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第五章 宮守明日香【後編】
第三十六話 君に、夢中になりすぎた。
「ほんっとーに、ごめんっ!!」
全裸の大輔は、恭子の部屋の真ん中で土下座をしていた。
ベッドの上では澄ました顔の恭子が、ティシュで後始末をしている。
「まさかこの私が、他の女の名前呼ばれながら、中出しされる日が来るとはね」
「煮るなり焼くなり、好きにしていい……本当に申し訳ない」
床に額をつけたままの嘗ての恋人の姿に、恭子は声を出して笑った。
「冗談よ。事情があるっていうのは、承知の上でしたんだし。気にしないで」
大輔は少しだけ頭を上げ、上目遣いに彼女を見た。
「本当にごめん……なんて言ったらいいのか……」
「だから平気だって。それよりさ、そんなに彼女のことが好きなら、もうちょっと頑張ったらどう?」
「その話は……もういいよ」
再び床に視線を落とす彼を見て、恭子が諦めたように息を吐く。
「……そっか。彼女の話はしたくないか」
恭子は椅子に掛かっていた膝掛けを羽織り、大輔の横を通り過ぎながら寝室を出ていく。彼は自身の下着を拾いつつ、無意識に後を追った。
「でもね、これだけは言わせて。大輔君が吹っ切れるために私と寝るのは勝手だけど、それを理由にして、彼女と別れたりするのはやめてよね」
リビングに戻ってきた恭子は、床に散乱した大輔の衣服を拾い上げ、彼に手渡した。
怪訝そうな面持ちでボクサーパンツに足を通す大輔。
「……どういうこと?」
「私と寝たことを、彼女には絶対言わないこと。言ったら、本当にお終いだよ」
ワイシャツを渡された大輔が、ボタンを留めながら反論する。
「『お終い』も何も……もう彼女とは会わないよ」
恭子は彼のネクタイを首に巻き、慣れた手つきで結ぶ。
「……本当にお終いにしちゃうの?」
「恭子さんとセックスして覚悟は決めたよ。どうせ彼女だってイギリスに行ったら、俺のことなんかすぐ忘れるだ……くっ、苦しいよっ!」
大輔は彼女にネクタイで締め上げられていた。
鬼の形相で睨まれた大輔は、硬直して石化してしまいそうな気分だった。
「大輔君、彼女を舐めてる。彼女、絶対諦めないよ。あなたの思うようには、絶対にならない」
「なんでそんなこと……」
身体を反らしながら尋ねると、恭子は何かを見透かしたような怪しい瞳で言った。
「今どきの女は強いのよ。シクシク泣いて『悲しいけど、さようなら』なんて言うと思ったら、大間違いよ。せいぜい彼女に翻弄されるといいわ。あなたがここまで好きになった子だもの、絶対このままじゃ済まさないわよ」
****
明日香の渡英を十日後に控えた、土曜の夕方。
大輔は一人、自宅のリビングにいた。
色褪せたスウェットの上下を着て、手にしたスマホに時折り目を落としつつ、テレビ画面をぼんやりと見ている。
土曜の午後はいつも明日香と共に過ごすのだが、今週は出張だと嘘をついて断った。
恭子との情事以降、あれこれ言い訳をして彼女とは会っていない。明日香自身も多忙を極めているため、恋人と会えないことをそれほど深刻に考えていない様子だった。
久しぶりに完全に自由な時間を持てたのだから、見たかった映画でも借りようと、母親の見舞いの帰りにレンタルビデオ店に寄った。
しかしいざ店内に入ってDVDを手にしても、鑑賞する気が全く湧いてこない。明日香と一緒に見ようと思っていたものばかりで、昔懐かしい作品も「彼女が見たらなんて言うか」などと思ってしまう。結局、何も借りないまま店を出てしまった。
いつの間にかすっかり日も暮れ、夕飯でも買いに行こうかと腰を上げた時、スマホがメッセージを伝えてきた。
『大輔さん、今日会えない? 会いたいの』
明日香からのラインだった。
『大阪から帰ってきてる? 今、電話しても良い?』
立て続けに入るメッセージ。
