紅き再誕-朝焼けに君を見た-

泉 沙羅

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V 闇の踊り子

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 ヴァネッサの指導は、ついに最後の領域へと踏み込んだ。
「男なら、女を抱けないとね」
 彼女は挑発するように言いながら、ネルの顎をつまんだ。ネルは息を呑む。
 言葉の意味は理解していた。だが、実際にどうすればいいのか――本当に自分が「男」として振る舞えるのか、不安がないわけではなかった。
「何を怯えているの? あなた、ダンスは得意だったんでしょう?」
 ヴァネッサは意味ありげに微笑む。
「踊りと同じよ。相手をリードすればいいの」
 その言葉に、ネルは過去を思い出す。病弱な兄の代わりに、舞踏会で何度も男性パートを務めた。相手をエスコートし、リズムを刻み、リードする。女性を受け止め、導くことは、彼にとって初めてのことではなかった。
「……そうか」
 ネルはヴァネッサを見据え、そっと彼女の腰に手を回した。
「いい子ね。さあ、レッスンを始めましょう」

 ヴァネッサの体温はひどく冷たい。それは自分も同じで、触れ合う肌の間に血の通う温もりはなかった。
 ――けれど。
 ヴァネッサの指示に従いながら、ネルの頭の片隅では、ずっと別の思いが渦巻いていた。
(……本来、これは)
 彼はぎゅっと奥歯を噛みしめる。
(神も人も、これは愛する者と交わせるべきものだと言う)
 ――できるなら、僕だってそうしたかった。
 愛する相手とだけ、こんなふうに肌を重ねたかった。けれど、そんな理想は彼には許されなかった。
 「男」になるために、そんなものはとうに捨てたのだ。
「ネル?」
 ヴァネッサの指が彼の顎を持ち上げた。
「……どうしたの? らしくないわね」
「……何でもない」
 ネルは感情を押し殺し、ただ与えられた「課題」に従う。

(……こいつ、女の感じるところを知り尽くしてる)
 ヴァネッサは内心舌を巻いた。ネルは手のひらの位置、指の力の入れ具合、唇と舌を這わせる角度、全てが絶妙だった。
 元々自慰狂いで、女性の快感を知り尽くしていたネルにとって、女を悦ばせることは難しくなかったのだ。
「……っ、ふふ……いいわね……あなた、本当に初めて?」
「……」
 ネルは息を乱しながら、それでも目の前の「課題」に必死で食らいついていた。
「ふふ…次の段階に進んでも良さそうね」

 娼館では、ネルはヴァネッサの「弟子」として扱われた。
「こいつはまだ経験が浅いの。だから、いろいろ教えてあげてちょうだい」
 ヴァネッサは笑いながら娼婦たちに言う。自分たちが吸血鬼であることは、明かされてなかった。
 吸血鬼という存在は、人間の間では「伝説」に過ぎないものだった。ネル自身、そんな怪物が本当にいるとは知らずに生きてきたのだから。
 それを崩してしまえば、この世界の秩序は崩れる。ゆえに彼らは人間には決して正体を明かさない。
「あなた、綺麗な顔してるわね」
「お坊っちゃんみたいだけど、意外と情熱的だったりするのかしら?」
 娼婦たちはネルの金髪と青い瞳を愛で、からかい混じりに笑う。ネルは無表情のまま、それを受け流した。
 ――彼にとって、これは「学ぶ」ための行為であり、快楽を求めるものではなかったから。
(……僕は何をしてるんだ)
 胸の奥で、微かな自己嫌悪が疼いた。
 けれど、それを押し殺しながら、ネルは「男」としての作法を身につけていった。

 そしてヴァネッサが紹介した女吸血鬼とのお手合わせの中で、ネルは初めてその異質な「快楽」を知る。
 血を吸い合うという行為が、これほどまでに陶酔をもたらすものだとは。喉が焼けつくような渇きと、吸いついた瞬間に押し寄せる甘美な震え。血を分け合うことで、相手の存在がより深く染み込んでくる錯覚。
 さらに、首を絞めることで生まれる陶酔。ナイフで肌を傷つけることで得られる鋭い感覚。相手が吸血鬼であれば骨が折れるほどに強く首を絞めても、ナイフで刺してもすぐ復活する。その習性を利用した性技だった。
(……悪くない)
 ネルは薄く息を吐いた。それは、奇妙な安心感すら覚える行為だった。

 自傷癖のあった彼にとって、それは自分を確かめる手段のひとつだったのかもしれない。母親や社会から押し付けられた「レディ」としての生き方に苦しみ、自分の体を弄ぶことで逃げ道を見出してきた。だから、傷つけ合う行為は、むしろどこか心地よいものだった。
「ふふ……あなた、やっぱり向いてるわね」
 ヴァネッサは満足げに微笑む。けれど、その表情の奥には、何か別の思惑もあるように見えた。
「さて……そろそろ、次の段階に進みましょうか」
 ヴァネッサはゆっくりと身を起こし、ネルの髪を弄ぶように撫でる。
「今日はあなたにぴったりな相手を、パリから招いたわよ」
 ネルは息を整えながら、彼女を見つめる。
「……?」
(少し怖いな……)
「ぴったり」とはどういう意味なのだろうか。期待より不安の方が大きかった。
「あなたの“鏡”になる存在よ」
 その言葉の意味を、ネルはまだ知らなかった。しかし、その相手との出会いが、自分の何かを大きく変えていくことになるとは、直感的に感じていた。


