夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide

Side Nell & Lucien Family Tide II 破滅の肖像

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 昼下がりの応接室。ロンドンからわざわざ飛んできたヘンリエッタの実妹のミリセント・カーレン侯爵夫人、ネルの亡き父ウィリアムの実弟レジナルド卿、そしてミリセントの息子パーシヴァルが、重厚なカウチにずらりと腰かけていた。
 ロサンゼルスの陽射しが絹のカーテン越しに差し込み、緊張だけがやけに白く浮き上がる。

「――で、お姉様。どういうおつもり?」
 ミリセントが口火を切る。宝石の指輪がきらりと光った。
「家名に泥を塗るような結婚を、あなたが許すはずがないでしょう。なのに、あの淫売と自分の娘との結婚を公認したと皆が噂しているのよ」

 レジナルドも口を歪める。
「兄上がご存命なら、絶対に止めたはずだ。家を守る最後の責任は、姉上、あなたにあるはずだろう」

 パーシヴァルは母の陰から得意げに鼻を鳴らす。そしてチラっと母の顔を見ながらこう言った。
「そうだそうだ、伯母さまはエレン・アデレードに甘すぎます。フィッツロイの威厳が泣いてますよ」
 

 ヘンリエッタの眉が、ぴくりと震えた。
「わ、わたくしのせいではありません!」
 声が急に裏返り、室内の空気が凍る。
「誰があんな男か女かわからない浮浪児崩れとの結婚を許したですって? わたくしは認めていない! あの憎たらしい淫売が勝手に、勝手に――!」

 ヒステリックな叫びは止まらない。
「すべてあの淫売と、聞き分けのない不良娘のせいよ!
 わたくしは、何一つ認めてなどいないのに!」

 アシュトン老執事が慌てて駆け寄る。
「奥様、どうか落ちついて……」
 しかしヘンリエッタは椅子を蹴り、テーブルの銀のトレイを鳴らしてしまう。
 エドワードも立ち上がり、母の両肩を押さえた。
「母さん、お願いだ。体に障るから」
「離しなさいエドワード! わたくしを悪者にしようとしても無駄よ!」

 絹を割くような声。白髪が乱れ、宝石の耳飾りが震える。
 ミリセントは鼻先で笑った。
「ほら、やっぱり聞く耳持たない。お姉様は昔からそう。騒げば済むと思ってるの」
 レジナルドは肩をすくめ、パーシヴァルは「ふん」と鼻を鳴らす。三人は、ヘンリエッタの激情を冷ややかに見下ろしていた。

 少し離れたところには、ミリセントに腕を引かれるようにして来たエドウィンの姿もあった。
 黒いシャツの袖を軽くまくり、スマートフォンを片手に涼しい顔。
 ヘンリエッタが絶叫しテーブルを震わせるその瞬間――レンズが、確かにきらりと光った。

「エドウィン!」
 エドワードが顔色を変える。
「君も録画なんてしてないで、母を止めてくれ!」

 エドウィンは微笑んだまま、指先で画面をスワイプする。
「そういうわけにはいきませんよ。このドラマチックな現場を記録すること――それが、僕に課せられた唯一の使命ですから」

 シャッター音が静かに響く。
 まるでこの修羅場そのものが、一幅の絵画であるかのように。

**


 厚い扉越しに、母の絶叫が波のように押し寄せてくる。
 ネルはベッドに腰を下ろし、そっと腹に手を当てた。
 まだ小さな命のぬくもりが、自分だけの秘密のようにそこにある。

「……ごめんよ、エヴァ」

 誰にも聞こえない声でつぶやく。
 母や叔母、親族の罵声の中で、この子だけは守り抜かねば――胸の奥で、静かな決意が痛みとともに広がった。


**


 PCの画面には、
「モデル・ルシアン・モロー、英国貴族令嬢との密会」
という文字が黒々と踊っていた。
 ヴァネッサは額に手を当て、長い吐息をつく。

――どうして。
 あの二人を会わせたのは私なのに。

 胸の奥で鈍い痛みが広がる。思考を振り払うように、彼女は椅子から立ち上がった。

「紅茶でも淹れ直そうかしら」

 声は自分でも驚くほどかすれていた。キッチンへ向かう足取りは落ち着かず、足音だけが静かな家にやけに響く。
ポットを取り、やかんに湯を注ぎながら、指先がかすかに震える。
 あの日、軽い気持ちでネルにルシアンと接触することを許した自分を責める声が、頭の奥でこだまする。
「だって、本当に信じられなかったんだもの。あの二人がそういう仲になるなんて」
 水がポットの口を満たす音が、やけに大きく感じられた。
 胸の鼓動が早い。ティーバッグを探そうとして、ヴァネッサはふと手を滑らせた。
 ヴァネッサはポットを持つ手を滑らせ、カップが鈍い音を立ててテーブルに転がった。透き通った紅茶が、絨毯へ淡い円を描く。