『まだ大阪なの?』
『私ね、浦和にいるの。これから家に行ってもいい?』
どうしたんだ、急に。
明らかに彼女は焦っている。
自分が避けていることに、気づいたのだろうか。
『さっきまで、暎子と会ってたんだよ』
『暎子から聞いたけど、大輔さん、元カノと会ったの?』
『ちょっと、心配になっちゃって』
そうか、暎子さんに会って、彼女から話を聞いたのか。
出所は当然篠原さんだろう。娘との会話に俺と恭子さんを登場させたに違いない。
でもなぜ暎子さんが、その話を明日香にしたのだろうか。
まぁいい。今更そんなこと、どうでもいい。
ラインを無視して財布を掴むと、再びスマホが勢いよく震えだす。明日香からの通話の着信だった。
出るべき、だろう。
どのみち水曜の壮行会もキャンセルすると、話をつけなければいけない。
しかしこの状況だと、彼女が簡単に承諾するとは思えない。
俺が会おうとしないのは都合が悪いからではなく、別れるつもりだと勘づいているかもしれない。
思い切って通話を開く。
『大輔さん……?』
彼の存在を確かめるように、恐々とした声を発する明日香。
『今、どこにいるの? ねぇ、大輔さ……』
「明日香」
久しぶりに恋人の名を呼んで、大輔は目頭が熱くなった。
明日香。明日香。
俺の恋人。俺が好きでたまらなかった人。
『大輔さん、今どこなの?』
「家だよ」
『大阪から、帰ってきたの?』
「……行ってない」
『え?』
電話口の向こうで、彼女が動揺しているのが手に取るようにわかる。
「大阪には、行ってない」
大輔が答えると、明日香の声は震えながら裏返った。
『ど、どういうこと? え、ちょっと、わかんない』
「ごめん、明日香。俺はもう……君には会えない」
俺は本当に馬鹿だ。
こんなこと、本当は死んでも言いたくないのに。
自分で決めておいて、自分で言っておいて、俺はこの瞬間も後悔している。
でも、もう決めたことだ。後戻りはできない。
『大輔さん、ちょっと待って。どういうこと……』
「俺たち、もう終わりにしないか」
****
その後間もなく、明日香は大輔のマンションに現れた。
恋人に一方的に別れを告げられた彼女は、半狂乱になってその理由を聞きにやって来たのだ。
真っ赤な目をした明日香が、意を決したように尋ねてくる。
「私ともう会わないって、どういうこと? なんで急にそんなこと言うの?」
大輔は大きく深呼吸をすると、リビングの床に視線を向けたまま言った。
「俺、もう疲れたんだ」
大きく目を見開いて硬直する明日香。
「俺は俺なりに、君に相応しい男になろうと頑張ったよ。年の差なんて、プラスのハンデにしてやるって、意気込んでた」
目を伏せて口元に手をやりながら、話をつづける大輔。
「でもまさか誕生日に、他の男と会ってたなんてね。あの時は本当に、気が狂いそうになったよ。『あぁ、俺は所詮、セックスの踏み台か』って。昔の男となんか、とっくに別れてると思っていたのに……」
言下に明日香が叫ぶ。
「違う!! 私は健斗と繋がってなんかない!! あの時はたまたま……」
「わかってるよ。君が二股かけるような女性じゃないってことぐらい。でもね、俺だって怒鳴りたい時ぐらい、あるんだよ。でも電話口でワンワン泣かれて。黙って許すしかなかった」
昔の恋人を呼び捨てにする明日香を目の当たりにして、大輔は彼女との距離を感じた。
自分のことは、いつまで経っても「さん」付けなのに。
やはり年が離れているせいなのだろうか。
今まで一度も、呼び方なんて気にもしなかったのに。こんな些細なことに固執している。
俺は、なんてつまらない男になってしまったんだ。
「それからだんだん、自信がなくなっていった。いくら君から好きだと言われても、確信が持てなくなった」
大輔はようやく顔を上げて、彼女を見た。
ショートヘアはそれほど気に入らなかったのか、彼女はあれから髪を伸ばしてセミロングの長さを保っている。
