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Chapter I Side Nell & Lucien Youth
Side Nell & Lucien Youth IX 檻の序曲
しおりを挟むネルは大学に入ってからというもの、明らかに変わった。朝はきちんとスーツを着て通学し、教授やTA(ティーチング・アシスタント)との関係も良好で、ゼミでも意見を積極的に述べるタイプではなかったが、その聡明さと冷静さで教授陣からは一目置かれていた。
だが、日が沈む頃からのネルは別人だった。講義の終わりを待つようにして、スマホを一瞥し、そのままタクシーを呼ぶ。向かう先は決まって同じマンションの一室。
そこには、部屋の空気までも香水で塗りつぶしたような男がいる。いや、男と言っていいものだろうか。
ルシアン・モロー。ネルと同じ18歳。ネルと出会ったばかりの三年前は、駆け出しだった彼。
しかし今となっては、有名ファッション誌やフェチ系雑誌の表紙を飾る、所謂アンドロギュノスモデルになっていた。女のような睫毛と喉仏のない首、ハイヒールのまま脚を組み、マニキュアの爪でネルの頬に触れる。バニラとジャスミンの香水が混ざったような匂い。部屋の中は暑すぎるほど暖房が効いている。ベッド脇には雑誌に載った彼のポートレート。鏡には口紅で“PRETTY HURTS”と書かれていた
「今日も来てくれるんだね、モンシェリ。忙しいんじゃなかったの? USCってやつは」
ネルはジャケットを脱ぎながら、「講義は終わってる」とだけ答えた。USC(南カリフォルニア大学)に進学したのは、母ヘンリエッタがそこしか認めなかったからだ。「UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)?だめよ! 公立校には下品で育ちの悪い連中が沢山いるんだから!」
ネルに自由などあってはならないものだったのだ。ルシアンのベッドへネルは腰を下ろした。自然と2人の距離は密着し、ルシアンはすでにシャツのボタンを一つずつ外し始めていた。
ルシアンは心の奥でつぶやく。
――こんな高貴な血統の子が、俺のベッドで脱がされてる。
こっちは身体売って生きてきたってのに、何がどうしてこんなふうになるんだろう
そう思いながらネルの下腹にキスを落とし、まだ穿いたままの下着の上からゆっくりと触れる。
「……ほら、びしょびしょじゃん。ここまでやっても、まだ『綺麗なまま』なんだよね? 本当に皮肉。汚れてんのは、いつだって俺のほうなんだ」
その言葉にネルは何も言わなかった。ただ、わずかに眉をしかめて、ルシアンの長い黒髪を掴んだ。
当然ながら、そんな生活をヘンリエッタが見逃すわけがない。夜中に帰宅するネルに「どこにいたの?」と訊いても、「ゼミの仲間と飲みに行った」「家庭教師のアルバイトが長引いた」などと答えるだけ。
平然とした顔の裏で、ヘンリエッタの猜疑心は日に日に膨張していた。
そして数日後――
「『プロ』に頼んだ方が早いわ。うちの子が嘘を吐くわけがない。なら、その嘘をつかせてる『元』を突き止めるしかないのよ」
そしてさらに1週間ほど経ったある日。ヘンリエッタの書斎に呼び出された探偵が、封筒を机に置く。中には数枚の写真が入っていた。
通学用の標準服で誰かの部屋に入っていくネル。
同じ部屋から朝帰りするネル。
派手な格好をした黒髪の女性と濃密にキスしているネル。
撮影会か何かの写真だろうか? 黒い巻き毛を長く伸ばし、女性的な化粧を施し露出の高い服を着て胸をはだけている男……と呼ぶのも躊躇われるほど中性的な人物。
探偵は淡々と報告する。
「写真の相手は、ルシアン・モロー、18歳。フランス系アメリカ人で、いわゆるアンドロギュノスモデルです。完全に女性の風貌ですが、戸籍上は男性です。15歳から活動しており、…出自は、やや特殊でして…施設育ちで元娼童とも」
ヘンリエッタの目が、剥き出しになる。
「なにこれ……何なのこのおぞましい化け物は!! 男か女かわからないような……こんな下品な格好をして! なんて浅ましく下劣な……!!」
ヘンリエッタは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「あの子が……あの子がこんな『モノ』と親密になるほど、狂ってしまったっていうの!?」
封筒の中の一枚の写真──ルシアンがネルの膝の上に座って、額を寄せ合っているもの──を掴み、ぐしゃぐしゃに握り潰す。
「私はきちんと教育したのよ! 私のやり方に、どこに問題があるっていうの!? 間違ってるはずがないわ!
