そして家族になる

小貝川リン子

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第四章 すれ違う心

流転 ※

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 目が覚めると、見知らぬ白い天井だった。俺は、一体どのくらい眠っていたのだろう。
 
 右手に懐かしい温もりを感じ、握りしめる。千紘が俺の手を握って、ベッドへ突っ伏すように眠っていた。赤く腫れた眦に、涙が光っていた。
 
 口が渇いて仕方なく、俺は左手で酸素マスクを外した。新鮮な空気がうまい。病室の中だというのに、高原の空気を吸っているみたいだった。
 
「……っき……」
 
 夢を見ているのだろうか。千紘が何か呟いた。一筋の涙が星のように流れる。俺は堪らなくなって、それを指で拭った。温かい。生きているのだ。俺もこいつも、生きている。
 
「ん……」
 
 千紘の金色の睫毛がキラキラ震える。瞼がゆるゆる持ち上がる。胡桃色の瞳が見開かれ、涙に濡れた。
 
「颯希!!」
 
 勢いよく抱きつかれた。傷に響く。
 
「オマエ! なんだよ! なんでずっと寝たまんまなんだよ! なんでっ、ぜんっぜん起きねぇんだよぉ……! もう、オレ、もう……死んだかと、思って、オレぇ……っ」
「……悪かった」
「悪かったじゃねぇ……! 颯希がいなくなったら、オレ、ずっと一人ぼっちじゃんかよっ! ふざけんなよ……そんなの、いまさら……いなくなるなんてよぉ……」
「いなくならねぇから。大丈夫だから」
「っ……約束、だかんな! 破ったら許さねぇから……! オレを一人にすんなよ、絶対に……っ!」
 
 随分と熱烈な告白をされてしまった。千紘はわんわん泣きながら、俺に抱きついて離れない。病院では静かにしろと普段なら教えるところだが、今日ばかりは、しゃくり上げる小さな背中を優しく撫でた。
 
 *
 
 その後、医者やら看護師やらがやってきて色々と検査をされ、終わったと思ったら美山先輩が見舞いに来てくれた。俺の入院中、千紘の飯の世話や家のことなどを面倒見てくれていたらしい。
 
「いやぁ~、颯希くんが生き返ったって聞いて、飛んできちゃったよ」
「別に死んでません……。色々迷惑かけたみたいで、すいませんでした」
「こんなの迷惑の内に入らないって~。あでも、アタシが入院した時はよろしくね」
「入院なんて、しないに越したことはないですけどね」
 
 売店で買ってきたというゼリーを千紘にくれたが、千紘は今はいらないと言って冷蔵庫に仕舞った。そしてまた俺の手を握り、俺の枕に頭をのせ、頬をすり寄せて甘える。さっきからずっとこの調子だ。
 
「ありゃりゃ~、千紘くんってば、甘えんぼさんだねぇ」
「オレが甘えてんじゃねー。颯希が寂しがるから、くっついてやってんだ」
「……こいつ、家ではどんなでした? 騒いで迷惑かけませんでしたか」
「全然? すごくいい子だったよ。家事とか全部自分でできてたしね。アタシなんかいなくても、一人で十分生活できそうだったよ」
「……そうですか」
「へへん。どーだ、えらいか? もっとほめろ!」
 
 千紘が得意げに言うので、俺は頭を撫でてやった。ふわっふわの癖っ毛の感触が懐かしかった。
 
「でもね~、何日も病院泊まるって言って聞かなかった時は、アタシもちょーっと困っちゃったなぁ。颯希くんと同じベッドで寝るんだーってさぁ」
 
 美山先輩が揶揄うように言うと、千紘は顔を赤くした。
 
「い、言ってねぇ、んなこと」
「言いました~。今日は一旦家に帰ろうって、アタシと看護師さんとで一生懸命説得したでしょ。覚えてないのかな~?」
「し、知んねーし。覚えてねぇ!」
「も~、照れちゃって」
「照れてねーっ!」
 