友達と会っていたせいか、いつもとは違うシンプルなワンピース。自分と会うときは、飛び切りお洒落をしてくれていたと痛感する。
「そんな時、君からリーズ行きを聞かされて。焦って結論を急ごうとしたら、君にあっけなく却下されて」
大輔は自嘲気味に顔を歪ませて笑った。
小動物のような小さな瞳から、ボロボロと涙をこぼす明日香。
鼻先を赤くして、唇を震わせている。
不思議な感じだ。
まるで昔話をしているようだ。
彼女とはついこの間まで愛し合っていたはずなのに、遠い昔のことのように思える。
「自分から背中を押しておいて、笑えるだろ? そのうち『リーズなんか行くな』なんて、口走ってしまいそうで。君に会うのが怖くなった」
涙にまみれた顔を左右に振って、明日香は彼に訴えた。
「私、リーズなんか行かない。大輔さんのそばにいる。どこにも行かないよ」
「明日香。これ以上、君と出会ったことを後悔させないでくれ。これじゃ俺は、君の夢を壊すために、君と付き合ったことになる」
歯を軋ませ、身体を震わせる明日香。
思考が追い付かず、現実として受け止められていないように見えた。
「俺もう、イヤなんだよ。疲れたんだ。淡々と穏やかに過ごしてた頃に、戻りたいんだ」
「嘘! そう言って、元カノとヨリ戻す気でしょ!! 私絶対に、別れないから!!」
そう言って明日香は泣き崩れた。床に伏せたその身体から、籠った嗚咽が漏れ聞こえてくる。
大輔は彼女を落ち着かせようと口調を和らげた。
「大丈夫だよ、明日香。君はもうすぐリーズに行くんだ。向こうに行けば、俺みたいな賞味期限の切れたオッサンのことなんか、綺麗さっぱり忘れて……」
「大輔さんはオッサンなんかじゃない!!」
彼の言葉を遮って、明日香が大声で叫ぶ。
「大輔さん、私が子供だったから、強情っぱりだったから、疲れちゃったんだよね。ごめんね。本当にごめんね。でもね、私、ちゃんと喧嘩したかった。怒って欲しかったよ」
喉を詰まらせ、声にならない声で訴える明日香。
咽び泣く彼女を見て、大輔は少しだけ膝を進めた。
油断したら、自分も泣いてしまいそうだった。片手で口を覆いながら、彼は精一杯、自分の本心を彼女に伝える。
「明日香。俺は君を、好きになりすぎたよ。十年ぶりに彼女が出来て、嬉しくて堪らなくて……君に、夢中になりすぎた。もう、悲しかったり辛かったりするの、イヤなんだ。疲れたんだよ……」
暫くじっと彼の話を聞いていた明日香だったが、覚悟を決めたように体をゆっくりと起こした。彼の前に進み出て座り直し、大輔と視線を合わせた。
「大輔さん。私……リーズに行く。夢を叶えてくる。大輔さんも……一緒に見てよ、私の夢」
大輔は下唇を噛んで黙った。
明日香。それはもう無理なんだよ。
俺はもう、君と一緒には歩んでいけない。
「私、大輔さんのこと、もう一度振り向かせてみせる。毎日『愛してる』って、ラブレターを送るよ。自信あるんだ、私。セフレから恋人に昇格した、実績があるからね」
泣きはらした目でニコリと笑う明日香。
「壮行会はしなくていい。その日は、実家に帰るよ。父さんと母さんに会って、ちゃんと報告してくる。それで、『次に帰ってくるときは、好きな人連れてくる』って言う。『結婚したい人だから』って、伝えてくるから」
目がしらに手を当てて、息を飲み込む大輔。
その言葉。
その言葉を、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。
もっと早く言ってくれたら、君のこと諦めずに済んだのに。
「私、この部屋に必ず戻ってくるよ。絶対あなたのこと、諦めない」
乾いた涙の筋を頬に残しながら、彼女は歯を見せてぎこちなく笑った。
「大輔さん、あなたを愛しています。三年後の土曜の夜に、必ずまた、ここに戻って来ます」
