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Chapter I Side Nell & Lucien Youth
Side Nell & Lucien Youth VIII 白い薬、白い閃光
しおりを挟むその夜、ネルはルシアンの部屋に泊まった。いつものソファではなく、ルシアンのベッドで、ふたりは一糸もまとわぬ姿でシーツの中で寄り添っていた。
あれほど無理やり心の奥を暴かれたばかりなのに――いや、だからこそかもしれない。
ルシアンに晒された羞恥と痛みの余韻を抱えたまま、彼の傍を離れられなかった。離れれば、自分が本当に壊れてしまう気がしたからだ。
ただ温もりが欲しいわけじゃない。確かに誰かと「ここにいる」という実感が欲しかった。きっとルシアンも、そうなのだと思った。さきほどまでのサディスティックな雰囲気はなりをひそめ、猫のようにネルに擦り寄っている。
「ネル、……ねえ、こっち向いて」
背中を撫でるような声に、ネルはゆっくりと振り返る。ルシアンの手が、頬に添えられる。濡れたまつ毛、少し震える肩。こないだ言われたルシアンの冗談が、耳の奥に残っていた。
『俺、本気出せばここに入れられるんだよね』
ネルの奥底には、それに対する微かな警戒と、混じりけのある好奇心、そして――拒絶があった。
シーツに滑り込んだネルは、背中越しにルシアンの体温を感じながらも、肩をこわばらせていた。
「……大丈夫?」という声に、うなずくことしかできなかった。
そのまま、ルシアンの指が腰のあたりに触れたときだった。ネルの体が、びくりと跳ねた。過剰なほどの反応だった。ルシアンがすぐに手を止めた。
「俺が怖い?」
ネルは答えられなかった。
「わかってるよ。俺が『男』になるのが怖いんでしょ? ネルが『女』になるのも」
ルシアンの言葉は、責めているのでも、同情でもなかった。ただ、そこに「わかっている」という事実だけがあった。
しばらくの沈黙の後、ネルはルシアンと向き合うように体勢を変えると、自分の手をそっとルシアンの胸に置いた。骨ばっていて、でも柔らかさもある。これが“人”なのだと思った。
滑らせた指先が、腹部に触れる頃には、もう泣きそうになっていた。
「……触れていい?」
たどたどしい問いに、ルシアンはただ一言「うん」と答えた。許可が欲しかったのは、ネルのほうだった。拒まれないこと、壊されないことを確かめたくて。
そしてようやく、ふたりの手が互いを探し合った。
ぎこちなく、でも確かに。触れるたび、ネルの体は震えた。震えながらも、ルシアンの名を、心の中で何度も呼んでいた。
シーツの上、互いの身体の熱がじんわりと重なる。触れるだけで、心臓がうるさく跳ねる。
「……本当に、入れたりしない?」
「しないよ」
ルシアンは微笑む。けれど、目が冗談みたいに澄んでいた。ネルは小さく息をのんだ。
ルシアンの指が太腿の内側を撫でたとたん、身体がビクリと跳ねた。
「だめ、そこ……」
「ネルって、触れられるだけで震えるんだね」
くすぐったそうに笑いながら、ルシアンは腰のあたりに顔を埋めた。そのまま、ネルの内腿に口づけを落としていく。
「やっ……そこ、やめて……っ」
ルシアンの舌が、敏感なところを優しくなぞる。
拒もうとして、でももう遅い。腰が浮いて、喉から変な声が漏れる。
「どうして? もうびしょびしょじゃん。さっき見せてくれたときから思ってたけど、ネルの身体……本当に綺麗だね。ここも」
「や……やだ……っ、ルシアン、そこ……だめっ……」
頬が熱い。恥ずかしさで気が狂いそうだ。
でもそれ以上に、快楽の波が一気に押し寄せてきて、ネルはもう何も考えられなかった。
「ネル、イくとこ見せてよ」
囁き声。熱に浮かされたようなその言葉が、ネルの頭の奥で弾けた。
「や、……やめ……っ、見ないで……ルシア、ン……っ、あ、ああっ……!」
突如、何かがネルの中で壊れるように、白い閃光が駆け抜ける。全身が跳ね、喉から潰れた喘ぎが漏れた。
ルシアンは舌を止めない。ネルの痙攣を、最後の余韻まで飲み干すように舐め続ける。
ネルは息も絶え絶えで、身体を投げ出したまま、ぐしゃぐしゃになったシーツにしがみついていた。
「……いや …いや……見ないで……」
「なんで?」
ルシアンは穏やかな声で言った。
「ネル、すっごく綺麗だったよ。気持ちよくなってる顔、可愛すぎて堪らなかった」
「うそ……やだ、言わないで、バカ……」
恥ずかしさに耐えきれず、ネルはルシアンの胸に顔を埋める。ルシアンの指先は優しく髪を梳いてくれていた。