 日の光が入る明るい病室に笑い声が響く。こんなにうるさくしていいのだろうか。久しぶりだし、いいか。
 
 *
 
 入院前はどこもかしもクリスマス一色だったのに、退院の日にはバレンタインムードに様変わりしていた。時の流れが早すぎて、浦島太郎になった気分だ。
 
「ただいま」
 
 玄関を開けると、既に千紘が待っていた。
 
「おかえり!」
 
 勢いよく抱きつかれた。俺も、両腕でしっかりと抱きとめた。
 
 千紘の母親の元彼氏だという男は捕まって刑務所に入り、俺も後遺症などなく快復し、全てが丸く収まったように思えた。しかし、千紘の様子が少しおかしい。
 
 毎日積極的に家事の手伝いをしてくれるようになった。洗濯物を畳むのは以前もしてくれていたが、皿洗いや風呂掃除や、絶対にやりたくないと言っていたトイレ掃除まで、俺が頼まなくてもしてくれるようになった。
 
 それだけならまだいい。もっとおかしいのは、夜のことだ。夜中、俺が寝ていると、枕元にじっと立っている。何をするでもなくじっと立って、俺の顔を見ているらしかった。初めは夢かと思ったが、毎晩同じことが続けば気になって眠れない。
 
 今夜もまた、千紘は俺の枕元に立つ。じっと立って、俺の顔を覗き込む。俺は目を開けたいのを我慢する。千紘の掌が、鼻の先にかざされる。息をしているかどうか、確認しているのだろうか。
 
 俺はいよいよ耐えられなくなった。去っていこうとする千紘の手を掴んだ。千紘は動揺したような声を上げる。
 
「あっ……ご、ごめん。起こしちまった……?」
「お前は? 眠れないのか?」
「う、うん……でも、もう寝るぜ。オヤスミ」
 
 捕まえた小さな手は、ひんやり冷たい。しっとりと汗が滲んでいるのに、すっかり冷え切っていた。
 
「……一緒に寝るか」
「へっ……えっ?」
 
 俺は、戸惑う千紘をベッドに引きずり入れた。ぎし、とベッドが軋む。
 
「い、いいの……?」
「お前がいやじゃなければ」
「や、やじゃない、やじゃない。うれしい……!」
 
 千紘は嬉々として潜り込んだ。二人で使うことを想定して作られていないベッドは狭い。しかし、くっついてしまえば何の問題もなかった。
 
「へへ、あったかい……」
「もっとこっち詰めろ」
「……怪我、痛くねぇ?」
「痛くねぇよ」
「よかったぁ」
 
 千紘は、俺の腕に腕を絡ませ、脚に脚を絡ませて眠った。掌は心臓の上に置いて、おそらく脈拍を感じているのだろう。
 
 密着しているから、俺にも千紘の心音が届く。打ち寄せる波の音のように聞こえて心地よかった。誰かの心臓の音をそんな風に感じるのは初めてだった。
 
 *
 
 冬は慌ただしく過ぎゆき、桜の季節が巡ってきた。千紘は十六歳になり、高校へ進学した。

 「なんかかてーし動きにくい」と文句を言いながらも毎朝学ランを着用し、帰宅後は俺の言いつけを守ってハンガーに掛けている。毎日弁当なのは今まで通りだから、これといって家事の負担が増えたということはない……のだが。
 
「どーしたどーした、颯希くん。月曜からおつかれだねぇ」
「美山先輩……おつかれさまです」
 
 食堂で一緒になった。俺はいつも通り弁当を広げ、先輩もいつも通り定食を食べる。
 
「何か悩みでもあるのかい? 千紘くん、いよいよ反抗期とか?」
「あいつが反抗的なのは元から……いや、そんなんじゃなくて」
「え~? 千紘くん、いい子じゃん。颯希くんにすごく懐いてるしさ。ちょっと妬いちゃうくらい仲いいでしょ~、君達」
「先輩、妬いてたんですか」
「今のは言葉の綾ってやつでしょーが」
 