彼女はそう言い残して、大輔の部屋から去っていった。
全裸の大輔は、恭子の部屋の真ん中で土下座をしていた。
ベッドの上では澄ました顔の恭子が、ティシュで後始末をしている。
「まさかこの私が、他の女の名前呼ばれながら、中出しされる日が来るとはね」
「煮るなり焼くなり、好きにしていい……本当に申し訳ない」
床に額をつけたままの嘗ての恋人の姿に、恭子は声を出して笑った。
「冗談よ。事情があるっていうのは、承知の上でしたんだし。気にしないで」
大輔は少しだけ頭を上げ、上目遣いに彼女を見た。
「本当にごめん……なんて言ったらいいのか……」
「だから平気だって。それよりさ、そんなに彼女のことが好きなら、もうちょっと頑張ったらどう?」
「その話は……もういいよ」
再び床に視線を落とす彼を見て、恭子が諦めたように息を吐く。
「……そっか。彼女の話はしたくないか」
恭子は椅子に掛かっていた膝掛けを羽織り、大輔の横を通り過ぎながら寝室を出ていく。彼は自身の下着を拾いつつ、無意識に後を追った。
「でもね、これだけは言わせて。大輔君が吹っ切れるために私と寝るのは勝手だけど、それを理由にして、彼女と別れたりするのはやめてよね」
リビングに戻ってきた恭子は、床に散乱した大輔の衣服を拾い上げ、彼に手渡した。
怪訝そうな面持ちでボクサーパンツに足を通す大輔。
「……どういうこと?」
「私と寝たことを、彼女には絶対言わないこと。言ったら、本当にお終いだよ」
ワイシャツを渡された大輔が、ボタンを留めながら反論する。
「『お終い』も何も……もう彼女とは会わないよ」
恭子は彼のネクタイを首に巻き、慣れた手つきで結ぶ。
「……本当にお終いにしちゃうの?」
「恭子さんとセックスして覚悟は決めたよ。どうせ彼女だってイギリスに行ったら、俺のことなんかすぐ忘れるだ……くっ、苦しいよっ!」
大輔は彼女にネクタイで締め上げられていた。
鬼の形相で睨まれた大輔は、硬直して石化してしまいそうな気分だった。
「大輔君、彼女を舐めてる。彼女、絶対諦めないよ。あなたの思うようには、絶対にならない」
「なんでそんなこと……」
身体を反らしながら尋ねると、恭子は何かを見透かしたような怪しい瞳で言った。
「今どきの女は強いのよ。シクシク泣いて『悲しいけど、さようなら』なんて言うと思ったら、大間違いよ。せいぜい彼女に翻弄されるといいわ。あなたがここまで好きになった子だもの、絶対このままじゃ済まさないわよ」
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明日香の渡英を十日後に控えた、土曜の夕方。
大輔は一人、自宅のリビングにいた。
色褪せたスウェットの上下を着て、手にしたスマホに時折り目を落としつつ、テレビ画面をぼんやりと見ている。
土曜の午後はいつも明日香と共に過ごすのだが、今週は出張だと嘘をついて断った。
恭子との情事以降、あれこれ言い訳をして彼女とは会っていない。明日香自身も多忙を極めているため、恋人と会えないことをそれほど深刻に考えていない様子だった。
久しぶりに完全に自由な時間を持てたのだから、見たかった映画でも借りようと、母親の見舞いの帰りにレンタルビデオ店に寄った。
しかしいざ店内に入ってDVDを手にしても、鑑賞する気が全く湧いてこない。明日香と一緒に見ようと思っていたものばかりで、昔懐かしい作品も「彼女が見たらなんて言うか」などと思ってしまう。結局、何も借りないまま店を出てしまった。
いつの間にかすっかり日も暮れ、夕飯でも買いに行こうかと腰を上げた時、スマホがメッセージを伝えてきた。
『大輔さん、今日会えない? 会いたいの』
明日香からのラインだった。
『大阪から帰ってきてる? 今、電話しても良い?』
立て続けに入るメッセージ。
『まだ大阪なの?』
『私ね、浦和にいるの。これから家に行ってもいい?』
