、魔法のカンバスだった。
しばらく、誰もが声を発することができなかった。
ただ、目の前で繰り広げられる奇跡のような光景に、心を奪われていた。
やがて、審査員長である王立アカデミーの重鎮、アルバイン侯爵が、椅子から立ち上がる。
老侯爵は声を震わせていた。
「……これは、ドレスではない。詩だ。感情そのものを編み上げた、生きた叙事詩だ!」
別の審査員が続いた。
「馬鹿な……エーテル織のパターンを、着用者の生体マナに直接リンクさせただと? これほどの安定性と応答速度で……!? こんな術式、いかなる文献にも記されてはおらんぞ! まさに『新時代の夜明け』……いや、革命そのものではないか!」
「芸術と技術の、完璧にして奇跡的な融合……! 我々は今日、歴史の転換点に立ち会っているのかもしれん!」
もはや、審査の必要はなかった。
結果は誰の目にも明らかだった。
アルバイン侯爵が、高らかに宣言した。
「今年のグランプリは、満場一致で、アトリエ『アウラ』の『フェニックス』に決定!」
一瞬の静寂の後、会場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
それは、ただの勝利への賛辞ではなかった。旧い価値観を打ち破る、新しい時代の到来を歓迎する、熱狂的な歓声だった。
ヴィヴィアンは、血の気の引いた顔で唇をわななかせていた。
彼女の足元で、自らのプライドが木っ端微塵に砕け散る音が聞こえるようだった。
その隣で、ジュリアンはただ呆然と、喝采を浴びるセラフィナの姿を見つめていた。
彼が価値がないと断じ、捨て去った石ころが、今や王都で最も輝かしい至宝として、万人の賞賛を浴びている。
その信じがたい現実に、彼の思考は完全に停止していた。
セラフィナは、鳴りやまない拍手の中、静かに、そして深く一礼した。
顔を上げた彼女の視線が、客席で誇らしげに微笑むセバスチャンと交差する。
それは恋人たちの甘い視線ではなかった。共に戦い、困難を乗り越え、そして勝利を掴んだ同志だけが分かち合える、固い信頼と尊敬に満ちた眼差しだった。
彼女の公的な名誉回復の、輝かしい第一歩が、今ここに刻まれたのだ。
この歴史的な勝利の輝きは、王都の光が届かぬベルフォート公爵家の書斎にまで、魔導通信によって即座に届けられていた。
しかし、その光は祝福ではなく、排除すべき脅威の増大を告げる凶報として、冷たい瞳に映り込んでいた。
公爵アレクサンドル・デュマは、指先で静かに机を叩きながら、小さく、そして冷酷に呟いた。
「……予想以上に、育ちすぎたか。面白い。だが、雑草は根から断たねば意味がない」
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小説家になろう、カクヨムでも連載しています。
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