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IV 肖像の破壊、そして誕生
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「あなたさあ、男として生きたいなら、髪を切って男の格好しなさいよ。あなたならきっと男装しても素敵よ?」
散々ネルを嬲ったヴァネッサがそう言い放った。それと同時にネルの長い髪を手に掴んでぶんと放る。さらりと金の波が宙を舞い、ネルの肩に落ちた。
「こんなに髪を伸ばして、ドレスなんて着てるんだもの。そりゃメス扱いされるわよ」
ネルは自分の格好を見下ろす。ルパートに引き裂かれ、ぼろぼろになったとはいえ、かつては最高級のドレスだったものだ。ウエストは細く絞られ、裾は華やかに広がっている。その姿をまじまじと見つめながら、ネルは唇を噛んだ。
「髪を切って、男の格好をして、男らしく振る舞う。それだけで大体の奴はあなたをメス扱いするのをやめるわよ」
ヴァネッサの声は容赦ない。しかし、それは彼女なりの助言だった。
「なんなら、私があなたを男にしてあげるわ」
彼女がにやりと笑うと、周囲の吸血鬼たちから笑いと囃し立てる声が上がる。
「そうだ、そうだ!男になるのか、姫のままでいるのか、はっきりしろ!」
「おい、“お姫様”よ、お前はどうするんだ?」
「こいつが男になれるわけないだろ」
冷笑する者もいれば、面白がるように煽る者もいる。その中にはさきほどネルを「気持ち悪い」と言ったプラチナブロンドの男もいた。彼がケラケラ笑いながらヴァネッサに問いかける。
「ヴァネッサの姉貴よお、本気で言ってるんですか? 気でも違ったんですかい? あんたも見たでしょ? 閣下に犯されてひぃひぃ言ってたコイツが男になれるわけないじゃないですか」
「ヴォルフガング、あんたは黙ってなさい」
ヴァネッサはピシャリとヴォルフガングの嘲笑を跳ねのけた。
ネルは自分の髪を指に絡ませる。長い髪、細い体、ドレス――それらはまさしく「姫」として扱われる象徴だった。
「……それもそうだな」
ネルは自嘲しながら呟く。
「あなたが……僕に男の生き方を教えてくれるのですか?」
ヴァネッサは腕を組み、満足げに微笑んだ。そして誇らしげに語る。
「ええ、私があなたを一人前の”男”にしてあげる。言っておくけど、私はロンドンで一番売れっ子の娼婦だったのよ。私の手ほどきで一人前になった男は星の数ほどいるわ」
ネルは静かに息を吐き、心の中で決心する。自分はもう「姫」ではない。男として生きるのだ。この瞬間から。
ヴァネッサの指示通り、ネルはまず髪を切った。腰まであった金髪は顎のあたりで揃えられ、軽く流れるような形に整えられる。短くなったとはいえ、その光沢は相変わらず眩いほどで、まるで陽光を映すシルクのようだった。
次にネルはスーツに着替えた。ヴァネッサが用意したのは、黒の上質なウール地のスリーピース。テーラードのジャケットは彼の細く引き締まった体にぴったりとフィットし、シャープなシルエットを作り出している。ベストが細身のウエストを強調し、白いシャツの襟元からのぞくネクタイが、気品と洗練を加えていた。
ネルは鏡の前に立った。そこに映っていたのは――かつての「姫」ではなく、神秘的な美しさを湛えた貴公子だった。
「……」
スーツに着替えたネルが広間に現れると、その場にいた吸血鬼たちは一瞬で静まり返った。
「あんな奴が男になれるもんか」
「どうせスーツなんか着ても似合わないに決まってる」
そう嘲笑していた者たちは、ネルの姿を目にした瞬間、言葉を失った。