 悩みは、あるといえばある。しかし、女性に話すのはいかがなものか。
 
「……」
「もーぉ、そんな怖い顔しないで。悩みがあるなら聞くよ? 言いにくいことなら、ちょっと嘘まぜてもいいからさ。どうせ千紘くん関連なんでしょ?」
「……はい」
「だと思った! ホンっト、羨ましいくらい仲良しなんだから」
 
 先輩は、やれやれと首を振った。
 
「……最近、夜、一緒に寝てるんですけど」
 
 俺は、なるべく慎重に話を切り出したが、先輩は早速話の腰を折る。
 
「えっ、一緒に寝てるの!?」
「……やっぱり変ですよね」
「う~ん? いや、どうなんだろ。兄弟いたことないから分かんないな」
「いくら兄弟でも、高校生にもなって一緒のベッドでは寝ないですよ」
「それ、ちゃんと眠れてるの?」
「眠れないですよ。あいつ寝相悪いし、ベッドはシングルだから狭いし。でも……」
「甘やかしちゃう?」
「甘やかしてるつもりはないんですけど……あいつの願いはなるべく叶えてやりたくて。罪滅ぼしのつもりもあって」
「罪滅ぼしだなんて」
 
 先輩はスープを飲み干す。
 
「千紘くんは、そんな風には思ってないと思うけどな。もっと前向きに考えてもいいんじゃない?」
「前向きに……ですか」
 
 そうしてきたつもりだ、今までは。しかし……
 
 美山先輩には言えなかったが、話にはまだ続きがある。夜、眠っていると、千紘の息遣いで目が覚める。苦しそうに喘ぐような――実際、喘いでいるのだ。俺にしがみついて、腰を動かして……オナニーしている。
 
 初めは何が起きているのか分からなかったが、何度も繰り返されれば嫌でも理解する。千紘は、俺の手に自身を擦り付けて、一人で慰めている。ほとんど毎晩だ。
 
 まずは俺が眠ったことを念入りに確認して、においを嗅ぐ。服の上からならまだいいが、髪の生え際や耳の裏や首筋なんかを嗅がれるのは、非常に恥ずかしい。それからだんだん息が上がってきて、腰を動かすのに合わせてベッドがギシギシ言い始める。
 
「んっ……ふっ……う……っ」
 
 一生懸命声を堪えているのに、抑え切れていない。細い腕で俺にしがみつき、我を忘れたように腰を擦り付ける。その姿がどうにも健気で、俺はいつも狸寝入りをしてしまう。
 
「んンっ……く、……ぅ……」
 
 イク直前にそっとベッドを抜け出し、トイレに籠る。直接触って抜いているのだろうということは、想像に難くない。
 
 俺だって同じ男だ。そういう夜があるということは理解している。ましてや千紘は、今を時めく十六歳。一日何回抜いたって足りないお年頃なのだろう。夢精で下着を汚されるよりは、きちんと自分の手で処理してくれる方が何倍もいい。いいのだが……
 
 本当にいいだろうか、この状況は。俺は、思いがけず深みにハマりそうな自分に辟易していた。
 
 普通、いくら弟のように思っている相手だからって、いや、そんな相手だからこそ、隣でオナニーされたり、勝手に手を使われたりするのは不快なものだろう。
 
 それなのに俺は、不快に思うどころか、むしろ悪くないと思っている。服の上からではなく、この手で直接触れてやりたいとさえ思っている。
 
 この状況は、放置していていいものだろうか。いつか大きな間違いをしでかすんじゃないかと、自分で自分が恐ろしい。
 
 千紘の願いをなるべく叶えてやりたいと言ったのは嘘じゃない。美山先輩が預かってくれていた、千紘のサンタに宛てた手紙を見る度に、その思いは強くなる。
 
 おもちゃはいらないからさつきをとらないでください、と拙い文字で書いてあった。それだけのことを、俺はあの子にしてしまった。
 
 しかし、だからといって、千紘の願いを叶えるために何をしてあげたらいいのだろう。どうして俺のにおいを嗅ぎながらオナニーしているのか、その意味も不明だというのに。
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