8 / 33
第八話 なんで私じゃダメなの
しおりを挟む
レストランを出たのは、九時より少し前だった。
赤羽の駅に向かって、人通りの少ない裏路地を歩いていく。
ほんのりと赤い顔の菅原が先を進み、その後ろを明日香がついて行く。もう少し歩けば、賑やかな駅前の通りに出る。
明日香は足を止めた。
ヒールの足音がついて来ないことに気が付き、菅原が振りかえる。
「どうしました?」
「あの、私……」
「別の店で飲みなおしますか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
勇気を出せ、明日香。
帰りたくない。もっと一緒に居たい。
菅原さんの、特別になりたい。
ちゃんと言わなきゃ。
明日香は手にしていたハンカチを握りしめた。掌は汗びっしょりだった。
昔から、緊張するとすぐ汗をかく。
「私、菅原さんと、もっと親しくなりたいと思っています。もっと、ちゃんと」
明日香がまっすぐな瞳で告白する。
菅原はその視線から逃げなかった。
彼女の元に近づき、少し屈むような姿勢で彼女を諭す。
「宮守さん。宮守さんの気持ちは嬉しいけど、僕はもうすぐ四十なんだ。いくらなんでも離れすぎだよ。多分、宮守さんは暎子さんの話に触発されて、年上の僕に期待しているのかもしれないけど、僕はテクニックがあるわけでもないし、付き合った女性の数だって、十も二十もあるわけじゃないんだ。ただ年食ってるだけの、オッサンなんだよ」
菅原は、まるで彼女が告白してくることを予想していたかのように、滑らかに返事をした。
「私はそんな、期待とか……」
眉を八の字にする彼女を見て、菅原が困ったような顔をする。
「僕は、君には釣り合わないよ。ご両親だって、娘がこんな年の離れた男と付き合ってるなんて知ったら、激怒するよ」
明日香は唇を噛んだ。
ふられた。完全にふられた。
生まれて初めて、自分から告ったのに。
私の為、みたいに、体の良いこと言って。
だったら、いっそ嫌いだって言われたほうがマシだ。
「私のこと、嫌いですか」
「嫌いじゃないよ。宮守さんみたいな素敵な人に親しくしてもらって、嬉しかったよ。久しぶりに女性と食事したし。楽しかった」
「女だったら、誰でも良かったんですか」
「そんなこと言ってないよ」
少し声のトーンを下げて、辟易した様子の菅原。
もうダメだ。
今ので、完全に嫌われた。
鼻の奥がジワジワと熱くなってくる。
泣くな明日香。ここで泣いたらダメだ。
「泣けばどうにかなる」って計算してる女だと思われる。
私はそんな女じゃない。
「宮守さん、今度はもっとガンガンに飲める店に行きましょう。宮守さん、結構強そうだし。金曜なら僕も気にせず飲めますから、今度は金曜日に会いましょう。折角ですから、暎子さんも誘いましょう」
憔悴した彼女を気にして、菅原は敢えて明るく振る舞っているようだった。それが余計に明日香を落ち込ませた。
本当にバカだな、私。
心のどこかで、彼は断らないって思っていた。
美人じゃないけど、自称可愛い系。
凹凸はないけど、ウエストや手足は細いし。
女としては中の上、上の下は、いっていると自負していた。
こんな二十代女子と付き合うチャンスなんて、彼にはそうないはずなんだから、断るはずがないって。
それを彼に見透かされたのかな。「バカにするな」って。
ふられて当然かもしれない。
明日香は肩を落とした。
◆◆◆◆
デスクでパソコンを叩く明日香の隣に、同僚の鈴木が回転椅子を転がしながら近づいてきた。
「どうしたの。最近元気ないじゃん」
明日香は露骨に愛想笑いをした。
「そんなことないですよ」
「彼氏と喧嘩でもした?」
「彼氏なんて……」
言葉を濁す明日香。
あれから二週間。
結局、菅原とも健斗とも連絡を取っていない。
健斗とはもうダメだろう。勿論、菅原ともだが。
「ところでさ。昨日専務と食事したんだけど、その時出たんだよ、リーズの話」
「本当ですか?!」
リーズとはイギリスの地名だが、彼女たちが言っているのはリーズ大学のことである。