――金の髪に、青い瞳。中性的でありながら凛とした顔立ち。
男としてはしなやかすぎる体つきのはずなのに、スーツのラインがそれを絶妙に引き締め、洗練された気高さを作り出していた。
「……なんだ、あれ」
「まるで……貴族の肖像画から抜け出てきたみたいだ……」
最初はネルを嘲っていた連中も、今や沈黙し、目を見開いて彼を見つめるばかりだった。
その中にはエレオノーラがいた。彼女はネルが嬲られている最中もずっと複雑そうな顔でネルを睨みつけていた。
――あの人を、私はずっと憎んでいた。
その美貌が憎かった。金髪と青い瞳、生まれながらにして美の女神が与えたような美しさを持ちながら、それを誇りともせずに男になりたいと戯言を抜かす姿が許せなかった。そのくせ、メスとしてルパートに嬲られ泣き叫ぶことしかできない愚か者だと軽蔑していた。
――私がどれほど、その美しさを欲しかったかも知らないくせに。
エレオノーラの脳裏に、人間だった頃の記憶が蘇る。
彼女の父は貴族だった。高貴な血筋を持ちながら、正妻以外の女にも平然と手をつける、よくある男。
そして、彼女の母は下女だった。仕える主に逆らえず、半ば強姦のように抱かれ、望まぬままに子を孕んだ女。
父はエレオノーラを「自分の子」として認めながらも、決して「娘」として愛することはなかった。エレオノーラは母と同じように屋敷の下働きとして正妻や異母兄弟たちにこき使われていた。
正妻は言った。「あんたみたいな醜い子が、私の子と同じ屋根の下にいるなんて、耐えられない」
異母兄弟たちは笑った。「お前みたいなブス、誰にも愛されるわけがない」
母は何も言わなかった。ただ、何かを諦めたような目で娘を見ていた。
――私は、「美しくなりたかった」。そうすれば、愛してもらえたかもしれないのに。それなのに、あの人は。
生まれつき「美しい」ことがどれほどの価値を持つかも知らず、それを捨てようとしていた。公爵令嬢としての誇りも、気品も、生まれながらにして持ち得たものを無造作に扱い、挙句の果てには女の体を嘲り、男になりたいと叫ぶ。
許せなかった。
憎かった。
心の底から、そう思っていたはずなのに――
エレオノーラは目の前の光景に、言葉を失った。スーツを纏い、凛と立つネル。青い瞳は冷たく澄み、金髪は柔らかく光を帯び、長い指がシャツの袖口を整えるたびに、仕草の一つ一つが美しく、洗練されていた。
――まるで、貴族の肖像画の中から抜け出してきたような姿。
最初にネルを嘲笑っていた吸血鬼たちは、皆黙り込んでいた。
エレオノーラもまた、無意識に喉を鳴らした。
――憎い。憎いはずなのに。なのに、どうして。
エレオノーラの心臓が跳ねる。反感と憎悪で燃えていたはずの胸の奥に、言葉にできない熱が込み上げる。
「……ッ」
彼女はすぐにその感情をかき消そうとしたが、そばかすだらけの頬がうっすらと紅潮していることに自分でも気づいていた。
だが、その空気をぶち壊したのはヴォルフガングだった。
「似合ってねぇよ!!」
ヴォルフガングが吐き捨てるように叫ぶ。
「気持ちわりぃんだよ、兄嫁狂いの男女!!」
彼は苛立たしげにエレオノーラの腕を掴み、強引に引いた。
「行くぞ!」
「ちょ、ちょっと……!」
エレオノーラは抵抗したが、ヴォルフガングの力に抗えず、そのまま引きずられるようにして広間を後にする。ネルはその様子を無表情で見送った。
「……さすがね。やっぱり私が見込んだ通りよ」
その横で、ヴァネッサが満足げに微笑む。
「あなた、なかなか様になってるじゃない」