「ヴァネッサ?」

 新聞から顔を上げた夫のルーカスが、眉を寄せる。
「どうしたんだい。君らしくない」

 彼女は一拍置いて笑みを作った。
「少し考え事をしていただけ。何でもないわ」

 しかし声がわずかに震え、ルーカスは椅子を引き寄せる。
「考え事って、あの…モデルのルシアン・モローのことか?」

 ヴァネッサの胸に痛みが走る。自分が彼をネルに紹介した。あの二人があんな関係になるなんて――想像もしなかった。

「私が、あの二人を会わせたのよ」

 呟いた言葉は自分でも驚くほど小さい。
「まさか、あんなことになるなんて」

 ルーカスは軽く息をつき、彼女の手をそっと包む。
「ヴァネッサ、君が責任を感じる必要はない。人は自分の選んだ道を歩くものだろう?」

 だがヴァネッサの脳裏には、鮮やかなゴシップ記事の見出しが点滅していた。
 ルシアンの名はただでさえスキャンダラス。ネルや子どもまでもが巻き込まれれば、今まで以上に炎上しかねない――。


**


 USCの古い演劇ホールでは、舞台版「サロメ」が上演されていた。
 舞台の中央に立つネルは、スポットライトを浴びながら衣装の裾を翻した。金糸を散らした白のドレスが、彼の細い肩をさらに華奢に見せている。
 観客席からは誰も声を出さない。息を呑む気配だけがあった。

 「ヨハネの首を、わたしに……」

 かすかに震える声は、しかし鋭く響いた。妊娠で体は弱っているはずなのに、その一言が空間を支配してしまう。エリオット監督はネルの身体を案じていたが、本人はサロメを演じ切ることを選んだ。
 サマンサは編集用のカメラを握ったまま、作業を忘れてしまった。レンズ越しに映るネルの姿は、サロメそのもので――同時に、彼そのものだった。

――やっぱりこの人は特別なんだな。

 思わず胸の奥でつぶやいて、我に返った。編集係としては、今の場面をきちんと録らねばならないのに。指先が震えて、ボタンを押すのが遅れた。

**

 練習を終えて校門へ向かうと、門の外はパパラッチたちの群れだった。
「ネイサニエル・フィッツロイさん!」
「妊娠は事実ですか?」
「父親はモデルのルシアン・モローですか?」
 フラッシュの嵐が夜の街のネオンのように眩しい。

 「ここは大学の敷地だ!退去しなさい!」
 教務課の職員が必死に叫ぶが、パパラッチたちは柵に張り付き、マイクを差し出してくる。

 「まったく、これじゃサーカスだな……」
 「男ぶってるくせに、妊娠なんてするから……」
 「しかも相手、あのルシアンでしょ? ショックとか通り越してわけわかんない」
 学生たちがスマホを掲げながら冷やかすように笑った。SNSには「#USCの令嬢妊婦説」がすでに飛び交っている。

 ネルは一瞬サマンサの影に隠れるようにして歩いた。だが、次の瞬間、ふいに立ち止まる。
 目の前に突きつけられたマイクを見つめ、深く息を吸った。観客席の静まり返った演劇ホールと同じように、門前のざわめきが一瞬吸い込まれた。
 「はい。僕はルシアンを愛しています」

 記者たちのざわめきが一瞬止まる。
 ネルの声は震えていなかった。
 「僕は恐れません。だって、もう父親なんですから」

 フラッシュが一斉に光り、記者たちがどよめいた。

 サマンサは隣で、ただ黙ってネルを見ていた。
 ――やっぱり、すごい人だ。


**


 その夜、ルシアンは部屋の灯りを落とし、ノートパソコンをベッドの上に置いた。「せっかくだから見て」とサマンサから送られてきた映像ファイルを、もう何度再生しただろうか。
 画面の中、白い衣をまとったネルが、ゆるやかに踊る。そこにはサロメの魂を宿したような彼がいた。
 監督に言われて毒を含んだはずの視線は、ルシアンにはどうしようもなく甘く見えた。――否。甘いからこそ、毒になるのだ。
 ――こんなに綺麗な存在が、俺の子を孕んでるんだ。
 そう思った瞬間、胸の奥で何かが弾けるように熱を帯びた。演技と現実が混じり合って、倒錯的な悦びが背筋を走る。
 ルシアンは無意識に、画面へ指を伸ばした。液晶の上でネルの頬をなぞる。熱を帯びた瞳がこちらを射抜くたび、胸の奥がざらつくように疼いた。
 どうしようもなく欲しくなる――でもそれは、男が女を欲しがるような欲望ではなかった。ルシアンはネルを「女」だと思ったことなどないし、ネルもルシアンを「男」と見てはいない。そういう区分けなど、二人には存在しない。ただ、お互いに半身のような存在だから、どうしても求めずにいられないというだけ。