 その晩、ネルが呼び出されたのは、ヴァネッサが経営する娼館の一室だった。
 分厚いカーテンで仕切られた室内は、燭台の灯りに照らされ、赤と黒を基調とした絢爛な装飾に満たされている。天蓋付きのベッドには、黒髪黒目の妖艶な美女が腰掛けていた。
 漆黒の髪は緩やかに波打ち、闇夜のような瞳がじっとネルを見つめる。深紅のドレスに黒い手袋、足元には同じく赤いハイヒール。全身が暗闇と血の色で統一された彼女の姿は、どこか異国めいた雰囲気を漂わせていた。
 ――この女、吸血鬼だな。
 部屋に足を踏み入れた瞬間に、ネルは直感した。肌の白さ、血の気のない唇、そして何より、ただそこにいるだけで感じる圧倒的な存在感が、人間とは明らかに異なる。
 ヴァネッサが「パリから招いた」と言っていた。フランスの娼婦かと思っていたが、ラテン系に近い彫りの深い顔立ちが、当時のイングランド人の美意識とは異なる異国情緒を纏っている。
 その瞬間、ネルの脳裏に、遠い記憶がよみがえった。
 ――まだ幼い頃。屋敷の寝室からこっそり見下ろした中庭に、異国の女たちがいた。
 スカートをひるがえし、鈴のついた布をひらひらと踊らせながら、焚き火の周囲でくるくると舞っていた。
 その艶やかな身のこなしに、子供だったネルは息を呑んだ。
「エレン! あんなもの見るんじゃありません!」
 ヘンリエッタの怒声と共に、窓が乱暴に閉じられる。
「あれはジプシーよ。呪われるわよ、あんなものに目をつけられたら――。あんなもの呼んだの、お兄様に決まってるわ!」
 たまたまウェールズからフィッツロイ邸を訪れていた享楽的な性格の伯父が「妹夫婦の屋敷なんてどうでもいい。面白いことしようじゃないか」とロマの踊り子たちを呼んだのだと後に知った。
 あのとき、闇の中に浮かび上がった女たちの姿。赤と黒。鈴の音。闇の踊り子――まるで魔女の儀式のようだった。そして、今――目の前で、あの時の踊り子を思わせるような、妖艶でエキゾチックな美女が微笑んでいる。その身振り、その姿は、まるで――あの夜の続きを踊っているかのようだった。

 ネルは静かに一礼した。
「こんばんは。あなたが僕の相手をしてくれる方ですか?」
 しかし、彼女は微笑むだけで、何も言わなかった。ふっと、黒曜石のような瞳が細められる。沈黙が落ちる。まるで、何かを占うような目だった。その瞳の奥に、ネルは炎を見た。あの夜の焚き火のように揺れる、祈りと呪いが混ざった火。この女吸血鬼は――きっと、人間時代から霊的な存在を信じている。
 ネルは僅かに眉を寄せた。
(……どういうことだ?)
 英語が通じない? それとも、話すつもりがないだけなのか?
 ――まさか、口がきけないのでは。
 ネルがそう思い始めた瞬間だった。黒い手袋をはめた指がするりとネルの手を取り、引き寄せる。
「――!」
 次の瞬間、彼女の柔らかな唇がネルの唇を塞いだ。突然のキス。
 ネルは反射的に肩を強張らせたが、相手の舌が絡みつくのを感じ、戸惑いながらも流れに身を任せた。
 彼女は何も言わず、ただ唇と指先だけでネルを誘う。喉元に触れる指先は驚くほど冷たく、けれどその仕草はどこまでも艶めかしい。
(このまま……続けろということか?)
 ネルは心を落ち着かせながら、ゆっくりと彼女のドレスに手をかけた。滑らかな布地が彼女の肩から滑り落ちる。
 深紅のドレスが、胸元までずり落ちた――そのときだった。
「……っ!」
 ネルの手が、ぴたりと止まる。そこにあるはずのものが、なかった。
 ――乳房が、ない。脳が、警鐘を鳴らす。まさか――
「驚いたか?」
 くすりと笑う声がした。その声は、女のものにしては低く、男のものにしては艶やかすぎた。
――いや、違う。完全に、男の声だった。
 ネルが息を呑む間に、彼(彼女?)は手早くドレスを脱ぎ捨てる。続いて、コルセットを緩め――
 滑らかな白い肌が露わになった瞬間、ネルは目を見開いた。そこには、紛れもなく、男の身体があった。
「……!」
 言葉を失うネルを見下ろしながら、彼女――いや、彼は流れるような動作でベッドに腰掛けた。そして、赤い唇を弧に歪め、妖艶に微笑む。
“I am Lucien, chéri. ”
(「俺はルシアン」)
 フランス語訛りの英語で彼が自己紹介をする。燭台の炎が揺らめき、その影を壁に映し出す。
"A high-class courtesan from Paris—pleased to meet you, petit garçon.”
(「パリの高級男娼さ――ご機嫌よう、お坊ちゃん?」)

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