ネルは静かに息を吐き、スーツの袖口を整えた。男として生きる。その決意は、ただの願望ではなく確かに形になり始めていた。
「格好だけでは不十分よ。男として生きるにはあなたが今まで身につけてきたもの全部塗り替える必要があるわ」
ヴァネッサの指導が始まった。彼女の目的はただひとつ――ネルを「姫」から「紳士」に変えること。
「まず、言葉遣いよ」
ヴァネッサはネルの前に座り、鋭い眼差しで言った。ネルは背筋を伸ばし、整った口調で答えようとした。
「僕は――」
「ダメ」
言葉を遮られ、ネルは眉をひそめる。
「今の間の置き方、語尾の響かせ方。どれも王族の女がやる話し方よ」
「……そんなつもりはない」
「つもりじゃないのよ、問題は。無意識にやってるってことが問題なの」
ヴァネッサは指で机をトントンと叩いた。
「もう一度。もっと率直に、力強く言いなさい」
ネルは口を開きかけ、意識的に口調を変える。
「……僕は」
「そう。それでいいわ」
ヴァネッサは満足げに頷いた。それからが本番だった。
「そして歩き方よ。堂々と歩くこと。あなた、どうしてそんなに静かに歩くの?」
「……?」
「それよ、それ。足音を立てない歩き方。まるで舞踏会のフロアを歩く貴婦人みたいじゃない」
「……違う」
「違わないわ。もっとガツンと歩くの」
ネルはヴァネッサの指示に従い、力強く一歩を踏み出す。だが、それでも彼の足運びはどこか優雅すぎた。ヴァネッサはため息をつく。
「まるでドレスの裾を翻してるみたい」
「そんなつもりは……」
「またそれ。いい? あなた、無意識のうちに科を作るのよ。誰に媚びてるの? もう姫じゃないんだから」
ネルの背筋がこわばった。
「……」
「そういう細かい癖がね、積み重なって“お姫様”を作るの。分かる?」
「……僕は」
「はい、ストップ。今のもダメ。『僕は』じゃなくて、『僕は』ってもっと強く言うの」
ネルは奥歯を噛みしめる。
「僕は……姫じゃない」
ヴァネッサは微笑んだ。
「よろしい」
次に立ち居振る舞いの矯正が始まった。
「その指の動かし方、やめなさい」
ネルは瞬きをする。
「……?」
「指をそんなに繊細に動かす必要はないわ。あんた、誰に優雅さを見せつけてるつもり?」
「優雅さなんて、意識してない」
「それが問題なのよ」
ヴァネッサはネルの手を取り、わざと乱暴に握らせた。
「ほら、こうやって握るの。吸血鬼の力を見せなさい」
「……っ」
ネルは強く握る。ヴァネッサが満足げに頷いた。
「品は残してもいい。でも、ひ弱そうにクネクネするのはやめなさい」
ネルは唇を噛む。自分では気づいていなかった。だが、ヴァネッサに指摘されるたびに、自分の体に染みついた「レディ」の所作がどれだけ深いかを思い知らされる。
(……僕は、こんなにも“女”になっていたのか)
男でありたいと願っていたはずなのに。
母に押し付けられ、嫌々身につけたはずの「レディとしての振る舞い」を、自分は知らず知らずのうちに受け入れ、無意識にそれを守っていたのだ。
「……」
ネルは拳を握った。だが、ヴァネッサは彼の動揺など最初から分かっていたように、淡々と告げる。
「大丈夫よ」
ネルが顔を上げる。
「長い間、無理やり『女』を演じさせられていたんでしょう? 無理に全部捨てなくていい。時間をかけて、上書きしていけばいいのよ」
ネルは息をのんだ。
(……上書き)
「あなたの中にある“レディ”を、“紳士”で塗りつぶしていきなさい。そうすれば、いずれ“男”としての立ち居振る舞いが自然になるわ」
ネルは静かに頷いた。悪戦苦闘しつつも、ネルの所作は少しずつ変わっていく。