明日香が面接のときに聞いた、共同プロジェクトがようやく動き出した。リーズ大学と協力して、都市開発のプロジェクトチームを作るのだ。
「来月から本格的に動き出すみたいなんだけど。それで、新人ちゃんが来るみたいなのよ」
明日香は大袈裟に手を叩いた。
入社して三年目だが、未だに自分の下には誰も入ってきていない。
これでようやく、雑用専任から解放される。
「……って言っても、宮守さんより年上なんだけどね」
「え……?」
その新人というのは、シンクタンクから転職してきた二十七歳の女性だという。
高校までイギリスに住んでいた帰国子女で、今回のリーズのプロジェクトに伴い、専務が知人を通じて直々に採用したらしい。
「再来週の月曜から来るから、いろいろ教えてあげてよ。年のことなんて気にしなくていいからね。宮守さんのほうが先輩なんだから」
「はぁ……」
半ば放心状態で聞き流す。
「内務事務に関しては本当、宮守さんにおんぶにだっこで、申し訳ないって思ってるんだけど。宮守さんがあんまり完璧にやるもんだから、すっかり甘えちゃって。専務も言ってたよ。『彼女は採用して正解だった』って。『あんなに几帳面にやる子、なかなかいない』って。めちゃくちゃ高評価だったよ」
「それはどうも……」
終わった。
私のリーズ行きは、絶対ないな。
延々私は、ここで雑用をさせられるんだ。
転職、考えたほうが良いかな。
◆◆◆◆
大宮駅に向かう道すがら、明日香は携帯電話をかけていた。
「六時半で予約していた、宮守です。あの、キャンセルしたいんですけど……」
通話先は、池袋の語学教室である。
チェーン店化している大手のスクールではなく、小規模の、専門性の高い会話を習得する教室である。
彼女は就職が決まったと同時に、将来イギリスに行くことを夢見て、この教室の門を叩いた。
ビジネス英会話を習う学校は他にもあったが、教師がネイティブでなかったり、専門性とは名ばかりだったりというものが殆どだった。ネットのクチコミも当てにならず、ひたすら足で探して、ようやく見つけた教室だった。
しかし、今日鈴木から話を聞かされた時点で、モチベーションが一気に下がってしまった。
もうどうでもいい。どうせ頑張ったって、リーズには行けないのだから。イギリスとの電話やメールのやり取り程度なら、これ以上気合を入れて勉強する必要もない。
前払いした分を消化したら、もう辞めようかな。
「はい……すみません。次の予約は日を改めて。はい……また掛けなおします。すみません」
終話ボタンを押した瞬間、ラインの通知が来た。
菅原からだった。
『お元気ですか。連絡がないので少し心配しています』
明日香の目に涙が浮かぶ。
なによ。盛大にふっておいて、今更。
あれから何度か、菅原からラインは来ていた。金曜日に飲もうという内容だったが、全て無視していた。
あんなふられ方をして、どの面下げて飲みに行けと言うのだ。
『もう、連絡してこないでください』
文章を入力したところで、指を止める。
ダメだ。こんな感情的にラインを送るのは。
辛い。悲しい。悔しい。寂しい。
様々な感情が押し寄せてくる。
菅原さん、なんでダメなの?
なんで私じゃダメなの?
どれもこれも、私じゃダメ、私じゃダメって。
私が何したって言うのよ。一生懸命、やってるのに。どうして?
明日香はその場に座り込んだ。
駅前の大通り。菅原に偶然会った、ケーキ屋のある百貨店の前。
道行く人が、スマホを握り締めてしゃがみこむ彼女に視線を落とし、迷惑そうに避けていく。
握ったスマホが、掌の中でブルブルと震える。
暫く無視していたが、バイブレーションはいつまでも続いている。画面を見ると、菅原からの電話だった。
反射的に通話ボタンを押してしまう。
「も、もしもし?」
『……宮守さん』
「はい……?」
『すみません。傷つけるつもりは、なかったんです』
菅原の声は暗く、途切れそうなくらい力がなかった。
え? どういうこと?
もしかして私、さっきのメッセージ、送信しちゃったの?