そのまま、ルシアンの手が頬に添えられる。そっと顔を上げると、視線が交わった。
「ネル、こっち見て」
ルシアンの囁きに導かれるように、ネルは目を閉じた。
唇が、触れる。ほんの一瞬だけ――でも、それだけで胸がぎゅっと苦しくなるほど、嬉しかった。
触れた唇が離れると、ルシアンが小さく笑った。
「今の、キスって言わないよ」
そう言って、ルシアンはもう一度、今度は自分から唇を重ねた。
先程よりも深く、角度を変えて、ゆっくりと――でも確実に、ネルの唇を啄ばむように舌が滑り込んでくる。
驚いて一瞬身を引こうとしたネルを、ルシアンは逃がさない。優しく、けれどしっかりと頭を抱いて、唇の奥まで味わうようにキスを重ねた。
甘く、湿った音が、耳の奥まで溶け込む。
ネルは、ルシアンの胸元をぎゅっと掴みながら、されるがままに唇を許していた。舌と舌が触れ合うたび、心臓が跳ねて、頭が真っ白になる。
息が苦しくなる頃、ようやく唇が離れる。糸を引くほど名残惜しいその口づけに、ネルは目を潤ませながら、震える声で囁いた。
「……バカ……なんで、そんなこと……」
「だって、可愛すぎて……がまんできないよ」
ルシアンの声は、甘く掠れていた。
「……ルシアン」
「なに?」
「……次は、僕が……する」
ルシアンはぽかんとして、意味がわからない言葉でも聞いたかのように微笑んだ。
「……したい」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
「え?」
「僕も……してあげたい」
頬を赤くして、視線を外しながらネルが言った。
「……されるばっかじゃ、不公平だから」
ルシアンは目を瞬かせたあと、くすりと笑った。
「ネルは優しいね」
「そんなんじゃ……ない」
ネルは俯いたまま、ルシアンの脚のあいだに身を潜らせる。最初は怖かった。でも、目の前のルシアンが少し震えながら自分の名を呼ぶと、それが怖さを上書きしていった。ルシアンの手が、そっとネルの髪を撫でる。
「ネル……あ、ん……ネル……」
その夜、二人は同じ数だけ達した。何もかも見せ合って、剥き出しのまま抱き合って、名前を囁き合って。涙も、笑いも、全部一緒だった。
薄曇りの朝。ネルが目を覚ますと、隣にはもうルシアンの姿がなかった。
寝ぼけ眼で起き上がると、バスルームのほうでコトリと何かの音がした。
ネルがそっとドアの隙間から覗くと、ルシアンが鏡の前で小さな白い錠剤を、水とともに流し込むのが見えた。賢いネルにはそれがなんであるかわかってしまった。
――ピル。
一瞬、心臓が変な音を立てた。
「……それ、なに?」
ルシアンは振り向いて、そして、バツが悪そうに笑った。
「バレたか」
「……なんで。なんでそんなの……」
男の身体のルシアンにはピルは必要ないはず。そしてそんなルシアンの顔を見て、ネルは言葉を呑んだ。
「……ねえ、ネル。俺さ……こないだ、ネルにされてるとき、すごく、気持ちよくて……」
ルシアンは言いかけて、少し間を置いた。
「……『男』になってる気がして、すごく怖かった」
「……」
「これ、気休め。意味ないかも。でも、飲むと安心するの」
――ルシアンも「そう」なのか。
ネルは絶句したまま、ルシアンの指先から白い薬のパッケージをそっと取り上げた。咎められなかった。自分も逆の作用を持つ薬があれば確実に手を出していたから。
しばらく見つめたあと、ネルはぎゅっとそれを握って、ルシアンを抱きしめた。何も言えなかった。
ネルの腕の中で、ルシアンは少しの間、黙っていた。けれどやがて、どこか遠いところを見るような目で呟いた。
「……俺ね、小さいころから、ずっと、自分の身体を気持ち悪いって思ってた」
「……」
「喉が太くなって、声が低くなって、筋肉がついて、体毛が増えて……もう、それ全部が、嫌だった。俺の身体の中で別の誰かが『俺』を書き換えていってるみたいでさ」
ルシアンの声は、感情を押し殺すように平坦だった。でも、その目だけが、少しだけ濡れていた。
ネルは自分も初経を迎えたとき、死を望んだことを思い出した。
「でも、そういうのって、言ったところで『自意識過剰』って笑われるだけでさ。施設じゃそんな話、誰も聞いてくれなかったし。だから俺……自分が『変』なんだって思ってた」
ネルはルシアンの肩に額を押し当て、何も言わずに耳を澄ませた。
「売りを始めたての13の頃、初めて好きになった人がいて……っていうか、元々は客だったんだけどね」
ルシアンはかすかに笑ったが、その笑みには熱がなかった。