スーツの襟を正す仕草も、椅子に座る姿勢も、立ち上がる時の動きも――確かに、「男」になっていく。
そして、ふと気づいたときには――
(……変わってきている)
ネルは己の変化を、確かに感じていた。
散々ネルを嬲ったヴァネッサがそう言い放った。それと同時にネルの長い髪を手に掴んでぶんと放る。さらりと金の波が宙を舞い、ネルの肩に落ちた。
「こんなに髪を伸ばして、ドレスなんて着てるんだもの。そりゃメス扱いされるわよ」
ネルは自分の格好を見下ろす。ルパートに引き裂かれ、ぼろぼろになったとはいえ、かつては最高級のドレスだったものだ。ウエストは細く絞られ、裾は華やかに広がっている。その姿をまじまじと見つめながら、ネルは唇を噛んだ。
「髪を切って、男の格好をして、男らしく振る舞う。それだけで大体の奴はあなたをメス扱いするのをやめるわよ」
ヴァネッサの声は容赦ない。しかし、それは彼女なりの助言だった。
「なんなら、私があなたを男にしてあげるわ」
彼女がにやりと笑うと、周囲の吸血鬼たちから笑いと囃し立てる声が上がる。
「そうだ、そうだ!男になるのか、姫のままでいるのか、はっきりしろ!」
「おい、“お姫様”よ、お前はどうするんだ?」
「こいつが男になれるわけないだろ」
冷笑する者もいれば、面白がるように煽る者もいる。その中にはさきほどネルを「気持ち悪い」と言ったプラチナブロンドの男もいた。彼がケラケラ笑いながらヴァネッサに問いかける。
「ヴァネッサの姉貴よお、本気で言ってるんですか? 気でも違ったんですかい? あんたも見たでしょ? 閣下に犯されてひぃひぃ言ってたコイツが男になれるわけないじゃないですか」
「ヴォルフガング、あんたは黙ってなさい」
ヴァネッサはピシャリとヴォルフガングの嘲笑を跳ねのけた。
ネルは自分の髪を指に絡ませる。長い髪、細い体、ドレス――それらはまさしく「姫」として扱われる象徴だった。
「……それもそうだな」
ネルは自嘲しながら呟く。
「あなたが……僕に男の生き方を教えてくれるのですか?」
ヴァネッサは腕を組み、満足げに微笑んだ。そして誇らしげに語る。
「ええ、私があなたを一人前の”男”にしてあげる。言っておくけど、私はロンドンで一番売れっ子の娼婦だったのよ。私の手ほどきで一人前になった男は星の数ほどいるわ」
ネルは静かに息を吐き、心の中で決心する。自分はもう「姫」ではない。男として生きるのだ。この瞬間から。
ヴァネッサの指示通り、ネルはまず髪を切った。腰まであった金髪は顎のあたりで揃えられ、軽く流れるような形に整えられる。短くなったとはいえ、その光沢は相変わらず眩いほどで、まるで陽光を映すシルクのようだった。
次にネルはスーツに着替えた。ヴァネッサが用意したのは、黒の上質なウール地のスリーピース。テーラードのジャケットは彼の細く引き締まった体にぴったりとフィットし、シャープなシルエットを作り出している。ベストが細身のウエストを強調し、白いシャツの襟元からのぞくネクタイが、気品と洗練を加えていた。
ネルは鏡の前に立った。そこに映っていたのは――かつての「姫」ではなく、神秘的な美しさを湛えた貴公子だった。
「……」
スーツに着替えたネルが広間に現れると、その場にいた吸血鬼たちは一瞬で静まり返った。
「あんな奴が男になれるもんか」
「どうせスーツなんか着ても似合わないに決まってる」
そう嘲笑していた者たちは、ネルの姿を目にした瞬間、言葉を失った。
――金の髪に、青い瞳。中性的でありながら凛とした顔立ち。
男としてはしなやかすぎる体つきのはずなのに、スーツのラインがそれを絶妙に引き締め、洗練された気高さを作り出していた。