 ルシアンは華奢な身体をベッドに仰向けに横たえる。細い腰をずらす。スカートの裾を指でつまみ、ためらいながらめくり上げた。
 冷たい空気が太ももに触れる。自分がどちらでもなく、どちらでもあるという現実を、こういう瞬間に一番突きつけられる。ルシアンは女でも男でもない。しかし、この渇きは確かに彼自身の中にある。
 映像の中でネルがくるりと振り向く。白金の髪が揺れ、視線が突き刺さる。
――ああ、駄目だ。ネルが見ている気がする。俺だけを挑発しているみたいに。
 吐息がもれ、身体がしびれる。目を閉じても、まぶたの裏にネルの姿が焼きついて離れない。
――俺のサロメ。いや、ネルのサロメ。どっちでもいい。俺の中では、その二つはもう同じ意味なんだ。

 昂ぶりの波が押し寄せる。胸が詰まり、声が洩れそうになって、ルシアンはその赤い唇を噛んだ。
 ……ネル。
 名前を呼んだ瞬間、堪えていたものが一気にほどけて、世界が白くはじけ飛んだ。

 肩で息をしながら画面を見やる。まだネルは踊っている。挑むように、笑うように。
 ルシアンはただ、画面にすがるみたいに手を伸ばした。届くはずのない相手に、どうしようもなく触れたくて。


**


 まだ早朝のロサンゼルス。
 爽やかな青空の下、古い聖公会の教会が静まり返っていた。ステンドグラスの隙間から差す光は白く明るく、礼拝堂は夢のように輝いていた。

 ヴァネッサとサマンサがそっと扉を閉めると、石畳に二人の靴音がかすかに響いた。
 ルーカス助任司祭は祭壇の前に立ち、微笑みながら聖書を開いた。

 ヴァージンロードの先――ネルがタキシードに身を包み、静かに立っていた。
 白いシャツの襟元には、ルシアンが贈った銀のピンが光っている。
 そしてその隣には、ルシアン。真珠色のドレスを纏い、黒髪を後ろに束ね、どこか誇らしげに微笑んでいた。

 誰もが一瞬、息を呑んだ。男女という枠組みが崩れ、ただ「ふたりの魂」が並び立つ。
 祝福の言葉が響くたび、ネルの肩に落ちる朝の光が少しずつ強くなっていく。

 ルーカスは小さく祈りを唱え、指輪を掲げた。
 「この契りを、人が分かつことなかれ」

 ネルがルシアンの指に指輪を通す。ネルの唇がふるえ、かすかに笑う。
 その笑みを見て、ヴァネッサは初めて心から安堵した――
 たとえ世間がどう言おうとも、この二人だけはお互いを赦し合える。

 サマンサのカメラが、光の粒を捉えた。それはこの世で一番美しい瞬間だった。


**


 数日後。フィッツロイLA邸の居間でのことだった。
 テーブルの上には、今朝届いた封筒が置かれていた。

 エドワードが中から写真を取り出す。
 そこには、笑顔で並ぶネルとルシアン。ネルはタキシード姿、ルシアンはドレス姿。
 祭壇の前にはルーカスとヴァネッサ、そして控えめに並ぶサマンサ。

 「……やれやれ」
 エドワードは苦笑し、クラリッサも同じように肩をすくめた。
 エリザベスとキャロライン、若い世代は瞳を輝かせて声を上げる。
 「ネル姉様もルシアンも、すごくかっこいい!」

 だが次の瞬間、ヘンリエッタが写真を一目見て絶句し、顔を真っ青にして椅子に崩れ落ちた。
 アシュトン老執事とメイド長オリビアが慌てて駆け寄り、支える。

 「お、奥様……! しっかりなさってくださいませ!」

 写真は、ヘンリエッタの震える手からすべり落ちた。
 柔らかな絨毯の上で、光を受けた銀の指輪が静かにきらめいた。



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