きっと……きっとあの馬鹿嫁のせいよ、クラリッサが散々甘やかしたせいで……!」
探偵は目を逸らした。
――この母親、正常の顔した狂人だな。どうして息子がこんなふうに育ったのか、わかる気がする。
そんな探偵にヘンリエッタはこう畳み掛ける。
「このことは外部には絶対に知られてはならない。口外したらあなたもあなたの家族も社会的に死ぬとお思いなさい」
その日、講義から帰宅したネルはメイド長オリビアに「お母様がお待ちです」と書斎に通された。
書斎に入った瞬間、ヘンリエッタの視線が突き刺さる。机の上にはネルのスマホと、一枚の写真──ルシアンと額を寄せ合う一枚──が置かれていた。
「どういうつもりなの?」
ネルが黙っていると、ヘンリエッタは低く冷たく言い放つ。
「あんな下劣な男娼崩れと関係を持つなんて、あなた、正気じゃないわ。今すぐ、この者と絶縁しなさい。電話をかけて、今この場で『二度と会えません』と伝えて」
「……嫌だ」
「じゃあこの者との別れを誓うまで、もう部屋から出さないわよ。食事も抜きで。いい? あなたはまだ学生。親の庇護下にあるの。教育方針に従って当然でしょう?」
ネルの部屋は洋館の二階、窓には柵、ドアの外には監視カメラがつけられた。扉の外には母が命じたSPが立ち、誰も不用意に近づけない。
食事は止められ、ネルは部屋の洗面所から水をすくっては喉を潤していた。スマホは取り上げられ、時間の感覚も薄れていく。
リビングではエドワードが母を冷静に諭そうとしていた。
「母さん、これでは逆効果だ。押さえつければ押さえつけるほど、反発するに決まってるじゃないか」
「いいえ。エレン・アデレードは人間なのよ。人間は、極限まで追い詰められれば目が覚めるものよ」
「その『極限』とやらで壊れたら、どうするつもりだい?」
ヘンリエッタは目を細めて笑う。
「壊れても、私が直してあげるわ」
母の決定は絶対、まるで家庭内に裁判所があるかのようだった。
「全部見させてもらったわよ、この中にあるあいつとのやり取りも。さすが淫売というべきか、本当におぞましかったわ。あれが人間だなんて認めたくない……!」
ヘンリエッタが震える手でスマホを握り、床に叩きつけようとした手を、エドワードが静かに止めた。
「母さん、それは僕が預かるよ。壊しても意味はない。記憶を消せるわけじゃない」
「……勝手にしなさい」
夜の屋敷の廊下。照明は抑えられ、床は微かに軋む。クラリッサはキッチンで用意した小さなトレイを手に、ネルの部屋へ向かってそっと歩いていく。
静かな廊下に、スープの器が触れるかすかな音。クラリッサの顔には迷いと焦りが混じっていた。ネルの好きなミネストローネを冷まさないように、歩幅を小さく──。
――誰にも見られないようにしなければ。
そのとき。
「――クラリッサ」
振り返ると、ヘンリエッタが廊下の向こうに立っていた。ナイトガウンのまま、薄暗い光の中でその青い目だけが鋭く光っている。
「……何をしているの」
クラリッサは一瞬言葉に詰まった。
「……少し、夜食を。私もお腹が空いて……」
ヘンリエッタは仮面を貼り付けたような無表情で近づいてくる。
「そのトレイは、エレン・アデレードの部屋の方向に持って行っていたわね」
クラリッサは誤魔化しきれず、小さく頷いた。
「ええ。でも、もう戻ります。すみませんでした」
ヘンリエッタの目がまた冷たく光る。
「ルールを破る人間が、母親の顔をして家の中をうろつかないで」
クラリッサの手からそっとスープのトレイを取り上げると、何も言わずに引き返していくヘンリエッタ。その背中に、クラリッサは何も言えなかった。
翌朝、ネルの部屋の前には小型の監視カメラが取りつけられ、クラリッサはおろか、他の家族すら近づけなくなった。
メイドは扉の横で監視を続け、まるで「家の中に収容所ができた」ような空気が流れた。
夜。ネルはベッドの上で膝を抱え、暗い天井を見上げる。
「どうして……母さんは、僕を『治す』気でいるんだろう。こんなふうにしてまで、何を守りたいの?」
ルシアンの指先、香水の匂い、長い睫毛。あの温もりと吐息が、まだ肌の奥に残っている。
「ルシアン……会いたい……」
フィッツロイ邸の主寝室。部屋の中は静かで、ランプの明かりが揺れている。クラリッサはスカートの裾を握りしめたまま、ベッドの端に座っていた。俯いたまま、肩が小刻みに震えている。
エドワードは静かに妻に近づき、隣に腰を下ろした。
「クラリッサ……何があったんだい?」
クラリッサは震える声で応える。
「わたし……ネルに、スープを届けようとしたの。でも……見つかったの。お義母さまに」
エドワードは息を詰めた。
「……母さんに?」
クラリッサは黙ってうなずいた。しばらくして、抑えていた涙が一気にこぼれる。
「わたし、母親じゃないのよ。エリザベスとキャロラインには母親面して、ネルには何もしてやれない……! 見てるしかできないなんて、こんなの、家族じゃない……!」
エドワードはそっと妻の肩に手を置きながら、言葉を探すように口を開く。
「君は、誰よりも家族に尽くしてくれている。母さんだって、昔はここまでじゃなかった。君まで壊れるわけにはいかないよ。お願いだから、自分を責めないで」
クラリッサは夫に身を委ねながら涙声で訴えた。
「ネルに……『ごめんね』って言いたいだけだったのに……」
家の中の「檻」は音を立てて閉じた。
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