「……なんだ、あれ」
「まるで……貴族の肖像画から抜け出てきたみたいだ……」
最初はネルを嘲っていた連中も、今や沈黙し、目を見開いて彼を見つめるばかりだった。
その中にはエレオノーラがいた。彼女はネルが嬲られている最中もずっと複雑そうな顔でネルを睨みつけていた。
――あの人を、私はずっと憎んでいた。
その美貌が憎かった。金髪と青い瞳、生まれながらにして美の女神が与えたような美しさを持ちながら、それを誇りともせずに男になりたいと戯言を抜かす姿が許せなかった。そのくせ、メスとしてルパートに嬲られ泣き叫ぶことしかできない愚か者だと軽蔑していた。
――私がどれほど、その美しさを欲しかったかも知らないくせに。
エレオノーラの脳裏に、人間だった頃の記憶が蘇る。
彼女の父は貴族だった。高貴な血筋を持ちながら、正妻以外の女にも平然と手をつける、よくある男。
そして、彼女の母は下女だった。仕える主に逆らえず、半ば強姦のように抱かれ、望まぬままに子を孕んだ女。
父はエレオノーラを「自分の子」として認めながらも、決して「娘」として愛することはなかった。エレオノーラは母と同じように屋敷の下働きとして正妻や異母兄弟たちにこき使われていた。
正妻は言った。「あんたみたいな醜い子が、私の子と同じ屋根の下にいるなんて、耐えられない」
異母兄弟たちは笑った。「お前みたいなブス、誰にも愛されるわけがない」
母は何も言わなかった。ただ、何かを諦めたような目で娘を見ていた。
――私は、「美しくなりたかった」。そうすれば、愛してもらえたかもしれないのに。それなのに、あの人は。
生まれつき「美しい」ことがどれほどの価値を持つかも知らず、それを捨てようとしていた。公爵令嬢としての誇りも、気品も、生まれながらにして持ち得たものを無造作に扱い、挙句の果てには女の体を嘲り、男になりたいと叫ぶ。
許せなかった。
憎かった。
心の底から、そう思っていたはずなのに――
エレオノーラは目の前の光景に、言葉を失った。スーツを纏い、凛と立つネル。青い瞳は冷たく澄み、金髪は柔らかく光を帯び、長い指がシャツの袖口を整えるたびに、仕草の一つ一つが美しく、洗練されていた。
――まるで、貴族の肖像画の中から抜け出してきたような姿。
最初にネルを嘲笑っていた吸血鬼たちは、皆黙り込んでいた。
エレオノーラもまた、無意識に喉を鳴らした。
――憎い。憎いはずなのに。なのに、どうして。
エレオノーラの心臓が跳ねる。反感と憎悪で燃えていたはずの胸の奥に、言葉にできない熱が込み上げる。
「……ッ」
彼女はすぐにその感情をかき消そうとしたが、そばかすだらけの頬がうっすらと紅潮していることに自分でも気づいていた。
だが、その空気をぶち壊したのはヴォルフガングだった。
「似合ってねぇよ!!」
ヴォルフガングが吐き捨てるように叫ぶ。
「気持ちわりぃんだよ、兄嫁狂いの男女!!」
彼は苛立たしげにエレオノーラの腕を掴み、強引に引いた。
「行くぞ!」
「ちょ、ちょっと……!」
エレオノーラは抵抗したが、ヴォルフガングの力に抗えず、そのまま引きずられるようにして広間を後にする。ネルはその様子を無表情で見送った。
「……さすがね。やっぱり私が見込んだ通りよ」
その横で、ヴァネッサが満足げに微笑む。
「あなた、なかなか様になってるじゃない」
ネルは静かに息を吐き、スーツの袖口を整えた。男として生きる。その決意は、ただの願望ではなく確かに形になり始めていた。
「格好だけでは不十分よ。男として生きるにはあなたが今まで身につけてきたもの全部塗り替える必要があるわ」