どうしたんだ、急に。
明らかに彼女は焦っている。
自分が避けていることに、気づいたのだろうか。
『さっきまで、暎子と会ってたんだよ』
『暎子から聞いたけど、大輔さん、元カノと会ったの?』
『ちょっと、心配になっちゃって』
そうか、暎子さんに会って、彼女から話を聞いたのか。
出所は当然篠原さんだろう。娘との会話に俺と恭子さんを登場させたに違いない。
でもなぜ暎子さんが、その話を明日香にしたのだろうか。
まぁいい。今更そんなこと、どうでもいい。
ラインを無視して財布を掴むと、再びスマホが勢いよく震えだす。明日香からの通話の着信だった。
出るべき、だろう。
どのみち水曜の壮行会もキャンセルすると、話をつけなければいけない。
しかしこの状況だと、彼女が簡単に承諾するとは思えない。
俺が会おうとしないのは都合が悪いからではなく、別れるつもりだと勘づいているかもしれない。
思い切って通話を開く。
『大輔さん……?』
彼の存在を確かめるように、恐々とした声を発する明日香。
『今、どこにいるの? ねぇ、大輔さ……』
「明日香」
久しぶりに恋人の名を呼んで、大輔は目頭が熱くなった。
明日香。明日香。
俺の恋人。俺が好きでたまらなかった人。
『大輔さん、今どこなの?』
「家だよ」
『大阪から、帰ってきたの?』
「……行ってない」
『え?』
電話口の向こうで、彼女が動揺しているのが手に取るようにわかる。
「大阪には、行ってない」
大輔が答えると、明日香の声は震えながら裏返った。
『ど、どういうこと? え、ちょっと、わかんない』
「ごめん、明日香。俺はもう……君には会えない」
俺は本当に馬鹿だ。
こんなこと、本当は死んでも言いたくないのに。
自分で決めておいて、自分で言っておいて、俺はこの瞬間も後悔している。
でも、もう決めたことだ。後戻りはできない。
『大輔さん、ちょっと待って。どういうこと……』
「俺たち、もう終わりにしないか」
****
その後間もなく、明日香は大輔のマンションに現れた。
恋人に一方的に別れを告げられた彼女は、半狂乱になってその理由を聞きにやって来たのだ。
真っ赤な目をした明日香が、意を決したように尋ねてくる。
「私ともう会わないって、どういうこと? なんで急にそんなこと言うの?」
大輔は大きく深呼吸をすると、リビングの床に視線を向けたまま言った。
「俺、もう疲れたんだ」
大きく目を見開いて硬直する明日香。
「俺は俺なりに、君に相応しい男になろうと頑張ったよ。年の差なんて、プラスのハンデにしてやるって、意気込んでた」
目を伏せて口元に手をやりながら、話をつづける大輔。
「でもまさか誕生日に、他の男と会ってたなんてね。あの時は本当に、気が狂いそうになったよ。『あぁ、俺は所詮、セックスの踏み台か』って。昔の男となんか、とっくに別れてると思っていたのに……」
言下に明日香が叫ぶ。
「違う!! 私は健斗と繋がってなんかない!! あの時はたまたま……」
「わかってるよ。君が二股かけるような女性じゃないってことぐらい。でもね、俺だって怒鳴りたい時ぐらい、あるんだよ。でも電話口でワンワン泣かれて。黙って許すしかなかった」
昔の恋人を呼び捨てにする明日香を目の当たりにして、大輔は彼女との距離を感じた。
自分のことは、いつまで経っても「さん」付けなのに。
やはり年が離れているせいなのだろうか。
今まで一度も、呼び方なんて気にもしなかったのに。こんな些細なことに固執している。
俺は、なんてつまらない男になってしまったんだ。
「それからだんだん、自信がなくなっていった。いくら君から好きだと言われても、確信が持てなくなった」
大輔はようやく顔を上げて、彼女を見た。
ショートヘアはそれほど気に入らなかったのか、彼女はあれから髪を伸ばしてセミロングの長さを保っている。