「その人、俺が吐くのが好きでさ。わざといっぱい食べさせて、俺の口に指突っ込んで、それで吐くと、すっごく喜んでたの。気持ち悪い話でしょ」
ネルは黙るしかなかった。
「でもね、俺が声変わりして、体が大きくなって、肩幅が広くなったら……その人、急に冷たくなった。『お前、もう可愛くない』って」
吐き捨てるようなその口調の奥に、子供のような寂しさが滲んでいた。
「最後のほう、もう俺のこと見てもくれなかったし、いつの間にか連絡もつかなくなってた。今頃、俺みたいな『偽物』じゃなくて本物の女の子と付き合ってるんだろうな」
ルシアンの声が震えている。ネルは、そっとその背中に腕を回す。
「思えば、一緒に吐いてくれたりなんて、しなかった。俺の嘔吐物なんて、ただのエンタメでしかなかったの。……でも、ネルはさ」
ルシアンはそっとネルに目を向ける。その視線は、今にも崩れそうなほど脆い。
「俺と一緒に吐いてくれたじゃん。あれ、たぶん、俺にとって――一番、嬉しかった」
ネルは何も言えなかった。ただ、背中をさすりながら、自分もまた涙をこらえていた。
「……だからさ。俺、おかしいよね。変だし、汚いし、情けない。でも、それでも……ネルだけには一緒にいて欲しかった」
家に戻ると、ダイニングテーブルの上にクラリッサが作ったランチが整然と並べられていた。グリルドチキンに、色とりどりのサラダ。添えられたヨーグルトにはミントの葉まで浮かんでいる。まるで雑誌の見開きのようだった。
「ネル、手洗っていらっしゃい」
「……はい」
形式だけの会話。クラリッサの声は、優しいけれど、どこか遠い。
食卓には、クラリッサと2人の姪――エリザベスとキャロラインが揃っていた。エドワードも今日は病院。ヘンリエッタも息子に付き添ったのか、姿はなかった。
「ねえネル姉様、今度のパーティどうする?」
「行かない」
「えー、また?」
キャロラインが頬を膨らませたけれど、ネルは笑ってごまかした。クラリッサがふと、彼を見た。
「あなたの気持ちもわからないではないけど、女の子らしいこと、たまには楽しんでみたら? 今だけの時間なんだから」
その言葉に、ネルは手にしたフォークを握り直した。
「……そうだね」
愛されている。わかってる。だけど、どこかで自分は「空っぽの役」を演じている気がしてならなかった。
食後、部屋に戻る途中、階段の途中で鏡に映った自分と目が合った。混じりけのないアッシュブロンド、青い瞳、均整のとれた細い体――完璧な美貌。家族もクラスメイトもネルのこの姿に勝手な虚像を当て嵌めている。
――ルシアンは、あの時、僕のことを見てた。
ルシアンが「優等生ではない」自分を抱きしめてくれたことを思い出す。「女の子」でも「レディ」でも「優等生」でもないネルを見てくれるのはルシアンだけだ。
気づけばスマホを手に取り、ルシアンに「今日、また会いたい」とだけ打っていた。
ガラスの器の中に、今日の罪悪感が積み重なってゆく。ルシアンが「なんかちょっとジャンクな気分」と言い出して、二人で近くのWalgreensまで歩いた。アイス、ポテトチップス、シリアルバー、スプライト。適当にカゴに放り込んで、レジ横のガムまで買った。
吐くことへの抵抗も、あれほど強かった嫌悪感も、いつの間にかどこかへ消えていた。むしろ、これを通してだけしか共有できない感情があるように思えた。誰にも話せないことを、ルシアンとは「嘔吐」と「沈黙」で話せる。
「はい、次ネルの番」
器を差し出しながら、ルシアンが子供みたいな顔で笑う。涙の代わりに、ふたりは一緒に吐く。それだけで、少しだけ救われる気がする。
口の中の苦さを拭いながら、ネルがうつむいて器を見ていると、唐突にルシアンが言った。
「……ねえ、ネルってさ。女の子、好きなんでしょ?」
ネルは器を置いて、ゆっくりとルシアンを見た。
「……普通、こんなときにそんなこと聞く?」
「いや、ふと思って」
ルシアンは悪びれもせず、ストローでコーラをちゅうちゅうと吸いながら言う。ネルは溜息まじりに問い返す。
「じゃあ、僕が女の子と付き合いだしたら、どうするの?」
その問いに、ルシアンはきょとんとしたあと、にやりと笑った。
「んー……その子を口説く」
「……は?」
「ネルが選んだ子なら、それなりのはずじゃん。3人で仲良くやろうよ」
「……」
「あんたが『好き』って思う人、俺も『好き』になる気がするから」
ネルは思わず笑った。馬鹿みたいなことを言われているはずなのに、どこか本気を感じた。
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