ラインの画面に戻ってみると、果たしてメッセージは送信済みになっていた。座り込んだ勢いで、送信ボタンを押してしまったのだ。
「ごめんなさい、今のは間違いで……」
『すみませんでした。もう、連絡はしません。一言ちゃんと、謝っておきたくて。本当に、すみませんでした』
菅原からの電話は、そこで終わった。
赤羽の駅に向かって、人通りの少ない裏路地を歩いていく。
ほんのりと赤い顔の菅原が先を進み、その後ろを明日香がついて行く。もう少し歩けば、賑やかな駅前の通りに出る。
明日香は足を止めた。
ヒールの足音がついて来ないことに気が付き、菅原が振りかえる。
「どうしました?」
「あの、私……」
「別の店で飲みなおしますか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
勇気を出せ、明日香。
帰りたくない。もっと一緒に居たい。
菅原さんの、特別になりたい。
ちゃんと言わなきゃ。
明日香は手にしていたハンカチを握りしめた。掌は汗びっしょりだった。
昔から、緊張するとすぐ汗をかく。
「私、菅原さんと、もっと親しくなりたいと思っています。もっと、ちゃんと」
明日香がまっすぐな瞳で告白する。
菅原はその視線から逃げなかった。
彼女の元に近づき、少し屈むような姿勢で彼女を諭す。
「宮守さん。宮守さんの気持ちは嬉しいけど、僕はもうすぐ四十なんだ。いくらなんでも離れすぎだよ。多分、宮守さんは暎子さんの話に触発されて、年上の僕に期待しているのかもしれないけど、僕はテクニックがあるわけでもないし、付き合った女性の数だって、十も二十もあるわけじゃないんだ。ただ年食ってるだけの、オッサンなんだよ」
菅原は、まるで彼女が告白してくることを予想していたかのように、滑らかに返事をした。
「私はそんな、期待とか……」
眉を八の字にする彼女を見て、菅原が困ったような顔をする。
「僕は、君には釣り合わないよ。ご両親だって、娘がこんな年の離れた男と付き合ってるなんて知ったら、激怒するよ」
明日香は唇を噛んだ。
ふられた。完全にふられた。
生まれて初めて、自分から告ったのに。
私の為、みたいに、体の良いこと言って。
だったら、いっそ嫌いだって言われたほうがマシだ。
「私のこと、嫌いですか」
「嫌いじゃないよ。宮守さんみたいな素敵な人に親しくしてもらって、嬉しかったよ。久しぶりに女性と食事したし。楽しかった」
「女だったら、誰でも良かったんですか」
「そんなこと言ってないよ」
少し声のトーンを下げて、辟易した様子の菅原。
もうダメだ。
今ので、完全に嫌われた。
鼻の奥がジワジワと熱くなってくる。
泣くな明日香。ここで泣いたらダメだ。
「泣けばどうにかなる」って計算してる女だと思われる。
私はそんな女じゃない。
「宮守さん、今度はもっとガンガンに飲める店に行きましょう。宮守さん、結構強そうだし。金曜なら僕も気にせず飲めますから、今度は金曜日に会いましょう。折角ですから、暎子さんも誘いましょう」
憔悴した彼女を気にして、菅原は敢えて明るく振る舞っているようだった。それが余計に明日香を落ち込ませた。
本当にバカだな、私。
心のどこかで、彼は断らないって思っていた。
美人じゃないけど、自称可愛い系。
凹凸はないけど、ウエストや手足は細いし。
女としては中の上、上の下は、いっていると自負していた。
こんな二十代女子と付き合うチャンスなんて、彼にはそうないはずなんだから、断るはずがないって。
それを彼に見透かされたのかな。「バカにするな」って。
ふられて当然かもしれない。
明日香は肩を落とした。
◆◆◆◆
デスクでパソコンを叩く明日香の隣に、同僚の鈴木が回転椅子を転がしながら近づいてきた。
「どうしたの。最近元気ないじゃん」
明日香は露骨に愛想笑いをした。
「そんなことないですよ」
「彼氏と喧嘩でもした?」
「彼氏なんて……」
言葉を濁す明日香。
あれから二週間。
結局、菅原とも健斗とも連絡を取っていない。
健斗とはもうダメだろう。勿論、菅原ともだが。
「ところでさ。昨日専務と食事したんだけど、その時出たんだよ、リーズの話」
「本当ですか?!」
リーズとはイギリスの地名だが、彼女たちが言っているのはリーズ大学のことである。
明日香が面接のときに聞いた、共同プロジェクトがようやく動き出した。リーズ大学と協力して、都市開発のプロジェクトチームを作るのだ。