友達と会っていたせいか、いつもとは違うシンプルなワンピース。自分と会うときは、飛び切りお洒落をしてくれていたと痛感する。
「そんな時、君からリーズ行きを聞かされて。焦って結論を急ごうとしたら、君にあっけなく却下されて」
大輔は自嘲気味に顔を歪ませて笑った。
小動物のような小さな瞳から、ボロボロと涙をこぼす明日香。
鼻先を赤くして、唇を震わせている。
不思議な感じだ。
まるで昔話をしているようだ。
彼女とはついこの間まで愛し合っていたはずなのに、遠い昔のことのように思える。
「自分から背中を押しておいて、笑えるだろ? そのうち『リーズなんか行くな』なんて、口走ってしまいそうで。君に会うのが怖くなった」
涙にまみれた顔を左右に振って、明日香は彼に訴えた。
「私、リーズなんか行かない。大輔さんのそばにいる。どこにも行かないよ」
「明日香。これ以上、君と出会ったことを後悔させないでくれ。これじゃ俺は、君の夢を壊すために、君と付き合ったことになる」
歯を軋ませ、身体を震わせる明日香。
思考が追い付かず、現実として受け止められていないように見えた。
「俺もう、イヤなんだよ。疲れたんだ。淡々と穏やかに過ごしてた頃に、戻りたいんだ」
「嘘! そう言って、元カノとヨリ戻す気でしょ!! 私絶対に、別れないから!!」
そう言って明日香は泣き崩れた。床に伏せたその身体から、籠った嗚咽が漏れ聞こえてくる。
大輔は彼女を落ち着かせようと口調を和らげた。
「大丈夫だよ、明日香。君はもうすぐリーズに行くんだ。向こうに行けば、俺みたいな賞味期限の切れたオッサンのことなんか、綺麗さっぱり忘れて……」
「大輔さんはオッサンなんかじゃない!!」
彼の言葉を遮って、明日香が大声で叫ぶ。
「大輔さん、私が子供だったから、強情っぱりだったから、疲れちゃったんだよね。ごめんね。本当にごめんね。でもね、私、ちゃんと喧嘩したかった。怒って欲しかったよ」
喉を詰まらせ、声にならない声で訴える明日香。
咽び泣く彼女を見て、大輔は少しだけ膝を進めた。
油断したら、自分も泣いてしまいそうだった。片手で口を覆いながら、彼は精一杯、自分の本心を彼女に伝える。
「明日香。俺は君を、好きになりすぎたよ。十年ぶりに彼女が出来て、嬉しくて堪らなくて……君に、夢中になりすぎた。もう、悲しかったり辛かったりするの、イヤなんだ。疲れたんだよ……」
暫くじっと彼の話を聞いていた明日香だったが、覚悟を決めたように体をゆっくりと起こした。彼の前に進み出て座り直し、大輔と視線を合わせた。
「大輔さん。私……リーズに行く。夢を叶えてくる。大輔さんも……一緒に見てよ、私の夢」
大輔は下唇を噛んで黙った。
明日香。それはもう無理なんだよ。
俺はもう、君と一緒には歩んでいけない。
「私、大輔さんのこと、もう一度振り向かせてみせる。毎日『愛してる』って、ラブレターを送るよ。自信あるんだ、私。セフレから恋人に昇格した、実績があるからね」
泣きはらした目でニコリと笑う明日香。
「壮行会はしなくていい。その日は、実家に帰るよ。父さんと母さんに会って、ちゃんと報告してくる。それで、『次に帰ってくるときは、好きな人連れてくる』って言う。『結婚したい人だから』って、伝えてくるから」
目がしらに手を当てて、息を飲み込む大輔。
その言葉。
その言葉を、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。
もっと早く言ってくれたら、君のこと諦めずに済んだのに。
「私、この部屋に必ず戻ってくるよ。絶対あなたのこと、諦めない」
乾いた涙の筋を頬に残しながら、彼女は歯を見せてぎこちなく笑った。
「大輔さん、あなたを愛しています。三年後の土曜の夜に、必ずまた、ここに戻って来ます」
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