ヴァネッサの指導が始まった。彼女の目的はただひとつ――ネルを「姫」から「紳士」に変えること。
「まず、言葉遣いよ」
ヴァネッサはネルの前に座り、鋭い眼差しで言った。ネルは背筋を伸ばし、整った口調で答えようとした。
「僕は――」
「ダメ」
言葉を遮られ、ネルは眉をひそめる。
「今の間の置き方、語尾の響かせ方。どれも王族の女がやる話し方よ」
「……そんなつもりはない」
「つもりじゃないのよ、問題は。無意識にやってるってことが問題なの」
ヴァネッサは指で机をトントンと叩いた。
「もう一度。もっと率直に、力強く言いなさい」
ネルは口を開きかけ、意識的に口調を変える。
「……僕は」
「そう。それでいいわ」
ヴァネッサは満足げに頷いた。それからが本番だった。
「そして歩き方よ。堂々と歩くこと。あなた、どうしてそんなに静かに歩くの?」
「……?」
「それよ、それ。足音を立てない歩き方。まるで舞踏会のフロアを歩く貴婦人みたいじゃない」
「……違う」
「違わないわ。もっとガツンと歩くの」
ネルはヴァネッサの指示に従い、力強く一歩を踏み出す。だが、それでも彼の足運びはどこか優雅すぎた。ヴァネッサはため息をつく。
「まるでドレスの裾を翻してるみたい」
「そんなつもりは……」
「またそれ。いい? あなた、無意識のうちに科を作るのよ。誰に媚びてるの? もう姫じゃないんだから」
ネルの背筋がこわばった。
「……」
「そういう細かい癖がね、積み重なって“お姫様”を作るの。分かる?」
「……僕は」
「はい、ストップ。今のもダメ。『僕は』じゃなくて、『僕は』ってもっと強く言うの」
ネルは奥歯を噛みしめる。
「僕は……姫じゃない」
ヴァネッサは微笑んだ。
「よろしい」
次に立ち居振る舞いの矯正が始まった。
「その指の動かし方、やめなさい」
ネルは瞬きをする。
「……?」
「指をそんなに繊細に動かす必要はないわ。あんた、誰に優雅さを見せつけてるつもり?」
「優雅さなんて、意識してない」
「それが問題なのよ」
ヴァネッサはネルの手を取り、わざと乱暴に握らせた。
「ほら、こうやって握るの。吸血鬼の力を見せなさい」
「……っ」
ネルは強く握る。ヴァネッサが満足げに頷いた。
「品は残してもいい。でも、ひ弱そうにクネクネするのはやめなさい」
ネルは唇を噛む。自分では気づいていなかった。だが、ヴァネッサに指摘されるたびに、自分の体に染みついた「レディ」の所作がどれだけ深いかを思い知らされる。
(……僕は、こんなにも“女”になっていたのか)
男でありたいと願っていたはずなのに。
母に押し付けられ、嫌々身につけたはずの「レディとしての振る舞い」を、自分は知らず知らずのうちに受け入れ、無意識にそれを守っていたのだ。
「……」
ネルは拳を握った。だが、ヴァネッサは彼の動揺など最初から分かっていたように、淡々と告げる。
「大丈夫よ」
ネルが顔を上げる。
「長い間、無理やり『女』を演じさせられていたんでしょう? 無理に全部捨てなくていい。時間をかけて、上書きしていけばいいのよ」
ネルは息をのんだ。
(……上書き)
「あなたの中にある“レディ”を、“紳士”で塗りつぶしていきなさい。そうすれば、いずれ“男”としての立ち居振る舞いが自然になるわ」
ネルは静かに頷いた。悪戦苦闘しつつも、ネルの所作は少しずつ変わっていく。
スーツの襟を正す仕草も、椅子に座る姿勢も、立ち上がる時の動きも――確かに、「男」になっていく。
そして、ふと気づいたときには――
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