「来月から本格的に動き出すみたいなんだけど。それで、新人ちゃんが来るみたいなのよ」
明日香は大袈裟に手を叩いた。
入社して三年目だが、未だに自分の下には誰も入ってきていない。
これでようやく、雑用専任から解放される。
「……って言っても、宮守さんより年上なんだけどね」
「え……?」
その新人というのは、シンクタンクから転職してきた二十七歳の女性だという。
高校までイギリスに住んでいた帰国子女で、今回のリーズのプロジェクトに伴い、専務が知人を通じて直々に採用したらしい。
「再来週の月曜から来るから、いろいろ教えてあげてよ。年のことなんて気にしなくていいからね。宮守さんのほうが先輩なんだから」
「はぁ……」
半ば放心状態で聞き流す。
「内務事務に関しては本当、宮守さんにおんぶにだっこで、申し訳ないって思ってるんだけど。宮守さんがあんまり完璧にやるもんだから、すっかり甘えちゃって。専務も言ってたよ。『彼女は採用して正解だった』って。『あんなに几帳面にやる子、なかなかいない』って。めちゃくちゃ高評価だったよ」
「それはどうも……」
終わった。
私のリーズ行きは、絶対ないな。
延々私は、ここで雑用をさせられるんだ。
転職、考えたほうが良いかな。
◆◆◆◆
大宮駅に向かう道すがら、明日香は携帯電話をかけていた。
「六時半で予約していた、宮守です。あの、キャンセルしたいんですけど……」
通話先は、池袋の語学教室である。
チェーン店化している大手のスクールではなく、小規模の、専門性の高い会話を習得する教室である。
彼女は就職が決まったと同時に、将来イギリスに行くことを夢見て、この教室の門を叩いた。
ビジネス英会話を習う学校は他にもあったが、教師がネイティブでなかったり、専門性とは名ばかりだったりというものが殆どだった。ネットのクチコミも当てにならず、ひたすら足で探して、ようやく見つけた教室だった。
しかし、今日鈴木から話を聞かされた時点で、モチベーションが一気に下がってしまった。
もうどうでもいい。どうせ頑張ったって、リーズには行けないのだから。イギリスとの電話やメールのやり取り程度なら、これ以上気合を入れて勉強する必要もない。
前払いした分を消化したら、もう辞めようかな。
「はい……すみません。次の予約は日を改めて。はい……また掛けなおします。すみません」
終話ボタンを押した瞬間、ラインの通知が来た。
菅原からだった。
『お元気ですか。連絡がないので少し心配しています』
明日香の目に涙が浮かぶ。
なによ。盛大にふっておいて、今更。
あれから何度か、菅原からラインは来ていた。金曜日に飲もうという内容だったが、全て無視していた。
あんなふられ方をして、どの面下げて飲みに行けと言うのだ。
『もう、連絡してこないでください』
文章を入力したところで、指を止める。
ダメだ。こんな感情的にラインを送るのは。
辛い。悲しい。悔しい。寂しい。
様々な感情が押し寄せてくる。
菅原さん、なんでダメなの?
なんで私じゃダメなの?
どれもこれも、私じゃダメ、私じゃダメって。
私が何したって言うのよ。一生懸命、やってるのに。どうして?
明日香はその場に座り込んだ。
駅前の大通り。菅原に偶然会った、ケーキ屋のある百貨店の前。
道行く人が、スマホを握り締めてしゃがみこむ彼女に視線を落とし、迷惑そうに避けていく。
握ったスマホが、掌の中でブルブルと震える。
暫く無視していたが、バイブレーションはいつまでも続いている。画面を見ると、菅原からの電話だった。
反射的に通話ボタンを押してしまう。
「も、もしもし?」
『……宮守さん』
「はい……?」
『すみません。傷つけるつもりは、なかったんです』
菅原の声は暗く、途切れそうなくらい力がなかった。
え? どういうこと?
もしかして私、さっきのメッセージ、送信しちゃったの?
ラインの画面に戻ってみると、果たしてメッセージは送信済みになっていた。座り込んだ勢いで、送信ボタンを押してしまったのだ。
「ごめんなさい、今のは間違いで……」
『すみませんでした。もう、連絡はしません。一言ちゃんと、謝っておきたくて。本当に、すみませんでした』
菅原からの電話は、そこで終わった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
274
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる